Lesson 5 恋初めし君と (6)
梨緒子は永瀬家をあとにし、ゆっくりと自宅への道のりを歩いていた。
秀平は当然のように、梨緒子を自宅まで送り届けるために、並んでゆっくりと歩いている。
午後八時を過ぎている。辺りは真っ暗だ。閑静な住宅街のため、人通りはほとんどない。
今日一日でいろいろなことがあり過ぎて、梨緒子は心も体も疲弊しきっていた。
お昼には振袖を着て成人式に出ていたのが、もう何日も前のことのように思えてしまう。
成人式のあと、着替えてクラス会へと出て、そこへ何の前触れもなく、突然秀平が現れた。
そして、なぜか彼の両親に挨拶をすることになり――。
梨緒子は、まったく心の準備ができていなかったのである。
上手く対応できないのは、仕方のないことなのだが――梨緒子は秀平の横で、何度目かの大きなため息をついた。
秀平は静かだ。黙ったまま、梨緒子の歩調に合わせてゆっくりと歩いている。
梨緒子は並んで歩く秀平に、ポツリと呟くように語りかけた。
「秀平くんのお父さん、私のこと……気に入ってなかったみたい」
「そんなことないと思うけど」
暗闇の中、秀平の声がさらりと返ってくる。
しかし、いまの梨緒子にとっては、何の慰めにもならない。
梨緒子はもう一度、大きくため息をついた。
「秀平くんが席外してたときに少し質問されたけど、そのあとほとんど黙ってて何も聞かれなくなっちゃったし……自己紹介もろくにさせてもらえなかった」
何度思い返してみても、秀平の父から自分の事を尋ねられた記憶がない。
あの場では秀平もほとんど喋ろうとはせず、梨緒子を紹介するようなことは一切、口にしていなかった。
もちろん今回の挨拶は、結婚の報告などという大袈裟なものではない。
彼の両親が、自分たちの息子がどういう相手と交際しているのか、一度顔を見てみたかった――それだけのことだ。
ただ、実際に会った彼の両親の反応は、梨緒子にはどうとらえてよいのか、いまひとつ掴みきれないものだった。
二人並んで歩きながら、やがて梨緒子が黙ってしまうと、秀平は梨緒子のほうへと顔を向け、数度首を横に振ってみせた。
「梨緒子のことは、兄貴からこと細かく聞き出してたみたいだから。聞く必要がなかっただけじゃないの」
「こと……細かく?」
うん――と、秀平は夜空の星を仰ぎ、天に向かって白いため息を吐き出した。
「書斎の机の上に、まるで探偵の調査報告書みたいなのが置いてあったし。梨緒子のこれまでの経歴、現在の状況、外見の特徴、住所、電話番号、家族構成、すべて書いてあった」
「ええ? 嘘?」
「本当だよ。それに、何も聞かなかったってことは、むしろ気に入った証拠だと思う」
「そうなの?」
そうだよ、と秀平は言った。
そしてそっと、梨緒子の手を掴み、自然に指を絡めるようにして、もどかしげに手を繋ぐ。
無口で不器用な彼の手は、多彩な感情を表現している――指先から伝わるその温もりから、梨緒子はふとそんなことを思った。
二人はあっという間に、梨緒子の家のすぐ近くまでたどり着いた。
梨緒子の自宅の少し手前に、車が通り抜けることのできない細く斜めにのびた路地がある。秀平と梨緒子はその路地へ数歩入り、やがて立ち止まった。
この場所は、この先に住む住人以外、誰も通りかかることはない。その上、路地はカーブしているため、表の通りからもほぼ目につかない「死角」となっている。
カップルの別れの儀式には、好都合な場所だ。
束の間の二人の時間も、これで終わりだ。
彼はまた、自分の元から遠くはなれたところへ一人、旅立ってしまう。
梨緒子は念のため、辺りに誰もいないのを確認し、ゆっくりと秀平と向かい合った。
「明日、何時の飛行機? 見送りに行くよ」
「わざわざ来なくていいよ。朝早いし」
明日は祝日だ。学校が休みのため、授業をサボることにはならない。
しかし秀平は、見送り不要――と頑なに梨緒子の申し出を拒む。
「あ、そうだ。梨緒子」
「なあに?」
「この間のアレ、何?」
「アレって?」
「電話で、最後に言ってたこと」
――最後って、ひょっとして?
梨緒子は動揺した。恥ずかしさのあまり頭に血が上り、顔がどんどん火照っていくのが分かる。
辺りは暗いため、秀平に赤くなった顔を見られることはないのが、せめてもの救いだ。
「あ……あ、あれはその……というか秀平くん、聞こえてたの?」
「聴力は悪くないから」
「じゃあ、何で返事してくれなかったの?」
「状況がイマイチ飲み込めなかったから。唐突にあんなこと言われても。いったい何だったの?」
動揺を隠し切れず一人焦る梨緒子とは対照的に、秀平はあくまでも淡々とした口調で問いただしてくる。
困った。
しかし、誤魔化しきれる雰囲気ではない。
上手い言い訳も思いつかない。
梨緒子はためらいつつも、その経緯を正直に話した。
「初夢でね、秀平くんが私に『愛してるって言って』って、そう言ってたの! だから……」
「え――」
秀平は珍しく、面食らったような表情を梨緒子に見せた。
彼の心を動かすだけの効果があったらしい。
しかし。
秀平はあっさりと切り捨てて、首を横に振ってみせた。
「あり得ない」
「そ、それは私だって、秀平くんがそんなこと言うなんてあり得ないかなとも思ったけど、でも――」
「そうじゃなくて」
梨緒子の必死の説明を、秀平は遮った。
「そうじゃない?」
「俺が言う言わないの前に、夢と現実の区別がついてないって事のほうが、問題なんじゃないの?」
「だって……」
完全に呆れている。
秀平はいったん説教を始めると、言いたいことをすべて言い切らないと済まない性分だ。普段口数が少ない分、その勢いは並大抵のものではない。
「『夢見る乙女』なんて比喩が、比喩でなくなってる。成人式迎えておいて、乙女はないだろ」
「私は誕生日まだだから、まだ十代だもん! 乙女でもいいの!」
「『乙女』という言葉にはいくつかの意味がある。その中の一つを参照すると、梨緒子はもう乙女じゃなくなってるんだから」
「そうなの? それって、どういう意味?」
秀平の勢いが、ぴたりと止まった。
特に言い負かしたつもりはなかったのだが――梨緒子は首を傾げた。そして、ゆっくりと秀平の言葉を待つ。
やがて根負けしたのか、秀平は渋々口を開いた。
「……あとで、自分で辞書で調べたら」
「そんな、もったいぶらないで教えて?」
しかし、秀平は口を割ろうとしない。
辞書を調べれば分かるというのであれば、ここでしつこく詮索するのは得策ではない――梨緒子は素直に引き下がった。
すると秀平はどこか安堵したように、大きなため息をひとつついた。
「とにかく、梨緒子の夢の中で俺が何を言ったか知らないけど、それを前提に話しかけられても、どう答えていいか分からないから」
「もう……そんな言い方しなくたって。もういい、それじゃ」
梨緒子は踵を返し、秀平に背を向けてその場を離れた。
――こんなはずじゃないのに。
【梨緒ちゃん、ひょっとして欲求不満なんじゃない?】
美月の言葉が、梨緒子の脳裏に蘇ってくる。
そう。
心のどこかで、やはり期待をしている自分がいる。
【永瀬くんにそうしてもらいたいって、心のどこかで思ってるんだよ】
違う。そんなの嘘。
期待なんかしていない。彼からの誘いを待ってはいない。
夢と現実との間には、大きな大きな隔たりがある。
数歩も前に進まないうちに、梨緒子は背後から腕を掴まれた。
引き止められた嬉しさが、彼の手にしっかりと掴まれた腕を通して、梨緒子の身体中を駆け巡っていく。
――つかまえて欲しい。抱き締めて欲しい。
梨緒子が向きを変えると、梨緒子はおもむろに秀平に抱き寄せられた。
彼の片腕は、しっかりと梨緒子の背中を支えている。
秀平は空いているもう片方の手の人差し指を唇に当て、声を出さないように、と梨緒子に牽制をかけた。
お互いの鼓動が、どんどん高まっていき、そして。
「取り合えず、その返事。―― Love you, too.」
二人の間を、白い息がゆっくりと立ち上っていく。
やがて、二つの影がゆっくりと重なり合い、一つとなった。
この感触だけで、梨緒子は彼のすべてを許してしまった。
彼の気持ちは分かっている。
それを上手く伝えられないことも、梨緒子は理解している。
しかし、半年ぶりのキスは、あまりにも短かった。
秀平は、あっさりと梨緒子の身体を放してしまったのである。
満たしきれない渇きばかりが、中途半端な余韻とともに残されてしまう。
「イヤ――も……っと」
梨緒子は秀平の胸にすがりつくき、思わず口走ってしまった。
同時に耳に届く、彼の深いため息とともに吐き出される言葉――。
「そんなこと言われても、困るんだけど」
梨緒子は思わず自分の耳を疑った。
「困る? どうして? だって、半年ぶりなんだよ? 半年分で、それだけ?」
そう。
夢の中では半年ぶりだからと、息継ぎもままならないほどにキスを求めてきた秀平だったが――しかし、というかやはり。
「それって量の問題? 今ここで半年分すればいいの? 一日一回として、一回につき三十秒かかるとして、半年で約百八十日だから、五千四百秒。分に換算して九十分。つまり、一時間半もかかることになるけど」
彼の口から、小難しい説明が矢継ぎ早に繰り出される。頭脳明晰である彼らしい答えだ。
秀平は、梨緒子が足元にも及ばないほど、基礎学力が高いのである。本気を出されてしまっては、まるで歯が立たない。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
実際に一時間半もの間、キスを続けていられるかどうかは疑問だが、いま逃すと、この次の機会がいつめぐって来るのか分からない。
梨緒子はもう一度、周囲を見回した。人の気配はない。
「誰も、来ないよ?」
「……あのさ」
「なあに?」
「おなかがものすごく空いてるときに、美味しそうな料理を目の前に出されて、香りだけ楽しんであとはお預けってのと一緒。分かる? 料理を見せられるだけなら我慢できても、香りをかがせられたら我慢がきかなくなるだろ」
その例えが意味するものを、梨緒子は慎重に探っていく。
「中途半端がいちばん困るんだよ。半年ぶりなら尚更――」
おなかがものすごく空いてる――それは秀平。
美味しそうな料理を目の前に――それは、自分。
――中途半端がいちばん困るって、つまり。
相変わらずの秀平の直球に、梨緒子はどう反応したらいいのか途惑った。
この先の展開に、期待と不安と妄想とがどんどん膨らんでいく。
いちいち恥ずかしがらなければならない関係ではなくなっているはずなのだが、ブランクがあり過ぎるためどうにも慣れることができない。
どうする?
私はどうしたらいい?
迷っている時間は、ない。
梨緒子は秀平の胸にすがりついたまま大きく深呼吸をし、ゆっくりと彼の顔を見上げた。
そして、ありったけの勇気を振り絞り、必死に言葉を紡いでいく。
「美味しそうな料理は、我慢しないで食べて欲しい――かも」
黙った。
秀平は静かに梨緒子を見下ろし、穏やかな呼吸を繰り返している。
「まさか……梨緒子がそんなこと言うなんて思わなかった」
「だ、だ……って。そんなことかもしれないけど、私は秀平くんにお願いするしかないんだから……」
秀平が固まった。
呆れているのか途惑っているのか――その両方なのかもしれない。
どんどん深みに嵌っていく。
梨緒子は慌てて弁解をした。
「あ、えっと、違うの! お願いって言っても別に、いまそうしたいって意味じゃなくてね、何ていうかもっと広い意味で、私にとって秀平くんがそういうポジションにいるっていうか、だからその……」
「そうだな。俺が『乙女』じゃなくした張本人なんだし――ちゃんとお願いは聞いてやらないと、いけないんだよな」
今度は梨緒子が固まった。
なにやら凄いことを、さらりと言われてしまったような気がする。
つまり――。
「さ、さっきの『乙女』って、そういう意味!?」
梨緒子の声が裏返った。
どんどん顔が火照っていく。
一方の秀平は、あくまで淡々としたまま、穏やかに梨緒子を説いた。
「ただ、いまはその条件が揃ってない。せっかく好きなものを食べるなら、ちゃんとセッティングされたテーブルで、落ち着いた雰囲気で行儀良く、がいい。だから『もっと』は、今日は我慢」
梨緒子は頷いた。そして、すがっていた秀平の胸からようやく離れる。
「私、二月になったら、札幌に行こうかな」
「来月? そう」
秀平はそのまま黙った。
嬉しそうな顔も、迷惑そうな顔もしていない。
「週末に一泊の予定で――駄目?」
梨緒子はじっと待った。
すると。
「空港まで、車で迎えに行くよ」
「うん。よろしくお願いします」
梨緒子が素直に甘えてみせると、秀平はようやく表情を崩し、ひと言『了解』と告げた。
梨緒子は家の前で、帰っていく秀平を見送った。
どんどん彼の背中が小さくなっていく。やがて角を曲がっていき、完全に姿は見えなくなった。
不思議と寂しさはない。
そう。
いましかない、ということはないのだ。
彼はこの先もこうして、自分の側にいてくれるだろう――確かな約束はなくても、いまの梨緒子には『信頼』という名の安心感に包まれている。
梨緒子はすでに彼の一部であり、そしてまた彼も、梨緒子の一部であるのだから。
秀平は当然のように、梨緒子を自宅まで送り届けるために、並んでゆっくりと歩いている。
午後八時を過ぎている。辺りは真っ暗だ。閑静な住宅街のため、人通りはほとんどない。
今日一日でいろいろなことがあり過ぎて、梨緒子は心も体も疲弊しきっていた。
お昼には振袖を着て成人式に出ていたのが、もう何日も前のことのように思えてしまう。
成人式のあと、着替えてクラス会へと出て、そこへ何の前触れもなく、突然秀平が現れた。
そして、なぜか彼の両親に挨拶をすることになり――。
梨緒子は、まったく心の準備ができていなかったのである。
上手く対応できないのは、仕方のないことなのだが――梨緒子は秀平の横で、何度目かの大きなため息をついた。
秀平は静かだ。黙ったまま、梨緒子の歩調に合わせてゆっくりと歩いている。
梨緒子は並んで歩く秀平に、ポツリと呟くように語りかけた。
「秀平くんのお父さん、私のこと……気に入ってなかったみたい」
「そんなことないと思うけど」
暗闇の中、秀平の声がさらりと返ってくる。
しかし、いまの梨緒子にとっては、何の慰めにもならない。
梨緒子はもう一度、大きくため息をついた。
「秀平くんが席外してたときに少し質問されたけど、そのあとほとんど黙ってて何も聞かれなくなっちゃったし……自己紹介もろくにさせてもらえなかった」
何度思い返してみても、秀平の父から自分の事を尋ねられた記憶がない。
あの場では秀平もほとんど喋ろうとはせず、梨緒子を紹介するようなことは一切、口にしていなかった。
もちろん今回の挨拶は、結婚の報告などという大袈裟なものではない。
彼の両親が、自分たちの息子がどういう相手と交際しているのか、一度顔を見てみたかった――それだけのことだ。
ただ、実際に会った彼の両親の反応は、梨緒子にはどうとらえてよいのか、いまひとつ掴みきれないものだった。
二人並んで歩きながら、やがて梨緒子が黙ってしまうと、秀平は梨緒子のほうへと顔を向け、数度首を横に振ってみせた。
「梨緒子のことは、兄貴からこと細かく聞き出してたみたいだから。聞く必要がなかっただけじゃないの」
「こと……細かく?」
うん――と、秀平は夜空の星を仰ぎ、天に向かって白いため息を吐き出した。
「書斎の机の上に、まるで探偵の調査報告書みたいなのが置いてあったし。梨緒子のこれまでの経歴、現在の状況、外見の特徴、住所、電話番号、家族構成、すべて書いてあった」
「ええ? 嘘?」
「本当だよ。それに、何も聞かなかったってことは、むしろ気に入った証拠だと思う」
「そうなの?」
そうだよ、と秀平は言った。
そしてそっと、梨緒子の手を掴み、自然に指を絡めるようにして、もどかしげに手を繋ぐ。
無口で不器用な彼の手は、多彩な感情を表現している――指先から伝わるその温もりから、梨緒子はふとそんなことを思った。
二人はあっという間に、梨緒子の家のすぐ近くまでたどり着いた。
梨緒子の自宅の少し手前に、車が通り抜けることのできない細く斜めにのびた路地がある。秀平と梨緒子はその路地へ数歩入り、やがて立ち止まった。
この場所は、この先に住む住人以外、誰も通りかかることはない。その上、路地はカーブしているため、表の通りからもほぼ目につかない「死角」となっている。
カップルの別れの儀式には、好都合な場所だ。
束の間の二人の時間も、これで終わりだ。
彼はまた、自分の元から遠くはなれたところへ一人、旅立ってしまう。
梨緒子は念のため、辺りに誰もいないのを確認し、ゆっくりと秀平と向かい合った。
「明日、何時の飛行機? 見送りに行くよ」
「わざわざ来なくていいよ。朝早いし」
明日は祝日だ。学校が休みのため、授業をサボることにはならない。
しかし秀平は、見送り不要――と頑なに梨緒子の申し出を拒む。
「あ、そうだ。梨緒子」
「なあに?」
「この間のアレ、何?」
「アレって?」
「電話で、最後に言ってたこと」
――最後って、ひょっとして?
梨緒子は動揺した。恥ずかしさのあまり頭に血が上り、顔がどんどん火照っていくのが分かる。
辺りは暗いため、秀平に赤くなった顔を見られることはないのが、せめてもの救いだ。
「あ……あ、あれはその……というか秀平くん、聞こえてたの?」
「聴力は悪くないから」
「じゃあ、何で返事してくれなかったの?」
「状況がイマイチ飲み込めなかったから。唐突にあんなこと言われても。いったい何だったの?」
動揺を隠し切れず一人焦る梨緒子とは対照的に、秀平はあくまでも淡々とした口調で問いただしてくる。
困った。
しかし、誤魔化しきれる雰囲気ではない。
上手い言い訳も思いつかない。
梨緒子はためらいつつも、その経緯を正直に話した。
「初夢でね、秀平くんが私に『愛してるって言って』って、そう言ってたの! だから……」
「え――」
秀平は珍しく、面食らったような表情を梨緒子に見せた。
彼の心を動かすだけの効果があったらしい。
しかし。
秀平はあっさりと切り捨てて、首を横に振ってみせた。
「あり得ない」
「そ、それは私だって、秀平くんがそんなこと言うなんてあり得ないかなとも思ったけど、でも――」
「そうじゃなくて」
梨緒子の必死の説明を、秀平は遮った。
「そうじゃない?」
「俺が言う言わないの前に、夢と現実の区別がついてないって事のほうが、問題なんじゃないの?」
「だって……」
完全に呆れている。
秀平はいったん説教を始めると、言いたいことをすべて言い切らないと済まない性分だ。普段口数が少ない分、その勢いは並大抵のものではない。
「『夢見る乙女』なんて比喩が、比喩でなくなってる。成人式迎えておいて、乙女はないだろ」
「私は誕生日まだだから、まだ十代だもん! 乙女でもいいの!」
「『乙女』という言葉にはいくつかの意味がある。その中の一つを参照すると、梨緒子はもう乙女じゃなくなってるんだから」
「そうなの? それって、どういう意味?」
秀平の勢いが、ぴたりと止まった。
特に言い負かしたつもりはなかったのだが――梨緒子は首を傾げた。そして、ゆっくりと秀平の言葉を待つ。
やがて根負けしたのか、秀平は渋々口を開いた。
「……あとで、自分で辞書で調べたら」
「そんな、もったいぶらないで教えて?」
しかし、秀平は口を割ろうとしない。
辞書を調べれば分かるというのであれば、ここでしつこく詮索するのは得策ではない――梨緒子は素直に引き下がった。
すると秀平はどこか安堵したように、大きなため息をひとつついた。
「とにかく、梨緒子の夢の中で俺が何を言ったか知らないけど、それを前提に話しかけられても、どう答えていいか分からないから」
「もう……そんな言い方しなくたって。もういい、それじゃ」
梨緒子は踵を返し、秀平に背を向けてその場を離れた。
――こんなはずじゃないのに。
【梨緒ちゃん、ひょっとして欲求不満なんじゃない?】
美月の言葉が、梨緒子の脳裏に蘇ってくる。
そう。
心のどこかで、やはり期待をしている自分がいる。
【永瀬くんにそうしてもらいたいって、心のどこかで思ってるんだよ】
違う。そんなの嘘。
期待なんかしていない。彼からの誘いを待ってはいない。
夢と現実との間には、大きな大きな隔たりがある。
数歩も前に進まないうちに、梨緒子は背後から腕を掴まれた。
引き止められた嬉しさが、彼の手にしっかりと掴まれた腕を通して、梨緒子の身体中を駆け巡っていく。
――つかまえて欲しい。抱き締めて欲しい。
梨緒子が向きを変えると、梨緒子はおもむろに秀平に抱き寄せられた。
彼の片腕は、しっかりと梨緒子の背中を支えている。
秀平は空いているもう片方の手の人差し指を唇に当て、声を出さないように、と梨緒子に牽制をかけた。
お互いの鼓動が、どんどん高まっていき、そして。
「取り合えず、その返事。―― Love you, too.」
二人の間を、白い息がゆっくりと立ち上っていく。
やがて、二つの影がゆっくりと重なり合い、一つとなった。
この感触だけで、梨緒子は彼のすべてを許してしまった。
彼の気持ちは分かっている。
それを上手く伝えられないことも、梨緒子は理解している。
しかし、半年ぶりのキスは、あまりにも短かった。
秀平は、あっさりと梨緒子の身体を放してしまったのである。
満たしきれない渇きばかりが、中途半端な余韻とともに残されてしまう。
「イヤ――も……っと」
梨緒子は秀平の胸にすがりつくき、思わず口走ってしまった。
同時に耳に届く、彼の深いため息とともに吐き出される言葉――。
「そんなこと言われても、困るんだけど」
梨緒子は思わず自分の耳を疑った。
「困る? どうして? だって、半年ぶりなんだよ? 半年分で、それだけ?」
そう。
夢の中では半年ぶりだからと、息継ぎもままならないほどにキスを求めてきた秀平だったが――しかし、というかやはり。
「それって量の問題? 今ここで半年分すればいいの? 一日一回として、一回につき三十秒かかるとして、半年で約百八十日だから、五千四百秒。分に換算して九十分。つまり、一時間半もかかることになるけど」
彼の口から、小難しい説明が矢継ぎ早に繰り出される。頭脳明晰である彼らしい答えだ。
秀平は、梨緒子が足元にも及ばないほど、基礎学力が高いのである。本気を出されてしまっては、まるで歯が立たない。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
実際に一時間半もの間、キスを続けていられるかどうかは疑問だが、いま逃すと、この次の機会がいつめぐって来るのか分からない。
梨緒子はもう一度、周囲を見回した。人の気配はない。
「誰も、来ないよ?」
「……あのさ」
「なあに?」
「おなかがものすごく空いてるときに、美味しそうな料理を目の前に出されて、香りだけ楽しんであとはお預けってのと一緒。分かる? 料理を見せられるだけなら我慢できても、香りをかがせられたら我慢がきかなくなるだろ」
その例えが意味するものを、梨緒子は慎重に探っていく。
「中途半端がいちばん困るんだよ。半年ぶりなら尚更――」
おなかがものすごく空いてる――それは秀平。
美味しそうな料理を目の前に――それは、自分。
――中途半端がいちばん困るって、つまり。
相変わらずの秀平の直球に、梨緒子はどう反応したらいいのか途惑った。
この先の展開に、期待と不安と妄想とがどんどん膨らんでいく。
いちいち恥ずかしがらなければならない関係ではなくなっているはずなのだが、ブランクがあり過ぎるためどうにも慣れることができない。
どうする?
私はどうしたらいい?
迷っている時間は、ない。
梨緒子は秀平の胸にすがりついたまま大きく深呼吸をし、ゆっくりと彼の顔を見上げた。
そして、ありったけの勇気を振り絞り、必死に言葉を紡いでいく。
「美味しそうな料理は、我慢しないで食べて欲しい――かも」
黙った。
秀平は静かに梨緒子を見下ろし、穏やかな呼吸を繰り返している。
「まさか……梨緒子がそんなこと言うなんて思わなかった」
「だ、だ……って。そんなことかもしれないけど、私は秀平くんにお願いするしかないんだから……」
秀平が固まった。
呆れているのか途惑っているのか――その両方なのかもしれない。
どんどん深みに嵌っていく。
梨緒子は慌てて弁解をした。
「あ、えっと、違うの! お願いって言っても別に、いまそうしたいって意味じゃなくてね、何ていうかもっと広い意味で、私にとって秀平くんがそういうポジションにいるっていうか、だからその……」
「そうだな。俺が『乙女』じゃなくした張本人なんだし――ちゃんとお願いは聞いてやらないと、いけないんだよな」
今度は梨緒子が固まった。
なにやら凄いことを、さらりと言われてしまったような気がする。
つまり――。
「さ、さっきの『乙女』って、そういう意味!?」
梨緒子の声が裏返った。
どんどん顔が火照っていく。
一方の秀平は、あくまで淡々としたまま、穏やかに梨緒子を説いた。
「ただ、いまはその条件が揃ってない。せっかく好きなものを食べるなら、ちゃんとセッティングされたテーブルで、落ち着いた雰囲気で行儀良く、がいい。だから『もっと』は、今日は我慢」
梨緒子は頷いた。そして、すがっていた秀平の胸からようやく離れる。
「私、二月になったら、札幌に行こうかな」
「来月? そう」
秀平はそのまま黙った。
嬉しそうな顔も、迷惑そうな顔もしていない。
「週末に一泊の予定で――駄目?」
梨緒子はじっと待った。
すると。
「空港まで、車で迎えに行くよ」
「うん。よろしくお願いします」
梨緒子が素直に甘えてみせると、秀平はようやく表情を崩し、ひと言『了解』と告げた。
梨緒子は家の前で、帰っていく秀平を見送った。
どんどん彼の背中が小さくなっていく。やがて角を曲がっていき、完全に姿は見えなくなった。
不思議と寂しさはない。
そう。
いましかない、ということはないのだ。
彼はこの先もこうして、自分の側にいてくれるだろう――確かな約束はなくても、いまの梨緒子には『信頼』という名の安心感に包まれている。
梨緒子はすでに彼の一部であり、そしてまた彼も、梨緒子の一部であるのだから。
(了)