Lesson 5  恋初めし君と (2)

 新年早々、人の波にもまれた梨緒子と美月は、夕方近くになってようやく行きつけのカフェに辿り着いた。
 二人の両手には、戦利品の紙袋がたくさん提げられている。
 そのため、二人はいつもの窓際の二人掛けのテーブルではなく、店の奥の四人掛けのテーブルに着いた。
 空いている座席は、たちまち二人の荷物で埋め尽くされていく。

 美月はメニューをざっと眺めすぐに決めると、向かい合う梨緒子にメニューを差し出した。
「おなか空いたから、チョコパフェにしちゃおうかな。梨緒ちゃんは?」
「私はいつもの。温かいカフェオレと、このオススメのイチゴのタルトにする」
 注文をすませ、メニューをテーブルの端に片付けると、梨緒子はようやく一息つくことができた。
 肉体的疲労もさることながら、頭の中がグルグルとしている。
 相手が気心の知れた親友であるため、特に焦って話題を探さなくてもいいのが救いだ。

 梨緒子の冴えない顔を見て、美月は心配そうにして尋ねてくる。
「梨緒ちゃん、新年早々疲れてない? 徹夜して寝てないとか?」
「ううん。紅白見たあとすぐ寝たよ。どっちかっていうと、寝すぎて寝疲れた」
「寝疲れ?」
「なんか、物凄くリアルな夢見ちゃって……」
 原因はそれしか考えられない。
 現実と夢の区別がつかなかったほどの生々しさが、いまだに梨緒子の脳裏に焼きついている。
 しかし、それを口で説明するのはとてつもなく難しい。

「あ、梨緒ちゃんそれ、初夢じゃない?」
「初夢って、元旦の夜に見るやつじゃなかったっけ?」
「新年明けて最初に見た夢なら、初夢でいいんじゃない? それより、リアルって何? 永瀬くんが出てきたりした?」
「うん。秀平くんが出てきてくれたのは、とっても嬉しいんだけどね……内容がちょっと」
「どういうこと?」
「夢っぽくないっていうか、すごく生々しかった。夢見てるときはそれもありなのかなって思っちゃってたけど、起きて冷静に思い返してみるとね、秀平くんに限ってそれはないよねー、って」
「具体的にどんな夢だったの」
 親友はさらりと尋ねてくる。
 梨緒子は困惑した。具体的にと問われても、答えに困る。
「えっと…………なんか――激しく迫られるっぽい、感じの」
 その原因となったであろう、類との『キス事故』のくだりは、当然省く。

 ――絶対に言えない、美月ちゃんには。

 これ以上深く聞かれないことを、梨緒子はとにかく願った。

 そこへタイミングよく、注文の品が運ばれてきた。
 梨緒子は夢の内容を説明するのを止めた。さすがに店員に聞かれるのは抵抗がある。
 テーブルの上にすべて並べられると、店員は一礼してその場を静かに去っていった。

 美月はさっそく、チョコパフェの生クリームを長い柄のスプーンですくい、それを口に含んだ。疲れた身体に程よい甘さが染み渡るのか、美月は顔をほころばせている。
 話がそれた――梨緒子は安堵して、ミルクたっぷりの温かいカフェオレのカップに手を伸ばし、ゆっくりと口をつけた。
 そのときである。
「梨緒ちゃん、ひょっとして欲求不満なんじゃない?」
 梨緒子はカフェオレを噴き出した。
「よっ、欲求不満!?」
 軽くむせながら、親友の顔をじっと見つめる。
 美月はチョコレートアイスにスプーンを入れながら、梨緒子を冷やかした。
「永瀬くんにそうしてもらいたいって、心のどこかで思ってるんだよ。まあ、遠距離なんだから仕方ないけどねー」
「別に私はそんな激しく迫られたいだなんて思ってない。全然思ってないって! そんなそんな、秀平くんにあんなことされちゃったら……」
 梨緒子の異様なまでの取り乱し方に、美月は目を丸くしている。
「あ、そうだ。初夢って正夢になるんじゃなかったっけ? あるんじゃない? 永瀬くんとのラブラブが、実際に」
「美月ちゃん! 止めてよ、もう!」
 梨緒子は恥ずかしさを隠すように、イチゴタルトにフォークを何度も突き刺した。


 その日の夜――。
 梨緒子は自分の部屋で、戦利品である福袋の中身を床じゅうに広げ、一つ一つ吟味していた。
 午後九時を過ぎた頃になって、センターテーブルの上に出してあった梨緒子の携帯電話が鳴り出した。
 掛けてきた相手の名前がディスプレイに表示される。梨緒子の彼氏・永瀬秀平である。
 秀平は、季節の行事やイベントにほとんど関心を示さない人間であるため、年が明けてすぐに電話やメールをしてこないだろうと、梨緒子は思っていた。
 期待していなかった分、その喜びは大きい。
 梨緒子はすぐに電話に出た。
 すぐに、優しく懐かしい低音が、梨緒子の耳に流れてくる。

『明けましておめでとう、梨緒子』
「うん。秀平くんも、明けましておめでとう」
 梨緒子は携帯電話を耳に当てたまま、足の踏み場のない状態の床からベッドの上へと移動した。
 掛け布団の上にそのまま座り、大きなクッションを抱き締めリラックスしながら、秀平と話を続ける。
「秀平くん、今は札幌? 美瑛?」
『美瑛にいる。別荘じゃなくて、叔父さんたちの自宅だけど。明日はうちの両親と札幌に戻るよ』
 その説明がどことなくくすぐったい。いろいろな風景が目の前に浮かんでくる。

 付き合い始めてかれこれ二年四ヶ月。遠距離となってからもすでに一年十ヶ月という歳月を経ている。
 付き合い始めた頃から比べたら、彼との仲は思い描いていた以上に深まりそして――いまでは離れていても、彼がどこで何をしているか、梨緒子にはよく分かる。
 それは秀平が、梨緒子にだけはちゃんと分かるようにいろいろと考えて、知らせてくれているからである。
 梨緒子はもう、彼のいろいろなことを知っている。
 もちろん、それはすべてではないが――確実に、彼女でなければ知り得ないものを手にしていると、梨緒子自身も感じている。

 二人の他愛もない内容の電話は、淡々と続いていく。
「秀平くんは成人式、出ないんだよね」
『今のところ、予定には入れてない。梨緒子、振袖着るの?』
「うん、着るよ」
『じゃあその写真、送って』
 意外な反応だ。
「あ、興味ある?」
『まあ、それなりに』
 言葉はそっけないが、秀平が興味がないものには見向きもしない性質であることを、梨緒子はよく知っている。
 秀平の言う『それなり』は、普通の人間の『かなり』と、ほぼ同位とみていい。
 梨緒子は嬉しい気持ちを抑えながら、了承の旨を伝えた。

 成人式まで十日あまり――これから気合を入れて全身のお手入れをしなければならない。
 最高のコンディションで写真を撮って、何が何でも彼に「カワイイ」「キレイ」「惚れ直した」と言わせたい――梨緒子は密かに心に決めた。

 その会話の流れで、梨緒子はふと、あることを思い出した。
「あ、そうだ。私ね、成人式のあと、クラス会に行ってくる」
『クラス会?』
 秀平の語調が幾分変化したのを、梨緒子は聞き逃さなかった。

 ――ま、まずいかも。

 梨緒子は、慌てて取り繕うように説明をした。
「高校の……秀平くんにも連絡行ってるでしょ?」
『案内は来てたけど、俺はそもそもそっち帰る予定ないし。それよりどうして梨緒子は行くの? 別に行く必要ないだろ』
 あっさりと反対されてしまった。しかも、完全に説教モードに入っている。
 梨緒子は深々とため息をついた。
「久しぶりに成人式に帰ってくる友達もいるし……いま会わないと今度いつ会えるか分からないし」
 もちろん秀平の言いたいことは、手にとるように分かる。
 もしそれが女の子たちだけの集まりなら、きっと秀平はここまで渋ったりしないはずだ。
 しかし、知らない男ならまだしも、クラス会に集まるのは元同級生たちだ。当然、秀平も知っているはずの面々である。

 秀平は電話の向こうで黙り込んでいる。
 その重苦しい雰囲気に耐えかねて、梨緒子はもう一度、説得を試みる。
「ねえ、秀平くん――」
『分かったよ。好きにすればいいだろ』
 それは、「好きなようにしてもいい」ではなく、「勝手にしろ」という意味であることは、彼の口調からハッキリと聞いて取れる。
「もう。どうしてそう投げやりになるかなー」
 彼の独占欲と嫉妬深さが並大抵のものではないことは、梨緒子も理解しているつもりだ。
 ただ秀平の場合、突然怒るか、完全黙るか――その反応があまりにも極端なのである。
 このままで行くと、今回は『完全黙る』パターンとなりそうである。

 しかし、梨緒子の予想に反して、秀平は落ち着いた声で淡々と付け加えた。
『その代わり、ちゃんと約束して』
「約束? なあに?」
『必要以上に他の男と話をしないこと。簡単に誘いにのらないこと』
 約束と銘打って秀平に念を押されなくても、梨緒子が当然守るべき内容である。
 さらに秀平は続けた。
『あと――』
「あと、何?」
『安藤に、絶対近づかないこと』
 驚きのあまり、すぐに言葉が出てこない。
 彼の口から元彼・安藤類のことを、ここまでハッキリと言われたことは、遠距離恋愛となってから一度もなかった。
「な…………何で」
『何でって聞くほうがおかしいだろ』
 反応に、困った。
 梨緒子が黙ってしまうと、秀平はあくまで淡々とした口調で言い切った。
『……思っていることはためないでその都度言えって、梨緒子が言ったんだろ』
「そう――だけど」

 それは、夏の日の大喧嘩となった出来事――。
 どこまでも頑固で、自分からは決して折れることができない彼が、「もうしません」と、初めて梨緒子に謝った。
 それは「思っていることはため込まないでそのときに伝える」という、たったそれだけのことなのだが、それは彼が最も苦手としていることでもあった。
 つまり。
 いまの彼の発言は、ちゃんと反省をして彼なりに努力をしているからこそ――ということなのだろう。
 だから彼は、ここまではっきりと言うのだ。
 梨緒子はすっかり反論する気を失くしてしまった。
 秀平がそうして欲しくないということは、絶対にしたくないのである。

 梨緒子がおとなしくなると、秀平はいくぶん語調を緩めた。
『梨緒子のことは信じてるけど、強引に誘われて断れずにずるずる――なんて、最悪のシナリオは見たくないから』
 そのひと言に、梨緒子の心臓は縮み上がった。

 強引に誘われて。
 断れずにずるずると――。

 そんな最悪のシナリオに、心当たりがある。

【この前、安藤とキスしただろ】
 夢の中での秀平の言葉が鮮明に蘇ってくる。

 どうしよう。
 どうしよう。

【安藤に、絶対近づかないこと】

 私は秀平くんじゃなくちゃ駄目。
 本当に、秀平くんじゃなくちゃ駄目なのに。

【梨緒子、愛してるって言って】

 これは夢?
 それとも現実?

 夢の中での秀平の声と、受話器越しに聞こえてくる秀平の声が、梨緒子の中で重なり合っていく。
 どちらが本物で、どちらが偽物か――分からない。
 頭の中が、ぐるぐると渦を巻いている。

「あのね、秀平くん」
『何?』
 梨緒子は大きく息を吸い込み、ありったけの勇気を振り絞って、たったひと言の想いを告げた。
 夢の中で、彼に伝えられなかった言葉。

「――愛してる」

 長い長い沈黙が、二人の間に流れていく。
 やはり、現実の彼はこんなものなのだ。
 それにしても。
「もう。黙ることないでしょ?」
 しかし、いつまで経っても、彼からの返事はない。
 梨緒子は首を傾げつつ、携帯をピッタリと耳につけて、耳を澄ました。
 遠くのほうで誰かが言葉を交わしているような声が聞こえている。

 突然、その音は明瞭になった。
『ああ、ゴメン。呼んでるから切る。それじゃまた』
 梨緒子の返事もそこそこに、あっけなく通話は途切れてしまった。
 どうやら秀平は誰かに呼ばれ、その内容が聞こえないように携帯をふさいで話をしていたらしい。
 つまり。

 ――秀平くんってば、さっきの聞いてなかったってこと?

 初夢が正夢となるという美月の言葉は、どうやら当たることはなさそうである。
 ふと梨緒子は、当たることをちょっと期待していたことに気づき、こみ上げてきた恥ずかしさをかき消すよう、ベッドの上で一人激しく首を振った。