Lesson 7  恋わずらいの妙薬 (2)

 その週の土曜日――。
 梨緒子は午後になってから、駅前にあるファミリーレストランへとやってきた。

 待ち合わせをしていた人物は、梨緒子よりも先に来ていた。入り口近くのテーブル席で、合図するように手を振っている。
「オッス、久しぶりだな、リオ」
 梨緒子は手を振り返しながら、男が座るテーブルに近づいた。
 元彼・安藤類である。
「ルイくん、元気だった?」
「見ての通り、いつでも元気だよ」
 梨緒子は荷物を空いている椅子に置いて、類と向かい合いようにして席に着いた。
 タイミングよく店員が近づき、お冷のグラスとメニューをテーブルの上に並べていく。
「それにしても珍しいな、リオの方から誘ってくるなんてよ。どーよ、社会人になった気分は?」
 梨緒子は店員が去るのを待って、近況を説明し始めた。
「毎日大変だよ。今日も夜勤明けなの。でも、楽しいかな。ルイくんは? 就職活動中?」
「いや、俺は教員一本で行くから。今度さ、うちの高校に教育実習に行くんだ」
「すごーい、女子高生たちにきっともてるよ。『安藤先生、カッコいいー』って」
 類はまんざらでもなさそうに、梨緒子に笑顔を見せている。
 高校時代に比べ、類は随分と精悍な顔つきになった。それでも、少年のような好奇心旺盛で無邪気な部分は、決して失われていない。

 こうやって類と二人きりで会うのは、合コンで遭遇し「キス事故」に至った夜以来だ。あれからもう、一年半ほど過ぎている。
 それから類には新しい彼女ができたため、以前のように美月を交えて月イチで遊ぶということもなくなっていた。
 類とは完全に友達に戻った。少なくとも、梨緒子にはそう思えた。
 抱き締めたりキスをしたい相手は、もう自分ではなくなってしまったのだから。
 いろいろなことがあったが、もうすでに過去のことだ。

 一通りお互いの近況を交わすと、類は座席に背を預け直した。テーブルの下で狭そうに足を組み上げ、話題を変えるようにして梨緒子に尋ねてくる。
「ところで、なんか俺に用事でもあったのか?」
「うん、まあ」
 類の疑問はもっともだ。
 いくら友人関係に戻ったからといって、わざわざ呼び出してまで、二人きりで食事をするような関係ではない。
 梨緒子が類を呼び出した理由――それは。
「ねえルイくん、いま一番欲しいものって、何?」
「なんだよ、プレゼントでもしてくれんのか?」
「男の人が欲しいものは男の人に聞くのが一番だし。大学四年のいまだからこれが欲しいとか、そういうのがあれば、と思って」
 そこまで説明され、類はようやく合点がいったらしい。半ば呆れたように、肩をすくめてみせる。そして、梨緒子をあしらうようにしてそそくさとメニューを開き、注文する料理を見繕い始めた。
「ハッ、どうせ永瀬のだろ。んな、本人に聞けばいいじゃん」
「秀平くんにそういうの聞いても、よく分からないとか言って教えてくれないんだもん」
「んなこと言って、一緒にいるところを永瀬に見られたらどうすんだよ? 俺は別にいいけどさ。彼女も俺も、異性の友達に寛容だから、メシ食うくらいは全然平気だけど。永瀬はそういうの、絶対駄目なタイプだろ?」
「心配しすぎだってー。秀平くん、そうそうこっちに帰ってこないもん」
 その梨緒子の言葉を聞いて、類はメニュー冊子のページをめくる手を止めた。
 ゆっくりと顔を上げ、じっと梨緒子の顔を見つめてくる。その表情はなんともスッキリとしない、複雑な感情が入り混じっている。
 類は鈍い表情のまま、ふと首を傾げてみせた。
「……永瀬って、いまどこにいるんだ?」
「どこって? 札幌に決まってるじゃない。ああ、でも週末は出かけるって言ってたから、就職活動で東京とか行ってるんじゃないのかな」
「ふうん……そっか。じゃあ、俺の見間違いだったんだな」
 類はあっさりと納得し、再びメニューに視線を落とした。
 しかし梨緒子は、その含みのある類の言葉が、どうにも引っかかってしまった。
 会話の流れと類の複雑な表情で何となく想像はついたが、梨緒子は類に事の真相を確かめるべく、素直に聞き返した。
「見間違いって、なにが?」
「午前中、駅から市役所へ向かう通り沿いで、似てるやつ見かけたから。てっきり帰ってきてるんだと思ってたんだけどな」
「ないない。だったら私にそうやって言うはずだもん」
 梨緒子は首を横に振った。
 電話のやり取りを思い返してみても、秀平はそのようなことは言っていなかった。
 もしも帰ってくるのなら、『週末はこっちにいない』ではなく、『週末にはそっちに帰る』――と、説明するはずなのである。
「だよな。俺が見かけたヤツ、女連れだったし。そんなはずあるわけないんだよな、永瀬に限って」
 そういって類は店員を呼ぶボタンを押す。
 早く決めないと俺と同じにするぞ、といたずらっぽい笑みで急かされ、梨緒子はあわてて目の前に置かれたままのメニュー冊子を開いた。


 次の日の日曜日――。
 梨緒子は親友の美月と、ランチと買い物をする約束をしていた。
 美月とは会う頻度は少なくなったものの、こうやって定期的に食事や買い物をしている。
 まだ学生の美月はともかく、梨緒子は夜から仕事があるため、悠長に遊んでいる時間はない。百貨店の開店時間に合わせ、二人は店の前で待ち合わせをした。

 二人が落ち合ってからは、あっという間に時間は過ぎていく。
 服や雑貨など一通り買い物をすませると、積もる話に花を咲かせるべく、行きつけのカフェへと移動するため、エスカレーターへと向かった。
 ふと、梨緒子は思い出し、梨緒子は先を行く美月を呼び止めた。
「美月ちゃんゴメン。お昼ごはんの前に、ちょっと二階に付き合って」
「二階って、メンズフロア? 何買うの?」
 美月は不思議そうに聞き返してくる。
 二人の普段の定番買い物ルートに、二階は入っていない。滅多に足を踏み入れない領域だ。
 二階はスーツやカバンやネクタイなど、主に大人の男性向けの商品が取り扱われている。
「まだちゃんと決めてないんだけど、秀平くんにね、プレゼントしようと思って」
「プレゼント? 誕生日でもないのに?」
 美月は目を瞬かせた。
 確かに、秀平の誕生日は秋で、まだ半年先だ。クリスマスでもバレンタインでもないこの時期に、なぜプレゼントをするのか、美月には理解できないらしい。
「うん。秀平くんにいつもデートのお金出してもらってるし。日頃の感謝というか、そんな感じ。お給料があるから、それなりのものは買ってあげられると思うんだけど」
「へー、やっぱり社会人は羽振りが違うねー」
 美月は感心したように頷いている。
「ネクタイとかシャツとか、身につけるものがいいかなーって。今日はとりあえず下見だけ。来週の水曜日に札幌行くから、その時に秀平くんの欲しそうなものとかチェックして、それからちゃんと決めるつもり」
 美月は梨緒子の説明を聞き、寄り道の申し出を二つ返事で了承した。
 そして。
 二人はエスカレーターを二階で降りると、慣れない雰囲気が漂うメンズフロアへと足を踏み入れた。


 下見を念入りにすませたあと、梨緒子と美月はようやく行きつけのカフェで、遅いランチにこぎつけた。
 休日の昼下がり、午後二時過ぎのカフェの店内は、お茶を楽しむ人たちで適度に混んでいる。
 注文をすませて一息つくと、美月は思い出したように話を切り出してきた。
「そうだ、梨緒ちゃん」
「なあに?」
「ひょっとして、永瀬くんっていま帰ってきてるの?」
「え? 帰ってきてないけど?」
「じゃあ、見間違いだよね、きっと」
 梨緒子の手の平に、じわりと不快な汗が噴き出す。
 これは、既視感。
「昨日、佐藤さんと会ったんだけどね、その時になんか、永瀬くんらしき人を見かけたって言ってたから」
 美月が話を聞いた相手というのは、梨緒子たちの高校時代の同級生である。当然、秀平とも同じクラスだった人物だ。
 見間違い――その言葉で簡単にすませていいものなのかどうか、梨緒子は不安にかられた。

 目撃したのが一人ならまだしも、二人であるなら――。

 秀平は、週末に札幌にはいない、と梨緒子に話していた。
 札幌にはいない。つまり、札幌以外の場所にいる。
 だから、地元に帰ってきている可能性は、『ゼロ』とは言い切れない。
 梨緒子は勝手に、就職活動で東京辺りにでも出かけるのだと思い込んでいた。自分の用件を伝えるのに夢中で、秀平がどこへ行くのか、まるで気に留めていなかったのである。
 しかし、いくらなんでも地元に帰省してきているということはないだろう。それなら梨緒子に連絡をしてくるはずである。
 そう思い、聞き流そうとしていたとき――。
「まあ、他人の空似だよね、絶対。だって、女と一緒に歩いてたって言ってたし」
 思わず呼吸が止まった。
 まただ。
「女? 見たって、いったいどこで?」
「駅裏のショッピングモールって言ってたけど」
「ええ? ……まさか」
 もやもやとしたものが梨緒子の胸をかき乱す。
 女と一緒。
 類が梨緒子に話していたことと、同じだ。
「なに、ひょっとして本人の可能性ありなの?」
「ないと思うけど……でも実はね、美月ちゃんで二人目なの」
「永瀬くんに、いまどこにいるか聞いてみたら?」
「いいよそんな。いま就職活動で忙しいんだから。それに、密かに帰ってくる理由なんてないし。私以外の女の人と一緒なんて、しかもショッピングだなんて、秀平くんに限ってそんなのありえないから」
 梨緒子は自分自身を納得させるように、キッパリと言い切った。

 そう、ありえない。
 永瀬秀平と言う男がどんな人間であるか、彼女である自分が一番良く知っている。
 ありえない。
 見間違いに――きまってる。

「自信に満ち溢れてるねー。頼もしいっ、梨緒ちゃん!」
 美月は嬉しそうに笑った。
 高校時代に、些細なことで一喜一憂していた梨緒子のことを知っているだけに、秀平と梨緒子のカップルとしての成長ぶりを、心から喜んでいるらしい。
「あと一年ちょっとの我慢だもん。まあ、遠距離がもっと続くにしてもね、秀平くんも社会人になれば、金銭的に余裕ができて、今よりももっと気軽に会えるようになるし」
「そうだよね……遠距離が続く可能性のほうが、はるかに高いんだもんねえ」
 そのことは、梨緒子も薄々感づいていた。

 たった四年では、すまないのかもしれない――と。

 自分が社会人になって視野も広がり、いろいろなものが見えてくるようになった。
 学業と恋愛の両立よりも、仕事と恋愛の両立のほうが、もっともっと障害が大きいのだということも、最近になってようやく気づき始めた。
 もちろん、転勤のない職場や自営業であれば問題はないのだろうが――秀平にその選択肢を押し付けることはできない。
 梨緒子は軽くため息をついた。
「なんかね、離れてるのにも結構慣れちゃったし。秀平くんがやりたい仕事を選んでくれるのが一番だと思ってるから、就職活動とか将来どうするのかとか、あえて聞かないようにしてるんだ」
「まあ、永瀬くんが二、三年働いて安定してきた頃に結婚して、養ってもらうっていう手もありなのかな?」
「私が仕事辞めるって? そんな……」
「主婦にならなくても、永瀬くんの勤務地で看護師の仕事見つけるとかね。職場変わるのは大変だと思うけど、この先も付き合い続けていくなら、そういうことも覚悟しておかないと」

 自分はいったいどうしたいのだろう。
 秀平は、この先――どうするつもりなのだろう。

 秀平と別れることは考えられないし、また彼も具体的に結婚という言葉を口にしたりしていないが、このままいけばいずれそうなる可能性は高いだろう。

 この先も、付き合い続けていくなら――。

 しかし、そんなことをいまから心配していてもしょうがない――梨緒子はそう感じていた。
 なにはともあれ、秀平が北大を無事卒業し、就職して勤務地が確定してから考えればいいことなのである。
 いまはただ、現在のことだけを考えていたい。

 ――そう。いまが幸せなら、それでいいんだから。

 梨緒子の頭の中はもうすでに、三日後に札幌へ行くことでいっぱいになっていた。