Lesson 5 恋初めし君と (1)
梨緒子は一人、ベッドに横たわっていた。
ここは自分の部屋ではない。しかし、知っている風景だ。
梨緒子は薄暗い部屋の中を、ゆっくりと目を凝らして見回す。
照明器具。
カーテン。
勉強机の上には、ノートパソコン。
その脇には、小難しいタイトルの本が詰まった、木目のカラーボックス。
――あ……ここ、秀平くんのアパートだ。
どうして自分はここにいるんだろう。梨緒子は必死に思い出そうとする。
しかし、どうしても分からないので、すぐに考えるのをあきらめた。
部屋の主の姿は見当たらない。
やがて扉が開き、彼が部屋の中へと入ってきた。
頭からバスタオルを無造作にかけて、髪の毛を拭くような仕草をしている。どうやらお風呂上がりらしい。上下パジャマ姿である。
「梨緒子、どうしたの?」
不意に秀平が、ベッドの中にもぐりこんでいる梨緒子に向かって尋ねてくる。
「私……どうしてここにいるんだっけ」
「何だよ、寝ぼけてるのか?」
そう言われてしまうと、ここにいることがまったく不思議なことではないように思えた。
そう。
ここは梨緒子が付き合っている彼氏の部屋であり、ここに泊まるのは初めてではなく、この先行われるであろう愛情行為をすべて受け入れることも――まったく問題はない。
ということは。
不安材料は何もないのである。
しかし、どうしても違和感の存在は否めない。
それがハッキリとどこなのかは、梨緒子には分からない。
梨緒子は上半身を起こし、ベッドの上に座る体勢をとると、秀平はそこへゆっくりと歩み寄ってきた。
彼がベッドの上に乗ると、その重みでスプリングがわずかに軋んだ。
彼の長い脚が狭そうにベッドの上を動いている。
やがて秀平は、梨緒子の身体ごと両手で引き寄せて、自分の脚の間へと引き入れた。
座ったまま向かい合い、至近距離で見詰め合う。
お互いの呼吸の音も、鼓動も、パジャマの衣擦れの音も、そして体温も。
すべてが伝わってくる。
「梨緒子――」
今から? と梨緒子が目で彼に問う。
無言のまま、ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。つまり、返事は『肯定』だ。
彼氏の秀平とのキスに、梨緒子はいまだに緊張してしまう。
遠距離恋愛中であるため、絶対的な場数が少ないためでもあるのだが、それ以上に。
人前ではどこまでもクールに振る舞う彼が、二人きりになるとその態度をわずかに軟化させる。名前を呼ぶ声が、少しだけ低く穏やかになるのだ。
彼の分かり辛いサインを受け取ったら、まず『隙』を作ることが大切だ。
すべてを受け入れるある種の『無防備さ』を、微笑みに乗せて彼に応えてやる。
彼の気持ちが九割こちらを向いたら、そっと、あくまでそっと、彼の身体の一部に触れてやるとよい。
梨緒子は慣れたように、秀平の膝の上に軽く右手を載せた。
そこからの二人のやり取りは、おそろしく濃密なものとなる。
秀平は梨緒子の肩に手を回したかと思うと、唇が触れる寸前までそのままおもむろに引き寄せて、一瞬動作を止めた。
腕の中の梨緒子が抵抗しないのを改めて確認し、秀平の瞼がゆっくりと下りていく。梨緒子もそれに合わせ、そっと目を閉じた。
二人が一つに融け合い、その熱くやわらかな感触にみぞおちの下がしびれていく。
外国の恋愛映画のワンシーンのようだ、と梨緒子は彼の深く濃厚なキスを受けながら、そんなことを思った。
普段はクールでそっけなくていつでも淡々として、どこまでも堅く真面目な彼が、『その気』になっている。
息継ぎもままならない。
わずかに唇が離れた隙に、梨緒子はかすれ声で彼に訴えかける。
「秀平くん、苦しい」
「我慢して。半年ぶりなんだから」
「そう、だけど」
それだけ答えると、すぐさま唇が塞がれる。
ときに強くそして弱く、間断なくキスは繰り返される。
ふと彼の動きが止まり、ゆっくりと唇が離れた。
梨緒子の鼻先で、彼の透き通った焦げ茶色の瞳が瞬いている。
「違った。梨緒子は、半年ぶりじゃない」
「え?」
「この前、安藤とキスしただろ」
梨緒子の心臓が、縮み上がった。
驚きのあまりその身を引こうとするも、秀平の右腕はしっかりと梨緒子の背中に回されたままだ。梨緒子を逃すまいと、その腕には力がこもっている。
「……」
「言い訳があるなら聞くけど」
どうして秀平が知っているのだろう。
そもそもあの一瞬の過ちは、観覧車の中という密室内での『事故』だ。梨緒子は誰にも喋っていない。
となると、秀平にその事実を漏らしたのは、もう一人の男ということになり――。
しかし、それは考えにくい。そもそも秀平と類は連絡を取り合うような仲ではなく、偶然会って話すような距離にもない。
それより何より。
例え類がそのことを秀平に告げる機会があったとしても、秀平がその話を鵜呑みにして、梨緒子を責めるはずがないのである。
梨緒子は秀平に抱きすくめられたまま、やっとの思いで声を振り絞る。
「あれは……無理矢理」
「無理矢理、何? どんな風にどうされた?」
秀平は右腕で梨緒子の背中を支えたまま、空いた左手でそっと、梨緒子の髪を梳くように撫でた。その繊細な指の動きが艶かしい。頬を撫で、その指が首筋に下りていき、肩の輪郭を確認するようにしながら親指で鎖骨のラインをなぞっていく。
「秀平くん……あの、私」
「今度安藤に会ったら、足腰立たなくなるまでぶちのめしてやる――」
梨緒子は驚きのあまり両目を瞠った。
秀平はそのような実力行使に出るタイプの人間ではない、はず。
それほどまでに激高している、ということの現われなのかもしれない、が。しかし。
「それと、罪は公平に償ってもらわないとな――梨緒子」
名を呼ぶ彼の声が、わずかに低くなる。
「嘘……そんな」
「これから一晩中、朝までお仕置きだ。俺じゃないと駄目だって、身体に教え込まないと」
おかしい。
ありえない。
違和感は最高潮に達していた。
これはきっと、彼の姿をした別人だ。
けれども――拒むことができない。
秀平はいったん梨緒子を自分の膝に抱え上げ、背中にしっかりとつかまるように指示を出す。
梨緒子は言われたとおり、秀平の首の後ろに両腕を回すようにして抱きつくと、そのまま器用にベッドに押し倒されてしまった。
激しいキスの嵐に気が遠くなっていく。
「梨緒子、愛してるって言って」
「口、塞が……れっぱな、し、じゃ、喋れ……ない、も――」
「梨緒子」
唇を塞がれて返事もままならないのに、なぜか彼の声は、ハッキリと梨緒子の耳に届いている。
「梨緒子、早く」
急かされても、言葉を紡ぐことができない。
「梨緒子。梨、緒、子!」
瞬間。
梨緒子は白くまばゆい光に包まれた。
おそるおそる目を開けると、ベッドに横たわる梨緒子の顔を覗き込んでいたのは、キレイな兄貴の薫だ。
「いつまで寝てるんだよ、梨緒子。新年早々寝坊すんなよ。一年の計は元旦にありって言うだろ? もう昼すぎだぞ」
自分を呼んでいたのは、どうやら薫の声だったらしい。
梨緒子はいまだ、事態が把握できないでいた。
もう一度よく部屋を見回してみる。
センターテーブル。本棚にはマンガ本。天井の模様。カーテンの柄――。
すべて梨緒子の部屋のものだ。
「うそ……」
「うそじゃない。時計見てみろよ」
梨緒子の言葉の意味が、薫にはちゃんと伝わっていないようだ。今が元旦の正午過ぎであっても、別に驚くことではない。
「夢か……夢だったんだ。そうだよね、夢だよねー」
梨緒子はつい先ほどまで、札幌の彼のアパートにいた。
そして、今までに経験したことのないような秀平のモーションに翻弄されてしまっていたことを、ハッキリと覚えている。
それでも、違和感を何となく受け入れてしまっていたのは、それが夢であったからに他ならない。
それより何より――。
彼があの『キス事故』を、知っているはずがないのだ。
夢でよかった――梨緒子はベッドの上で、大きな安堵のため息をついた。
その脇で、薫は梨緒子を呆れたように見下ろしている。
「なに落ち着いてんだよ。美月チャンと初売りに行く約束してたんじゃないのか?」
――約束? わ、忘れてた!
梨緒子は一気に現実に引き戻され、大慌てでベッドから飛び起きた。
ここは自分の部屋ではない。しかし、知っている風景だ。
梨緒子は薄暗い部屋の中を、ゆっくりと目を凝らして見回す。
照明器具。
カーテン。
勉強机の上には、ノートパソコン。
その脇には、小難しいタイトルの本が詰まった、木目のカラーボックス。
――あ……ここ、秀平くんのアパートだ。
どうして自分はここにいるんだろう。梨緒子は必死に思い出そうとする。
しかし、どうしても分からないので、すぐに考えるのをあきらめた。
部屋の主の姿は見当たらない。
やがて扉が開き、彼が部屋の中へと入ってきた。
頭からバスタオルを無造作にかけて、髪の毛を拭くような仕草をしている。どうやらお風呂上がりらしい。上下パジャマ姿である。
「梨緒子、どうしたの?」
不意に秀平が、ベッドの中にもぐりこんでいる梨緒子に向かって尋ねてくる。
「私……どうしてここにいるんだっけ」
「何だよ、寝ぼけてるのか?」
そう言われてしまうと、ここにいることがまったく不思議なことではないように思えた。
そう。
ここは梨緒子が付き合っている彼氏の部屋であり、ここに泊まるのは初めてではなく、この先行われるであろう愛情行為をすべて受け入れることも――まったく問題はない。
ということは。
不安材料は何もないのである。
しかし、どうしても違和感の存在は否めない。
それがハッキリとどこなのかは、梨緒子には分からない。
梨緒子は上半身を起こし、ベッドの上に座る体勢をとると、秀平はそこへゆっくりと歩み寄ってきた。
彼がベッドの上に乗ると、その重みでスプリングがわずかに軋んだ。
彼の長い脚が狭そうにベッドの上を動いている。
やがて秀平は、梨緒子の身体ごと両手で引き寄せて、自分の脚の間へと引き入れた。
座ったまま向かい合い、至近距離で見詰め合う。
お互いの呼吸の音も、鼓動も、パジャマの衣擦れの音も、そして体温も。
すべてが伝わってくる。
「梨緒子――」
今から? と梨緒子が目で彼に問う。
無言のまま、ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。つまり、返事は『肯定』だ。
彼氏の秀平とのキスに、梨緒子はいまだに緊張してしまう。
遠距離恋愛中であるため、絶対的な場数が少ないためでもあるのだが、それ以上に。
人前ではどこまでもクールに振る舞う彼が、二人きりになるとその態度をわずかに軟化させる。名前を呼ぶ声が、少しだけ低く穏やかになるのだ。
彼の分かり辛いサインを受け取ったら、まず『隙』を作ることが大切だ。
すべてを受け入れるある種の『無防備さ』を、微笑みに乗せて彼に応えてやる。
彼の気持ちが九割こちらを向いたら、そっと、あくまでそっと、彼の身体の一部に触れてやるとよい。
梨緒子は慣れたように、秀平の膝の上に軽く右手を載せた。
そこからの二人のやり取りは、おそろしく濃密なものとなる。
秀平は梨緒子の肩に手を回したかと思うと、唇が触れる寸前までそのままおもむろに引き寄せて、一瞬動作を止めた。
腕の中の梨緒子が抵抗しないのを改めて確認し、秀平の瞼がゆっくりと下りていく。梨緒子もそれに合わせ、そっと目を閉じた。
二人が一つに融け合い、その熱くやわらかな感触にみぞおちの下がしびれていく。
外国の恋愛映画のワンシーンのようだ、と梨緒子は彼の深く濃厚なキスを受けながら、そんなことを思った。
普段はクールでそっけなくていつでも淡々として、どこまでも堅く真面目な彼が、『その気』になっている。
息継ぎもままならない。
わずかに唇が離れた隙に、梨緒子はかすれ声で彼に訴えかける。
「秀平くん、苦しい」
「我慢して。半年ぶりなんだから」
「そう、だけど」
それだけ答えると、すぐさま唇が塞がれる。
ときに強くそして弱く、間断なくキスは繰り返される。
ふと彼の動きが止まり、ゆっくりと唇が離れた。
梨緒子の鼻先で、彼の透き通った焦げ茶色の瞳が瞬いている。
「違った。梨緒子は、半年ぶりじゃない」
「え?」
「この前、安藤とキスしただろ」
梨緒子の心臓が、縮み上がった。
驚きのあまりその身を引こうとするも、秀平の右腕はしっかりと梨緒子の背中に回されたままだ。梨緒子を逃すまいと、その腕には力がこもっている。
「……」
「言い訳があるなら聞くけど」
どうして秀平が知っているのだろう。
そもそもあの一瞬の過ちは、観覧車の中という密室内での『事故』だ。梨緒子は誰にも喋っていない。
となると、秀平にその事実を漏らしたのは、もう一人の男ということになり――。
しかし、それは考えにくい。そもそも秀平と類は連絡を取り合うような仲ではなく、偶然会って話すような距離にもない。
それより何より。
例え類がそのことを秀平に告げる機会があったとしても、秀平がその話を鵜呑みにして、梨緒子を責めるはずがないのである。
梨緒子は秀平に抱きすくめられたまま、やっとの思いで声を振り絞る。
「あれは……無理矢理」
「無理矢理、何? どんな風にどうされた?」
秀平は右腕で梨緒子の背中を支えたまま、空いた左手でそっと、梨緒子の髪を梳くように撫でた。その繊細な指の動きが艶かしい。頬を撫で、その指が首筋に下りていき、肩の輪郭を確認するようにしながら親指で鎖骨のラインをなぞっていく。
「秀平くん……あの、私」
「今度安藤に会ったら、足腰立たなくなるまでぶちのめしてやる――」
梨緒子は驚きのあまり両目を瞠った。
秀平はそのような実力行使に出るタイプの人間ではない、はず。
それほどまでに激高している、ということの現われなのかもしれない、が。しかし。
「それと、罪は公平に償ってもらわないとな――梨緒子」
名を呼ぶ彼の声が、わずかに低くなる。
「嘘……そんな」
「これから一晩中、朝までお仕置きだ。俺じゃないと駄目だって、身体に教え込まないと」
おかしい。
ありえない。
違和感は最高潮に達していた。
これはきっと、彼の姿をした別人だ。
けれども――拒むことができない。
秀平はいったん梨緒子を自分の膝に抱え上げ、背中にしっかりとつかまるように指示を出す。
梨緒子は言われたとおり、秀平の首の後ろに両腕を回すようにして抱きつくと、そのまま器用にベッドに押し倒されてしまった。
激しいキスの嵐に気が遠くなっていく。
「梨緒子、愛してるって言って」
「口、塞が……れっぱな、し、じゃ、喋れ……ない、も――」
「梨緒子」
唇を塞がれて返事もままならないのに、なぜか彼の声は、ハッキリと梨緒子の耳に届いている。
「梨緒子、早く」
急かされても、言葉を紡ぐことができない。
「梨緒子。梨、緒、子!」
瞬間。
梨緒子は白くまばゆい光に包まれた。
おそるおそる目を開けると、ベッドに横たわる梨緒子の顔を覗き込んでいたのは、キレイな兄貴の薫だ。
「いつまで寝てるんだよ、梨緒子。新年早々寝坊すんなよ。一年の計は元旦にありって言うだろ? もう昼すぎだぞ」
自分を呼んでいたのは、どうやら薫の声だったらしい。
梨緒子はいまだ、事態が把握できないでいた。
もう一度よく部屋を見回してみる。
センターテーブル。本棚にはマンガ本。天井の模様。カーテンの柄――。
すべて梨緒子の部屋のものだ。
「うそ……」
「うそじゃない。時計見てみろよ」
梨緒子の言葉の意味が、薫にはちゃんと伝わっていないようだ。今が元旦の正午過ぎであっても、別に驚くことではない。
「夢か……夢だったんだ。そうだよね、夢だよねー」
梨緒子はつい先ほどまで、札幌の彼のアパートにいた。
そして、今までに経験したことのないような秀平のモーションに翻弄されてしまっていたことを、ハッキリと覚えている。
それでも、違和感を何となく受け入れてしまっていたのは、それが夢であったからに他ならない。
それより何より――。
彼があの『キス事故』を、知っているはずがないのだ。
夢でよかった――梨緒子はベッドの上で、大きな安堵のため息をついた。
その脇で、薫は梨緒子を呆れたように見下ろしている。
「なに落ち着いてんだよ。美月チャンと初売りに行く約束してたんじゃないのか?」
――約束? わ、忘れてた!
梨緒子は一気に現実に引き戻され、大慌てでベッドから飛び起きた。