Lesson 5  恋初めし君と (5)

 これまで秀平は、梨緒子に両親の話をしたことが一度もなかった。
 梨緒子が知っている数少ない情報は、高校時代に家庭教師だった彼の兄から聞いたものばかりだ。

 梨緒子が秀平の両親と顔を合わせるのは、これが初めてだった。
 玄関先で出迎えた人懐っこい笑顔の女性は、秀平の母親だ。
 不思議と初めて会ったような感覚はない。
 そう。
 彼の兄・優作に、とても良く似ている。

 ――ということは。

「寒かったでしょう? 突然ごめんなさいね。うちの人、一度言い出すと聞かないのよ。この子とおんなじで」
「一緒にするなよ」
 秀平はコートを脱いで片手に携えると、空いたもう片方の手を梨緒子のほうへと差し出した。
 言葉はない。
 梨緒子は慌てて自分の着ていたコートを脱ぐと、それを秀平の片手に預けた。
 秀平はそれをまとめて、目の前の母親に渡す。
 母は二人分のコートを胸に抱え、初めて見る息子の彼女を前に、はやる気持ちを抑えられなくなっているようだ。
「あのあとこっちへ帰ってから、ニイから説明されたの。ニイの教え子さんだったんでしょ? ひかるちゃんも知ってたみたいだし、知らなかったのは親だけだったなんて、ねえ? チイは小さい頃から、自分のこと話すのが苦手というか――」
「もういいから。玄関先で話し込むことじゃないだろ。行こう、梨緒子」
「あ、そうそう。お茶を用意しなくちゃね」
 母親はお茶を用意するため、キッチンのほうへと消えていった。

 ――『ニイ』はお兄ちゃんで優作先生のことだよね。『チイ』って??

 話の流れからすると、一歩前を進む『彼』のことを指している。
 しかし梨緒子は、その真相を確かめるタイミングを逸してしまった。


 今まで何度かこの家に遊びに来たことがある。そのため、家の間取りも把握しているので、緊張感はいくらか和らいでいる。
 しかし。
 今までと違って、「永瀬兄弟の自宅」ではなく、永瀬家という一つの家庭に、梨緒子が客として招かれているという構図だ。

 秀平はキッチンと一続きになっているリビングルームではなく、梨緒子がいまだ足を踏み入れたことのない、廊下の奥の部屋へと向かった。
 父親の書斎らしい。
 秀平がドアをノックしかける手を、梨緒子は後ろから抱きつくようにして押さえ込んだ。
「秀平くん、待って」
「ビックリした……何?」
 秀平は身体をよじると、梨緒子の腕を振り解いた。
 扉の向こうに、通過儀礼が待ち受けている。
 梨緒子は、もう一度自分の気持ちを確かめるために、彼に尋ねた。
「気に入ってもらえるかな、私」
「俺が選んだんだから――大丈夫」
 あくまで涼しい顔をして、秀平は淡々と言い切った。
 おそらく彼も緊張しているのだろう。梨緒子はそっと秀平の手を握った。
 すると。
 秀平は一瞬だけ、梨緒子に笑顔を造ってみせた。



 梨緒子は応接セットのソファに座っていた男の姿を見て、言葉を失くしてしまった。
 思わず、目の前にある彼氏の横顔と、何度も見比べてしまう。

 ――当然といえば、当然なんだけど……でも。

 優作が母親似で、優作と秀平がまったく似てないのだから、秀平が父親に似ていることは充分予想できた。
 その予想を寸分も裏切らず、秀平の父は精悍な二枚目だった。長身で痩せ型であるところも秀平と同じである。
 一見冷たい印象を与える、憂いを含んだ涼しげな目元、そして知的で物静かなたたずまい。
 秀平の未来の姿が容易に想像できてしまう。

 秀平の父は黙ったまま、自分が座っているソファの向かい側を、片手で指し示した。
 秀平は二人掛けのソファの奥に、梨緒子もその隣に並ぶようにして座った。
 彼の父は、じっと梨緒子を観察するように眺めている。
 一方の秀平も言葉を発しようとしない。挨拶も、梨緒子を紹介する説明もない。
 気の遠くなるような沈黙に包まれる。

 その時である。
 壁の向こうで、食器を床に落としたような派手な物音がした。
 おそらく、キッチンだ。
「見てきなさい」
 ようやく秀平の父が口を開いた。
 秀平は素直に立ち上がると、そのまま無言で出て行ってしまった。

 ――え、嘘。どうしよう……。

 梨緒子は取り残され、秀平の父親と二人きりとなってしまった。
 気まずい沈黙が室内に流れていく。
「江波梨緒子さん」
「は、はい」
「君は秀平のことをどう思っているんだね?」
 唐突にストレートな質問をぶつけられ、梨緒子は途惑った。

 好き。
 愛してる。

 しかしそれを彼の親の前で言うのは、どうにも違和感がある。
 言葉が出てこない。
「あの、私と秀平くんは、高校の同級生で……」
「聞いている。そうではなくて、どういうつもりで秀平と付き合っているのかな」

 ――どういう……って。

「いずれは結婚することも、当然視野に入れているのだろうね」
「け、け、結婚ですか!? えっと、あの……それは」
「どうなんだね。いい加減な気持ちで付き合っているのか?」
「そ、そんなことはないです! あの、秀平くんとは、し、真剣にお付き合いさせてもらっています! でも、あの、けっ、結婚とかまだそんな、私一人でどうこう言えることでは、ないですし、そもそも秀平くんがどう考えているかは、分からないんですが」
「……そんなに緊張しないで欲しいんだが」
 このやり取り。
 梨緒子はどこか懐かしい感覚に包まれた。
 向こうからの一方的な喋りに上手く反応できず、ひたすらとりとめもないことを答えては、ますます泥沼にはまっていく。

 そう。それはまだ秀平と付き合う前――。
 彼と言葉を交わすようになった頃の雰囲気に、とても良く似ている。

 それなら――むしろ扱いに途惑うことはない。
 梨緒子は心を決めて、こちらから話し掛けることにした。
「緊張するというか、あの……お父さんが秀平くんにとても似ていらっしゃるので、驚いてるんです」
「私が?」
 不思議そうにして、両瞳が物憂げにゆっくりと瞬く。
「それは間違っている。私が秀平に似ているのではない。秀平が私に似ているんだ」
「あ……はい」

 ――うわ、そっくりすぎ。

 見た目もさることながら、その喋り方や思考回路が秀平と酷似している。

 そこへようやく、秀平の母親がカップを載せたトレイを持って現れた。
 その後ろには、秀平の姿もある。
 彼が元いた場所に腰を下ろすと、梨緒子はようやく安堵した。
「あなた、面接官じゃないんだから、そんな怖い顔して問い詰めないの」
 妻にたしなめられると、秀平の父はツイと顔をそむけた。
 やはり、似ている。似すぎている。
 図星を指され機嫌を損ねてしまったときの反応も、秀平のものと同じだ。
 梨緒子は、興味深くその様子を観察した。
「ごめんなさいね。若い女の子にまるで免疫がないの、この人」
 そう言って、秀平の母は紅茶のカップを梨緒子の前に差し出してくる。綺麗な彩色が施された、百貨店の食器売り場に一つ一つ飾られているような逸品だ。
 そのあと、夫と息子の前にも同じようにカップを差し出すと、空いたトレイを抱えていそいそと秀平の向かい側のソファに腰掛ける。
「やっぱりチイがいると便利ねー。ティーポット、どこにしまったか分からなくなっちゃって。チイは記憶力がいいから」
 秀平は黙っている。淡々と澄ましたまま、優雅な所作で紅茶のカップに口をつけている。
「何か割ったのか?」
 父は隣に座る妻ではなく、斜め向かいの息子に尋ねた。
「もらい物のスプーンとかフォークのセットの箱、あれをひっくり返したんだよ。物は無事だけど、床には傷がついてた」
「しょうがないな。なんでそんなものを上の棚に置くんだ。重力というものを考えろ」
 父と息子のやり取りを聞き、梨緒子は思わず口を挟んだ。
「そんな……怪我がなくて良かった、が先じゃないんですか?」
 すると。
 室内が水を打ったように静まり返った。

 ――ま、マズい。

「あ、あの、出すぎたことを……すみません」
 完全に場違いの発言をしてしまった――梨緒子は自分の失言を悔いた。
 黙り込む父と息子とは対照的に、母は軽快に笑い飛ばすと、梨緒子を擁護した。
「さすがはニイの教え子さんねー。気にしないで、ウチはいつもこうなの。ほんとにこの親子ときたらねぇ、気難しくて素直じゃなくて一筋縄ではいかなくて……いつもニイに怒られてるのよ、この二人」
「そうなんですか?」
「ニイは社交的で、人並みに女の子とお付き合いとかしてたのに、チイはどうも奥手というか、こういう父親譲りの性格だから、彼女ができてたなんて信じられなくて」
「……秀平にも私にも失礼だろう、それは」
「でも、普通の可愛いお嬢さんで安心したわ。チイもやればできるんじゃないの」

 ――やっぱり『チイ』って秀平くんのことだよね?

 しかし、『ち』のつく要素はどこにもない。
 秀平の『し』ならまだ分かるのだが――。
 梨緒子は思い切って尋ねてみることにした。
「あの……」
「どうしたの?」
「どうして秀平くんは『チイ』なんですか」
「ああ、それはね……」
「いいよ、いちいち説明しなくても」
 秀平は不機嫌そうにして母親に釘を刺すと、梨緒子の質問をあっさり切り捨てた。
 すると。
 妻が同席してからは口数の少なくなった秀平の父が、おもむろに口を開いた。
「由来は、チビすけの『ち』、だ」
「説明するなって言っただろ」
 秀平はすかさず、突き刺すような反応をした。
 父は口を閉ざし、じっと息子の顔を見つめている。
 そしてその遺伝子を色濃く受け継いでいる息子も、負けずにじっと見据えたまま――。
 一触即発。
 室内は一気に緊迫した様相を呈する。
 梨緒子はその重苦しい雰囲気を打破するように、おずおずと尋ねた。
「あ、あの……秀平くんは、ちっちゃくないですよね? 優作先生よりもずっと背高いし」
 秀平の母は黙り込む二人の男に動じることなく、楽しそうに笑いながら、さらりと梨緒子に答えた。
「子供の頃はこの家で一番小さかったから。その頃からの呼び名なのよ、ニイちゃん、チイちゃんって。さすがにちゃんづけは卒業したけど」
「……」
 秀平は黙ったままだ。
 どうしても梨緒子には聞かせたくなかった事実だったらしい。
 拗ねたように黙り込む息子を見て、母は冷やかすように笑っている。
「いいじゃないの別に。梨緒子さんは『知っておいてもいい人』なんでしょ?」
 さらに沈黙は続いた。
 秀平の父も、黙ったままだ。
 そして母親は、そんな夫と息子の扱いに慣れているのか、無邪気に微笑んだまま、相手の反応が返ってくるまでひたすら待っている。
「……そう、だけど」
 途惑うような顔のまま、ようやく答える秀平の横顔を見て、梨緒子は胸が一杯になった。


 秀平の両親と実際に会ったことで、彼がこの家に生まれて育ってきた二十年という歳月が、梨緒子には見えた気がした。
 それと同時に。
 彼という人間の重さも、確かな質感を持って感じられた。
 永瀬秀平という人間は、決して一人では成立しえなかったものだろう。
 両親や兄弟、従兄弟や叔父叔母などの親戚に支えられ、ともに歩んできた人生があるのだ。

 そして自分も、やがては彼の人生の一部になるのかもしれない――いや、すでに一部なのだろう、と梨緒子は漠然と思った。