宿命の章 (2)  天涯孤独の意味

「そりゃあね、いくら身内っていっても、死人と二人だけじゃ、いい気はしないよなあ」
 初夏の昼下がり――芹沢邸は静まり返っている。
 広大な敷地にあるこの建物の中は、外界の喧騒とは無縁だ。
 その無音状態が、華音はとても心細かった。口数の多い高野がそばにいることが、唯一の救いだった。
「冷静に考えれば、分かりそうなもんだけどね。さすがに富士川ちゃんも、そこまで気を回す余裕がないとみえる」
 高野はパジャマのポケットから、封の開いた煙草の箱を取り出した。中から最後の一本出してくわえると、空箱を左手でぐしゃりと潰した。
 部屋の隅のサイドテーブルには、大理石の灰皿と美しい彫金の施されたライターが置いてある。愛煙家で通っていた芹沢老人の愛用の品だ。
 高野はそれを拝借し火を点けると、窓辺に寄って紫煙をくゆらせ始めた。

 華音は、部屋の隅に置かれた一人掛けのソファに腰かけていた。
 身動きせず横たわった祖父の横顔が、真正面に見えている。
 どういうわけか、涙はひとしずくも出てこない。
 華音は、自分自身の感情がどうあるべきか、まるで分からなかった。
「おじいちゃんはいつだって、こんな難しい顔してた」
 華音の祖父は、人生のすべてを音楽に費やし、その芸術性と精神性を融合させるための理想郷を、ストイックに追い求め続けていた。
「優しい顔なんてほとんど見たことなかったし。自分が今、本当に悲しいのか、分かんない」
「途惑ってるんだよ、きっと」
 高野は窓辺にもたれかかったまま、ため息ともとれる煙をゆっくりと吐いた。煙草を指で挟む仕草がさまになっている。ピアニストらしい、長くて形のよい指の持ち主だ。
 華音は力なく首を横に振った。
「ううん、違うと思う。私、これからどうなっちゃうんだろうね」
「どうなっちゃうって?」
「親戚もいないし、本当に一人になっちゃったんだね、私」
 何となく口にした言葉。
 華音はここへきてようやく、自分の気持ちが整理できた気がした。
 祖父を失った悲しみよりも、孤独からくる漠然とした不安が、はるかに上回っているのである。
「一人って……富士川ちゃんだっているしさあ、俺だっているじゃない? そんなに悲観的にならなくても――って、こんな状況で言うセリフでもないか」
「それは分かってる。そうじゃなくて、血が繋がってる人間がいないっていう意味。こういうの、天涯孤独って言うんだよね」
 高野は何とも微妙な表情をした。煙草の吸い口に唇をつけたり離したりを繰り返している。
 唯一の家族を失った少女に、どのような返答をするべきか困っているらしい。
「まあ、捜せばいるかもよ? 芹沢のオヤジはノン君の両親のこと禁句にしてたけどさ。日本のどこかには、オジさんオバさんとかイトコなんてのも、いるかもしれないし」
 あくまで希望的観測の域を出ていない発言だ。
 確かめる術は、何もないのである。
「両親、私が一歳のときに死んでるんだよ? もう十五年も経ってるし。第一、両親のことすらよく分かってないし」
 高野は灰皿に吸いかけの煙草を押しつけた。そしてだるそうに伸びをすると、華音の隣にもう一つ置かれているソファにどかりと座り込んだ。
「教えてあげようか?」
 高野の口から発せられたのは、華音の予想をはるかに超えるものだった。
 華音はとっさに高野のほうへと向き直り、飄々としたその横顔をじっと見つめた。
「えっ……高野先生、知ってるの? 私の両親のこと」
「そんな詳しくはないけどさ。まあ、知ってる範囲でなら。もう口止めする必要もないでしょ」
 高野はちらりと芹沢老人の遺骸に視線をやった。
 この高野和久というピアニストも、富士川と同様に、華音が物心ついた頃から芹沢家に出入りしていた。しかしこれまで、華音の両親のことについて触れたことは一度もなかった。
 興味がないといえば、嘘になる。
 しかし、十五年もの間頑なに口を閉ざしてきた祖父が亡くなったからといって、それをすぐに聞いてしまうというのは、祖父に対する裏切り行為なのでは――華音は複雑な思いに囚われてしまう。
 華音に両親のことを話して聞かせたくない理由が、祖父には何かあったに違いない。
 そう思うと、とても素直に聞く気にはなれなかった。
「いいよ別に。父親は『大学中退して、カケオチ同然に家を出た不義理の息子』で、母親は『どこのウマの骨だか分からない、大切な一人息子をたぶらかした魔性の女』なんでしょ。聞き飽きたよ、そんなの」
「うわ、誰が言ったのそんなこと」
「おばあちゃんが生きてたときに、しょっちゅう言ってたもん。で、赤ちゃんだった私を残して、事故で死んじゃったって」
 あのババアはなぁ……と高野は苦々しく呟いた。
 高野にとって、芹沢夫人はあまりいい印象ではないらしい。その芹沢夫人も、五年前にすでに他界している。
「あとは? その他に何か言ってた?」
「ううん、それだけ。私の父親って人のものは全部処分してしまったから、何もないって。写真もないから、顔も分かんない。知ってるのは、名前だけ」
「写真も残ってないのかあ。案外どっかに隠してんじゃないの? でもね、ノン君は父親似だよ。卓人さんに瓜二つだもんな。俺、学生時代に何度か会ったことあるけど、なかなかカッコいい人だったよ」
 高野は、見知らぬ父親と、過去に時間を共有していた。
 学生時代となると、おそらく十七、八年前のことだろう。きっと、華音がこの世に生まれてくる前の話だ。
 両親が事故で亡くなったのは、華音が一歳になったばかり、十五年ほど前のことだと聞かされている。
「やっぱさあ、俺たちも行こうか? 公会堂に」
 唐突に、高野がソファにふんぞり返りながら、そう華音に提案してきた。
「え? これから?」
 華音は驚いた。富士川に、ここに残るように言われている。
 そして、『公会堂は修羅場になる』と言っていたのは他でもない、華音の隣で座ってくつろいでいる、このピアニストなのだ。
「どうせここにいたって、俺たちじゃ何にも役に立たないし、執事さんたちにあとは任せてさあ。チラッと様子、見に行ってみよう。何だかさ、胸騒ぎがするんだよねえ……」
 高野はやはり気になっているのだろう。もちろん心配でもあるのだろうが、修羅場見たさの野次馬根性に違いない。
 しかし華音も、富士川がどんな大変な状況に置かれているのか、とても気掛かりとなっていた。
 理由は何であれ、高野の申し出は願ってもないことだ。
 二人は意見が一致した。
 さっそく二人は執事に事情を説明し、高野の運転する車で市立公会堂へと出ることにした。

 そして高野の『胸騒ぎ』は、的中してしまうこととなる――。



 富士川に遅れること一時間あまり――。
 華音は高野和久と共に、芹沢邸から市立公会堂へと移動してきた。
 市立公会堂の大ホールは、客席三階構造で収容人数は1800人、演劇からアーティストのライブ、講演など、多目的な催事のために使用されている。
 芹響の定期演奏会は、このホールで行われるのが通例となっていた。

「とりあえず、俺の楽屋に行こうか」
 高野は、今夜の演奏会でピアノ協奏曲のソリストを務めることになっているため、専用の楽屋が用意されている。
 自分の自由になる場所に身を置いたほうが、修羅場の様子をうかがうには都合がいい、というのが高野の言い分だった。
「祥ちゃん……どこにいるのかな?」
「さあねえ、忙しく動き回ってるんじゃないのかな。公会堂の中のどこかにはいると思うけど」
 華音は富士川の言いつけを守らずにここまで来てしまったのである。邪魔になるようなことだけは、避けなければならない。
 二人は正面入り口ではなく、建物の外を回り込んで、楽屋入口のドアを目指した。

 高野にあてがわれた楽屋は、楽屋棟三階奥の個室だ。
 三階には他に、指揮者の楽屋もある。高野の楽屋は、ちょうどその向かい側に位置する部屋だった。
 高野はいまだ芹沢邸に駆けつけたとき同様、上下パジャマに上着を羽織ったままだ。
 二人は辺りの様子をうかがうようにして、楽屋棟の階段を上がっていく。
 幸いにも、高野の服装をとがめるような人影は見当たらない。
 華音は安堵した。

 ようやく二人は、高野専用の個室である楽屋の中へと入り込んだ。
 楽団員たちの使用する二階の大楽屋と違い、こぢんまりとしている。二人でいるには充分な広さだ。
 テーブルの上には、手つかずの弁当がお茶のポットと一緒にして置かれている。
「なんか、予想外に静まり返ってるなあ。どうする? ステージでも覗いてくるか……いや、やっぱり止めておいたほうが良さそうかな」
「どうして?」
「んー、まだ結論が出ていないってことなんじゃないのかなあ、と思って」
 華音の心臓が、ひときわ高鳴った。
 そう――。
 この建物のどこかでは、現在進行形で大騒動となっているに違いないのである。
 富士川青年が一人対応に苦慮している姿が、華音の目にハッキリと浮かぶ。
 しかし、華音はなんの役にも立たない。ただひたすら、見守ることしかできないのである。
 高野はパジャマ姿のまま、部屋の隅に置かれている長椅子に横になった。結局、様子を見に行く気をなくしてしまったらしい。
 華音はどうするべきか、一人迷っていた。

 そのときである。
 ドアを二度、ノックする音がした。
 部屋の主である高野が返事をすると、黒い礼服姿の若い男が、客演用の楽屋へと入ってきた。
「ああ、良かった。来てくださってたんですね」
 姿を表したのは、ヴァイオリンの美濃部達朗だった。
 美濃部はステージマネージャー的雑用を任されている男で、各団員への連絡もこの青年の仕事だ。独特の論理的な喋り口調が特徴である。

 美濃部は、高野のそばに華音の姿を捉えると、一瞬驚いたような表情を見せた。しかしすぐに素に戻り、淡々とタイムテーブルの確認を続ける。
「今夜の演奏会、予定通り開演するそうですよ、高野先生」
「はあ? と、いうことは、富士川ちゃんがやる気になったってことか。誰か知らんけど、よく説得したもんだなあ。オヤジの言うこと以外、耳貸すことなんかないのかと思ってたよ、俺は」
 やる気があるのかないのかハッキリしない高野を横目に、美濃部は構わず説明を続ける。
「相当揉めてたみたいですけどね。芹沢先生の『指揮者生活四十周年記念』という特別の舞台ですから、代役なんて立てる意味がないと、富士川さんは頑なに拒んでましたし。ただ、今夜はコンチェルトですから、高野先生のピアノを目当てに来るお客様がたくさんいらっしゃるので、簡単にキャンセルできないというのが、首席陣の最終判断のようです」
「そりゃあね、ただでさえオヤジの急死に取り乱しまくってんのにさ、指揮経験ゼロでオヤジの『代役』で振れったって、そんな簡単にウンとは――言えないよなあ」
 のそりと身を起こすと、高野は大きく伸びをし、のんびりと頭を掻き始めた。
 富士川とは対照的なそのあまりの緊張感の無さに、美濃部は呆れたように大きくため息をついた。
「それより高野先生、問題は先生ですよ?」
 そう言って、美濃部は自分の人差し指を高野の眼前に突きつけた。
「は? 美濃部ちゃん、君ねえ、これでも一応、客演のピアニストなんだから。問題児扱いは、どうかと思うぞ?」
「私は先生のこと、信じてますからね? まかり間違っても、あんなことやこんなことは、今夜だけは! しないでください。いいですね!」
「そんなこと言われてもさあ、俺、演奏中のこと、あんまり覚えてないんだよねえ。まあ、今日はまだ飲んでないし」
 この高野というピアニストは、アガリ防止の薬と称して、演奏前に必ずお酒を飲むのが常だった。その度合いによって『微酔奏法』や『泥酔奏法』なるものまで編み出す始末だ。
 酔っている状態では、自分がどんな演奏をしているのかがよく分からない、と高野は言う。しかし、その演奏は聴衆の度肝を抜くほど素晴らしく、神懸かった音楽を生み出してみせるのである。
 だからこそ芹沢英輔も、高野が多少の酒を飲んでステージに上がることを黙認していたわけだが――。
 今夜の指揮者は、『代役』だ。
「とにかく! 今日の富士川さんは、いつも以上にナーバスになってますから、それだけは覚えておいてくださいね。今日はお酒を控えて、しらふで! いいですね?」
 立場的にも年齢的にも美濃部のほうがずっと下のはずなのだが、いつも高野は言い込められてしまっている。
 華音は、目の前で繰り広げられる二人の男の言い合いをひたすら傍観していたが、ようやく重い口を開いて、美濃部青年におずおずと尋ねた。
「祥ちゃんが……指揮をするってことなの?」
 華音の問いに、美濃部青年は抑揚のない声で淡々と答えた。
「ええ。まあ、この状況じゃ富士川さんが振るのが妥当でしょうかね」
「そんなのあんまりだよ。何もこんなときじゃなくたって」
 高野が言っていた『胸騒ぎ』とは、まさにこれだったのではないか、と華音はようやく気づいた。

 富士川にとって、芹沢英輔という存在は絶対的だったのだ。崇拝し、そして敬愛を寄せていた。
 突然の死に途惑っているのは、身内である華音以上であるに違いなかった。
 それなのに――。

「確かに、華音さんの言うとおりなんですけどね。なんせ藤堂女史が、頑として譲らなくて」
 美濃部の説明に、高野が半ば呆れ顔で過剰な反応をしてみせた。
「まーた、あかり君の仕業かあ。富士川ちゃん、ただでさえ楽ちゃんのことで血ぃのぼってんのにさあ」
 藤堂あかりとは、去年音大を卒業したばかりの、才能も美貌も兼ね備えた女性団員である。
 ヴァイオリンセクションの副首席も務める彼女の、音楽に懸ける情熱は半端ではない。そのことは、楽団関係者の周知の事実である。
「というか、その『ガクチャン』って何ですか?」
 美濃部は何やら聞き慣れぬ単語に合点がいかないのか、微妙な曖昧な表情をして、高野の顔を見つめている。
「あれ、美濃部ちゃんは知らなかったっけ? んんんっ、オヤジの秘蔵っ子、かな。ウィーンで修業中の二番弟子」
 美濃部は目を丸くした。
「二番、なんていたんですか? 何か隠し子みたいですねえ」
 美濃部もまた、華音と同じような反応をしている。比較的新しい楽団員には、ほとんど二番弟子の存在は知られていないらしい。
「悪いヤツじゃないんだけどさ、まあ、なんて言うか、富士川ちゃんとはどうも合わないらしくて、さっきも電話でやりあったばかりなんだよねえ」
 華音はその説明を聞き、先ほど自宅で目の当たりにした一連の出来事を思い出した。
「あんなに怒った祥ちゃん、初めて見たもん。ねえ高野先生、その人って、相当問題あるんじゃないの?」
「いや? 才能はピカイチだし、爽やかな好青年って感じだよ。まあ、カゲではいろいろ言われてるけどさ。あの二人、何て呼ばれてるか知ってる?」
 華音と美濃部は顔を見合わせた。そして一緒に首を横に振ってみせる。
「『鬼の一番弟子』と『悪魔の二番弟子』。傑作だよねえホント」
「悪魔……なんですか?」
「例えだから、例え。魂売らなきゃ大丈夫――なんてね」
 あくまで軽く笑ってみせる高野を前にして。
 華音と美濃部は唖然としたまま、瞬きを繰り返すばかりだった。