Lesson 4  恋敵の憂愁 (6)

 二人を取り巻く空港ロビーの空気が、張り詰めている。
 梨緒子はゆっくりとため息をつき、向かい合う秀平の片腕にそっと手を掛けた。
 彼の瞳がわずかに揺れ、じっと梨緒子を見下ろしている。
「あのね……帰ってこれなくなった理由を、なんで帰ってきて言うの? それって、ものすごく矛盾してない?」
「別に矛盾なんかしてないよ。正月に帰れなくなった理由を、二十三日に帰ってきて説明するのは、論理的にも破綻はしてない。ただ、今回の滞在時間が交通費に見合っているかどうかはまた別問題だけど――」
 相変わらず理数系らしい秀平の説明だが、梨緒子にはどうも納得がいかない。
 梨緒子は、怒ったり拗ねたりしたわけではない。わざわざ直接説明をしに帰ってこなければならないほど、ごねた覚えもない。
 そう。
 これだけのことを飛行機代を使って説明しに来るなど――普通では考えられないのである。

 秀平の言葉をそのまま信じるなら、彼は正月に帰ることができなくなった理由を、梨緒子に伝えるためだけに、帰ってきたということになる。
 しかし。
「あのね、私、怒ってないよ? 秀平くんが家族のこと大事にしてるの、ちゃんと分かってるから」
「梨緒子」
「ホントだよ。強がりとか負け惜しみとかそんなんじゃなくて。秀平くんがちゃんと考えてそれで決めたことなら、私はそれに従うし」

 ――嘘ばっかり。

 強がっている。
 本当の気持ちは、硬い殻の中へとしまいこんである。

 すると、秀平は途惑ったような表情を見せ、首を横に振った。
「いや……うちの親戚のことはちゃんと、梨緒子には知っておいてもらわないと――と思って」
「え?」
「いずれ、顔を合わせる機会もあるかもしれないし」
 思わず呼吸が止まってしまった。どういう反応をしたらいいのか、すぐに答えが見つからない。
 それは決して嫌だとか迷惑だとかマイナス要素によるものではなく、彼の言葉もつ意味の深さに途惑い、混乱しているというほうが近いだろう。
 これまでは何となく知らされていただけの親戚の話を、秀平の口からきちんと説明されたのは、梨緒子はこれが初めてだった。
 たったそれだけのことが、特別なことのように梨緒子には感じられた。
「事情は分かったよ。でも、電話でもよかったのに……飛行機代かけてまで」
「もともと帰省するためにとっておいてた分だから、それは別にいいんだけど」
 秀平の様子がおかしい。
 いつも通り淡々としているのだが、しかし。
 秀平はいつもそうなのだ。言いたいことがあるときに限って、やたらと遠回しになるのである。
 やはり、何かを隠している――梨緒子は瞬間的に悟った。
 しかし。
 こちらから積極的に出過ぎると、さらりとかわされてしまう。けれども、黙って気づかない振りをすると、やがて諦めてしまうのだ。
 とても扱いづらい男だ、と梨緒子は自分の彼氏ながらにそう思う。
 梨緒子は黙ったまま、秀平の続く言葉を待った。
「だから、それだけじゃなくて。ほら――」
「うん?」
 ゆっくりと慎重に、彼の胸の内を引き出していく。
 時間はない。でも、急かしてはいけない。
「明日はクリスマスだから」
「クリスマスだから、どうしたの?」
「…………」
 秀平はいつまでも黙っている。
 梨緒子は首を傾げた。
「秀平くん?」
「頭に、リボンつけてくればよかったかな、俺」
「……え」

 思わず想像――そして、絶句。

 ありとあらゆる感情が、梨緒子の胸をかき乱していく。
 理由なんか要らないのである。
 とにかくこの男のことが好きなのである。
 梨緒子の世界の色彩を一瞬にして変える力を、この男が持っている。
 そう。

 秀平だけが、梨緒子を満たすことができるのだ。

「ははっ、あははは、あはははは、頭にリボンね」
 梨緒子は我慢できずに吹き出した。
 秀平の胸を軽く叩き、そのまま笑い続けてしまう。
「……冗談だよ。笑い過ぎ」
 秀平は機嫌を損ねたのか、冷ややかにツイと顔をそむけた。
「可笑しいんじゃないの。嬉しいの」
「夏にさ、梨緒子が俺に言ってただろ。もっと帰ってきて、って。三十分でもいいから――って。だから俺さ」
 自分自身がプレゼントだと、どこまでも不器用で遠回しな彼氏は梨緒子にそう言う。
 その例えの恥ずかしさを払拭するように、懸命に弁解をする秀平が、梨緒子の目にはとても滑稽に映った。
「うん。さすが秀平くん。私の一番欲しいもの、ちゃんと当ててくれたんだね」
 梨緒子がありったけの笑顔で応えると、秀平は黙ったまま静かに頷き、やがてため息を一つついて、ふと表情を緩めた。
「梨緒子の笑顔見たら、安心した」
「安心?」
「電話で、すごく寂しそうにしてたから」
 その言葉に、梨緒子は思わず両目を瞠った。
 寂しいとは、秀平にはひと言も告げていない。それなのに彼は、梨緒子の気持ちに気づいたということになり――。
 その事実が、硬い殻に封じ込められた想いを、いとも容易く引き出していく。
 この男に嘘はつけない。
 嘘をつく必要なんて、ないのだ。
「うん。寂しかったよ」
「梨緒子」
「心配かけてごめんなさい」
「どうして謝るの」
「もっともっと強くならなくちゃ、いけないのに」
「……」
「毎日ちゃんとメールくれるだけで、充分な筈なのに……なんかね、どんどん自分がワガママになってる気がする」
 抱える想いを訴えてみたところで、事態が好転することはない。
 少なくともあと二年以上、この状態が続くのだから――。

 秀平は持っていたカバンを持ち替え、ファスナーを開けた。中に手を差し入れて、何かを探るようなしぐさをみせる。
「これ、梨緒子に」
 秀平が差し出したのは、紙袋に入った雑誌のようなものだった。袋には書店のロゴが印字されている。
「どうしたの?」
「寂しくならないための、『おまじない』」
「なんか、おまじないかけられてばっかりだね、私」
「ヒマだったら――でいいから」
 一人で時間を持て余したら、暇つぶしに読んで欲しいということなのだろう。
 梨緒子は、素直にその雑誌の入った紙袋を秀平から受け取った。
 
 あっという間に、別れの瞬間がやってきた。
 もうすぐ、北海道千歳へ向かう飛行機が出発する。
 秀平はコートの襟を正すと、梨緒子に軽く頭を下げた。
「それじゃ」
 名残惜しむ素振りはみせない。あっさり別れるのが、二人の暗黙の了解になっている。
 秀平はそのまま踵を返して、搭乗口のゲートへ向かって歩いていく。
 梨緒子はもらった雑誌の紙袋をきつく胸に抱き締めたまま、遠ざかる彼の背中に声を掛けた。
「秀平くん――」
 梨緒子の呼び声に、秀平は歩みを止め振り返った。
「いってらっしゃい」
 またね、でも、じゃあね、でもなく。
 いつかまた、彼はここへ帰ってくる。
 梨緒子が笑顔で手を振ると、秀平は照れたような笑顔を見せて、軽く片手を挙げた。
「いってきます。よいお年を――」
「はい。秀平くんもね」
 秀平はそのまま梨緒子に背を向け、足早に搭乗口へ向かって歩き去っていった。


 秀平が梨緒子のもとを去ってしまと、それを見計らったかのように、秀平を観察すると言っていた類が、ようやく梨緒子の前に姿を現した。
「る、ルイくん。いつからそこにいたの?」
「ずっと。永瀬のお手並みをとくと拝見させてもらったよ」
 どうやら梨緒子たちのいた総合案内の、奥側の柱の陰に潜んでいたらしい。
 この位置関係では二人の会話は聞き取れなかっただろうが、姿はおそらく丸見えだったに違いない。
「久しぶりに会って、恋人らしく激しい抱擁も熱い接吻もないのかよ?」
「あるわけないでしょそんなの……映画じゃあるまいし」
 秀平は、周囲に人がいる場所で、そのような行動に及ぶことは絶対にないのである。
 類にしてみれば、キスはともかく再会の抱擁くらいは期待していたようだが――。
「で?」
「で、って、何が?」
「その中身」
 類は目配せをして、梨緒子の腕の中の紙袋を指し示した。
 どうやら秀平が梨緒子に手渡しているところを、しっかりと見ていたらしい。
「ああ……なんかの雑誌みたい」
「クリスマスプレゼントじゃねーの?」
「違うよ。来る途中に自分で読もうと思って、買ってきたんじゃないのかな?」
 何気なく紙袋のテープをはがし、軽い気持ちで中身を確認すると。

 ――わ、わ、『ヒマだったら』って、そういうこと!?

 梨緒子は完全に取り乱してしまっていた。
 これはたまたまではない。彼の思惑がこの雑誌に集約されている。
 この紙袋を手渡してきた秀平の澄ました顔が、梨緒子の脳裏にハッキリとよみがえってくる。
 遠回しなのに、直球。いかにも秀平らしいのだが――。
「何一人で赤くなってんだよ。俺にも見せて」
 梨緒子の様子の変化を不審に思ったのか、類は強引に手を差し出してくる。
「い、いや、これはちょっと」
「いいから見せろって、減るもんじゃないし。なんだよ、まさかエッチい本でも入ってたか?」
「秀平くんがそんなの読むわけないでしょ。あ、ルイくん!」
 一瞬の隙をついて、類は梨緒子の腕の中から雑誌の紙袋を抜き取るように奪った。
 そして中を覗き込み、動きが止まる。
「………………なんだよ、これ?」
 梨緒子は顔を赤らめたまま、あわてて紙袋を奪い返した。
「本屋さんで選んで買ってるとこ想像すると、なんか面白すぎだよね、ハハ」
「……メンズニットBookって。つーか、よくそんなの自分で買えるよな。これは、ねーわ。俺には真似できねー……」

 ――寂しくならないための『おまじない』、か。

「当分、寂しがってるヒマもなさそう。編み物なんてやったことないし。薫ちゃんに教えてもらわなくちゃ」
「本当に好きなんだな」
「……そりゃ、まあ」
「リオじゃなくて、永瀬がだよ」
 確かに梨緒子自身も愛されているという自覚はあるが、それを客観的に判断するのはなかなか難しい。
 類の目から見る秀平は、梨緒子が感じているものとはおそらく違うのだろう。
 興味はあったが、梨緒子はそれ以上聞かなかった。
 これでいいのだ、きっと――。
「どうする? 一緒に帰るか?」
「え?」
「……いや、やっぱ一人で帰るわ。じゃあ、今度は成人式で。またな」
「ルイくん」
 梨緒子は、元彼の背に向かってそっと頭を下げた。
「約束、守ってくれてありがとう」
「バイバイ――」
 彼の心が閉じていく。すべてが終わったのだ、きっと。
 決して悲観することはない。終わりは、始まりでもあるのだから。
 梨緒子は紙袋入りの雑誌をしっかりと抱き締めたまま、遠ざかっていく類の背中を、視界から消えるまでその場でずっと目で追い続けていた。


(了)