Lesson 6  恋心、一筆啓上。 (1)

 季節は晩夏から初秋へと移りゆく、天高く青色が広がったある日――。
 梨緒子は昼休みに短大を出て、隣接する医学部の構内へと足を向けた。
 高校時代の家庭教師だった永瀬優作と、昼食の約束をしているからである。

 緑あふれる広々としたキャンパスには、未来の医師や薬剤師たちが大勢行き交っている。
 梨緒子は涼しい秋風を楽しみながら、医学部の学食へとゆっくりと歩いていった。

 おそらく腐れ縁なのだろう。
 医薬専門の単科大学とはいえ、これだけ広いキャンパスなのだから、簡単に遭遇することはないはずなのだが――なぜか、この男たちに見つかってしまう確率は異常に高かった。
 草津。白浜。
 その名前から『温泉コンビ』と呼ばれている、医学生の男二人組である。
 医学部の学食に足を踏み入れるや否や、梨緒子はトンビにさらわれる油揚げのごとく、『温泉コンビ』たちに易々と捕まってしまった。
 あっという間に両脇囲まれて、身動きがとれない。
 長身の草津は能天気に笑いながら、梨緒子の顔を覗き込んでくる。
「梨緒子ちゃーん、今日も可愛いね」
「いつもと同じです。それより、優作先生は?」
 梨緒子は慣れたようにあしらいつつも、念のために草津青年に聞いてみた。
「教えて欲しい? だったら僕たちとご飯食べよう」
「言ってる意味分かりません。知らないならもういいです」
 梨緒子が合間をすり抜けようとすると、すかさず白浜青年が梨緒子の前に立ちはだかる。
 白浜はその名のとおり、色白でひ弱なインテリ文学青年風だ。ただ、中身は草津青年と同じく、非常に軽い男である
「優ちゃんさ、教授に呼ばれて遅くなるって言ってたよ。ささ、先に食べてよう」
「じゃ、出直してきます」
 梨緒子は白浜青年の誘いも難なくはね退ける。
 しかしこの男たちが、そうそう簡単に引き下がる訳がない。
「相変わらずつれないなあー。そうそう今度さ、看護の一年とコンパしたいんだけど、梨緒子ちゃん仲いい子いない?」
「ええ? さすがに一年は面識ないですよ。この間まで二年の子がいいって言ってませんでした? というか、何でそんなにコンパが好きなんですか?」
 これも会うたびに交わされる、お決まりのやりとりだ。
 温泉コンビたちにとって梨緒子は、看護学生との出会いの貴重な橋渡し役、という位置付けなのである。
 梨緒子自身はこの手のコンパに参加したことはないが、医学生相手となると飛びつく看護学生たちも多い。そのため、幹事をしてくれそうな友人を、何度か彼らに紹介したことはあった。
 お陰で、すっかりと腐れ縁になってしまったのが、なんともやりきれないところなのだが――。
「なぜ女の子とコンパをするのか。それはそこに女の子がいるからだ! 男なら当然のことなのだよ、梨緒子ちゃん」
 草津の言葉に、白浜はその通りと大きく頷いてみせる。
 梨緒子には到底理解できない価値観だ。
「当然ってそんな……優作先生はそんなことないじゃないですか」
「そんなことないって。ああ見えて優ちゃんも……」
「ええ? うそ??」
 梨緒子が思わず食いつくと、しめたとばかりに草津と白浜は梨緒子の腕を両側からがっちりと掴んだ。
 金魚はあっさりと底引き網に捕獲されてしまった。
「ホントホント。詳しく教えてあげるから、とりあえず一緒にご飯食べよう」
「何でそうなるんですか! もう……やだ」
 もう、何を言っても無駄だ。梨緒子は観念し、両腕を掴まれたまま、がくりと頭を垂れた。
 その時である。

「草津、白浜」

 背後から、よく通る低音が響いた。
 梨緒子が顔を上げると、背後を振り返っている温泉コンビたちの表情が固まっていることに気づいた。
「あ……織原さん」
 完全に空気が変わった。温泉コンビたちに掴まれていた両腕はすぐに解放される。
 何事だろう――梨緒子は恐る恐る、声の方を振り返った。
 すぐ側のテーブルに、一人の若い男が座っている。小難しそうな雑誌を側に置き、定食のトレイを前にして、こちらを睨みつけている。
 あまりの迫力に、梨緒子の心臓は縮み上がった。
 織原と呼ばれた青年は、梨緒子を含めた温泉コンビたちを見据え、鋭く言い切った。
「場所をわきまえろ。騒ぎ続けたいなら今すぐ出て行け」
「す、すみませんでした」

 ――素直に引き下がってる? どうして??

 梨緒子は目を丸くした。
 驚き覚めやらぬまま、温泉コンビはそそくさとその場を立ち去っていく。
 梨緒子はまるで状況が把握できず、その場に一人取り残されてしまった。

 この人はいったい、何者なのだろう。
 梨緒子はヘビに睨まれたカエルのごとく、織原という男の座るテーブルの前に立ち尽くしていた。
「あんた、何年生?」
「あの……か、看護科三年です」
「看護? ハッ、短大部の人間が、わざわざ大学の学食まで出張ってくるとはな」
「は?」
「ちゃらちゃら男漁りにうろつくなと言ってるんだよ。うざい。目障り」
「なっ……私は、別にそんな」
 それ以上、言葉が出てこなかった。

 そこに、救いの神が現れた。
 待ち合わせの相手・永瀬優作が、五分遅れでようやく姿を現したのである。
「ごめん梨緒子ちゃん、遅くなっちゃって」
 優作の登場に、織原が梨緒子よりも先に反応した。
「なに、これ優作の彼女?」

 ――こ、これ? モノ扱い??

 優作と織原という男は、どうやら面識があるようだ。
 驚き隠せぬ梨緒子をよそに、優作はにこやかに答えている。
「違いますよ。僕の妹です」
「お前、妹なんかいないだろ」
「ああ、正確には『弟の彼女』です。もしかしたら将来は『妹』ってところですかね」
「へぇ……」
 ようやく織原は黙った。
 そのまま何事もなかったかのように、定食のおかずに箸をつけている。
「どうかしたんですか?」
「別に」
 そうですか、と優作は穏やかに頷いた。
 先ほどの温泉コンビたちとはまるで違う。優作は持ち前の人懐っこさを発揮して、上手く場の雰囲気をまとめている。
 やはり、この男は頼りになる。
「それはそうと、珍しいですね。織原さんが学食で食べてるなんて」
「もう二度と来ないよ。安かろう不味かろうじゃ、すぐにつぶれるこんな食堂。しかも場違いな人間もうろついてるし」
 織原は梨緒子に一瞥をくれた。
 気まずい沈黙がわずかに流れる。
 梨緒子はいたたまれなくなってしまい、素直に頭を下げた。
「す、すみません……」
「そんな堅いこと言わないでくださいよ。一応、この食堂は一般にも開放されてるわけですし」
 優作が梨緒子をかばうと、織原は雑多なやり取りに疲れたように、トレイと読みかけの雑誌を持って、そそくさと席から立ち上がった。
「建前上は、だろ。短大部にだって食堂はあるじゃないか」
 言いたいことを一方的に言い切ってしまうと、織原は二人に背を向け、食器返却口へと歩き去っていってしまった。
「気にしなくてもいいよ、そんな悪い人じゃないから。さあ、ご飯食べよう」
 梨緒子が呆然と見送っていると、優作は場の空気を和らげるようにして微笑んだ。



 昼休みを終えて、梨緒子は再び短大の校舎へ戻ってきた。
 午後は、仲のいい友人・沢口野乃香と、自習室で勉強する約束をしている。
 短大の自習室は、医薬・看護系の専門図書を揃えた小さな図書館である。
 学生証を提示すれば医学部の敷地内にある大きな図書館も利用できるのだが、敷居が高いため、梨緒子は自習室を利用することが多かった。

 自習室に行くと、野乃香が梨緒子の席を確保してすでに待っていた。
 梨緒子は、その席にぐったりと座り込んだ。
「どうしたの、そんな暗い顔しちゃって」
 野乃香は梨緒子の疲弊した様子に、不思議そうに首を傾げてみせる。
 なんと説明したらいいものか――梨緒子はゆっくりと口を開いた。
「なんかね……織原っていう医学部の人にからまれて」
「織原!? うそ、江波ちゃん、オーリーに会ったの??」
「……オーリー?」
 野乃香の態度の変化に、今度は梨緒子が首を傾げる。
 話がまったく見えない。
「織原直人。医学部じゃないよ、オーリーは脳外科の研修医」
「え? あの人先生なの? なっ、何で学食なんかにいるの?」
 梨緒子は素っ頓狂な声を上げた。
 よくよく思い返してみると、優作は彼のことを「さん」付けして呼んでいた。
 優作は医学部六年生なのであるから、目上の人間なら医師である可能性は極めて高い。
 しかし梨緒子は、そのことにすぐに気づかなかったのである。
 そもそも、大学付属病院には、立派な食堂がある。
 病院の勤務医が、わざわざ医学部の学食に出向いて食べていること自体、おかしいのである。
「オーリーはね、大きな総合病院の跡取り息子で、すっごいお金持ちなんだよ!」
「へぇ、そうなんだ」
「しかも、滅茶苦茶カッコよかったでしょ?」
 野乃香は興奮気味に梨緒子に食いつく。
 梨緒子は返答に詰まった。
 確かに、睨まれた表情にはかなりの迫力があった。眼力がある証拠だろう。
 綺麗どころの舞台俳優クラスの容貌ではあった気がする――が、しかし。
「……メチャクチャ、ってほどでもないと思うけど?」
 野乃香は呆れ返ったように、深々とため息をついてみせる。梨緒子の発言を軽蔑さえしているかのようだ。
「あー、そういえば江波ちゃんの彼氏は完璧男なんだったっけ? だからって、オーリーよりもすごいなんて事はないでしょ? そんなの、私は絶対に認めないからね?」
「……そんなにすごい人なの? 騒がれてるなんて初めて知ったけど」
 そう。
 同じ系列で敷地を隣にしている医学部とは、看護短大とは切っても切れない間柄である。
 見目麗しき医者の卵の存在が、噂にならないなんて事はないはずなのだが――。
 野乃香は肩を落とした。
「それがさー、もう売約済みなの。だから、うちらには手が届かない人って訳」
「売約済み? ひょっとして既婚者?」
「一応はまだ独身。だけど、これまた非の打ち所のない婚約者がいるって噂だし」
「噂、なんだ」
 織原直人という男は、かなり謎めいた人間であるらしい。
 噂ばかりが先行し、どこまでが本当でどこまでが嘘なのか――とても曖昧だ。
 梨緒子が半信半疑な顔をすると、野乃香が不満そうにして説明を付け加えた。
「誰もその婚約者の実物を拝めた人がいないから、あくまで噂ってこと。いい? 江波ちゃんの『完璧彼氏』と一緒」
 突然話の矛先が自分に向けられて、梨緒子は焦った。
 訝しげな眼差しを向ける野乃香に、慌てて弁解を試みる。
「わ、私のは噂じゃなくて本当なの! そんなに疑うなら、今度帰ってきたときに紹介するよ」
「ホント? 今度っていつ?」
「…………さあ」
 それが、梨緒子の精一杯の答えだった。
 野乃香の言う梨緒子の『完璧彼氏』は、どこまでも気まぐれなのである。

「それにしても、オーリーに絡んでもらえるなんて江波ちゃん、相当すごいことなんだからね?」
 野乃香の羨望の眼差しに、梨緒子は落胆にも似た軽いため息を一つついた。

【ちゃらちゃら男漁りにうろつくな】

【うざい。目障り】

 絡んでもらえて嬉しい――などと喜べるようなものではまったくなかった。
 確かに、自分や温泉コンビたちに非があった。それは梨緒子も認める。
 しかし、騒いでいたのが気に入らなかったのだとしても、注意の仕方というものがあるのではないだろうか。
 梨緒子はどうも釈然としなかった。

 ただ、この先当分、織原という男に遭遇することはないだろう。
 温泉コンビのように、しょっちゅう遭遇することの方が稀有なのである。

 しかし、『稀有』はイコール『ゼロ』ではないことを、梨緒子はすぐに思い知らされることとなる。