Lesson 6  恋心、一筆啓上。 (8)

 結局、映画を観ることなく、梨緒子は一人歩いて自宅へ帰ってきた。
 車で送り届ける、という織原の申し出は、丁重に断った。
 いつも強引な織原だったが、今日ばかりは梨緒子の言い分を聞き入れてくれた。

 夕飯も食べずに、梨緒子は自分の部屋にこもった。
 食欲は、まるで湧いてこない。電気もつけず、ベッドにどかりと座り込む。
 もうどうしていいのか、梨緒子はまったく分からなくなっていた。

 もしも。もしも、である。
 秀平と梨緒子の関係を清算したとしたら、そのあとに残るものとは、いったい何なのだろうか。

 分からない。
 分からない。
 まったく、分からない。

 優作はどんな気持ちで、梨緒子に向き合っていたのだろうか。
 梨緒子に、誰かを一途に思い続けることの大切さを教えてくれたのは、優作である。
 その優作の、『大切な人』。

【梨緒子ちゃんは間違ってる。僕が言いたいのはそれだけだ】

【お前じゃなく、本当は俺のことが許せないんだ】

 自分が織原と付き合うのは、間違っている。たとえ、秀平と完全に別れてしまったとしても。
 何故なら、それは――。

 彼女が『憧れの存在』止まりなのは、出会ったときに既に、織原と彼女が将来を約束された関係にあったから、だけではないだろう。

【あいつは絶対、俺に逆らわない。昔からな】

 おそらく優作にとって、織原直人という男は、絶対に超えられない存在なのだ。
 そう。そう考えるとすべて納得がいく。

 きっと彼女は、織原のことを心から愛している。
 だからこそ――優作は織原を尊敬し続け、ひっそりと彼女の幸せを願うのだ。


 梨緒子が秀平と別れて織原を選んだら、優作の想い人を婚約破棄という、憂き目に遭わせてしまうことになる。
 そうなれば、秀平はもちろんのこと、優作との関係は完全にこじれるだろう。
 円満な人間関係を、今後も続けていけるはずはない。
 そのような状況になって、はたして自分は幸せになれるだろうか。

 幸せになれる。
 幸せになれない。
 なれる。
 なれない。

 梨緒子の心の中にある花びらは、偶数枚しか見つからない。


 梨緒子はベッドに横たわり、掛け布団を頭からかぶって、固く目を閉じた。
 大きなため息を、いくつもいくつも繰り返す。
 何度目かのため息を吐き出しながら、梨緒子は最後に秀平と電話で言葉を交わした夜のことを思い出した。
 そしてその後、ここ一ヶ月ほど楽しく過ごしていた織原とのやり取りを思い返し、思わず涙が出てきてしまった。

 苦しい。胸が苦しい。
 助けて欲しい――。

 そう。
 こんなにも梨緒子が苦しまなければならないのは、すべて自分を満たしてはくれない、どこまでも自分勝手な彼氏のせいなのである。

 どうして秀平は、気持ちを分かってくれないのだろう。
 自分の彼女の寂しい気持ちを、理解しようとしてくれないのだろう。

 自分が求めているのは、いったい誰なのだろうか――いくら考えても、答えは出ない。

 その日、梨緒子は一人、眠れぬ夜を過ごした。



 あくる日の朝――。
 午前十時を過ぎたところで、梨緒子はようやく起きだした。
 完全な寝不足だ。

 気だるい身体を引きずるようにして階段を降りていくと、兄の薫が一人、居間のソファに寝転がり、テレビを見ながらくつろいでいた。
 デザイナー修業をしている薫は、生活が不規則だ。
「梨緒子、学校は?」
 梨緒子の気配を察知したのか、薫はテレビの画面から目を離すことなく、だらりと尋ねてくる。
「今日は午後からなの」
「あっそ」
 当然のことながら、薫は梨緒子の行動に、大して興味はないらしい。
 梨緒子はそのまま居間を通り抜け、水分補給のためにキッチンへ向かおうとした。
 すると。
「梨緒子に、ラブレター」
「……ラブレター?」
 兄の言葉に合点がいかず、梨緒子はふと立ち止まり、振り返った。
 薫はソファに寝そべったまま、人差し指をセンターテーブルの上へ向けている。
「さっき郵便やさんが持ってきた。速達だって」
 兄が指し示したテーブルの上の一通の手紙に、梨緒子はおずおずと近づき、それを手に取った。
 封筒の端には、確かに『速達』と赤で印が押されている。
 表には見慣れた達筆で「江波梨緒子様」と書かれていた。
 裏を返さなくても、筆跡で差出人は分かる。札幌にいる『彼』だ。

 梨緒子は混乱してしまった。
 なぜ秀平が、わざわざ手紙を――しかも速達で。
 それなりの長文でも、メールで事足りてしまうこのご時勢だ。
 いままでにプレゼントなどの荷物を送ってきたことはあったが、ただの手紙は、梨緒子が記憶する限りこれが初めてだった。

 梨緒子は薫に見られぬよう、手紙を胸に抱え居間を出ると、階段に腰掛けて急いで封を切った。
 封筒の中から出てきたのは、三つ折にされた二枚の便箋だった。
 わざわざ手紙を送ってきた理由は、簡潔にまとめられた彼の手紙に記されていた。



『携帯を壊してしまいました。(成沢が原因の、事故です)
 復旧まで三日ほどかかります。
 最後まで話を聞いてあげられなくて、ごめん。』



 その内容を読み、梨緒子は慌てて、おとといの夜の記憶を呼び戻す。
 確かに、会話の最後、成沢圭太と揉み合うような物音が聞こえていた。

 動揺に震える手で、梨緒子は便箋をめくり二枚目を読んだ。
 余白だらけの殺風景な文面。
 便箋の中央には、たったの二行。



『梨緒子がいてくれるから、俺は頑張れます。
 いつも、どうもありがとう。』


 具体的なことは何一つ書かれていないが、それが逆に梨緒子の心をかき乱す。
 秀平が書いた手紙の、言葉一つ一つの奥に秘められたその思いの深さに、梨緒子の心は打ち震えた。

 ――ホントにホントに、もう……秀平くんってば。

 まぶたの裏に、鮮明な情景が浮かび上がる。
 壊れた携帯電話を握り締め、困ったようにため息をついてアパートに戻り、考えぬいて一通の手紙をしたため、そして――。
 それをなるべく早く梨緒子のもとへ届くよう、速達にしてくれたのだろう。

 馬鹿だ。
 自分は本当に馬鹿だ。
 どうしようもない人間だ。

 秀平があれから連絡を寄越さなくなったのは、梨緒子に関心がなくなったからではなかったのだ。
 そんな当たり前のことすら信じられずに、寂しいからという理由で、安易に気持ちが揺らいでしまった。

 自分が求めているのは誰かなんて、そんなことは問題ではないのである。
 そう。
 自分のことを本当に求めてくれているのは――彼なのだ。
 自分が揺るいだら、彼も揺るいでしまう。
 遠距離すると決めた以上は、遠くで頑張る彼のことを想い、彼の心の支えとならなくてはいけないのだ。

 梨緒子は目を瞑り、彼の香りがする便箋の上に、そっと口づけをした。