Lesson 6  恋心、一筆啓上。 (9)

 秀平からの手紙を受け取ってから、二日後のことである。
 梨緒子は自分から、織原直人にメールをし、晩御飯に誘った。
 場所は、二人で何度か食事を共にした、思い出の店だ。
 そう。
 楽しい日々は今夜、思い出に変わろうとしている。


 二人はいつもと変わらず、カウンター席に並んで座っていた。
 織原は右、梨緒子は左だ。
 三日前、突然ストレートなアプローチを受け、織原の自宅マンションへと誘われた。しかし、今夜の織原はそんな事実はなかったかのように、静かに梨緒子の隣に座っている。
 場数が違うのだろう。
 梨緒子のほうは、ここ数日ご飯も喉に通らないほど、織原とのやり取りに尋常ではないほど激しい動揺を覚えていたのだが――あまりにもあっさりとしている織原の姿を目の当たりにし、なんだか拍子抜けしてしまった。
 いつものように食事をすませ、食後のコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいる織原に、梨緒子は平静を装って淡々と告げた。
「織原先生――」
「何だ」
「織原先生は、織原先生のことを本当に求めている人と、ちゃんと向き合ってください」
 織原は梨緒子の言わんとすることを、察していたのだろう。黙ったまま、梨緒子の話に耳を傾けている。
「こんなことしてたら、織原先生の彼女が悲しむと思います」
「悲しむ? 一緒にご飯食べるだけで、か?」
 織原はそれでいいのかもしれない。
 しかし、それは自分の考えと違っていることに、梨緒子は気づいた。
「私だったら、自分の彼氏にそういうことして欲しくない……です」
「それが、お前が考え抜いて出した答えか?」
 梨緒子はこくりと頷いた。
 織原は読んでいた雑誌を閉じ、それを滑らせるようにしてカウンターの端に押しやった。
 しばらくの間、二人は沈黙の波間を漂っていた。
 店内のほの暗い照明と喧騒が、織原と梨緒子の二人を緩やかに包み込む。
 やがて、織原はその沈黙を破るようにして、ゆっくりと呟いた。
「……そうだな。優作を怒らせると――怖いしな」

 ――ああ、もう。

 梨緒子は、どことなく寂しげな織原の表情を眺めているうちに、自分の中にしまわれていた感情を抑えられなくなってしまった。
 こんなにも、終わりが切ない。
 梨緒子の両目から、涙があふれ出した。
 梨緒子の頬に静かに伝う涙を、織原は訝しげに見つめている。
「何故泣く?」
「毎日毎日、本当に楽しかったんです」
「……そうか」
 織原の呟きが、ため息とともに吐き出される。
 梨緒子は涙で震える声で、織原に告げた。
「私、織原先生のこと、す――」
「それ以上言うな」
 織原は素早く梨緒子の言葉を遮った。
「続きは胸の奥へしまって、そのまま墓まで持っていけ」
「織原先生……」
 目と目が合った。彼の力強い眼差しがわずかに緩むのを、梨緒子はすぐそばで見た。
 そして。
 これが織原という男の『最後の優しさ』なのだと、梨緒子は気づいた。
「薬理の本はお前にやる。ちゃんと、勉強しろよ」
 梨緒子は何度も頷いた。涙をハンカチで何度も拭いながら、大切にします――と答えた。


 梨緒子は店の前で織原と別れ、そのまま一人で自宅へと帰ってきた。
 午後八時前。いつもよりも早い時間だ。
 梨緒子はそのまま自分の部屋へこもり、早々に部屋着に着替えてしまうと、携帯電話を握り締め、ベッドの上に腰かけた。

 やらなければならないことが、たくさんある。
 梨緒子はまず、織原とやり取りしたメールのすべてを消去した。
 これでいいのだ。
 自分のためにも、織原のためにも、そして優作のためにも――。
 そう自分に言い聞かせ、なんとか消去ボタンを押し、作業は完了した。

 そして次に、優作に謝罪のメールを打つことにした。
 事情を多くは語らずに、ひと言『ゴメンなさい』と送った。
 優作はあっさりと許してくれた。
 そして、今度こそ一緒にご飯を食べよう、と約束した。

 最後が、一番の難関だ。
 越えなければならない大きな壁が目の前に立ちはだかっている。
 梨緒子はいまだ迷っていた。

 ――そろそろ携帯、復活してるはずだよね。手紙の返事、どうしよう……。

 しかし、なかなかメッセージが浮かんでこない。
 梨緒子はメール作成の画面を開いたまま、いつまでも返事を送ることができずにいた。

 そのときである。
 梨緒子の携帯に、秀平から電話が掛かってきた。
 一気に梨緒子の心拍数が跳ね上がった。喜びと途惑いが入り混じり、どう反応すればいいのか分からない。
 数コール待たせたあと、梨緒子はようやく通話ボタンを押し、電話に出た。
 相変わらず淡々とした懐かしい彼の声が、梨緒子の耳へと届く。
『こんばんは』
「秀平くん、あの、私――」
『この間言ってた映画、何ていう映画?』
「え?」
『観に行きたいんだろう? 付き合うよ』
 秀平は何事もなかったかのように、さらりと言葉を紡いでいる。
 梨緒子は返事に困った。
 この間と180度態度が違っている。
 ご機嫌取りだかなんだか知らないが、あまりの身勝手な彼氏の発言を、梨緒子はどうにも素直に受け取ることができなかった。
「……そんな気、ないくせに。映画、好きじゃないでしょ?」
『……』
「それにその映画、今日までだから。今度帰ってきたときなんて、絶対無理だもん」
 こんなことを言いたかったわけじゃない。
 違う。そうじゃない。
 焦るあまり、携帯を持つ手がどんどん汗ばんでくる。
 そのとき。
 電話の向こうの彼は、突然奇妙なことを言い出した。
『分かったよ。じゃあ、用意できるまで待ってる』
 胸騒ぎがする。

 分かったって、何が?
 じゃあ、って?
 用意できるまで? 誰が?

 そして何より一番重要なのは――。
 梨緒子は混乱する頭で、おずおずと彼に聞き返す。
「待ってるって、……どこ、で?」
『家の前』
 梨緒子は慌ててベッドから立ち上がり、窓まで駆け寄ると、部屋のカーテンを勢いよく開けて、窓の外を見下ろした。
 すると、そこには。
 門柱に背を預けるようにして、暗闇にたたずむ男の影があった。
「……嘘」
 影が、梨緒子の部屋の窓を振り返った。
 街灯に照らされて、顔があらわになる。
『嘘じゃないよ』
 梨緒子の携帯から流れてくる言葉と、彼の口の動きが一致している。
 間違いなく、本物だ。
「ホントに? ホントに帰ってきたの!?」
『うん。ただいま』

 梨緒子は携帯を閉じ、急いで家の前にたたずんでいる秀平の元へと走った。
「どうして?」
 愚かな質問だ。
 秀平はいままでもこうして、梨緒子のわがままを聞いてくれていたのだ。
 そう。ただそのことが当たり前となってしまい、自分が忘れていただけに過ぎない。
 彼の気持ちが、ようやく自分に真っ直ぐ向いているのを、梨緒子は感じた。
「我慢は必要だけど、だからといって、泣くまで我慢することはないんだから」
「私のせい? 泣くまで気づかない方がどうかしてる」
「泣く前に気づかせてくれたっていいと思うんだけど」
 やっと、ぶつけられた。
 彼の胸に直接、想いをぶつけることができた。
 電話やメールでは決して、伝わらない想い――。
 梨緒子は甘えるようにして秀平の服の袖を掴み、秀平を見上げた。
「……また、すぐ帰っちゃう?」
「あさって。日曜の最終便で帰るつもりだから、それまでは一緒にいられるよ」
 梨緒子の胸は喜びでいっぱいに満たされた。
 そう。
 ようやく、満たされたのだ。
 行き場のなかった半年分の甘えたい気持ちを、梨緒子は目の前にいる彼にすべて預ける。
「じゃあね、まず今夜これから映画観るでしょ」
「うん」
「土曜日はショッピングして、あとね、友達に秀平くんのこと紹介してね、目一杯自慢したいの」
 これでようやく野乃香に、自慢の『完璧彼氏』を見せることができる。
 野乃香は、はたしてどんな顔をするだろう。
 梨緒子は友人の反応がいまから楽しみでしょうがない。
「紹介? ……まあ、別にいいけど。他には?」
「他にって、秀平くんの要望は?」
「別に俺はいい」
「別にいいって……そんな」
「梨緒子が側にいてくれるだけで、俺は充分だから」
「でも――――ううん、何でもない」
 梨緒子が言葉を濁すと、秀平はすかさず付け加えるようにして言った。
「そんなに心配しなくても、ちゃんと最初から予定に含まれてるから」
「え?」
 秀平の言葉に、梨緒子はふと首を傾げた。
 すると完璧彼氏は、梨緒子の耳に口を寄せて、あくまでさらりと耳打ちをしてくる。
「ギュウってして、だろ」
 梨緒子はあまりの衝撃に、思わずのけぞった。
 決して間違ってはいない。むしろ図星なのだが――しかし。
「べ、別に心配なんかしてないもん! もう、どうしてそういうこと言うかなー」
 梨緒子は赤面した顔を、必死に横に振った。
 最初から予定に含まれている、なんて。
 いつもながら秀平は、遠回しなのにストレートだ。
「必要ない?」
「…………必要、です」
 梨緒子が消え入りそうな声で、何とか答えると。
 秀平はあくまでクールで淡々としながらも、満足げに頷いてみせた。

 秀平は、手にしていた携帯電話で時刻を確認し、ラフな部屋着姿の梨緒子を促した。
「ほら、早く着替えてきて。まさかその格好で映画に行くわけじゃないんだろう?」
「ああ、うん! ちゃんと待ってて。帰っちゃったりしないでね」
「はいはい」
 梨緒子は門柱のところに秀平を残し、家の中へ向かうために背を向けた。
 玄関のドアノブに手を掛けたところで、梨緒子はもう一度秀平の存在を確かめるように、くるりと振り返った。
「あのね、秀平くん」
「何?」
 秀平は彼女の呼びかけに、ふと首を傾げている。
 梨緒子は嬉しさをどうにもこらえられず、緩みっぱなしの顔を向けながら、最愛の彼氏にその想いを告げた。
「大好き」
 すると。
 秀平は面食らったような微妙な表情を見せ――やがて、照れたように笑った。
「分かってるよ」


(了)