宿命の章 (4)  告別式

 演奏会の三日後、芹沢英輔の告別式が営まれることとなった。
 式のあと、追悼演奏会が行われることになり、そこでまた、富士川は指揮をとることになった。
 今回は不可抗力ではない。師を追悼するために相応しい人物として、楽団員たちに選ばれたのである。
 富士川も、黙ってその要請を受けた。


 告別式の参列者が、会場となっているセレモニーホールへ続々と集まってきた。
 外はあいにくの雨だ。まだ昼下がりという時間であるのに、目に見えるすべてが、薄暗いベールに覆われている。別れの儀式に相応しく、曇天の空が大粒の涙をこぼしているかのようだ。
 富士川は追悼演奏会に備え、祭壇前の仮設ステージでの音響チェックに余念がない。
 必然的に、受付業務などの裏方の仕事は、出番のない華音や高野へと回ってきた。
 しかしこういった類いの仕事は、普段であれば富士川や美濃部が仕切っているため、二人の仕事ぶりは目もあてられないほど要領が悪かった。
 弔事初参加の華音はともかく、人生経験が豊富なはずの高野の動きがやたらと鈍い。高野は持ち前のいい加減さを十二分に生かし、パイプ椅子に逆向きにまたがって、背もたれに肘杖をつき、だるそうに紫煙をくゆらせている。
「真面目にやってよ、先生」
 華音が注意すると、高野はのそのそとパイプ椅子ごと前進してきた。
「俺さあ、こういう辛気くさいのに向かないんだよね。来る人来る人みんな黒ずくめでさ、一様に暗い顔してるし。俺がもし死んだら、喪服で来る奴は絶対に中に入れないからな。泣いちゃう奴なんか言語道断だね」
 そう愚痴る高野は、一応喪服に身を包んでいるが、黒のネクタイはだらしなくぶら下げただけの状態だ。

 弔問客の数が、一気に増えてきた。
 やってくる人間は、蒼々たる顔ぶれである。国内で活動している有名な演奏家や、一流オーケストラの指揮者など、業界屈指のアーティストたちばかりだ。
 受付には華音と高野の他に、セレモニーホールのスタッフ二名が手伝いに入っている。
 会葬者名簿への記帳を促すだけなら華音も何とかこなすことができても、不意に手荷物を預けられたり、伝言を頼まれたり、会場付近の地理を尋ねられたり――働いた経験のない華音には到底手におえるものではない。
 もたついているうちに、受付付近はあっという間に弔問客で埋め尽くされてしまった。

 そのときである。
 黒い人並みを掻き分けるようにして、美濃部達朗が受付へとやってきた。
 美濃部はこの状況を、充分予想していたらしい。
「やっぱり。こんなことじゃないかと思ってたんです。弔問に見えられた方が、受付で詰まってるじゃないですか。なのに、高野先生はそこで休んでいるみたいだし……私、先生の代わりにここを手伝いますよ」
 美濃部青年は持ち前のマネジメントの手腕を発揮すべく、受付の状況を素早く把握している。
 一方の高野は、あくまでのん気に構えている。
「あれ、美濃部ちゃん。富士川ちゃんの手伝いはもうすんだのかい?」
「芹響のスタンバイはOKです。あとはここをさばかないことには始まりませんからね」
 華音はようやくまともな戦力が手に入り、胸をなで下ろした。

 美濃部が受付に入ってからは、効率よく会場入りが行われた。
 告別式開始予定の午後二時まであと五分という時間まで迫ると、受付付近には弔問客もまばらになった。
 受付を手伝っていたセレモニーホール側のスタッフ二名は、今度は告別式会場の対応をするために、ホール内へと向かっていった。
 受付には華音と美濃部、そして高野の三人が残される。
「一段落、ですかね」
 人一倍機敏な働きを見せた美濃部が、華音に安堵の笑みを見せた。
 すると。
 後ろでただ物思いにふけっていた高野が突然、独り言のように呟いた。
「それにしても……大丈夫なのかなあ、富士川ちゃん」
 高野は、ようやくくわえていた煙草を、灰皿替わりの空き缶に押しこんだ。
「まあ、今日は小品を三曲ですから、三日前のようなことにはならないでしょう。やっぱりね、指揮デビューがコンチェルトだったのが、まあ、一因でしたからね」
 美濃部はあえて一因という言葉を選んだ。勝因でも敗因でもなく、あえて明確な言い回しを避ける。
 もちろん高野は、今日の追悼演奏会のことも気にかけているに違いなかったが、本当に心配なのはもっと先のことらしかった。
「団員の中にはさあ、すでに今後のことを考えて、早々に退団して、他の団体に移るなんて動きも、ちらほら見えてるしねえ。とりあえず告別式終わるまでは、表立ったことはないと思うけど、富士川ちゃんにしてみりゃ崖っぷちだよね、今まさに」
 相変わらず軽い口調だが、その発言の中身はかなり手厳しい。
「今の富士川ちゃんには、芹響をまとめていく求心力はないから」
 高野はハッキリと言い切った。

 華音はショックだった。
 芹沢交響楽団のことをよく知る高野がそう言うのだ。さまざまな根拠に基づいての意見なのである。

 高野は暗に言っている。

 富士川祥は、芹沢英輔の後継者となりえない。
 たとえ、一番弟子であっても――。

 美濃部は、腕時計とセレモニーホールの壁掛け時計を見比べ、高野を促した。
「そろそろ高野先生は中のほうへ。もうすぐ始まりますから」
「へいへい。ノン君、ホントに出なくていいの?」
「うん、ここにいる」
 華音は、富士川の指揮する背中を直視できそうになかった。三日前の夜の悪夢が、今も脳裏に焼きついている。
 高野はその理由に気づいているのか――軽くため息をつくと、何とも中途半端な表情を残して、会場となるホールへと向かっていった。
 受付のテーブルには、華音と美濃部、二人が残された。


 辺りは静まり返っている。先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。雨の外壁に叩きつれられる音が、ハッキリと聞こえている。
 こうやって美濃部と二人きりになったのは、華音は初めてだった。
 美濃部という青年は、祖父の演奏会に行くと必ず見かける顔で、華音にとってはただ社交辞令程度の会話を交わすだけの関係でしかない。
「美濃部さんは演奏しなくていいの?」
 華音は、傍らで名簿をチェックしている美濃部に話しかけた。
 美濃部は手を止めることなく、返事をする。
「しなくていいっていうか、金管と違ってヴァイオリンは人数多いですからね。何人か抜けたって平気なんですよ」
 そんなものなのか――華音にはよく分からない。
「華音さんのほうこそ、告別式、出なくていいんですか? 身内が出ないと、変な感じがしますけど?」
「有名な人がいっぱい来てるから何だか落ち着かないし、みんなから同情の眼差しを向けられるのも嫌だし、それで悲しんでない顔を見られるのもどうかと思うし。やっぱり変かな、私」
 美濃部はチェックしていた名簿からようやく目を離し、華音のほうを振り返った。そして、迷いも見せずに理路整然と語りだす。
「そりゃ人の感情なんて、決まったルールがあるわけじゃないですからね。人が死んだら悲しくなって涙を流さなければならない、ってこともないと思いますけどね。私もよく機械的だって言われますし。実のところ、別に私も悲しくないですからね」
「そうなの?」
 少しだけ、意外な言葉だった。
 楽団員なら祖父の死を悲しむべき――そう思っていたわけではない。ただ、泣き崩れていた富士川の姿を思い出し、美濃部の反応は随分と対照的だと、華音は感じたのである。
「私、芹沢先生の門下生じゃないので、他の団員の方々とは事情が違うんですよ」

 折れた廊下の先から、話し声が聞こえてくる。
 セレモニーホールの職員が、遅れてきた弔問客を案内しているようだ。複数の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
 追悼演奏会の受付へと姿を見せたのは、かなり身長が高い男だった。
 日本家屋であれば確実に鴨居に額をぶつけるタイプの人種である。身なりは嫌味ない程度にお洒落で、颯爽としていた。一見して、青年実業家だと予想できる。
 男は表情を崩さずに辺りをゆっくりと見回し、よく通る声で言った。
「赤城エンタープライズ代表の、赤城麗児と申します。芹沢交響楽団の責任者と話をさせていただきたいのだが――」
「ええと、今はまだ告別式が始まったばかりですので、そうですね……四時には終わると思いますけど」
 美濃部は腕時計に目をやり、そう説明した。
 すると赤城と名乗った男は、眉一つ動かさず、手に持っていた大きな封筒を受付のテーブルに置いた。
「四時? あいにく私にはそこまで待つ余裕がない。ところで、ここの関係者に高野和久という男がいたはずだが?」
「ああ、高野先生のお知り合いですか? すみません、高野先生は会場の中のほうに入ってしまわれまして」
「では伝えてくれ。楽団を買い取りたい人間がここに来た、と。――詳しいことは、その封筒の中にある提案書に目を通していただきたい。では、私はこの辺で失礼する」
 赤城という大男は、用件だけを手短に伝えると、そのまま記帳もせずに受付をあとにした。


 足音が完全に聞こえなくなったところで、ようやく美濃部は、華音の様子をうかがうようにして、おずおずと喋り出した。
「楽団……買うとか言ってなかったですか? 今の人。ますます雲行きがあやしくなってきましたね」
 高野の知り合いらしい赤城という大男は、確かにそのような言葉を口にしていた。
「売るとか買うとか、そんな物みたいに言われても……私にはよく分かんない」
 これが正直な華音の気持ちだ。富士川なら――何と言うだろうか。
 そもそも華音は、楽団がどういう運営体系なのかもよく理解していない。もちろん、一般会社でいうところの社長にあたるのが自分の祖父である、ということくらいはとりあえず分かる。そして富士川はその秘書、というところだろう。
 すると、華音の隣で、美濃部は自身の見解を淡々と述べ始めた。
「売っちゃったら、事実上『芹沢交響楽団』はなくなっちゃうでしょうね。まあ、楽団員が路頭に迷うようなことはなくなりますけど、うちみたいにね、一人のカリスマ指揮者が君臨するような団体には結構キビしいと思いますよ。第一、団員のほとんどが芹沢先生の門下生ですからね。楽団の名前が変わってまで演奏を続けたいと思うかどうか――」
 そこまで口にして、美濃部は何かに気づいたような顔をし、一瞬言葉を詰まらせた。
「あ……すみません。華音さんの前で言うことじゃ、なかったですよね」
 美濃部は申し訳なさそうに言った。
「いいよ別に。楽団は私のものじゃないから」

 雨はますます強くなってきた。滝の音にも似た雨音が、建物全体を包んでいる。
 そんな中。
 遠くから、革靴の規則的な足音が響いてきた。その音は、徐々に近づいてくる。
 今度はセレモニーホールの職員の声はしない。
 遅れてやってきた弔問客なのだろうか。
 どんどん靴音が大きくなる。
 華音は音のする方向を、じっと見つめた。

 角を曲がりようやく姿を見せたのは、モスグリーンのスーツに身を包んだ若い男だった。喪服ではない。先ほどの大男に比べると背丈は並だが、立ち姿はすらりとしている。
 その青年は、おもむろに受付のテーブルの前に立つと、華音の顔をいぶかしげに見つめた。
「君が、英輔先生の孫娘?」
 それが、男が発した最初の言葉だった。
 見た目以上に、喋り方は落ち着いている。色白で、瞳は吸い込まれそうなほど大きい。まつげが長く、そしてくせのない栗色の髪が印象的だ。

 ――英輔、先生? この人、もしかして……。

 華音は青年の勢いに押され、声も出せずにいた。
「どうなの? 僕の言ってること、聞こえないのか?」
 綺麗な顔に似合わず、その態度は辛辣で横柄だ。
 隣のテーブルでクロークの番号札を整理していた美濃部が、見かねて助け舟を出す。
「ええと、確かに芹沢先生のお孫さんにあたりますけど、……失礼ですが、どちらさまですか? 差し支えなければ、こちらに記帳をお願いできますか?」
 青年は美濃部のほうに一瞬だけ、視線を向けただけだった。
「富士川さんに、相手にするなとかクギ刺されてたりするわけ?」
 華音の心臓が縮み上がった。
 間違いない、この人。

 『悪魔の二番弟子』――。

 やはり美濃部は大人だ。どう対処してよいか途惑う華音とは対照的に、社交辞令をいかんなく発揮させている。
「あ、もしかして芹沢先生のお弟子さんですか? いやあ、初めまして! 美濃部です。私、おととし芹響に入団したばかりなんで、芹沢先生のお弟子さんがウィーンにもう一人いらっしゃること、つい三日前に知ったんですよ。私もヴァイオリンなんです! 良かったらウィーンのこととかいろいろ教えてください」
「ヴァイオリン? じゃあ、富士川さんとも一緒なんだ」
「ええ、一応は。でも私はただの下っ端ですからね。他の団員のように音大出身でもないですし」
 そこでようやく、青年の表情が緩んだ。
「それはむしろ光栄じゃないか。不毛な派閥争いに巻き込まれずにすんでるんだろう」
「そうですね。気楽なもんです、寂しいくらいに。ハハハ」
 美濃部が調子よく笑ってみせる。
 青年はそばにあった筆ペンを手に取ると、帳面に慣れぬ手つきで文字を綴リ始めた。

 鷹山楽人。

 たかやま、がくと――。

 やはり富士川が電話で怒鳴っていた、その張本人だ。
 華音は思わず、青年の顔をうかがうように見てしまう。
 記帳を終えたばかりの『鷹山楽人』は、筆ペンのキャップをゆっくりとはめると、それを華音の鼻先に突きつけた。
「その顔じゃ、あの男に相当、吹き込まれてるって感じかな」
「祥ちゃんは、そんな人じゃないです」
 ペンを突きつけられたままの状態で、華音は必死に言葉を返した。
 すると鷹山は何が癇に障ったのか、微かに眉間にしわを寄せて、ゆっくりと大きな瞳を瞬かせる。そして嘲るような眼差しで、華音の顔を刺すように見据えた。
「ふーん……あの男のこと、好きなの? 趣味悪いな。最悪。気に入らないね」
 震えが止まらない。
 綺麗な顔をしているのに、言うことは性悪そのものだ。

 ――なによ、いったい何なの、この人。

 鷹山はようやく突きつけていたペンを下ろすと、記帳したページの上に投げるようにしてそれを置いた。


 程なくして、追悼演奏会に列席していた弔問客が、次々にホールの外へと出てきた。
 漆黒の人波が、雑然とした空気とともに流れていく。先刻よりさらに強くなった雨に、みな一様にうんざりした顔をしている。
「ああ、終わったようですね。私、富士川さんを呼んできますよ」
 そう言って立ち上がりかけた美濃部の腕を、華音は反射的に引き止めた。
「美濃部さん待って! 私が行く。受付、空けるわけにいかないでしょ?」
 美濃部がここからいなくなると、この鷹山という男と二人きりになってしまう。こんな重い空気に、華音はとても耐えられそうになかった。
 じっと、悪魔がこちらを見ている。
 大きな瞳、神経質そうな眉。なぜか華音に対しては、威圧的な表情を崩そうとしない。
 華音は美濃部を無理やりその場へ残し、逃げるようにして会場の中へと走った。

 ステージでは、楽団員らが楽器の搬出などの後片付けに忙しく動いていた。富士川の姿をすぐに見つけることができない。
 華音は焦燥感にかられた。
 ちょうどそこへ、高野和久がだるそうに歩いてくるのを見つけ、華音は思わず高野のもとへと走り寄った。
「先生! 高野先生!」
「あ、ノン君。どうしたんだい? そんな怖い顔して」
 高野は華音の姿をとらえると、その場で立ち止まり、大きく伸びをしてみせた。座席の質が悪すぎるんだよねえ、などと文句をたれている。
 しかし今は、高野の戯言に付き合っている場合ではない。
「あの人が来ちゃったの! 祥ちゃんが電話で怒鳴ってた、おじいちゃんの弟子とかいう人!」
 高野は驚いたような顔をし、伸ばした腕を一気にだらりと脱力させた。
「ええ? うっそ、楽ちゃん帰ってきたんだ? どれどれ」
「どれどれじゃないって先生! 悪魔だって言ってた意味、分かったもん……あの人、怖い」
 そんな華音の必死の訴えも、高野にはまるで伝わっていない。高野は呆れたような笑みを浮かべ、子供をなだめるようにして華音の頭を軽くなでてくる。
「俺が楽ちゃんのこと、『悪魔の二番弟子』って言ったから、ノン君、真に受けてんのかい?」
 真に受けるも何も――あれは『悪魔』そのものだ。
 あくまでのん気に構えている高野が、華音にはまるで理解できない。
 高野と華音が話をしている間に、何やら楽団員たちのほうからざわめく声が上がっている。片付ける手を止めて、一人、また一人と集まりだしている。

 「悪魔」がホールの座席通路を歩いていた。
 その通路の先にたたずむのは――富士川祥だ。

 富士川と鷹山を取り囲むようにして、楽団員たちが集まっているのだということに気づいたときには、『鬼』と『悪魔』がお互い手を伸ばせば届く距離まで近づいていた。
「やだ、……祥ちゃん」
 華音は高野の腕を引っ張り、富士川のもとへと走った。