Lesson 4 恋敵の憂愁 (1)
もうすぐ師走、木枯らしが吹きすさぶ、マフラーと手袋が恋しい季節となった。
寒い季節がこんなにも待ち遠しいと感じるのは、梨緒子は生まれて初めてのことだった。
もともと寒さが苦手で、冬なんて無くなってしまえばいいと思っているほどである。
いっそのこと、年中暖かな南の島でのんびりと暮らしたい――などと、叶わぬ夢ばかり見ていたりもする。
しかし、今年の冬は違う。
心が浮き浮きと弾んでいる。
梨緒子は、カバンから自分の携帯を取り出した。
携帯にはストラップの代わりとして、銀色の鍵がつけられている。
これは、自宅の鍵ではない。
遠距離恋愛中の彼氏・永瀬秀平の、現在住んでいるアパートの合鍵である。
この鍵を部屋の主からもらったのは、夏の旅行の別れ際だった。
逢いたいときにはいつでも逢える――そう信じるためのおまじないだと、彼は梨緒子にそう語り、この鍵を手に握らせてくれたのである。
もちろん使うチャンスはない。しかし、これを持っているだけで、彼との繋がりを感じることができるのだから、不思議なものである。
【今年の冬は、帰省して地元で過ごすつもりでいるから。クリスマスか、正月か、どっちかは一緒にいられるよ】
秀平は鍵をくれる前、梨緒子にそう説明していた。
持ち前の端整な面持ちを崩すことなく、あくまで淡々としていた彼の声が、梨緒子の脳裏によみがえってくる。
そう――つまり。
遠距離恋愛中の愛しい彼氏が、梨緒子と一緒に過ごす為に、もうすぐ帰省してくるのである。
夜十一時を回ったところで、梨緒子は秀平の携帯に電話を掛けた。
いつもはそっけないメールのやり取りですませている。
しかし、師走を目前にして、梨緒子ははやる気持ちを抑えきれなくなっていた。
秀平と電話で話すのは、実に半月ぶりである。
札幌のアパートで、いつものように勉強していたであろう彼は、梨緒子の電話にすぐ反応してみせた。
彼との会話に社交辞令は要らない。
梨緒子はおもむろに用件を喋り始めた。
「秀平くん、冬休みはどうするか決めた?」
『どうするって?』
「帰ってくるんでしょ? 夏にそう言ってたよね?」
『クリスマスは、バイト入れてる』
秀平は小さな塾で、中学生向けに塾講師のアルバイトをしているらしい。すでに受験シーズンに突入しているため、この時期、何日もアルバイトを休むわけにはいかないのだろう。
秀平は真面目で責任感もある。学業に対して妥協をすることはない。
融通がきかない堅物、とも言う。
しかし、それはもう充分理解している。
梨緒子は気を取り直し、彼氏に再び尋ねた。
「じゃあ、お正月?」
『そのつもりだったんだけど――』
その歯切れの悪い言い方に、梨緒子はとてつもなく嫌な予感を覚えた。
――だけど、何?
『両親がこっちで年を越したいって言い出して』
「ああ…………そうなんだ」
それ以上、言葉が出てこなかった。
両親が出てきてしまったら、もう梨緒子は太刀打ちできない。わがままを言ってもしょうがないレベルに達している。
夏に二人で旅行に出かけてから、もう五ヶ月経つ。
その前には、九ヶ月も放って置かれていたのだから、「まだ五ヶ月」と思えてしまうのが、なんとも悲しい。
『梨緒子』
「いいよ、もう慣れてるもん」
電話の向こうにいる彼が、糸の切れた凧のようにどこかへ飛んでいってしまったような、そんな感覚に陥ってしまう。
飛び去っていく自由な凧を追いかける気力は、もはや梨緒子にはない。
そんな梨緒子の気持ちを知ってか知らずか、秀平は淡々と話題を変えてくる。
『そうだ梨緒子、クリスマスに何が欲しい?』
「え? ああ……えーと、何でもいいの?」
『常識の範囲内で。「蓬莱の玉の枝」とか「火鼠の皮衣」なんて言われても困るけど』
「ほう、ら? たま? …………何それ」
『「竹取物語」だよ。読んだことない? かぐや姫』
「かぐや姫?」
『他には「仏の御石の鉢」と「燕の子安貝」と、あともう一つはなんだったかな……「龍の首の玉」だったっけ?』
彼は数学や物理を得意とする根っからの理系人間であるのに、文系科目にもまったく隙がない。
ときおり、梨緒子が反応に困ってしまうような難しい話をしてくるため、そのたびに自分の知識の薄さを再確認させられてしまう。
そう。
彼には何一つ、かなわない。
梨緒子はいつものことと気を取り直し、話を続けた。
「かぐや姫は、求婚者を困らせたかったんでしょ? 私はかぐや姫じゃないよ。だって、秀平くんが困るようなことしないもん」
『そうだったな。姫は姫でも――フッ』
「んもう、いつまでもそうやって……」
『じゃあ、何がいい?』
再度そう問われて、梨緒子は返答に詰まってしまった。
――秀平くんと一緒にいたい。
しかし、それは「かぐや姫」の願い事に他ならない。
梨緒子は秀平に聞こえないよう心の中でため息をつき、思わず気のない返答をしてしまう。
「んー……別に欲しいものなんて、ないけど」
すると。
秀平は何故か、電話の向こう側で黙ってしまった。
対処に困る沈黙が、二人の間に流れていく。
梨緒子は、慌てて秀平に弁解を試みた。
「いらないって思ってるわけじゃなくて、突然だったから思いつかないだけで、あ、あのね、考えておくから」
すると秀平は、それじゃまた、とそのまま通話を切ってしまった。
携帯を閉じ、梨緒子は気落ちした状態で、自室のベッドに転がり込んだ。
――本当に、欲しいものなんて、なんにもないんだもん。
ふと。
梨緒子は、逆に秀平の欲しいものを聞き忘れたことに気づいた。
ただ、秀平の性格からして、梨緒子の要望を聞いた後でなければ、自分の欲しいものを口にすることはないだろう。
プレゼントの要望は、秀平がまた欲しいものを聞いてきたときに、ついでに聞けばいい――梨緒子はそう考えた。
――どうせ、会って渡せるわけでもないし。
もらったときの表情の変化を、間近で確認したい。
もちろん、プレゼントを送って、相手の反応を想像するだけでも楽しいのだろうが、こうも遠距離が続くと、想像だけのドキドキでは物足りなさ過ぎる。
寂しい。とてつもなく。
欲しいものなんか、ない。
ちゃんと分かっている。
そう感じているのは自分だけではないと――彼も同じなのだと、それは梨緒子にも分かっている。
しかし。
いつのまにか、物分りのいい彼女を演じてしまっている自分が、どこまでも情けなく思えてしまうのである。
今夏の、二人きりの旅で――。
狭いベッドの上で、彼に抱き締められた感触を、梨緒子は昨日のことのように思い出した。
今でもハッキリと、細部まで鮮明に覚えている。
初めのうちこそ緊張と恥ずかしさばかりだったが、暗闇の中で重ね合わせた肌の温もりと触感が、梨緒子の奥底に眠る何かを目覚めさせた。
秀平は普段、大っぴらに求めてきたりしないし、興味がある素振りもさほど見せたりしない。
ただ、とても分かりにくいのだが、興味がまったくないというわけではなさそうだった。
予習は絶対に欠かさない、という彼の性格習性を考えると、予備知識としてそれなりに情報を得て、どうすれば上手くできるのかを自分なりにいろいろと考えている可能性は、極めて高い。
梨緒子のこれまでの経験相手は、彼氏の秀平だけである。
そのため、比較する対象など存在しないが、それでも回数を重ねるごとに彼の愛情行為がより優しく、そして深くなっていることに気づかされる。
馴れることの心地よさ、なのかもしれない。
しかし。
その心地よさに目覚めていけばいくほど、二人を阻む距離の壁がいっそう虚しく感じられてしまうのもまた、確かだった。
『量』より『質』で、と彼は言うが――。
どんな些細なことでもいいから量を少しでも増やして欲しいと、梨緒子はそう願う。
秀平が一緒なら、量が増えて質が劣ることなど、絶対にありえないのだから。
寒い季節がこんなにも待ち遠しいと感じるのは、梨緒子は生まれて初めてのことだった。
もともと寒さが苦手で、冬なんて無くなってしまえばいいと思っているほどである。
いっそのこと、年中暖かな南の島でのんびりと暮らしたい――などと、叶わぬ夢ばかり見ていたりもする。
しかし、今年の冬は違う。
心が浮き浮きと弾んでいる。
梨緒子は、カバンから自分の携帯を取り出した。
携帯にはストラップの代わりとして、銀色の鍵がつけられている。
これは、自宅の鍵ではない。
遠距離恋愛中の彼氏・永瀬秀平の、現在住んでいるアパートの合鍵である。
この鍵を部屋の主からもらったのは、夏の旅行の別れ際だった。
逢いたいときにはいつでも逢える――そう信じるためのおまじないだと、彼は梨緒子にそう語り、この鍵を手に握らせてくれたのである。
もちろん使うチャンスはない。しかし、これを持っているだけで、彼との繋がりを感じることができるのだから、不思議なものである。
【今年の冬は、帰省して地元で過ごすつもりでいるから。クリスマスか、正月か、どっちかは一緒にいられるよ】
秀平は鍵をくれる前、梨緒子にそう説明していた。
持ち前の端整な面持ちを崩すことなく、あくまで淡々としていた彼の声が、梨緒子の脳裏によみがえってくる。
そう――つまり。
遠距離恋愛中の愛しい彼氏が、梨緒子と一緒に過ごす為に、もうすぐ帰省してくるのである。
夜十一時を回ったところで、梨緒子は秀平の携帯に電話を掛けた。
いつもはそっけないメールのやり取りですませている。
しかし、師走を目前にして、梨緒子ははやる気持ちを抑えきれなくなっていた。
秀平と電話で話すのは、実に半月ぶりである。
札幌のアパートで、いつものように勉強していたであろう彼は、梨緒子の電話にすぐ反応してみせた。
彼との会話に社交辞令は要らない。
梨緒子はおもむろに用件を喋り始めた。
「秀平くん、冬休みはどうするか決めた?」
『どうするって?』
「帰ってくるんでしょ? 夏にそう言ってたよね?」
『クリスマスは、バイト入れてる』
秀平は小さな塾で、中学生向けに塾講師のアルバイトをしているらしい。すでに受験シーズンに突入しているため、この時期、何日もアルバイトを休むわけにはいかないのだろう。
秀平は真面目で責任感もある。学業に対して妥協をすることはない。
融通がきかない堅物、とも言う。
しかし、それはもう充分理解している。
梨緒子は気を取り直し、彼氏に再び尋ねた。
「じゃあ、お正月?」
『そのつもりだったんだけど――』
その歯切れの悪い言い方に、梨緒子はとてつもなく嫌な予感を覚えた。
――だけど、何?
『両親がこっちで年を越したいって言い出して』
「ああ…………そうなんだ」
それ以上、言葉が出てこなかった。
両親が出てきてしまったら、もう梨緒子は太刀打ちできない。わがままを言ってもしょうがないレベルに達している。
夏に二人で旅行に出かけてから、もう五ヶ月経つ。
その前には、九ヶ月も放って置かれていたのだから、「まだ五ヶ月」と思えてしまうのが、なんとも悲しい。
『梨緒子』
「いいよ、もう慣れてるもん」
電話の向こうにいる彼が、糸の切れた凧のようにどこかへ飛んでいってしまったような、そんな感覚に陥ってしまう。
飛び去っていく自由な凧を追いかける気力は、もはや梨緒子にはない。
そんな梨緒子の気持ちを知ってか知らずか、秀平は淡々と話題を変えてくる。
『そうだ梨緒子、クリスマスに何が欲しい?』
「え? ああ……えーと、何でもいいの?」
『常識の範囲内で。「蓬莱の玉の枝」とか「火鼠の皮衣」なんて言われても困るけど』
「ほう、ら? たま? …………何それ」
『「竹取物語」だよ。読んだことない? かぐや姫』
「かぐや姫?」
『他には「仏の御石の鉢」と「燕の子安貝」と、あともう一つはなんだったかな……「龍の首の玉」だったっけ?』
彼は数学や物理を得意とする根っからの理系人間であるのに、文系科目にもまったく隙がない。
ときおり、梨緒子が反応に困ってしまうような難しい話をしてくるため、そのたびに自分の知識の薄さを再確認させられてしまう。
そう。
彼には何一つ、かなわない。
梨緒子はいつものことと気を取り直し、話を続けた。
「かぐや姫は、求婚者を困らせたかったんでしょ? 私はかぐや姫じゃないよ。だって、秀平くんが困るようなことしないもん」
『そうだったな。姫は姫でも――フッ』
「んもう、いつまでもそうやって……」
『じゃあ、何がいい?』
再度そう問われて、梨緒子は返答に詰まってしまった。
――秀平くんと一緒にいたい。
しかし、それは「かぐや姫」の願い事に他ならない。
梨緒子は秀平に聞こえないよう心の中でため息をつき、思わず気のない返答をしてしまう。
「んー……別に欲しいものなんて、ないけど」
すると。
秀平は何故か、電話の向こう側で黙ってしまった。
対処に困る沈黙が、二人の間に流れていく。
梨緒子は、慌てて秀平に弁解を試みた。
「いらないって思ってるわけじゃなくて、突然だったから思いつかないだけで、あ、あのね、考えておくから」
すると秀平は、それじゃまた、とそのまま通話を切ってしまった。
携帯を閉じ、梨緒子は気落ちした状態で、自室のベッドに転がり込んだ。
――本当に、欲しいものなんて、なんにもないんだもん。
ふと。
梨緒子は、逆に秀平の欲しいものを聞き忘れたことに気づいた。
ただ、秀平の性格からして、梨緒子の要望を聞いた後でなければ、自分の欲しいものを口にすることはないだろう。
プレゼントの要望は、秀平がまた欲しいものを聞いてきたときに、ついでに聞けばいい――梨緒子はそう考えた。
――どうせ、会って渡せるわけでもないし。
もらったときの表情の変化を、間近で確認したい。
もちろん、プレゼントを送って、相手の反応を想像するだけでも楽しいのだろうが、こうも遠距離が続くと、想像だけのドキドキでは物足りなさ過ぎる。
寂しい。とてつもなく。
欲しいものなんか、ない。
ちゃんと分かっている。
そう感じているのは自分だけではないと――彼も同じなのだと、それは梨緒子にも分かっている。
しかし。
いつのまにか、物分りのいい彼女を演じてしまっている自分が、どこまでも情けなく思えてしまうのである。
今夏の、二人きりの旅で――。
狭いベッドの上で、彼に抱き締められた感触を、梨緒子は昨日のことのように思い出した。
今でもハッキリと、細部まで鮮明に覚えている。
初めのうちこそ緊張と恥ずかしさばかりだったが、暗闇の中で重ね合わせた肌の温もりと触感が、梨緒子の奥底に眠る何かを目覚めさせた。
秀平は普段、大っぴらに求めてきたりしないし、興味がある素振りもさほど見せたりしない。
ただ、とても分かりにくいのだが、興味がまったくないというわけではなさそうだった。
予習は絶対に欠かさない、という彼の性格習性を考えると、予備知識としてそれなりに情報を得て、どうすれば上手くできるのかを自分なりにいろいろと考えている可能性は、極めて高い。
梨緒子のこれまでの経験相手は、彼氏の秀平だけである。
そのため、比較する対象など存在しないが、それでも回数を重ねるごとに彼の愛情行為がより優しく、そして深くなっていることに気づかされる。
馴れることの心地よさ、なのかもしれない。
しかし。
その心地よさに目覚めていけばいくほど、二人を阻む距離の壁がいっそう虚しく感じられてしまうのもまた、確かだった。
『量』より『質』で、と彼は言うが――。
どんな些細なことでもいいから量を少しでも増やして欲しいと、梨緒子はそう願う。
秀平が一緒なら、量が増えて質が劣ることなど、絶対にありえないのだから。