Lesson 7  恋わずらいの妙薬 (1)

 張りつめた空気が、男と女を取り巻いている。
 その緊張状態を打ち破ったのは、部屋の主である男のほうだった。

「もう、たくさんだ」
 秀平は憔悴しきったようなため息をついた。そして、腰かけていたベッドからおもむろに立ち上がり、梨緒子に背を向けると、そのまま部屋を出て行こうとドアノブに手をかけた。
「どこ行くの?」
「……」
 秀平は梨緒子の問いかけに答えようとしない。ドアを半分開けた状態で立ち止まっている。
 午後十時を過ぎている。こんな遅い時間に部屋から出て行って向かう先は、いったいどこなのだろうか。
 秀平の性格からして、友人の家に泊まることはありえない。繁華街で夜通し遊ぶことも、絶対にない。
 梨緒子の脳裏に浮かんだのは、信じたくはない、ある一つの答え――。
「……あの女の人のところ?」
「別にどこだっていいだろ?」
 秀平の怒鳴るような大きな声が、梨緒子の脳天に突き刺さった。
 梨緒子は驚きのあまり、両目を見開いたまま瞬きもせずに、振り返りざまに怒鳴った彼の顔から目をそらせずにいた。

 怖い。
 本当に、怖い――。

 全身が小刻みに震えだす。
 彼の嫌悪感が、自分に向けられている。
 嫌。そんなの嫌。

「明日帰るんなら、それまではここにいればいい――俺はもう、疲れた」
「……なに、それ」
 いまにも泣き出してしまいそうなのを必死にこらえ、梨緒子は秀平に尋ねた。
「俺のことを信じられない人間と、この先一緒にいる意味なんか、ない」
 呆然と座り込む梨緒子の目の前で、ドアがゆっくりと閉じていく。
 あまりの衝撃的な言葉に、もはや追いかける力も出てこない。

 一緒にいる意味なんか、ない。
 この先、一緒にいる意味がない――つまり、彼が梨緒子に告げた言葉の意味は。

 ――そんな……嘘。

 その夜も、そして、その次の日の朝も。
 秀平がアパートに帰ってくることはなかった。



 そもそもの事の発端は、二ヶ月ほど前にさかのぼる。
 梨緒子は通帳に記帳された数字を眺め、自分の部屋でひとり惚けていた。
「すごい……いち、じゅう、ひゃく……」
 振り込まれた金額の桁数を、何度も何度も数え直す。
 今まで親に貰っていたお小遣いや、短期アルバイトの給料とは、やはり桁が違う。
「へえ、看護師の初任給って、そんなもん?」
 いつの間にか、兄の薫が梨緒子の部屋まで入り込み、興味深げに腕組をして背後にたたずんでいた。
「わー、覗かないでよ薫ちゃん!」
 梨緒子はあわてて通帳を閉じた。
 薫の気配に、梨緒子はまったく気づかなかった。ゆるんだ頬を戻す余裕もなく、兄にしどろもどろの言い訳をするので精一杯だ。
 薫は呆れたようにため息をついた。
「……お前、その顔。嬉しいのは分かるけど、にやけ過ぎだろ。目ん玉に¥マークが出てるぞ」
「だ、だってー、嬉しいんだもん。家に食費をいくらか入れたって、ひと月に一回、札幌までの飛行機代は余裕で残るし!」
「ああ、そっち? 金より愛ってか? あー、若い若い、青い青い、かゆいかゆい」
 給料の使い道を聞かされて、兄は小馬鹿にしたように、妹を投げやりにあしらう。
 しかし、何と言われようとも、梨緒子は平気だ。
「いままでは半年に一回あるかないかがせいぜいだったけど、これからは毎月秀平くんの所に遊びに行ける!」

 梨緒子が最後に秀平と会ったのは、去年の年末のことだった。
 もともと頻繁に会っていたわけではないが、梨緒子も看護師の国家試験へ向けて勉強が忙しい時期だったこともあり、秀平も気を遣ってか、メールや電話の回数を減らしていた。
 そして、梨緒子は晴れて看護師となり、一足早く社会人となった。

 ようやく秀平のところへ気軽に会いにいけることが、梨緒子はとにかく嬉しい。
 確かに覚えることが山積みで、慣れるまで疲労困憊の毎日だが、それでも休みは定期的に取れるし、何と言っても自分で稼いだ給料が毎月手元に入ってくるのである。
 家にいくらかのお金を入れても、月イチで札幌へ行くための飛行機代くらい、余裕で捻出できるようになった。
 遠距離という隔たりが、自分の稼いだお金によって解決できるようになったことが、梨緒子はとにかく嬉しかったのである。


 その日の夜――。
 午後十時をまわった頃に、梨緒子は札幌にいる彼氏・永瀬秀平へと電話をかけた。
 数コール待ち、通話可能な状態になると、梨緒子は秀平の問いかけを待たずに喋り始めた。
「ねえねえ秀平くん、今度の週末にね、札幌に行こうと思うんだけど」
 社交辞令的挨拶を交わさないことは、秀平と梨緒子の間では暗黙の了解となっている。
 そのため秀平のほうも、突然話し掛けられても特に驚くことはなく、いつものように淡々とした声で返事をしてくる。
『今週の土日は、俺、こっちにいないけど』
「ええ? あ、そうなんだ……じゃあ来週は?」
『来週はまだ分からないけど。いったいどうしたの?』
「どうしたのって……久しぶりだし、札幌でデートとか」
『当分無理』
 秀平は梨緒子の提案をあっさりと切り捨てた。
 しかし、簡単に引き下がることはできない。梨緒子はあきらめずに押し続けた。
「無理って、どうして?」
『どうしてって、就職活動もあるし。梨緒子だって仕事始めたばかりで忙しいんじゃないの? 無理して来なくたっていいよ』
「無理してとかじゃないもん。ねえ、じゃあ水曜日とかは? 平日ならいいでしょ?」
 梨緒子はさらに食い下がった。
 すると。
 明らかに面倒くさがっている秀平のため息が、電話越しに聞こえてきた。
『平日に来られたって、俺、相手してやれないよ。卒業研究の準備もあるし、教授の研究の手伝いもさせてもらってるし――』
 確かに。
 梨緒子は不規則な勤務体系ゆえに平日に休暇をとることもできるが、秀平はまだ学生である。基本的に土日が休みの週休二日制だ。
 授業をサボってデートする――それは、秀平が最も嫌うことであるのは、梨緒子も知っている。
 秀平にしてみれば、わざわざ飛行機代をかけて自分のところまで遊びに来て、その相手ができないのは、はなはだ不本意なことらしい。
 もちろん、一緒に出かけてデートをしたいが、そんな贅沢は言わない。
 側にいられるだけで、梨緒子は満足なのである。
「そんな、観光とかしなくても全然構わないから。夜は帰ってくるんでしょ?」
『早くても、九時は過ぎると思うけど』
「それでもいい」
 あと一歩。もう一押しだ。
『朝も八時前には部屋出るし』
「充分充分。そしたら十時間は一緒にいられるってことでしょ?」
 梨緒子はあくまで前向きな姿勢で、尚も押し続けた。
 すると。
 やがて、秀平は観念したように、深々とため息をついた。
『十時間は、って……俺に徹夜しろって?』
 その秀平の言葉に、梨緒子は思わず言葉を失った。
 いつもの通り、秀平の言葉はどことなく遠まわしなのに、どこまでもストレートだ。
 秀平が『徹夜する』という理由は、梨緒子にも容易に想像がつく。
 その彼の言わんとすることを踏まえたうえで、梨緒子は可愛らしさをアピールしつつ、あくまで軽く返してやった。
「そんなー、徹夜するもしないも、秀平くんのさじ加減ひとつ、でしょ?」
 すると。
 秀平は黙った。気の遠くなるような沈黙が続く。
 梨緒子はひたすら待った。彼の本音を引き出すのに、焦りは禁物だ。
 やがて、電話の向こうからゆっくりと彼の声が流れてきた。
『さじ加減って……そんな、簡単に言うけどさ。加えるのはまだしも、減らすのは難しいんだけど』
 真面目な声色で淡々と説明する秀平に、梨緒子は例えようもないほどの愛しさを覚えた。
 好きとか愛してるとか、そんな言葉はほとんど口にしない秀平だが、その言動から彼の一途さは充分伝わってくる。
 当の本人は、おそらく無意識なのだろうが――。
『水曜日、か……』
「どうかした?」
『いや、別に。水曜日って、最終便で来るの?』
「予定では水曜日は日勤だから、夕方五時か六時くらいまでで……そうだね、最終便かな。木曜日は準夜勤だから、帰りはお昼にそっち発てば間に合うと思う」
『分かった。空港までは無理だけど、札幌駅までは迎えにいくから』
 ようやく乗り気になったらしい。秀平の声がわずかに弾むのを、梨緒子は感じ取った。

 このときの梨緒子は、久しぶりの逢瀬の約束に浮かれるあまり、秀平が言いかけて止めた言葉の裏にあるものを、読み取る余裕が――なかったのである。