Lesson 7 恋わずらいの妙薬 (8)
もう夏も終わろうとしている。初秋を思わせる涼しい風がゆっくりと歩く二人の背中を押していく。
秀平は点滴を受けてから、随分と体調が楽になったらしい。行きに比べて、帰りの足取りは軽かった。
しかし、秀平はずっと黙ったまま、ひと言も口を聞こうとはしない。梨緒子も無理に話しかけようとはせず、秀平の歩みに合わせて、ただ並んで歩いていた。
アパートへ戻ると、洗濯機の回る音に気づいたのか、秀平はかすかに眉を寄せた。
梨緒子は言葉を先読みして、すかさず答える。
「シーツ取り替えておいたから。パジャマもベッドの上に出してあるから、着替えて横になってて」
「……」
「まだ、手伝いが必要?」
「……」
ようやく秀平が、梨緒子のほうへと顔を向けた。熱で幾分潤んだ瞳がじっと、何かを言いたげに揺れている。
しかし、秀平は結局黙ったまま、部屋の中へと入っていってしまった。
――ホントにホントにホントに、この男ったらもう。
強引に服を脱がせたことに対する怒りなのか。
勝手にシーツを取り替えたことで、枕の下にあったものを梨緒子に見られてしまったことの恥かしさなのか。
しかし、いまの梨緒子は、たとえ秀平に何を言われたとしても、まったく平気だった。
もう、以前の自分とは違う。痛くもなんともない。
梨緒子はキッチンを拝借して、食事の準備を始めた。
レトルトのおかゆを鍋に空け、そこに卵を割り入れ、味を調える。
あっという間に完成だ。
キッチンから部屋へと移動すると、秀平は梨緒子に言われたとおり、用意されていたパジャマに着替えてベッドに入り、上半身を起こした状態で座っていた。
口を固く閉ざしたまま、じっと梨緒子の行動を眺めている。
梨緒子はおかゆの入った器とスプーンを載せたトレイを、掛け布団のかかった秀平の膝の上にそっと置いた。
「食欲ないかもしれないけど、お薬飲む前にね、少しでも胃に何か入れておいたほうがいいから」
しかし、秀平はお粥に手をつけようとしない。
梨緒子はベッドの側に膝立ちになり、器を手にとった。そしてひとさじすくうと、湯気をふうと吹き付け、それを秀平の口元まで持っていく。
「ちゃんと食べないと駄目」
秀平はやはり、口を開けようとしない。
梨緒子はいったんあきらめ、ひとさじの冷めたお粥を自分の口へと入れた。
その様子を、秀平はすぐ側でじっと観察している。
梨緒子は構わず続けた。
「美味しい。ちゃんと上手くできてるよ。変なものとか入ってないから、はい、口開けて」
もう一度、挑戦する。スプーンにお粥をひとさじすくい直し、唇に触れるすれすれまでそれを近づけてやる。
「ほら、アーンて」
スプーンを持つ手に反応があった。
根負けしたのか、ようやく秀平が半分だけ、スプーンのお粥に食いついた。
いまの秀平にはお粥でさえ味が濃かったらしい。わずかに眉間にしわを寄せ、ゆっくりと喉を動かしてお粥を飲み込んでいく。
一口食べたことで、梨緒子はようやく安堵した。
すると。
「……どうして、来たの?」
静かな部屋の中に、秀平の低くかすれた声が響いた。
お粥を器の中でかき混ぜるスプーンの微かな音が、沈黙の中に浮かび上がる。
「来るわけないって、思った?」
「……」
「だから、すぐに電話切ったんでしょ?」
「……」
秀平は反応しなかった。しかし、そのことが何よりの肯定の返事となる。
そう。
あの二秒という時間は、彼の精一杯の意思表示だったのである。
いろいろな心の葛藤があり、不安と孤独に苛まされながらの、二秒――。
梨緒子は持っていたおかゆの器をトレイの上に戻した。そして、しっかりと秀平の顔を見つめた。
「来るよ。来るに決まってるでしょ。秀平くんが困ってたらどこにだって――」
どうして、なんて聞かれるまでもない。
理由はたったの一つ。
「私は、秀平くんの彼女だもん」
すると。
突然、秀平の両目から涙がこぼれた。
「梨緒子、俺――」
片手で必死にあふれる涙をおさえようとするが、どんどんあふれて、やがて掛け布団を濡らしていく。
「もう嫌なんだ、こんなの」
小さな子供のように泣きじゃくる秀平の姿に、梨緒子は言葉を失ってしまった。
「どうしても……これ以上遠距離続けるの、嫌だ」
梨緒子は黙って秀平の声に耳を傾けていた。
彼の心の悲鳴がいま、言葉となって涙とともにあふれている。
「梨緒子が、俺の側からいなくなるのが、本当に嫌なんだ。梨緒子は簡単にこっちに来るって言うけど、その度に離れるのが辛くて、いつもいつも、本当にもう、どうしようもならなくなる――」
だから秀平は梨緒子に、札幌へは来なくていいと言っていたのだ。
それは、決して金銭的な問題だけではなかったのだと、梨緒子はようやく理解できたのである。
頻繁に連絡を取ろうとしないのも、自分から会いたいという意思表示ができないのも、すべてはそこに原因があるに違いない。
梨緒子は、自分以上に遠距離恋愛に弱音を吐く彼氏が、愛しくもあり――また情けなくもあった。
遠距離となったあの日。
たった四年だからと自分を奮い立たせて、それでも寂しさを拭いきれずに涙を流していた彼の姿を、梨緒子は昨日のことのように思い出す。
この男は、そういう人間なのだ。
「あとたったの八ヶ月でしょ? しっかりしなさい!」
梨緒子は完全に気持ちが据わった。
もう、揺れない。
彼を支えられるのは、自分しかいないのだから――。
「こんなんじゃ、秀平くんのことが心配でおちおち仕事もしてられないじゃない! ちょっとケンカしたくらいで、ご飯食べなくなるなんて……もう、そんなんじゃ身体壊すに決まってるでしょ?」
何気ない晩御飯のメールも、梨緒子に見てもらいたいから頑張って自炊もしていた。
しかしケンカが長引いて、やがて自炊するのも止めてしまい、友人の成沢が心配するほどに身体をやつれさせてしまった。
本当に、どうしようもない男なのである。
本当に、本当に――。
「今度から、何を食べたか全部メールして。晩だけじゃ駄目。最低一日三回、必ず」
「そんな――」
「うるさい。黙んなさい」
秀平は驚いたように両目を瞠った。
「これからも続けるなら、それが条件」
「……」
頬に伝った涙を手の甲で拭い、秀平は消え入りそうな声で答えた。
「…………メール、する」
ようやく――彼が、自分の手の中に戻ったのだ。
仲直りをしたとか、よりを戻したとか、そんなありきたりの言葉では表現できない。
本当に自分のものになったのだと、梨緒子は確かに実感できたのである。
「さあ、薬飲んで少し横になろうね。点滴して楽になっても、完全に治ったわけじゃないから」
秀平は梨緒子の言うことを素直に聞き、用意された薬を飲んで、ベッドに横たわった。
梨緒子は掛け布団を引き上げて、苦しくないように胸のところまで掛けてやる。
「大丈夫。すぐ良くなるよ。今夜はちゃんと側についてるから」
「いつまでいるの?」
「明日の朝帰るよ。夜勤が入ってるから」
秀平の瞳は不安な色をたたえている。また一人残されてしまうのが嫌なのだろう。
しかし、梨緒子には仕事がある。帰らないわけにはいかない。
梨緒子はベッドの端に腰かけ、そのまま横たわる秀平の顔を真っ直ぐに見下ろせるよう、上半身をひねらせて、体重をすべてかけないよう両肘で身体を支えて、秀平の胸の上に載るような体勢をとった。
「すぐに治って、私のところへ戻ってこられるように、いまからおまじないかける」
梨緒子は秀平の頬に、あくまで優しくキスをした。
秀平は身じろぎ一つせず、梨緒子の行動に身を委ねている。吐息を感じる至近距離で、秀平の瞳が艶やかに瞬く。
「……うつるよ」
「頬なら平気」
すると。
秀平の手が、そっと梨緒子の身体に触れた。
繊細な指が梨緒子の肩をなぞり、そのまま胸の膨らみを辿っていく。
梨緒子はそのもどかしい感触に慌てて身を引き、身体を起こした。
「これ以上は、駄目。具合悪いんでしょ?」
「…………また、お預けか」
どことなく棘のあるつけ離したような言葉に、梨緒子は思わず赤面した。
「お、お預けってそんな、ホントそうやっていつまでも根に持つんだから!」
また、などと。
確かに以前、彼を拒んでしまったのは事実であるが、それをいつまでも――。
気にしていない素振りを見せるくせに、人一倍気にするのである。それは昔もいまも変わらない。
そして、きっとこれからも変わらないのだろう。
梨緒子は深々とため息をついた。
「元気になったら、思う存分ちゃんと相手するから」
「本当?」
「――うん」
梨緒子は静かに答えた。
秀平は安心したのか、ゆっくりと瞳を瞬かせている。
「だから今は休んで、ね?」
彼の病の半分は、もうすでに梨緒子が治したのだ。
秀平はベッドの中から腕を伸ばし、梨緒子のシャツの袖を引っぱった。
「寝る前にもう一回、おまじないして」
「え?」
「早く――治りたいから」
梨緒子はいいよ、と言ってもう一度、優しく秀平の頬に口づけた。
秀平は点滴を受けてから、随分と体調が楽になったらしい。行きに比べて、帰りの足取りは軽かった。
しかし、秀平はずっと黙ったまま、ひと言も口を聞こうとはしない。梨緒子も無理に話しかけようとはせず、秀平の歩みに合わせて、ただ並んで歩いていた。
アパートへ戻ると、洗濯機の回る音に気づいたのか、秀平はかすかに眉を寄せた。
梨緒子は言葉を先読みして、すかさず答える。
「シーツ取り替えておいたから。パジャマもベッドの上に出してあるから、着替えて横になってて」
「……」
「まだ、手伝いが必要?」
「……」
ようやく秀平が、梨緒子のほうへと顔を向けた。熱で幾分潤んだ瞳がじっと、何かを言いたげに揺れている。
しかし、秀平は結局黙ったまま、部屋の中へと入っていってしまった。
――ホントにホントにホントに、この男ったらもう。
強引に服を脱がせたことに対する怒りなのか。
勝手にシーツを取り替えたことで、枕の下にあったものを梨緒子に見られてしまったことの恥かしさなのか。
しかし、いまの梨緒子は、たとえ秀平に何を言われたとしても、まったく平気だった。
もう、以前の自分とは違う。痛くもなんともない。
梨緒子はキッチンを拝借して、食事の準備を始めた。
レトルトのおかゆを鍋に空け、そこに卵を割り入れ、味を調える。
あっという間に完成だ。
キッチンから部屋へと移動すると、秀平は梨緒子に言われたとおり、用意されていたパジャマに着替えてベッドに入り、上半身を起こした状態で座っていた。
口を固く閉ざしたまま、じっと梨緒子の行動を眺めている。
梨緒子はおかゆの入った器とスプーンを載せたトレイを、掛け布団のかかった秀平の膝の上にそっと置いた。
「食欲ないかもしれないけど、お薬飲む前にね、少しでも胃に何か入れておいたほうがいいから」
しかし、秀平はお粥に手をつけようとしない。
梨緒子はベッドの側に膝立ちになり、器を手にとった。そしてひとさじすくうと、湯気をふうと吹き付け、それを秀平の口元まで持っていく。
「ちゃんと食べないと駄目」
秀平はやはり、口を開けようとしない。
梨緒子はいったんあきらめ、ひとさじの冷めたお粥を自分の口へと入れた。
その様子を、秀平はすぐ側でじっと観察している。
梨緒子は構わず続けた。
「美味しい。ちゃんと上手くできてるよ。変なものとか入ってないから、はい、口開けて」
もう一度、挑戦する。スプーンにお粥をひとさじすくい直し、唇に触れるすれすれまでそれを近づけてやる。
「ほら、アーンて」
スプーンを持つ手に反応があった。
根負けしたのか、ようやく秀平が半分だけ、スプーンのお粥に食いついた。
いまの秀平にはお粥でさえ味が濃かったらしい。わずかに眉間にしわを寄せ、ゆっくりと喉を動かしてお粥を飲み込んでいく。
一口食べたことで、梨緒子はようやく安堵した。
すると。
「……どうして、来たの?」
静かな部屋の中に、秀平の低くかすれた声が響いた。
お粥を器の中でかき混ぜるスプーンの微かな音が、沈黙の中に浮かび上がる。
「来るわけないって、思った?」
「……」
「だから、すぐに電話切ったんでしょ?」
「……」
秀平は反応しなかった。しかし、そのことが何よりの肯定の返事となる。
そう。
あの二秒という時間は、彼の精一杯の意思表示だったのである。
いろいろな心の葛藤があり、不安と孤独に苛まされながらの、二秒――。
梨緒子は持っていたおかゆの器をトレイの上に戻した。そして、しっかりと秀平の顔を見つめた。
「来るよ。来るに決まってるでしょ。秀平くんが困ってたらどこにだって――」
どうして、なんて聞かれるまでもない。
理由はたったの一つ。
「私は、秀平くんの彼女だもん」
すると。
突然、秀平の両目から涙がこぼれた。
「梨緒子、俺――」
片手で必死にあふれる涙をおさえようとするが、どんどんあふれて、やがて掛け布団を濡らしていく。
「もう嫌なんだ、こんなの」
小さな子供のように泣きじゃくる秀平の姿に、梨緒子は言葉を失ってしまった。
「どうしても……これ以上遠距離続けるの、嫌だ」
梨緒子は黙って秀平の声に耳を傾けていた。
彼の心の悲鳴がいま、言葉となって涙とともにあふれている。
「梨緒子が、俺の側からいなくなるのが、本当に嫌なんだ。梨緒子は簡単にこっちに来るって言うけど、その度に離れるのが辛くて、いつもいつも、本当にもう、どうしようもならなくなる――」
だから秀平は梨緒子に、札幌へは来なくていいと言っていたのだ。
それは、決して金銭的な問題だけではなかったのだと、梨緒子はようやく理解できたのである。
頻繁に連絡を取ろうとしないのも、自分から会いたいという意思表示ができないのも、すべてはそこに原因があるに違いない。
梨緒子は、自分以上に遠距離恋愛に弱音を吐く彼氏が、愛しくもあり――また情けなくもあった。
遠距離となったあの日。
たった四年だからと自分を奮い立たせて、それでも寂しさを拭いきれずに涙を流していた彼の姿を、梨緒子は昨日のことのように思い出す。
この男は、そういう人間なのだ。
「あとたったの八ヶ月でしょ? しっかりしなさい!」
梨緒子は完全に気持ちが据わった。
もう、揺れない。
彼を支えられるのは、自分しかいないのだから――。
「こんなんじゃ、秀平くんのことが心配でおちおち仕事もしてられないじゃない! ちょっとケンカしたくらいで、ご飯食べなくなるなんて……もう、そんなんじゃ身体壊すに決まってるでしょ?」
何気ない晩御飯のメールも、梨緒子に見てもらいたいから頑張って自炊もしていた。
しかしケンカが長引いて、やがて自炊するのも止めてしまい、友人の成沢が心配するほどに身体をやつれさせてしまった。
本当に、どうしようもない男なのである。
本当に、本当に――。
「今度から、何を食べたか全部メールして。晩だけじゃ駄目。最低一日三回、必ず」
「そんな――」
「うるさい。黙んなさい」
秀平は驚いたように両目を瞠った。
「これからも続けるなら、それが条件」
「……」
頬に伝った涙を手の甲で拭い、秀平は消え入りそうな声で答えた。
「…………メール、する」
ようやく――彼が、自分の手の中に戻ったのだ。
仲直りをしたとか、よりを戻したとか、そんなありきたりの言葉では表現できない。
本当に自分のものになったのだと、梨緒子は確かに実感できたのである。
「さあ、薬飲んで少し横になろうね。点滴して楽になっても、完全に治ったわけじゃないから」
秀平は梨緒子の言うことを素直に聞き、用意された薬を飲んで、ベッドに横たわった。
梨緒子は掛け布団を引き上げて、苦しくないように胸のところまで掛けてやる。
「大丈夫。すぐ良くなるよ。今夜はちゃんと側についてるから」
「いつまでいるの?」
「明日の朝帰るよ。夜勤が入ってるから」
秀平の瞳は不安な色をたたえている。また一人残されてしまうのが嫌なのだろう。
しかし、梨緒子には仕事がある。帰らないわけにはいかない。
梨緒子はベッドの端に腰かけ、そのまま横たわる秀平の顔を真っ直ぐに見下ろせるよう、上半身をひねらせて、体重をすべてかけないよう両肘で身体を支えて、秀平の胸の上に載るような体勢をとった。
「すぐに治って、私のところへ戻ってこられるように、いまからおまじないかける」
梨緒子は秀平の頬に、あくまで優しくキスをした。
秀平は身じろぎ一つせず、梨緒子の行動に身を委ねている。吐息を感じる至近距離で、秀平の瞳が艶やかに瞬く。
「……うつるよ」
「頬なら平気」
すると。
秀平の手が、そっと梨緒子の身体に触れた。
繊細な指が梨緒子の肩をなぞり、そのまま胸の膨らみを辿っていく。
梨緒子はそのもどかしい感触に慌てて身を引き、身体を起こした。
「これ以上は、駄目。具合悪いんでしょ?」
「…………また、お預けか」
どことなく棘のあるつけ離したような言葉に、梨緒子は思わず赤面した。
「お、お預けってそんな、ホントそうやっていつまでも根に持つんだから!」
また、などと。
確かに以前、彼を拒んでしまったのは事実であるが、それをいつまでも――。
気にしていない素振りを見せるくせに、人一倍気にするのである。それは昔もいまも変わらない。
そして、きっとこれからも変わらないのだろう。
梨緒子は深々とため息をついた。
「元気になったら、思う存分ちゃんと相手するから」
「本当?」
「――うん」
梨緒子は静かに答えた。
秀平は安心したのか、ゆっくりと瞳を瞬かせている。
「だから今は休んで、ね?」
彼の病の半分は、もうすでに梨緒子が治したのだ。
秀平はベッドの中から腕を伸ばし、梨緒子のシャツの袖を引っぱった。
「寝る前にもう一回、おまじないして」
「え?」
「早く――治りたいから」
梨緒子はいいよ、と言ってもう一度、優しく秀平の頬に口づけた。