Lesson 3  恋星は煌く (7)

 梨緒子が目覚めたときには、遮光カーテンの隙間から強い日の光が差し込んでいた。
 夜中とは違い、薄暗いながらも部屋の中の様子をハッキリと確認することができる。
 梨緒子は枕元に置いていた携帯に手を伸ばし、時刻を確認した。
 もう、正午を過ぎている。

 いろいろなコトを経て、二人が寝入ったのは東の空が白み始める頃だった。
 泳ぎ疲れた金魚の片割れはすぐ側で、いまだ安らかな寝息をたてている。
 無理もない。
 レポート作りでの疲労プラスアルファが、彼の身体には蓄積しているのだから。

 彼の寝顔を見つめているうちに、梨緒子は急に寂寥感に苛まされてしまった。
 九ヶ月ぶりに二人で過ごす三泊という日程も、残すところ今日一泊である。明日は朝早くにここを発って、空港に向かわなければならない。
 楽しければ楽しいほど、彼に愛されれば愛されるほど、身を切るような別れの辛さが梨緒子に襲い掛かってくる。

 梨緒子は秀平を起こさないように手早く着衣を整え、ベッドを抜けて足元のほうから下りると、窓辺に寄って遮光カーテンを半分だけ開けた。
 室内に、一気にまばゆい光が広がっていく。

 秀平はまだ起きる気配をみせない。
 相変わらず寝相よく、天井を向いた状態で穏やかな寝息をたてている。
 梨緒子は再びベッドに近づいていき、秀平の枕元まで近寄った。

 いつ見ても、整った顔立ちをしている。
 梨緒子は、昨夜何度もしたように、秀平の唇の上に自分の唇をそっと重ねた。
 すると。
 彼の両目がゆっくりと開いていく。
 やがて、綺麗な二重まぶたが現れた。ガラス球のように透き通った焦げ茶色の瞳が、視点が定まらずに揺れている。
 秀平は瞳を何度も瞬かせて、状況を把握しようとしている。
 そして、枕元に顔を寄せる梨緒子に、ようやく視線を移した。
「お姫様の……お目覚めの……キス?」
「うん、そうだよ」
 まだ目の覚めやらぬ微妙な表情で、梨緒子の顔を至近距離からじっと見つめている。
 やがて秀平は、寝返りを打ち枕に顔を半分埋めて、寝起きのかすれた低い声で呟くように言った。
「でもなんか、俺のお姫様は……寝癖で頭、ボサボサ」
 そのひと言で。
 梨緒子は一気に血の気が引いてしまった。
「嘘? やだーっ!」
「いいよ別に、ボサボサ姫でも」
「よくない!」
 ラブラブモードは一転して、修羅場と化す。
 梨緒子は急いで頭からバスタオルを巻きつけて、寝癖だらけの頭を隠した。
 その様子を、秀平はベッドの中からいまだ興味深げに、じっと眺め続けている。
「ああ、お姫様から王様になった」
「王様?」
「アラブの石油王みたい」
「もう、秀平くんの意地悪! お風呂行って直してくる!」
 ベッドのスプリングを揺すりながら、楽しそうに笑う秀平の声が、梨緒子の背中に容赦なく突き刺さった。


 梨緒子がシャワーをすませ、洗面所で髪を乾かしていると、秀平がバスタオルを携えてやってきた。
「俺もシャワー浴びる」
 そう言って、秀平はためらいもなくその場で着ていたパジャマを脱ぎ始めた。
 鏡越しに見える彼の均整のとれた上半身の裸体を、梨緒子はとても直視することができない。
 いまだ明るいところで、ハッキリとすべてを見たことがないのである。
 それは、お互い様なのであるが――。
 しかし、梨緒子はどうにも気恥ずかしくなってしまい、彼がすべて脱いでしまう前に、早々に洗面所を出ていくことにした。
「朝御飯、用意しておくね。もう、お昼御飯だけど」
「うん――」


 程なくして、梨緒子が調理実習程度の腕前ながらも、なんとかテーブルの上に、ご飯と具だくさんの味噌汁、目玉焼きにウィンナーを並べることができた。
 浴室からキッチンへと移動してきた秀平は、バスタオルで髪を乾かしながら、できた料理を観察するように眺めている。
 いつもは二人で一緒に作っていたが、梨緒子一人で作ったのはこれが初めてだった。
 秀平は特に感想も口にせず、黙ったまま席についた。
 そして、文句一つ言わず、ただ黙々と梨緒子の作ったご飯を口に運んでいる。
 美味しいとも、美味しくないとも――反応は皆無だ。
 ただ、箸の動きが止まらないところを見ると、食べられる最低ラインはクリアできたようだ。


「今夜は天体観測できそうだな。よく晴れてる」
 秀平は箸を置き、食後の冷たいお茶を飲みながら、窓の外の風景を眺めている。
「なんか、緊張するね」
「どうして?」
「だって、あの日以来だし――」
 梨緒子は、その先を言うのをためらってしまった。
 不自然な沈黙が、二人の間に流れる。
 秀平はそんな梨緒子の様子を、目の前でじっと観察するように見ている。
 すると。
「あの日って……『彦星と織姫が出会うために、天の川は七夕にしか見えない』とかいう迷論を、梨緒子が披露したとき?」
「確かに言ったけど、そうじゃなくてね……私たちが初めて――」
「初めて、何?」
「何って、自分のしたこと覚えてるでしょ?」
 秀平はとぼけたように首を傾げてみせた。
「ああ、今朝俺が、ボサボサ姫にされたのと同じこと?」
 絶句。
 この彼氏は、分かっていてあえてはぐらかした挙句、自分を優位に持っていこうとする。
 付き合い始めた頃から、ずっと変わっていない。
 それは、気を許している証であるのだが――しかし。
「……そうやっていつまでも馬鹿にして」
「馬鹿にしてないよ。そういう梨緒子を見られるのは俺の特権だから、嬉しいんだ」
「……とっても、複雑なんですけど」
 梨緒子の拗ねた顔を見て、秀平は軽く噴き出すようにして笑った。
 記憶力のいい彼には、これから先もずっと言い続けられてしまうに違いない。
 ただ、『嬉しい』という言葉に、嘘はなさそうである。
「あの時は、俺のものじゃなかった」
 そう言って、秀平は過ぎ去りし日々に思いを馳せるように、穏やかに微笑んでみせた。
「いまは、俺のだ。全部、俺のもの――」
 どこまでも真っ直ぐな彼の瞳が、梨緒子をとらえる。
 その瞬間。
 梨緒子の胸が、きゅう、と引き絞られた。



 西の空が茜色から紫に変化し、やがて日没を迎えると、辺りの風景は一気に夜へと変貌を遂げた。
「ちゃんとついてきて。懐中電灯は落とさないで」
「はーい」
 いつか来たことのある、とても懐かしい風景だ。
 別荘の裏手は広葉樹の林があり、その中に、車が一台通れる幅しかない未舗装の林道が伸びている。土地の持ち主が管理のために利用するだけのようだ。
 二人は一列になってその林道を奥へと進んでいく。秀平が前、梨緒子がその後ろを、はぐれぬようについて行く。

 やがて視界が開け、野原へと抜けた。
 空を見上げると、たくさんの星がすでに輝いていた。
「また、ここまで来られた……」
 ゾクゾクと全身に震えが走った。

 目を瞑ると、あの夏の二人がいる。
 ひんやりとした湿った草の匂い。

【江波、どこ?】
【ここにいるよ】
【もっと大きな声で。どこ?】
【ここだよ、秀平くん――】

 あの時はお互い必死だったのだ。
 あれから二年――二人は付き合うようになり、少しずつ関係を深めていった今となっては、あの夏の甘酸っぱいやり取りが滑稽にすら感じてしまう。
 しかし、原点だ。
 すべてはあの星空の下から始まった。
 秀平と梨緒子の二人にとって、この場所はかけがえのない大切な思い出の地なのである。

 秀平は野原の真ん中で、紺碧の空を仰いでいた。側に控える梨緒子に構わず、天体観測に集中している。
 秀平の存在は、次第に闇へと溶け込まれそうになる。
「……秀平くん?」
「ああ見つけた。俺の一番のお気に入りの星」
 ようやく、彼が声を出した。
 梨緒子は途端に安堵する。
「どこどこ? 私も見たい」
「その星はとても恥ずかしがりやで、逆さまにならないと見えてこないんだ」
「逆さまにならないと、見えない?」

「――ヨ、ル、テ、シ、イ、ア」

 秀平が、不可解な音を発した。
 梨緒子は首を傾げ、素直に聞き返す。
「何それ?」
「星の名前。ヨルテシイア」
 聞き慣れない言葉だ。
「逆さまってことは、逆立ちしないとダメ?」
「逆立ちでもブリッジでも普通に背中を反らせるんでも、お好きなようにどうぞ」
 梨緒子は背中を反らし、星空を見上げた。
 もともと星座の知識が乏しいため、逆さまになってみたところで、何かが見えてくるはずもない。
 やがて腰と背筋と首が痛くなって、梨緒子は『秀平のお気に入りの星』を探すのをあきらめた。
「うーん……やっぱり分からないよ。ヨルなんとかって星」
「じゃあ、この次までの宿題だな。ヨルなんとかじゃなくて、ヨルテシイア」
「どの星なのかなー。秀平くんって、いろいろな星のこと知ってるんだね。すごい……」
 もう、彼の表情は見えない。
 きっと向こうにも、自分の姿は見えていないだろう。
「梨緒子。ヨ、ル、テ、シ、イ、ア――だから。分かった?」
「そんなにしつこく言わなくても、分かったって」
 初めて聞くその星の名に、梨緒子は胸躍らせる。
 星空を愛する彼の世界が、いま、梨緒子の世界の一部となった。


 それから二人はずっと、つかず離れずの距離を保ちながら、流れ星の数を数えていた。
「秀平くん、今度はいつ逢える?」
「そんなの分からない。約束はできない」
「また九ヵ月後? それとも、もっと? 秀平くんは平気なのかもしれないけど、私はイヤ」
 幾億の星々が二人の頭上に降り注ぎ、二人はやがて、小さな宇宙の礎となる。
「もっともっと、帰ってきて。一時間でも、三十分でもいいの。もちろん、お金がかかるのも分かってるけど……」
 秀平は黙ったままだった。
 流れる星の音がいまにも聞こえてきそうなほどの繊細な沈黙が、二人を幾重にも包み込んでいく。
「何で……受験失敗しちゃったんだろう、私」
 もしも自分が、彼と同じ北大生だったら――。
 毎日、少なくとも週末は、こんな生活が当たり前のように存在していたはずだった。
 お互いのアパートを行き来して、寝食を共にし、天気のいい休日にはドライブに出かけ、ときには一緒に勉強もしていたかもしれない。
 そんな当たり前のことが、いまは当たり前にできないのである。
「どうしてこうやってずっと、秀平くんの側にいられないんだろう」
「梨緒子」
「私、帰りたくない。ずっと秀平くんと一緒にいたい」
「それは無理だよ」
「分かってるよ……分かってるもん、ちゃんと」
 梨緒子は泣いた。闇の中に立ちすくんだまま、止めどなくあふれる涙を手の甲で拭う。
 しかし、いくら涙を拭っても、寂しさは拭えない。
 秀平は、涙にくれる彼女に背を向け、目には見えない『恥ずかしがりやの星』を、いつまでも見上げていた。