Lesson 6  恋心、一筆啓上。 (2)

 それから数日が過ぎた、ある土曜日のことである。
 久しぶりに何も予定がない週末を迎え、梨緒子は朝からのんびりとしていた。

 昼近くになってようやく起き出し、階下へ向かうと、いつもとは異なった様相を呈していた。
 大きな旅行カバンと小さ目のスーツケースが、玄関先に出してある。そして、忙しなく行き交う両親は、黒の礼服に身を包んでいる。
 梨緒子は母をつかまえ、事の次第を尋ねた。
「どうしたの、この荷物?」
「お父さんの従兄弟が亡くなったから、お父さんとお母さん、二人でお手伝いに行ってくるね。一泊してくるつもりだから、梨緒子はお留守番お願いね。夕飯は適当にやって。戸締りはちゃんとするのよ」
 梨緒子は他人事のように、ふうん、と相槌を打った。
 父親の従兄弟と説明をされても、顔も名前も分からない。
「薫ちゃんは?」
「横浜でイベントがあるって、朝早くに出掛けたわよ。帰りはあさっての夜だって。それじゃ、よろしくね」
 そう言い残し、梨緒子の両親はそそくさと出掛けていってしまった。

 静かになった家に一人取り残されて、梨緒子はゆっくりとため息をつく。
 両親は一泊の予定。
 兄の薫も、月曜日の夜まで帰ってこない。
 つまり。
 梨緒子は、一人きりで週末を過ごさなくてはならくなってしまった、ということだろう。
 完全に一人きりというのは、生まれて初めての経験だ。
 梨緒子ももう二十歳を過ぎている。一人きりの留守番が怖い、と駄々をこねる歳でもない。
 だか、しかし。
 土曜日の夜を一人寂しく過ごすのは、あまりにも憂鬱だった。


 母親が用意していた朝食とも昼食ともつかぬ食事を、梨緒子は一人で食べた。
 とりあえず目先の問題として、晩御飯を何とかしなくてはいけない。
 適当に何かを作れるだけの材料はあるはずだが、自分で作るのはどうにも気分が乗らなかった。
 手っ取り早く、外食にしよう――梨緒子は思案した挙句、手当たり次第に、知り合いに連絡を取ってみることにした。


 まずは、彼氏の兄・永瀬優作の携帯に電話を掛けてみる。
 すると。
『ゴメンね。今日は草津や白浜と飲む約束してるんだ。ああ、梨緒子ちゃんさえよければ、来てくれもいいんだけど』
 あまりにも危険な面子である。
 梨緒子は、迷わず優作の誘いを断った。

 次は、親友の波多野美月だ。
 電話で事情を話すと、残念そうな声が返ってくる。
『今夜? あー、今日はこれからバイトなんだ。十時過ぎになりそうだから、遊ぶのは無理かなあ』
 あっさりと振られてしまった。
 梨緒子は悩んだ。
 野乃香やその他の仲のよい短大の友人たちは、揃って合コンの予定だ。そのため、誘うことはできない。

 最後は――元彼・安藤類だ。
 さすがに躊躇してしまう。
 いくら一人が寂しいからといって、二人きりで会うのは、かなり後ろめたい行為だ。
 美月が一緒ならともかく、一緒に楽しくご飯を食べて、適当に遊ぶだけ――では済まなくなる可能性も捨てきれない。
 そういう意味では、類には『前科』がある。
 しかし。
 会わなくても、時間つぶしに電話で話をするだけなら――梨緒子は思い直し、類に電話をかけた。

 類はすぐに電話に出た。
『どうしたんだよ? 何かあったのか?』
「ううん。別に用があったわけじゃないんだけど」
 梨緒子が答えると、何故かそれ以上、類は会話を続けようとしてこない。
 周囲を気にしながらの電話であることを、梨緒子は察知した。
「ルイくん、ひょっとして出先?」
『ああ。いまは――彼女と一緒』
 梨緒子は思わず言葉を失った。
 彼女。
 あの元彼に、新しい彼女。
 別に何の不思議もない。むしろ遅すぎたくらいだ。
「う……そ、ああ、そうなんだー。いつのまに? どんな人?」
『んー、まあ、急ぎじゃないなら、また今度な』
「あ……ゴメン。それじゃ」

 梨緒子は、携帯を机の上に投げ出すようにして置いた。
 そして力なくベッドの上へと転がり込み、大きなため息を一つつく。
 楽しいはずの週末に、梨緒子は完全に一人っきりだ。

 ――ホント、つまんない。

 電話をかけて連絡を取る候補に、彼氏である永瀬秀平の名前はなかった。
 それは、彼の性格を考えてのことである。
 ちゃんとした用件がない限り、秀平は電話をしたがらない。実際に顔を合わせることなく他愛もない日常を語り合うのが、彼はこの上なく苦手なのである。
 事務的なやりとりなら平気らしいが、親しい相手との他愛もないやり取りでは、相手の反応を逐一観察できないと不安になり、思ったように会話を交わせないということらしい。
 それは彼の生まれ育った気質から来るもので、いまさら梨緒子がどうこうできるものではない。
 もちろん、梨緒子が一方的に喋ることを黙って聞いていて欲しいと言えば、その通りにしてくれるだろうが、会話のキャッチボールはまるで期待できないのである。

 ここ数ヶ月、秀平からの連絡は途絶えがちだった。
 相変わらずマメにその日の夕食風景の写真をメールで送ってくるが、それだけだ。文字はない。打つのが面倒臭いのだろう。
 電話も、履歴を見るともうひと月ほど、していないことに気づく。
 もちろん、逢えば気分は盛り上がる。
 無口で淡々としていても、どこか嬉しそうにして梨緒子を抱き締めてくる彼に、この上ない幸せを感じることもできる。

 しかし、離れている間は彼に――何も期待できないのである。



 夕方近くになって、梨緒子はようやく一人、外へと出た。
 街並みは橙色に染まっている。じきに日が暮れるだろう。

 ――たまには、本屋さんでも行ってみようかな。

 最寄駅の一駅先に、専門書が揃う大きな本屋がある。そこなら、勉強に役立つ看護の専門書籍も、充分に揃っているはずだ。
 梨緒子は、晩御飯の調達も兼ねて、いつもとは違った方向へと歩を進めることにした。

 歩き始めて三十分ほどで、目的地に到着した。
 やってきたのは、巨大なフロアを有する大型書店である。
 ここへは、美月とのショッピングのついでに、たまにマンガの単行本を買いに来る程度だ。梨緒子が一人で来るのは初めてである。
 まずは売り場の案内図の前に立ち、大まかな位置を確認した。
 そして梨緒子は、専門書が並ぶコーナーへと足を踏み入れた。

 大きな書架と書架の間に、客が一人いるかいないか――専門書の領域は閑散としている。
 書架の上部に記された分類の表記を一つ一つ確かめながら、梨緒子はゆっくりを進んでいく。
 辺りに、本の香りがたちこめている。
 見たこともないような分野の本を通りすがりに眺めて、本屋の奥深さに感心しつつ、ようやく目的の場所へと辿り着いた。
 書架の合間に一歩足を踏み入れて、そこで梨緒子はぴたりと止まった。

 ――う、うそ?

 目的の場所に、先客がいた。若い男である。
 男は小難しそうな本を手に取り、ざっと中身を確認している。
 梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。

 似ている人、ではない。
 おそらく、本人に間違いはない。
 この医学書専門のコーナーにいるということが、何よりの証拠だ。

 向こうは本選びに集中していて、こちらに目をくれようともしない。
 梨緒子は足音を立てないよう、ゆっくりと踵を返した。
 すると。
「何故、逃げるんだ?」
 梨緒子の背中に、聞き覚えのある男の声が突き刺さった。

 完全に、気付かれている。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 梨緒子は観念し、おずおずと振り返った。
 今度は完全にこちらを向いている。間違いはない。
 そこに立っていたのは、先日医学部の学食で遭遇した脳外科の研修医、織原直人だった。

【ちゃらちゃら男漁りにうろつくな】

【うざい。目障り】

 この男に投げかけられた厳しい言葉の数々は、いまだ記憶に新しい。
 織原という男は、改めて間近で見ると、野乃香が騒ぐ通り、異性に騒ぎ立てられそうな整った容貌の持ち主だ。目鼻立ちがハッキリしているためか、威圧的で逆らえない『迫』がある。
「に、逃げるだなんてそんな……」
「俺が邪魔か? 何の本を探してるんだ?」
「じゃ、邪魔じゃないです! 私はこっちのほうなので!」
 医学コーナーと並ぶようにして、看護そして介護系の書籍コーナーがある。
 梨緒子は特に買うものを決めていたわけではなかった。何となく本屋をのぞいてみようと思ったに過ぎない。
 梨緒子はとにかく、織原直人が早くこの場からいなくなってくれることを願って、平積みしてあった分厚い本を手にとり、読むふりをしてページをめくった。

 早く。
 早く。
 早く。まだ?

 その時である。
 梨緒子が手にしていた本は、脇からすり取られるようにして取り上げられた。
 とっさに振り向くと、梨緒子のすぐ側に織原直人はいた。
 威圧的な眼差しが、こちらに向けられている。
 突然の出来事に、言葉も出てこない。
「薬理か……いまいちだな、これじゃ駄目だ」
 織原は医学書のコーナーへ戻り、棚から一冊抜き取ると、それをおもむろに梨緒子に差し出した。
「勉強するなら、これがいい」
 分厚く、重い。どう見ても、看護師ではなく医師向けだろう。
 梨緒子は中身を確認する前に、裏に記載された価格を確認した。
「た、高っ!」
「お前、本気で勉強する気があるのか?」
 この状況で、無いとは言えない。
 梨緒子はやっとの思いで声を振り絞った。
「あり、ます。ありますけど……」
「だったら、俺が使っていた基礎の本を貸してやろう。週明けに俺のところまで取りに来い」
「え? いや、あの、そんな……」
 この目の前の男が、どういう意図で梨緒子にこのようなことを言うのか、まったく分からなかった。
「あとは? 何の本を探してる?」
「別に、何も探してないです! もう用事はすみましたので!」
「そうか。じゃあついでだ、家まで送っていこう」
 まるで展開が読めない相手だ。
 梨緒子は、その受け答えに四苦八苦するばかり。
「いえ、あの、気を遣っていただかなくても、結構です」
「夜道の一人歩きは危ないだろ。いいから、言う事を聞け」

 ――意味分かんない。何なの、この人。

 話の持って行き方が、とにかく強引だ。
 何故そこまで他人に強気な態度を取れるのか、梨緒子にはまったく理解できなかった。
 この男に、中途半端な断り文句は通用しないらしい。
 梨緒子は勇気を振り絞って、ハッキリと意思表示をすることにした。
「晩御飯の買い物して帰るので、本当にいいです」
「一人暮らしか?」
「違います、実家です。でも、今日は家族が出かけてるので」
「つまり買い物は『材料』じゃなくて、『出来たモノ』か」
「……そうですけど」
 どこまでも上から目線だ。
 確かに梨緒子から見れば、遥か上にいる人ではあるのだが――どうもスッキリとしない。
 すると、なぜか織原は何かに納得したかのように小さく頷くと、驚くほど穏やかな口調で、梨緒子に語りかけた。
「ちょうどいい。一緒に食べるか」
「え? な、何でですか!?」
 梨緒子の頭の中は真っ白になった。
 激しく動揺し、取り乱しているのが梨緒子自身にも分かる。
「おなかが空いたらご飯を食べるのは、普通のことだろ」
「私が聞きたいのは、どうして一緒にってことです」
「逆に聞く。どうして一緒では駄目なんだ?」
 迷いの無い口調で聞き返されて、梨緒子は返事に困ってしまった。

 ――駄目な理由? そんなことを、言われても。

 どうして自分に、こんなことを言うのだろう。
 友達でも知り合いでもないはずなのに――。

「……私、彼氏がいますから」
「知ってるよ。優作の弟と付き合ってるんだろ」
 淡々と答える織原の言葉に、梨緒子は二の句が継げなくなり、思わず目を瞠った。
 そして、必死に数日前の記憶を巻き戻す。
 初めてこの男に出会ったとき、確かに優作が梨緒子のことをそのように説明していたことを、梨緒子はようやく思い出した。
「だから? 『彼氏がいること』と『一緒にご飯を食べること』は、まったく関係ないだろう?」
「そんな……」
「俺にだって、婚約者がいる」
 たいした問題ではないといったように、織原はさらりと言い切った。
「だったら、その人と行かれたほうが――」
「優作の弟は北大だろ? つまり、お前は彼氏と遠距離恋愛だ」
 梨緒子の言葉を遮るようにして、織原は先読みをしてみせた。
 確かに、それは間違ってはいない。
 梨緒子は織原の顔色をうかがいながら、消え入るような小さい声で答えた。
「そう……ですけど」
「俺もだ。婚約者とは遠距離中。だから、特に問題はない」
 梨緒子は完全に混乱していた。
 自分には彼氏がいて。
 相手には婚約者がいて。
 お互い遠距離だから、簡単に遭遇して問題になることも――なく。

 それよりなにより。
 相手は医者だ。それも、同じ系列の付属病院に勤務しているのである。
 温泉コンビたちのように適当にあしらって、無下にできるような相手ではない。
「ご飯を食べるのに、いちいち理由なんか要らない。一人より二人で、何か話しながら食べたほうがいい。さあ、行くぞ」
 このまま付いていってもいいのだろうか――悩むところではある。
 しかし、織原という強引な男を納得させるだけの『断る理由』が、梨緒子にはどうしても思いつかないのである。

 梨緒子はあきらめにも似たため息をつくと、重い足を引きずるようにして、一人先を行く織原の背中を追うことにした。