Lesson 7  恋わずらいの妙薬 (9)

 それから一ヵ月後――。
 秀平がようやく帰省してくる事になった。
 いろいろとやらなければならないことがあり、一週間ほど滞在する予定らしい。
 梨緒子も仕事があるため、丸々一週間は遊ぶことはできないが、それでも久しぶりに二人でゆっくりできるかもしれないという期待感でいっぱいだった。

 梨緒子はちょうど夜勤明けだったため、朝イチの便で帰ってくる秀平を、空港まで迎えに行くことにした。
 到着口のロビーで、目的の人物が来るのを待つ。
 程なくして千歳からの便が到着し、小さなカバン一つ抱えた秀平が、到着口に姿を現した。
 梨緒子は小さく手を振って、すぐに秀平のもとへと駆け寄った。
「お帰りなさい」
「ただいま」
 秀平は照れくさそうな笑顔を見せている。
 梨緒子は我慢できずに、すかさず秀平の身体に抱きついた。
「どうしたの?」
「ちゃんとご飯食べてるか、ボディチェック」
 秀平は辺りを見回し、すぐに梨緒子の腕を振り解いた。
「こんなところでやらなくてもいいだろ。あとで好きなだけやればいいんじゃないの」
「あとで?」
 梨緒子は素直に聞き返した。
 すると、彼氏はさらりとひと言。
「今度はお預けなし、だろ」
 その言葉で、秀平が要求するものが何であるか、梨緒子はようやく分かった。
「うん――あとで、ね」
 秀平は梨緒子の言葉に満足そうに頷くと、梨緒子を促して空港のエントランスを歩き始めた。

 秀平は歩きながら、持っていたカバンからカタログのような冊子を取り出した。
 洗練されたロゴと写真――どうやらどこかの企業の会社案内らしい。
「ここに決まった。あさって挨拶に行くんだ」
 秀平の就職先――梨緒子はすぐに案内冊子を受け取り、最後のページに書かれている支店支社の所在地一覧に目を通した。
 一番近いであろう支社の所在地は、およそ車で一時間ほどかかる場所にあった。
 秀平は実家から通うのだろうか。それとも一人暮らしをするのだろうか。おそらく後者だろう。
 しかし普通に電車も通っている。いままでの遠距離を思えば、車で一時間などたいした距離ではない。
 頑張れば毎日だって行けなくはない。交通費だって、飛行機に比べたら安いものである。
「へえ。ここだったら、いまよりも――」
「いまよりも遠くなるかな」
「え……秀平くん、ちょっと待って?」
 梨緒子はもう一度会社案内のパンフレットに視線を落とした。
 地元に支社が所在しているが、本社はどうやらアメリカ合衆国らしい。
 嫌な予感がする。
 いまよりも遠いとなると、それしか考えられない。
 いずれは地元に戻ってくるかもしれないが、しばらくはまた遠距離が続くということなのだろうか。
 それは半年なのか一年なのか、それ以上か――いずれにしても、札幌以上に気軽に行くことのできない場所だ。
 梨緒子は愕然となった。
「そんな……いまよりも遠くなるなんて――」
「仕方ないだろ。遠いっていっても、なるべく梨緒子の職場に近いところを探すから。四月まではもう少し時間あるし」
 言っている意味がすぐに理解できない。
 いまよりも遠くなる。
 それは、梨緒子と秀平の距離のことではなく。

 梨緒子の職場に近いところ――つまり。

「え、もしかして……二人で一緒に、ってこと?」
「そう」
「じゃあ、勤務地は地元の支社?」
「最終的にはそうだよ。本社で研修とかはあるみたいだけど」
 これ以上離れることはない――梨緒子は一気に安堵した。

 分かりにくい。この男はいつだって分かりにくい。
 それでいて、どこまでもストレートなのだ。

 しかし、手放しでは喜べない。学生だった頃とは価値観が変わっている。
「でも、四月から……って、そんな簡単に言うけど、別に同棲が嫌だって言ってるわけじゃないよ。けどね、社会人になれば恋愛だけで割り切れないことたくさんあるし。第一、実家を出ていまよりも通勤時間のかかるところへ引っ越して、アパート暮らしするなんていったら、いろいろとうるさく言われちゃうと思う」
 そう。それが現実――。
 何といっても、梨緒子の両親が、男との同棲を簡単に許すとはとても思えない。
「秀平くんだって、実家に戻らないで部屋借りるなら、もっと職場に近いほうがいいでしょ? 私、ちゃんと毎週秀平くんのところへ行くから。札幌に比べたら全然たいしたことないし。だからね、別に同棲なんかしなくても――」
「そうじゃなくて……」
「違うの?」
 秀平は梨緒子の手から、会社案内の冊子を奪うようにして取った。
 そして、その空いた手に自分の手を重ね、しっかりと繋ぎ合わせる。
「俺、梨緒子のこと愛してる」
「ど、どうしたのいきなり」
 いつになく大胆な秀平の言動に、梨緒子は驚きを隠せない。
 秀平の手の温もりが梨緒子のすべてを包み込んでいく。
「本当に愛してるから」
「……え、ああ、うん」
 そのまま秀平は黙った。
 もっと何かを言いたいのだろう。しかし、上手く言葉にできずにいる。
 梨緒子はそれ以上、何も聞こうとはしなかった。
 ただひたすら手を繋いで歩き続けながら、ゆっくりと彼の言葉を待つ。
「あのさ、梨緒子」
「うん? なあに?」
「俺、結婚しようと思うんだ」
「けっ…………結婚?」
 梨緒子は自分の耳を疑った。
 青天の霹靂とは、まさにこういうことを言うのだろう。
「うん。だから、同棲じゃなくて同居、ということで」
 言いたいことはたくさんあるはずなのに、混乱のあまり言葉にならない。
「え……あ、あの…………いつ?」
「だから、四月。卒業したらすぐに。あとでちゃんと、梨緒子のご両親に挨拶にいくから」
 梨緒子は、淡々と説明を続ける彼氏の手を引っぱり、その場に立ち止まらせた。
 すでに、思考能力の限界だ。
「ちょっと待って!? だ、だって、そんな、卒業してすぐって……あの、別にね、嫌とかそんなんじゃなくて、でもね、そんなに急がなくったって良くない?」
「確かに急ぐ必要はないけど、のんびりと待つ理由もないし。いつか必ず結婚するなら、今すぐしてもいいかな――と思って」

 急ぐ必要は、ない。
 のんびり待つ理由も――ない。

「そう……だよね」
 そう、つまり。
 考える余地などないのである。
「秀平くんには、私しかいないんだもんね」
「うん」
「秀平くんのこと幸せにしてあげられるのは、私だけなんだもんね」
 梨緒子が笑顔でそう答えると。
 秀平は心から嬉しそうに微笑んで、軽く頭を下げて梨緒子にお辞儀をした。
「うん――よろしくお願いします」

 そのまま二人はしっかりと手と手を繋ぎ直して、未来へ向かってゆっくりと歩き始めた。


(了)