宿命の章 (4.5)  在りし日の思い出 1

 ―― 十年前。

 在りし日の思い出。
 すべてが琥珀色に染まっている。

 広大な敷地に、手入れの行き届いた英国式庭園。美しき洋館の佇まいである芹沢邸。
 季節は秋だ。塀に這うツタの葉が色づき始めた頃だった。

「高野君、確か君の結婚式は来月のあたまだったね」
 普段談話室として使用している一階奥の大きな応接間に、芹沢英輔と高野和久はいた。
 高級感を漂わせる革張りのソファに、二人は向かい合うようにして座っている。
 時間がゆっくりと流れていく。
 そこへ、芹沢英輔の一番弟子である青年が、紅茶を載せたトレイを持って二人に近づいてきた。
 もちろんその後ろには、小さな女の子が青年のシャツをつかんでくっついている。
 英輔の孫娘、華音だ。
「はい。結婚式っていっても、身内だけの小さなヤツです。それにしばらくは、別居を続けるつもりなんで」
 話を続けながら、高野はじっと青年の危うい手元を見つめていた。慣れていないのだ。
 いつもなら執事がお茶を出してくれるのだが、どうやら外出しているらしい。
「それはまたどうして……いまどきの若い者の考えることは分からんな」
 芹沢老人はため息をついた。
 目の前に差し出されたカップにレモンのスライスを二枚入れ、自分でティーポットを傾けた。こちらは慣れた手つきだ。
「彼女、学校の先生なんです。担任もしてるし、とりあえず年度末までは続けたいと言うので」
 一番弟子の青年・富士川は、高野の前にカップを差し出しながら口を挟んだ。
「じゃあ、あと半年くらい、結婚を待てばよかったんじゃないんですか?」
 高野と富士川は決して対等な立場ではなかったが、それでも富士川が芹沢英輔の弟子となってからもうじき四年――。
 いつしか二人は、気心を知れた間柄となっていた。
「富士川ちゃん、大人には大人の事情ってものがあるんだよ。君ももう大学生だ、分かるだろう?」
 高野がこの一番弟子と出会ったのは、彼がまだ高校入りたての頃だった。そして今年、音大へストレートで合格。
 富士川祥は、才能あふれる若者として成長を続けている。
 そんな富士川青年に向かい、高野は兄貴風を吹かせてみせるが、当の本人は『大人の事情』というものが、イマイチ飲み込めていないようだった。
「それに今の俺の稼ぎじゃ、到底食べていけないですから。こっちとしても、彼女に仕事を続けてもらったほうが都合はいいし……」
 芹沢老人は、カップを一旦口から離し、呆れたように言った。
「甲斐性のない男だな、君は」
「生まれついた性分ですから」
 高野は人と争うことが嫌いで、理想高きロマンティシストなのである。それは今も昔も変わらない。
「それで、予定はいつなんだね?」
「来年の五月です。今、まだ三ヶ月目」
 高野は右手の指を三本立ててみせた。喜びと途惑いが入り混じった、微妙な笑顔を浮かべている。
 そこでようやく、富士川はすべて納得がいったらしい。トレイを抱えたまま、驚嘆の声を上げる。
「まっ、まさか子供ですか? 高野さん! 信じられない……いくらこのご時世、できちゃった婚が横行してるとはいえ、こんな身近にそんな人がいるなんて」
 まったく純朴な青年だ。
 高野はばつが悪そうに、ぐしゃりと頭を掻き回した。
「まあ、そうでもしなかったら、結婚なんてとても考えられなかったと思うしさ……しかしまあ、富士川ちゃんこそ、いまどきの若者にしては随分古いんじゃない?」
「放っておいてください」
 図星を指され、富士川は拗ねたような表情をした。顔をそむけ、腰にまとわりつく華音の頭を、ゆっくりとなで回す。自分にはまったく関係のない世界の話だと、端から決め込んでいるらしい。
 高野は興味本位で、古風で純朴な一番弟子に尋ねた。
「彼女とか作らないの? 大学生なんだからさ、満喫しないと」
「か、彼女なんてとんでもない! そんな暇があったら、ヴァイオリンのレパートリーを一曲でも二曲でも増やします」
「そんなこと言ってたら、あっという間に歳とっちゃうよ。……まあ、いざとなれば、カノン君と結婚するっていう手もあるか」
 何気なく発せられた高野の言葉に、富士川はあり得ないほどの過剰な反応を見せた。
 持っていたトレイを、ソファの空いている席に投げつけるようにして置く。
「な、何てこと言うんですか……そんなの、できちゃった婚以上に犯罪ですよ!」
 冗談の通じない、堅物なのであるから仕方がないが――いつになく取り乱し、高野にくってかかる富士川は、滑稽という他はない。
「できちゃった婚は、犯罪……ホント富士川ちゃんは堅いねえ」
「そうですよ! それに、それに、十三も離れてるんですよ? ……華音ちゃんが適齢期の頃は、俺はもうオジサンですよ」
 突然、芹沢老人が珍しく声を上げて笑い出した。普段の音楽監督としての厳しい顔とは雲泥の差だ。
 柔らかな空気をまとわせている。
「それも、悪くないかな」
 しどろもどろになっている富士川青年に、師は追い討ちをかけるように珍しく冗談を言った。
「芹沢先生まで! からかうのは止めてください! 華音ちゃんの気持ちも考えないで、勝手なことばかり」
 あまりの可笑しさに、高野はしばらく身体をゆすって笑っていた。そして、富士川のシャツをつかんでいた華音に、幼児言葉で話しかける。
「ノンたん、富士川ちゃんのこと、大好きだもんなー?」
「うん。かのんね、ずっとショウちゃんといっしょにいるんだもん!」
「って、言ってるよ?」
 富士川は、高野を睨みつけた。
 そして、まとわりついていた華音を、しっかりと両手で抱き上げる。
「そうだね、ずっと一緒だよ。華音ちゃんが俺を必要とする間は、ずっと」
 親子にも兄妹にも見えない。
 微妙な関係だ。
 抱き締める腕に、自然と力が込められる。
「とても似てるんです。俺も両親、幼い頃に亡くして……芹沢先生に出会うまで、俺は一人ぼっちだった。でも今は違う。お父さんもお母さんもいる。こんなに可愛い妹もいる。ヴァイオリンもそばにある。これ以上のことは何も――望みません」
 富士川の精一杯の言葉に、芹沢老人と高野は顔を見合わせ、微笑んだ。

 午後のティータイムは終わりに近づいている。
 芹沢氏は、静かに窓の外の美しい景色を愛でていたが、ふと何かを思い出したのか、高野のほうへ向き直った。
「そうだ高野君、結婚早々になってしまうんだが、客演をまた頼まれてくれないか?」
「来月ってことですか? いや、別に構わないですけど……何かあるんですか?」
 通常、芹沢英輔が高野和久青年に、ピアノ協奏曲のソリストを依頼するのは六月と十二月。年に二回と決まっていた。
「北海道から私の弟子がやってくるんだ。内輪で演奏会を考えているのだよ」
 高野も富士川も、初めて聞く話だった。二人とも、すぐに言葉が出てこない。
 富士川は華音を抱き上げたまま、ゆっくりと口を開いた。
「弟子……ですか? 俺の他に弟子を?」
 一番弟子の青年は、師の顔をじっと見つめている。
「ああ、仲良くしてやってくれ。中学二年生の、まだヴァイオリン初心者だ。祥、お前の弟分だからな」
「分かりました、先生」
 富士川は素直に返事をし、抱っこしていた華音をそっと床に下ろしてやった。
 すると、華音はすぐさま富士川の腕にまとわりつく。片時も離れることはない。
「ああ祥、私の書斎へ行って、マンフレディーニの楽譜を探してきてくれないか」
 芹沢氏がそう言うと、華音は富士川の腕にまとわりついたまま。
「かのんもショウちゃんといっしょにいく!」
 富士川は苦笑した。華音の無邪気な笑顔にかなうものなどない。
 もちろん、芹沢老人とて例外ではない。
 ―― 一人息子の、忘れ形見なのだから。
「ではすぐに持ってきます。おいで華音ちゃん」

 富士川が華音を連れて部屋を出て行ってしまうと、応接室はしばしの静寂に包まれた。
 芹沢英輔は黙ったまま、冷めかけた紅茶のカップに口をつけている。
 高野は戯れに尋ねた。
「しかしまあ、あなたのお目に留まるとは、よっぽどの才能の持ち主なんですかね、その少年」
「鷹山、楽人君――だよ」
 高野は声も出さず、ただ目を見開いた。芹沢英輔と目が合う。
 その名前に聞き覚えがあった。五年前の微かな記憶が、高野の脳裏に蘇ってくる。
「本気ですか? 奥さんはご存知なんですか?」
「言ったところでどうなるものでもあるまい。卓人が死んでからはあの状態だ。……それにしても、君は記憶力のいい男だな」
 どことなく自虐の色を帯びた笑みを浮かべている芹沢氏を、高野は複雑な心境で見つめている。
「あの、富士川ちゃんには……もちろん内緒なんですよね?」
「いつか――分かる日が来る。五年後か十年後か……私がこの世からいなくなった、そのときに」
「百まで生きたら、あと三十五年もありますよ」
 若きピアニストは大指揮者に向かって軽口を叩いてみせた。

 そして十年後――。
 芹沢英輔は、この世からいなくなったのだ。

 大きな大きな秘密を、抱えたまま。