Lesson 4  恋敵の憂愁 (5)

「待てよ、リオ」
 梨緒子は観覧車を降りると、今度は自分のカバンをしっかりと携え、後ろから呼び止める類を振り返った。
「ごめん。私、行くから」
 先ほど密室の中で起こったことを、いま責めている余裕はない。
 しかし。
「俺も行く。この目で確かめないと気がすまない」
 梨緒子は思わず自分の耳を疑った。
「行ってどうするの? まさか、秀平くんに今日のこと、言うつもり?」
 たとえ言わなくても、類と二人きりでいるところを見られたら、その結果どうなるか――想像に難くない。
 類についてこられることだけは、どんなことをしても避けたかった。
 しかし、どうやって説得をしたらよいのか、梨緒子の頭の中に言葉はまるで浮かんでこない。
 一分一秒でも早く、空港へ向かわなければならない。
 どんどん時間が過ぎていく。
 梨緒子は焦る。焦るとますます思考が混乱する。
 悪循環だ。
「時間ないんだろ、早く」
 梨緒子が困り果てて立ちすくんでいると、類は強引に梨緒子の腕を掴んで、観覧車乗り場の出口へと引っ張っていこうとした。
 梨緒子は抵抗した。
「イヤ! お願いだからルイくん、秀平くんを怒らせるようなことだけは、絶対にイヤ!」
「観察するだけだよ。ちょっと離れたところで他人の振りしてれば、文句ないだろ。……そんな、困ったような顔すんなよ」
 完全に、困った。
 しかし。
 ここで言い争いを繰り広げている時間は、ない。
 このまま立ち止まっていては、彼に会うことができなくなるかもしれないのだ。
 梨緒子は早々に観念し、一分の望みをかけて、『観察するだけ』という類の言葉を信じてみることにした。


 二人は連れ立って、アミューズメントパークと隣接する駅のタクシー乗り場へと、ひたすら走った。
 梨緒子はタクシーの後部座席に押し込まれ、続いて類が乗り込む。類が行き先を告げると、タクシーは静かに発進した。
 梨緒子は乱れる呼吸を整えながら、いろいろなことを思い巡らした。

 どうして、彼は突然帰ってきたのだろう。
 どうしてまた、すぐ帰るというのだろう。

 約束なんかしていない。
 そもそも、秀平はアルバイトがあるから帰れないと言っていたのだ。
 それなのに、どうして。
 どうして――。

 どんどん不安に駆られていく。
 よほどの事情があるに違いない。

 タクシーの後部座席で身を硬くしたまま、梨緒子は自分の膝をじっと見つめていた。
「全然、嬉しそうじゃねーな」
 声を掛けられ左横を向くと、類が不審げな面貌で、じっと梨緒子の様子を眺めている。
「え? いや……なんか、驚きのほうが大きくて」
「バレたんじゃね?」
 そのひと言に、梨緒子の心臓は縮み上がった。

 ――そんな、まさか。

 今日の忘年会のことは、梨緒子は誰にも話していなかった。寂しさを紛らわすために闇雲に詰め込んだ予定だったため、美月にも話していない。
 つまり、忘年会が実は合コンで、偶然類と居合わせてしまったことは、誰一人知らないはずなのである。
 たとえ合コン現場を誰かに見られていたとしても、そこから秀平の耳に入って、梨緒子を問い詰めようとして急遽帰ってきたとは、考えにくい。
 なぜなら、時間的にみて、合コンが始まる前には既に、秀平はこちらへ帰ろうと千歳空港にいたはずだからである。

 だから――そのあと成り行きで一瞬の過ちを犯してしまったことも、知らない。

 だとしたら、ますます秀平の行動の理由は分からない。
 梨緒子は必死に、ここ一週間の自分の言動をかえりみる。
 秀平とは、一言二言のメールのやり取りだけだ。最後に電話で話したのはいつだったか――十二月の頭だったかもしれない。
 何かまずいことを言ってしまっただろうか。もう、詳細を覚えていない。

 梨緒子が黙ってしまうと、類は幾分困ったようにため息をついた。そして、後部座席の窓から流れる外の夜景を眺めながら、淡々と梨緒子に問い掛ける。
「いったい、永瀬のどこがいいわけ?」
「……どこが、って?」
「別に、リオの趣味疑って聞いてんじゃねーよ。純粋にあいつのどこを好きなのか――それを知りたいんだ」
 類は外を向いたまま、梨緒子に視線を向けようとしない。
「それが、俺に足りてない部分なんだろうし」
「ルイくん……そんなこと聞くのはおかしいよ? ルイくんにはルイくんしかない、いいところがたくさんあるし――」
「いいから、ちゃんと答えろよ」

 秀平の好きなところ。
 生真面目で、真っ直ぐと梨緒子だけに愛情を注いでくれるところ。

 ――あとは……あとは何だろう?

 彼の好きなところを、列挙できない自分が、あまりにも情けなかった。
 しかし。
 彼の『男としての長所』は、言葉ではうまく言い表せないものなのである。
 結局、梨緒子は類に答えることができず、黙ったまま――。
 類もそれ以上、聞き返してくることはなかった。


 やがてタクシーは空港へ到着した。
 時刻は午後七時五十五分。予想よりも五分ほど早い。日中よりも道路がすいていたことが幸いしたらしい。
 二人はタクシーを降りた。車内の暖かさとはうって変わって、染み入るような冷たい真冬の空気が二人を包み込む。
 梨緒子はカバンを肩から提げると、しっかりと類と向き合った。
「ルイくん、約束は守ってね?」
 白い息が梨緒子の声とともに、ゆっくりと空に立ち上っていく。
「信じてるから」
「……いいから、早く行けよ」
 さまざまな思いが、絡み合う。
 梨緒子は類に背中を向けると、そのまま振り返らずに、真っ直ぐと到着ロビー側の入り口めがけて走り出した。
 類の足音は、聞こえてこなかった。


 煌々とした灯りのついた空港の到着ロビーの中に、梨緒子はやっとの思いで足を踏み入れた。
 心臓の鼓動が、脳天まで響いてくる。
 梨緒子はだだっ広いロビーの中を、あてもなく見渡した。
 もうじき札幌へ向けて発つといっていたのだから、ひょっとしたらすでに出発ロビーのほうへと移動した可能性もある。
 梨緒子はカバンから携帯を取り出すと、秀平の番号に掛けた。
「秀平くん!」
『はい、ただいま』
 声が重なった。
 携帯電話から聞こえてくる声と、その外側から彼の生声が響いてくる。
 梨緒子はとっさに振り返った。
 秀平はすぐそばの総合案内の、横の大きな柱のところに背を預けるようにしてたたずんでいた。
「……どうして?」
「だから、ただいま」
「あ……ええと、おかえりなさい」
 彼だ。
 間違いない。
 本物の彼が、梨緒子の目の前に立って、物憂げに透き通った切れ長の瞳を瞬かせながら、梨緒子を見つめている。
 暖かそうな灰色のロングコートが、長身で細身の彼にはよく似合っている。
 秀平は書類を入れるようなシンプルな手提げカバンを一つ携えているだけだ。おそらく通学時と変わらないだろう。
「あのさ――」
「なあに?」
 秀平はわずかにかがみこむようにして、梨緒子の耳元に唇を寄せた。
 温もりが、すぐ側にある。
 その久しぶりの感覚に、梨緒子の胸はどんどん満たされていく。
「美瑛の親戚のことなんだけど」
「え? ……ああ、うん」
 突然の話の展開に梨緒子はすこし途惑ったが、手馴れたようにそのまま彼の話に耳を傾ける。
「俺の母親の妹が、美瑛に嫁いだんだ。ちなみに、カフェやってるひかるさんは、父方のイトコ。結婚したから苗字変わったけど、昔は『永瀬ひかる』さんだった」
「…………ふうん?」
 愛を語らうこともせず、秀平は尚も淡々とした口調で、梨緒子に『自分の親戚』の説明を続ける。
「うちの母親は仕事人間だから、正月も家にいることはほとんどなくて、でもこの年末年始、五年振りにまとまった休みが取れたらしくてさ。俺もいま札幌暮らしだし、札幌観光がてら妹夫婦とも久しぶりに会いたいって――そういう話になったんだ」
 秀平は、それっきり黙ってしまった。
 待っても待っても、続く言葉は出てこない。
 時間は刻一刻と迫っている、というのに。
 梨緒子はおずおずと秀平に尋ねた。
「あの……それだけ?」
「うん」
「うんって……まさか、それだけ言うために帰ってきたの?」
 秀平は黙ったまま、ゆっくりと頷いた。

 ――理解不能。

 もちろん梨緒子は絶句したまま、その顔に疑問符をいくつも浮かべ、澄ました秀平の顔をただ見つめるばかり。
 彼の言動の真意は、いったいなんなのだろうか――梨緒子の胸に一抹の不安がよぎった。