Lesson 3  恋星は煌く (8)

 とうとう、最後の日の朝を迎えた。
 美瑛から札幌を通過し千歳空港までのドライブは、重苦しい雰囲気に包まれていた。
 秀平は疲れも見せず、運転に集中している。
 あっという間だった。
 いろいろなことがあったが、すべてが彼と二人で紡いだ大切な珠玉のひとときだ。


 空港のエントランスは、多くの人でごった返していた。
 その多くは、連休を北海道で過ごした旅行客だろう。
 梨緒子は早々に搭乗手続きをすませると、一人隅のベンチに座って待っている秀平のところへ戻った。
 大きな荷物は預けてしまったため、小さな手提げカバン一つとなり、身軽となった。

 離陸まであと一時間を切った。
 二人でいられる時間は、もう残りわずかだ。
「今年の冬は、帰省して地元で過ごすつもりでいるから。クリスマスか、正月か、どっちかは一緒にいられるよ」
 秀平はいつもと変わらず、淡々と説明してくる。
 梨緒子を気遣い、あえてそういう態度をとっているのかもしれない。
「……秀平くん、クリスマスにまったく興味ないでしょ?」
 ウンと子供のように小さく頷き、秀平はさらに続けた。
「花火と一緒。イルミネーションが目に焼き付くのが好きじゃないから」
「ほら、やっぱり」
「でも、クリスマスケーキ食べるのは嫌いじゃないし」
「それにしたって、五ヶ月も先の話でしょ。秀平くん、成人式はどうするの?」
「決めてない。けど、さすがに短期間に二度帰省するのは厳しいかな」
「そう……」
 寂しさが、どんどん募っていく。
 とても、我慢ができる状態ではなかった。
「泣くなよ」
「だ、だって……そんなこと言ったって……」
「俺、楽しかったよ」
 梨緒子のすぐ側で、秀平は顔色一つ変えずにさらりと言う。
「これまで生きてきた中で、一番楽しかった。だから梨緒子、最後まで笑顔でいて」
「できない……ううう、秀平くん」
 秀平は梨緒子の右手をとり、もう片方の手をその上に重ね、しっかりと掴んだ。
「簡単には逢えないけど、逢いたいときには必ず逢えるんだって信じるための『おまじない』」
 その重ね合わせた手のひらの中に、わずかな異物感がある。
 秀平はなおもしっかり力強く手を掴み、いまにも泣き出しそうな潤んだ梨緒子の瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「梨緒子にこれ、預けるから――いつでも来られるように」
 秀平の手がそっと離れていく。
 手のひらの上に残されていたのは、よくある形状の銀色の鍵だった。

 梨緒子は思わず目を瞠った。
 この鍵に込められた彼の想いが、優しく伝わってくる。
 孤高と呼ばれた彼に、すべてを許された証だ。

「まあ、前もって連絡入れてくれたほうがありがたいけど。あと、授業サボって来るのは絶対駄目だから」
「そんなこと言ったって、そうそう簡単には来られないもん」
「スペアキー、それ一つだから。失くさないで」
「うん」
 人目があるため、別れの抱擁もキスもない。
 でも、それでいいのだ――梨緒子はなんとなくそう思った。
 この鍵で、二人はいつでも繋がっていられるのだから。

 秀平は梨緒子の背中を押した。
 梨緒子はもう、後ろを振り向かなかった。



 それから十日後――。

 梨緒子は授業が終わったあと、いつものように永瀬優作と夕食を食べる約束をし、行きつけの洋食屋でおちあった。

 二人は揃って、トマトたっぷりのハヤシライスを選び、注文した。
 玉葱と牛肉の旨みがトマトの酸味と絡み合った逸品である。この店屈指の人気メニューだ。
 濃厚なデミグラスソースとライスをスプーンですくい、それを口に運びながら、二人は尽きない話に花を咲かせた。
 もちろん話の中心は、北海道・美瑛への旅行のことである。

 優作は楽しそうに、梨緒子の旅の話をのんびり聞いていた。
「どうだったの? ……なんて聞くまでもないよね。その幸せに満ち溢れた顔見れば」
「満ち溢れてなんか。また大ゲンカしちゃったしね」
「そうなんだ。秀平のやつ、相変わらずだな」
 旅の前半は、波乱の連続だった。
 しかし、どんな辛い出来事も、過ぎてしまえばいい思い出に昇華されてしまうのだから、不思議なものである。
 梨緒子は気持ちを整理するように、あったことを順番に、彼の兄である優作に話して聞かせた。
「……それでね、授業サボったことがばれて、頭ごなしに怒鳴りつけられて……旅行の途中でケンカ別れしちゃって」
「そうだったんだ。それで?」
「うーん、結果的には、雨降って地固まる――みたいな感じ」
 優作はどこかホッとしたような笑顔をみせた。
 弟の気性を誰よりもよく知っているため、どうしても心配になってしまうのだろう。
 梨緒子はハヤシライスを食べる手を止め、皿の上にスプーンを置いた。
「優作先生、あのね」
「なに? 梨緒子ちゃん」
「秀平くんもね、金魚だったよ」
 優作は穏やかに頷いている。
 梨緒子はさらに続けた。
「おんなじ金魚鉢の中で泳いでるんだって、分かったの」
 出掛ける前と後ではまったく違う梨緒子のその成長ぶりに、優作は感心しているようだ。

「梨緒子ちゃん、さっきから気になってたんだけど、それどうしたの?」
 優作は、梨緒子のカバンからはみ出している、宇宙や天体の事典や星座の本に目を止めた。
「秀平くんに教えてもらった星のこと調べてるんだけど……全然分からないの。私、聞き間違えたのかな? ヨルテシイアって言ってたと思うんだけど」
 梨緒子は、その名をメモしていた手帳をカバンから取り出し、優作に見せた。
「ヨルテシイア……」
「あ、優作先生知ってる?」
「梨緒子ちゃん。秀平はなんて言ってた?」
「なんてって……自分が一番気に入っている星の名前だって、そう言ってたよ」
「その他に、なんか言ってなかった?」
「その星はとても恥ずかしがりやで、逆さまにならないと見えてこない――って。私も挑戦してみたんだけど、どの星なのかよく判んなかったの」
「あいつはホント、馬鹿だな……我が弟ながら、情けないヤツだよまったく」
 優作は梨緒子の手帳に書かれた文字を指でなぞり、梨緒子に説明を始めた。
「単純な『なぞなぞ』だよ。逆さまにならないと見えてこないって、そう言ってたんでしょ? つまり、これを反対から読んでみたらいい」
「反対から?」
 優作は頷いた。
 梨緒子は言われたとおり、紙に綴られた文字の羅列に視線を落とす。
「ええと、ヨルテシイアだから……あ、い、し? …………うわ、うわ、ヤだ、何これ!?」


【ああ見つけた。俺の一番のお気に入りの星】

【その星はとても恥ずかしがりやで、逆さまにならないと見えてこないんだ】


 満天の星空の下での愛しい彼氏の澄ました顔が、梨緒子の脳裏にハッキリとよみがえってくる。
 いつだって分かり難いのだ、永瀬秀平という男は。
 恥ずかしさを通り越し、憤りすら覚えてしまう。
「と、十日間も、十日間も真面目に調べて損したーっ!!」
「梨緒子ちゃん、顔真っ赤だよ。まるで金魚みたいだ、ハハハ」
 優作の冷やかしの言葉に、梨緒子の頬はいっそう紅く染まった。


 どこまでも恥ずかしがりやな金魚の片割れは、遥か遠くで一匹、悠々と泳いでいる――。


(了)