奈落の章 (3)後 一陣のつむじ風
そこへ、コンサートマスターの美濃部が、呼びに行った安西青年とともに、ものものしい雰囲気のエントランスへとやってきた。
美濃部はどうやら半信半疑だったらしく、談笑しながらゆっくりとした歩調で近づいてくる。
やがて、羽賀真琴の姿をはっきりと認識できる距離まで来ると、今度は慌てて、駆け出すようにして近寄ってきた。
「初めまして! うわ、感激だなあ。私、羽賀さんのファンなんです。美濃部っていいます」
富士川祥の跡を引き継ぐ立場でありながら、その軽さが真琴には意外だったらしい。しかしファンであると言われて気を良くしたのか、好意的な態度を見せる。
「君、コンサートマスターなんだって? ねえねえ、久しぶりにここで弾かせてよ。アシスタント・プレーヤーって、今は募集してないの?」
それを聞いて、美濃部は激しく首を横に振った。
「羽賀さんがアシスタントだなんてとんでもない! ぜひソロでお願いしますよ!」
完全に舞い上がってしまっている。美濃部青年の視界には、華音と安西青年の姿はすでに入っていないらしい。華音はあわてて美濃部に釘を刺す。
「ちょっと美濃部さん! 勝手にそんなこと言っていいの?」
「大丈夫、鷹山さんが反対するはずないですよ。――ええと、確かお知り合いなんですよね? そういえば一度、芹響の定演を聴きに来てくださってましたよね」
「ああ、そうそう。楽人君の指揮者デビューのときにね。よく覚えてたねー」
羽賀真琴と美濃部青年のやり取りを聞いて、華音はようやく思い出した。
確かに定演のあった次の日、美濃部がそんなことを話していた記憶がある。
【あの有名な羽賀真琴さんの姿もあって、感激しましたよ。私、大ファンなんです】
【――控室にもちょっとだけ挨拶に見えられてましたよ。鷹山さん、お知り合いなのかなあ。いいなあ】
あのときは、同じ新進気鋭のヴァイオリニストという繋がりで、二人は顔見知りなのだろうと、それしか考えていなかった。
むしろ、富士川の後輩として昔から取り入っていたということを、苦く思い出したにすぎなかったのだ。
それが、真実はというと――鷹山と羽賀真琴は恋人同士という関係にあった、という。
だからわざわざ、指揮者デビューとなる初めての定演にやってきて、彼の楽屋で二人きりで話を――。
おかしい、そんなの。
あの頃はもう、鷹山は自分のことを愛してくれていたはずなのに。
華音の頭の中は、すでにパニックに陥っていた。
愕然とする華音の横で、美濃部が丁寧に説明をする。
「鷹山さん、今はオーナーと打ち合わせ中で、そのあとすぐに合わせがありますから、その後でしたら時間が取れると思いますよ」
「それじゃあ、適当に見学してようかな。この新しいホールは初めてだから」
真琴は愛想よく笑った。
「そうしてください。私、あとで呼びにいきますよ」
本拠地ホールのエントランスを、一陣のつむじ風が通り抜けていく。
華音はもはや言葉を発する気力もなく、ただ羽賀真琴の背中を見送っていた。
一方、何も知らない美濃部は、いつもと変わらず理路整然と指示を出してくる。
「華音さん、あとで鷹山さんに羽賀さんとの面会を取り次いでもらえますか? 安西君も、合わせ始まるから早くステージへ行ってね」
「……」
黙り続ける華音の反応を待たずに、美濃部は早々にステージへと姿を消す。
気難しい音楽監督を相手にするコンサートマスターは、多忙なのである。
一部始終を下世話に見守っていた安西延彦は、調子よく呟いてみせた。
「ははっ、知らないとはいえ、美濃部サンてば残酷だなー」
元彼女を、今の彼女に取り次がせる――知っていたなら、とても言えることではないだろう。
不思議なことに、美濃部にはいまだ、鷹山と華音の恋愛関係がばれていないようだった。
仲の良い主従関係であるとは認めているものの、あまりにも近くにいるため、逆に気がつかないらしい。
それにしても――。
「なによ彼女って……しかもどうして、どうしてよりによってあの人なの!?」
そんな華音の悲痛な叫びも、安西青年はあくまで軽くさらりと受け流す。
「元でしょ、元。……というか、監督ってあんな大人の美人と付き合ってたんだー、さすがって感じ。ははっ、華音サンも頑張んないとー」
もう、ため息しか出てこない。
この胸の中に渦巻いているのは、怒りなのか失望なのか――華音にはもはや判断する気力はなかった。
予定では、もうすぐ練習が終わる。
華音は憂鬱な気分で一杯だった。
やがて合わせの練習が終わって、鷹山は音楽監督用控室に戻ってきた。
部屋に入ってくるなりスコアを華音に押しつけるようにして渡し、シャツの襟元のボタンをひとつ外すと、備え付けのソファにどかりと座り込んだ。立ち居振る舞いには品のある鷹山にしては珍しいことである。
「今日はもう帰る。疲れた」
「あ、でも鷹山さん――」
「何?」
元彼女という触れ込みの来客のことを、華音はいまだ鷹山に伝えられずにいた。
華音は急いでスコアを専用棚にしまうと、彼の左に並ぶようにしてソファに腰かけた。
鷹山の大きな瞳が、すぐそばで不思議そうに瞬いている。
「ねえ鷹山さん……私のこと、本当に好き?」
「ハッ、今ここで答えて欲しいのか? 僕に『公私混同』させる気か、君は」
鷹山は戯言と割り切って、華音を軽くあしらった。
同じ屋敷に一緒に暮らすようになってから、どんどん公私の境が曖昧になってきている。
とはいえ、確かに今は音楽監督としての仕事中である。いくら二人きりだからといって、相手の気持ちを確かめるなど――今ここですることではない。
それでも、華音は聞かずにはいられなかった。
「本当に、私のことだけが好き?」
「芹沢さん、君……ひょっとして不安なの? まあ、安心させる方法はあるんだけどね。君さえ心の準備ができればいつだって」
「あの……それって」
「言わなくても分かるだろう?」
華音は何と答えたらよいものか途惑った。
これまで何度か、彼からの誘いを受けたことがある。しかし、それは冗談なのか本気なのか――いつも鷹山に上手く流されてしまうのだ。
いつまでも子供ではいられない。彼の周りには大人の女性が大勢いる。何より彼自身が、一歩進んだ関係を望んでいる。
華音は努めて平静を保ち、隣で反応をうかがっている鷹山の顔をじっと見つめた。
「……そのくらい、鷹山さんがうちに引っ越すことが決まってから、とっくに覚悟してるもん」
「そうなの? じゃあさっそく、今夜にでも確かめにいこうかな」
――ヤだ、嘘。
鷹山の食いつきがあまりに良かったため、華音は途端に焦った。
舌が上手く回らず、思わずどもってしまう。
「え? あ、あの、今夜? そそそんないきなり……」
「ハッ、全っ然、覚悟なんかできてないじゃないか」
完全に、見抜かれている。
覚悟はできているのだが、鷹山の気持ちがどこまで本気でどこまで冗談なのか、華音には今ひとつつかみきれていないところがあった。
それはおそらく、鷹山も同じであろう。だからこうやっていつまでもお互いを試すようなことをしてしまう。
心の底から愛し愛される自信が、ない。
鷹山はソファの背に身体を預け直し、空を見つめて呟いた。
「でも正直なところ、あの屋敷にいるとどうも居心地が悪くて、気分がのらないんだよね。僕にとってはいい思い出など何一つない、忌まわしい場所でしかないし」
やはり。
予想に反して、鷹山があの家での生活で必要以上に華音に構ってこようとしないのは、監督業が多忙という理由だけではない。
以前のように、あくまで仕事場として書斎にこもる分にはよかったが、プライベートの時間を過ごすとなるとまた、勝手が違うようだ。
「今度、二人で旅行に出かけようか。そしたら心置きなく――」
「こ、心置きなく……何?」
「何だと思う? 君の答えは?」
鷹山は華音の肩を抱き寄せるようにして腕をしっかりと回し、頬を華音のすぐそばまで寄せた。
鷹山はキスを狙っている。今までの経験から、それはすぐに分かった。
答えを待っている。
不正解なら、罰として。
正解だったら、ご褒美として。
無邪気にキスの雨を降らせるに決まっている。
鷹山に抱きすくめられたまま、華音はゆっくりと両目を瞑った。
「赤城オーナーに、ばれたら……音楽監督辞めろって……言われる……こと?」
「そう、正解――いい子だ」
「いいの鷹山さん? もしそんなことになったら……」
鷹山の口づけをこめかみにに受け、華音はわずかに身をのけぞらせた。体勢を少しずつ変え、鷹山に押し倒されるような形で、ソファに上半身を横たわらせる。
「辞めさせられたら、確かに困るね。でも――」
半分だけ目蓋を開けると、鷹山の大きな瞳がすぐそこで艶めいていた。
大きなガラス球のような、深い深い琥珀色だ。
「僕の愛情に不安を抱かれているほうが、もっともっと困る」
鷹山は座面に片手をつき、華音に全体重をかけないように気遣いながら、素早く唇を重ね合わせた。
滑らかで温い感触に、華音の両目は次第に眩んでいく。
彼とのキスは、何度目なのかもはや分からない。
始めのうちはその対応に困り、ぎこちなくその身を委ねるだけだったが――少しずつ馴らされていくうちに、今では彼の唇の感触を恋しいとさえ思うようになっている。
華音はすがるようにして、鷹山のみぞおち辺りのシャツをつかんだ。くすぐったいのか、鷹山は笑いながらキスを続け、もどかしそうに身体を揺らす。
鷹山の唇が離れた。
「芹沢さん、来月誕生日だったよね。五月四日、連休のど真ん中だ」
「よく……知ってますね」
「当たり前だろ。じゃあ、その日にしようか。予定、空けておいてね」
息継ぎもままならずに、すぐさま鷹山の唇が華音の唇に重ねられる。
返事をする間も与えられない。
それでも。
そんな彼の温もりで、華音は愛されているのだと実感できた。
そのとき不意に、監督室のドアをノックする音が耳に届いた。
華音はすべての力を振り絞って、鷹山の身体を慌てて引き剥がした。
呼吸の乱れを整える間もなく、ドアが開く。
部屋の中へ入ってきたのは、藤堂あかりだった。
二人の様子から、直前まで行われていた行為に勘づいたらしい。あかりは意味ありげにじっと、鷹山の顔を凝視している。
「…………監督、頼まれていた資料です」
「ありがとう」
鷹山は差し出された書類を奪うようにして受け取ると、わざとらしく顔をそむけた。
あまりの雰囲気の悪さに、華音はこの場を取り繕うように話題を振った。
「あの、資料って……何ですか?」
「ちょっと専門的な内容だったから、芹沢さんの手には負えないと思って、藤堂さんに頼んだんだ」
「そう、ですか」
三すくみ状態である。
あかりは先程から黙ったまま、鷹山の顔をひたすら睨みつけるばかりだ。
鷹山はその態度が癪に障ったのか、情け容赦ない冷酷極まりない表情で、目の前に現れた美貌の副首席を怒鳴りつけた。
「それはそうと、さっきの合わせは何だったんだよ! ファーストの連中、たるみ過ぎじゃないのか? あれでもプロか? 音大卒なんて名ばかりの連中揃いで、本当辟易させられるよ!」
「分かりました。メンバーには個人練習に重点をおいて音を再確認するよう、伝えます」
目の前の二人のやり取りに、華音はどことなく違和感を覚えた。
いつからだろう――どんなに八つ当たりと思しき罵詈雑言を鷹山に浴びせられても、あかりは逆らわなくなっている。
ちょうどそこへ、コンサートマスターの美濃部が監督控室へとやってきた。
鷹山とあかりはお互い視線をそらし、何事もなかったかのように大人の対応を披露する。
美濃部は今の今まで繰り広げられていた修羅場のことなどまるで気づく様子もなく、喜色満面の笑みを浮かべて華音に確認してきた。
「華音さん、もう鷹山さんに伝えていただけました?」
「え……っと、まだ、これから」
急に現実に引き戻されてしまう。
やはり避けては通れないようだ。
「何? 美濃部君、いったいどうしたの?」
「鷹山さんにお客様がお見えになっているんですけど、これからお時間よろしいですか?」
「お客? 誰?」
鷹山は説明をする美濃部ではなく、気まずい表情をしている華音に聞き返した。
練習が終わってこの音楽監督控室に戻ってから、すでにかなりの時間が経っている。普段であれば、鷹山宛の来客のアポイントは華音がきっちり管理しているはずだった。それを、悪魔な音楽監督は不審に思ったらしい。
華音は観念し、事の次第を鷹山に告げた。
「……羽賀真琴っていう、若い女の人です。ホールの中を見学してるって言ってたので、建物のどこかにはいると思いますけど」
華音は鷹山の表情の変化を見逃すまいと、じっと観察するようにうかがっていた。
しかし。
「嘘……羽賀先輩が?」
驚嘆の声を上げたのは鷹山ではなく、意外にも藤堂あかりのほうだった。あかりは柄にもなく、呆気にとられ面食らったような表情を見せている。
「そうなんですよ! それでですね鷹山さん、羽賀さんが久しぶりにうちで弾きたいっておっしゃってるんですよ。アシスタントプレーヤーでって、そんなもったいないことできないですよね!」
美濃部はいまだ興奮冷めやらぬ様子で、嬉々として音楽監督に説明をしている。
それに対して、鷹山はあっさりとしたものだった。動揺する様子も見せず、淡々と指示を出す。
「分かった。芹沢さん、彼女を探して、ここまで連れてきてくれないか?」
無神経にもほどがある――華音はあふれ出そうな何かをぐっと、ひたすらこらえた。
きっと鷹山は知らないのだ。羽賀真琴が、鷹山の元彼女だと公言してしまっていることを――。
しかし、音楽監督の言うことは絶対だ。
華音はくるりと背を向け、部屋を出ようとした。
そのときである。
「待ってください、華音さん」
若い女性の声が、華音の背中に届いた。振り返り、その声の主を確認する。
「……藤堂さん?」
「ご挨拶したいので、一緒に行きます。……私の大学の先輩ですから」
富士川とあかりは六学年差。それに対し、羽賀真琴は富士川の三学年後輩で、そのさらに三学年下にあかりがいるという序列だ。
つまり、羽賀真琴は富士川ともあかりとも、在学期間がかぶっている。
鷹山にはすぐにあかりと真琴の関係が分かったのだろう。それについて特に口出しすることはなく、呆れたような大きなため息をひとつついた。
一人で鷹山の元彼女・羽賀真琴と対峙するのは、おそろしく気の進まないことだった。そのため、あかりの同行は願ってもないことだった。
あかりの表情が冴えないのが気になったものの、華音はさして疑問にも思わず、一緒に連れ立って、羽賀真琴を探しにロビー方面へと足を向けた。
羽賀真琴は三階席専用ロビーで、大きなガラス窓の外の景色をのんびりと眺めていた。
催事がないためにロビーの照明は落とされており、辺りは薄暗い。非常時の誘導灯だけがぼんやりと辺りを照らしている。
あかりはゆっくりと真琴の背後に近寄った。
「羽賀先輩。どうなさったんですか、こんなところへ」
あかりと真琴が向かい合う。
系統は違うが、二人とも類稀なる美貌の持ち主だ。並ぶと迫力がある。
真琴は驚いたように目を瞬かせていたが、やがて口の端を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「ああ、そういえば藤堂さんって芹響に入ったんだっけ。ハハッ、まーだ祥先輩の追っかけやってたんだ」
あかりはそのストレートな指摘に眉をひそめた。
華音の目の前で、二人の大人の女が火花を散らしている。
ただならぬ現場に居合わせてしまった――華音は二人のやり取りを、固唾を飲んで見守っていた。
「追っかけだなんてそんなつもりはありません。私は違います」
「私は違います、か。『あなたとは』ってこと? まあ、確かに昔は、祥先輩のことを熱狂的に追っかけてたけどさ。若気の至りってやつ?」
「富士川さんなら、もうここにはいらっしゃいませんから」
「知ってるよ。楽人君から聞いた」
その、真琴のひと言で。
あかりの勢いが一瞬にして弱まった。
鷹山と真琴の関係が、あかりにはまったく見えていなかったらしい。
「今日は楽人君に会いにきたの。そしたらこの子に門前払いをされかけて」
あかりにはようやく、華音の泣きそうな表情の意味が分かったようだ。
「彼女に何を?」
「別に何も。楽人君の元彼女だって、言っただけ」
「でまかせ言うのは止めてください!」
森閑としていた三階席ロビーに、あかりのヒステリックな叫び声が響き渡った。
「でまかせなんかじゃないよ? まあ、ウィーンにいた頃の話だから。元だよ、元」
飄々と答える真琴に、あかりは苛立ちを隠しきれていない。
「華音さん、よろしいんですか? この人を監督に会わせたりして」
真琴の目がひときわ大きく見開かれた。
「カノン? あなた、カノンっていうの?」
記憶の糸と糸が、どこかで結びついたらしい。素っ頓狂な声を上げて、華音の顔を人差し指で指し示した。
「あーっ、思い出した。カノンちゃんって、あの華音ちゃん? へえー、これは驚きー」
まるで子供のように明るく素直に感心してみせる真琴の無邪気さに、華音はただただ圧倒されてしまった。
すべてが崩れてしまいそうだった。
真琴は何がおかしいのか、華音の顔をしげしげと見つめ、意味ありげな含み笑いをした。
「華音ちゃんって、祥先輩が目に入れても痛くないほど可愛がってた子、だもんね。へー、それが今は楽人君の彼女なのか。面白いー」
「華音さん! 本当に、本当にいいんですか?」
「いいも何も……鷹山さんに、お客様をお連れするように言われてますから」
そう。
鷹山の指示に逆らうことは――できないのである。
「そういうこと。じゃあまたねー、藤堂さん」
勝ち誇ったように手を振る先輩を、後輩は悔しそうな顔で見送っている。
二人の間にあるただならぬ因縁のようなものを、華音はその身にひしひしと感じさせられていた。
美濃部はどうやら半信半疑だったらしく、談笑しながらゆっくりとした歩調で近づいてくる。
やがて、羽賀真琴の姿をはっきりと認識できる距離まで来ると、今度は慌てて、駆け出すようにして近寄ってきた。
「初めまして! うわ、感激だなあ。私、羽賀さんのファンなんです。美濃部っていいます」
富士川祥の跡を引き継ぐ立場でありながら、その軽さが真琴には意外だったらしい。しかしファンであると言われて気を良くしたのか、好意的な態度を見せる。
「君、コンサートマスターなんだって? ねえねえ、久しぶりにここで弾かせてよ。アシスタント・プレーヤーって、今は募集してないの?」
それを聞いて、美濃部は激しく首を横に振った。
「羽賀さんがアシスタントだなんてとんでもない! ぜひソロでお願いしますよ!」
完全に舞い上がってしまっている。美濃部青年の視界には、華音と安西青年の姿はすでに入っていないらしい。華音はあわてて美濃部に釘を刺す。
「ちょっと美濃部さん! 勝手にそんなこと言っていいの?」
「大丈夫、鷹山さんが反対するはずないですよ。――ええと、確かお知り合いなんですよね? そういえば一度、芹響の定演を聴きに来てくださってましたよね」
「ああ、そうそう。楽人君の指揮者デビューのときにね。よく覚えてたねー」
羽賀真琴と美濃部青年のやり取りを聞いて、華音はようやく思い出した。
確かに定演のあった次の日、美濃部がそんなことを話していた記憶がある。
【あの有名な羽賀真琴さんの姿もあって、感激しましたよ。私、大ファンなんです】
【――控室にもちょっとだけ挨拶に見えられてましたよ。鷹山さん、お知り合いなのかなあ。いいなあ】
あのときは、同じ新進気鋭のヴァイオリニストという繋がりで、二人は顔見知りなのだろうと、それしか考えていなかった。
むしろ、富士川の後輩として昔から取り入っていたということを、苦く思い出したにすぎなかったのだ。
それが、真実はというと――鷹山と羽賀真琴は恋人同士という関係にあった、という。
だからわざわざ、指揮者デビューとなる初めての定演にやってきて、彼の楽屋で二人きりで話を――。
おかしい、そんなの。
あの頃はもう、鷹山は自分のことを愛してくれていたはずなのに。
華音の頭の中は、すでにパニックに陥っていた。
愕然とする華音の横で、美濃部が丁寧に説明をする。
「鷹山さん、今はオーナーと打ち合わせ中で、そのあとすぐに合わせがありますから、その後でしたら時間が取れると思いますよ」
「それじゃあ、適当に見学してようかな。この新しいホールは初めてだから」
真琴は愛想よく笑った。
「そうしてください。私、あとで呼びにいきますよ」
本拠地ホールのエントランスを、一陣のつむじ風が通り抜けていく。
華音はもはや言葉を発する気力もなく、ただ羽賀真琴の背中を見送っていた。
一方、何も知らない美濃部は、いつもと変わらず理路整然と指示を出してくる。
「華音さん、あとで鷹山さんに羽賀さんとの面会を取り次いでもらえますか? 安西君も、合わせ始まるから早くステージへ行ってね」
「……」
黙り続ける華音の反応を待たずに、美濃部は早々にステージへと姿を消す。
気難しい音楽監督を相手にするコンサートマスターは、多忙なのである。
一部始終を下世話に見守っていた安西延彦は、調子よく呟いてみせた。
「ははっ、知らないとはいえ、美濃部サンてば残酷だなー」
元彼女を、今の彼女に取り次がせる――知っていたなら、とても言えることではないだろう。
不思議なことに、美濃部にはいまだ、鷹山と華音の恋愛関係がばれていないようだった。
仲の良い主従関係であるとは認めているものの、あまりにも近くにいるため、逆に気がつかないらしい。
それにしても――。
「なによ彼女って……しかもどうして、どうしてよりによってあの人なの!?」
そんな華音の悲痛な叫びも、安西青年はあくまで軽くさらりと受け流す。
「元でしょ、元。……というか、監督ってあんな大人の美人と付き合ってたんだー、さすがって感じ。ははっ、華音サンも頑張んないとー」
もう、ため息しか出てこない。
この胸の中に渦巻いているのは、怒りなのか失望なのか――華音にはもはや判断する気力はなかった。
予定では、もうすぐ練習が終わる。
華音は憂鬱な気分で一杯だった。
やがて合わせの練習が終わって、鷹山は音楽監督用控室に戻ってきた。
部屋に入ってくるなりスコアを華音に押しつけるようにして渡し、シャツの襟元のボタンをひとつ外すと、備え付けのソファにどかりと座り込んだ。立ち居振る舞いには品のある鷹山にしては珍しいことである。
「今日はもう帰る。疲れた」
「あ、でも鷹山さん――」
「何?」
元彼女という触れ込みの来客のことを、華音はいまだ鷹山に伝えられずにいた。
華音は急いでスコアを専用棚にしまうと、彼の左に並ぶようにしてソファに腰かけた。
鷹山の大きな瞳が、すぐそばで不思議そうに瞬いている。
「ねえ鷹山さん……私のこと、本当に好き?」
「ハッ、今ここで答えて欲しいのか? 僕に『公私混同』させる気か、君は」
鷹山は戯言と割り切って、華音を軽くあしらった。
同じ屋敷に一緒に暮らすようになってから、どんどん公私の境が曖昧になってきている。
とはいえ、確かに今は音楽監督としての仕事中である。いくら二人きりだからといって、相手の気持ちを確かめるなど――今ここですることではない。
それでも、華音は聞かずにはいられなかった。
「本当に、私のことだけが好き?」
「芹沢さん、君……ひょっとして不安なの? まあ、安心させる方法はあるんだけどね。君さえ心の準備ができればいつだって」
「あの……それって」
「言わなくても分かるだろう?」
華音は何と答えたらよいものか途惑った。
これまで何度か、彼からの誘いを受けたことがある。しかし、それは冗談なのか本気なのか――いつも鷹山に上手く流されてしまうのだ。
いつまでも子供ではいられない。彼の周りには大人の女性が大勢いる。何より彼自身が、一歩進んだ関係を望んでいる。
華音は努めて平静を保ち、隣で反応をうかがっている鷹山の顔をじっと見つめた。
「……そのくらい、鷹山さんがうちに引っ越すことが決まってから、とっくに覚悟してるもん」
「そうなの? じゃあさっそく、今夜にでも確かめにいこうかな」
――ヤだ、嘘。
鷹山の食いつきがあまりに良かったため、華音は途端に焦った。
舌が上手く回らず、思わずどもってしまう。
「え? あ、あの、今夜? そそそんないきなり……」
「ハッ、全っ然、覚悟なんかできてないじゃないか」
完全に、見抜かれている。
覚悟はできているのだが、鷹山の気持ちがどこまで本気でどこまで冗談なのか、華音には今ひとつつかみきれていないところがあった。
それはおそらく、鷹山も同じであろう。だからこうやっていつまでもお互いを試すようなことをしてしまう。
心の底から愛し愛される自信が、ない。
鷹山はソファの背に身体を預け直し、空を見つめて呟いた。
「でも正直なところ、あの屋敷にいるとどうも居心地が悪くて、気分がのらないんだよね。僕にとってはいい思い出など何一つない、忌まわしい場所でしかないし」
やはり。
予想に反して、鷹山があの家での生活で必要以上に華音に構ってこようとしないのは、監督業が多忙という理由だけではない。
以前のように、あくまで仕事場として書斎にこもる分にはよかったが、プライベートの時間を過ごすとなるとまた、勝手が違うようだ。
「今度、二人で旅行に出かけようか。そしたら心置きなく――」
「こ、心置きなく……何?」
「何だと思う? 君の答えは?」
鷹山は華音の肩を抱き寄せるようにして腕をしっかりと回し、頬を華音のすぐそばまで寄せた。
鷹山はキスを狙っている。今までの経験から、それはすぐに分かった。
答えを待っている。
不正解なら、罰として。
正解だったら、ご褒美として。
無邪気にキスの雨を降らせるに決まっている。
鷹山に抱きすくめられたまま、華音はゆっくりと両目を瞑った。
「赤城オーナーに、ばれたら……音楽監督辞めろって……言われる……こと?」
「そう、正解――いい子だ」
「いいの鷹山さん? もしそんなことになったら……」
鷹山の口づけをこめかみにに受け、華音はわずかに身をのけぞらせた。体勢を少しずつ変え、鷹山に押し倒されるような形で、ソファに上半身を横たわらせる。
「辞めさせられたら、確かに困るね。でも――」
半分だけ目蓋を開けると、鷹山の大きな瞳がすぐそこで艶めいていた。
大きなガラス球のような、深い深い琥珀色だ。
「僕の愛情に不安を抱かれているほうが、もっともっと困る」
鷹山は座面に片手をつき、華音に全体重をかけないように気遣いながら、素早く唇を重ね合わせた。
滑らかで温い感触に、華音の両目は次第に眩んでいく。
彼とのキスは、何度目なのかもはや分からない。
始めのうちはその対応に困り、ぎこちなくその身を委ねるだけだったが――少しずつ馴らされていくうちに、今では彼の唇の感触を恋しいとさえ思うようになっている。
華音はすがるようにして、鷹山のみぞおち辺りのシャツをつかんだ。くすぐったいのか、鷹山は笑いながらキスを続け、もどかしそうに身体を揺らす。
鷹山の唇が離れた。
「芹沢さん、来月誕生日だったよね。五月四日、連休のど真ん中だ」
「よく……知ってますね」
「当たり前だろ。じゃあ、その日にしようか。予定、空けておいてね」
息継ぎもままならずに、すぐさま鷹山の唇が華音の唇に重ねられる。
返事をする間も与えられない。
それでも。
そんな彼の温もりで、華音は愛されているのだと実感できた。
そのとき不意に、監督室のドアをノックする音が耳に届いた。
華音はすべての力を振り絞って、鷹山の身体を慌てて引き剥がした。
呼吸の乱れを整える間もなく、ドアが開く。
部屋の中へ入ってきたのは、藤堂あかりだった。
二人の様子から、直前まで行われていた行為に勘づいたらしい。あかりは意味ありげにじっと、鷹山の顔を凝視している。
「…………監督、頼まれていた資料です」
「ありがとう」
鷹山は差し出された書類を奪うようにして受け取ると、わざとらしく顔をそむけた。
あまりの雰囲気の悪さに、華音はこの場を取り繕うように話題を振った。
「あの、資料って……何ですか?」
「ちょっと専門的な内容だったから、芹沢さんの手には負えないと思って、藤堂さんに頼んだんだ」
「そう、ですか」
三すくみ状態である。
あかりは先程から黙ったまま、鷹山の顔をひたすら睨みつけるばかりだ。
鷹山はその態度が癪に障ったのか、情け容赦ない冷酷極まりない表情で、目の前に現れた美貌の副首席を怒鳴りつけた。
「それはそうと、さっきの合わせは何だったんだよ! ファーストの連中、たるみ過ぎじゃないのか? あれでもプロか? 音大卒なんて名ばかりの連中揃いで、本当辟易させられるよ!」
「分かりました。メンバーには個人練習に重点をおいて音を再確認するよう、伝えます」
目の前の二人のやり取りに、華音はどことなく違和感を覚えた。
いつからだろう――どんなに八つ当たりと思しき罵詈雑言を鷹山に浴びせられても、あかりは逆らわなくなっている。
ちょうどそこへ、コンサートマスターの美濃部が監督控室へとやってきた。
鷹山とあかりはお互い視線をそらし、何事もなかったかのように大人の対応を披露する。
美濃部は今の今まで繰り広げられていた修羅場のことなどまるで気づく様子もなく、喜色満面の笑みを浮かべて華音に確認してきた。
「華音さん、もう鷹山さんに伝えていただけました?」
「え……っと、まだ、これから」
急に現実に引き戻されてしまう。
やはり避けては通れないようだ。
「何? 美濃部君、いったいどうしたの?」
「鷹山さんにお客様がお見えになっているんですけど、これからお時間よろしいですか?」
「お客? 誰?」
鷹山は説明をする美濃部ではなく、気まずい表情をしている華音に聞き返した。
練習が終わってこの音楽監督控室に戻ってから、すでにかなりの時間が経っている。普段であれば、鷹山宛の来客のアポイントは華音がきっちり管理しているはずだった。それを、悪魔な音楽監督は不審に思ったらしい。
華音は観念し、事の次第を鷹山に告げた。
「……羽賀真琴っていう、若い女の人です。ホールの中を見学してるって言ってたので、建物のどこかにはいると思いますけど」
華音は鷹山の表情の変化を見逃すまいと、じっと観察するようにうかがっていた。
しかし。
「嘘……羽賀先輩が?」
驚嘆の声を上げたのは鷹山ではなく、意外にも藤堂あかりのほうだった。あかりは柄にもなく、呆気にとられ面食らったような表情を見せている。
「そうなんですよ! それでですね鷹山さん、羽賀さんが久しぶりにうちで弾きたいっておっしゃってるんですよ。アシスタントプレーヤーでって、そんなもったいないことできないですよね!」
美濃部はいまだ興奮冷めやらぬ様子で、嬉々として音楽監督に説明をしている。
それに対して、鷹山はあっさりとしたものだった。動揺する様子も見せず、淡々と指示を出す。
「分かった。芹沢さん、彼女を探して、ここまで連れてきてくれないか?」
無神経にもほどがある――華音はあふれ出そうな何かをぐっと、ひたすらこらえた。
きっと鷹山は知らないのだ。羽賀真琴が、鷹山の元彼女だと公言してしまっていることを――。
しかし、音楽監督の言うことは絶対だ。
華音はくるりと背を向け、部屋を出ようとした。
そのときである。
「待ってください、華音さん」
若い女性の声が、華音の背中に届いた。振り返り、その声の主を確認する。
「……藤堂さん?」
「ご挨拶したいので、一緒に行きます。……私の大学の先輩ですから」
富士川とあかりは六学年差。それに対し、羽賀真琴は富士川の三学年後輩で、そのさらに三学年下にあかりがいるという序列だ。
つまり、羽賀真琴は富士川ともあかりとも、在学期間がかぶっている。
鷹山にはすぐにあかりと真琴の関係が分かったのだろう。それについて特に口出しすることはなく、呆れたような大きなため息をひとつついた。
一人で鷹山の元彼女・羽賀真琴と対峙するのは、おそろしく気の進まないことだった。そのため、あかりの同行は願ってもないことだった。
あかりの表情が冴えないのが気になったものの、華音はさして疑問にも思わず、一緒に連れ立って、羽賀真琴を探しにロビー方面へと足を向けた。
羽賀真琴は三階席専用ロビーで、大きなガラス窓の外の景色をのんびりと眺めていた。
催事がないためにロビーの照明は落とされており、辺りは薄暗い。非常時の誘導灯だけがぼんやりと辺りを照らしている。
あかりはゆっくりと真琴の背後に近寄った。
「羽賀先輩。どうなさったんですか、こんなところへ」
あかりと真琴が向かい合う。
系統は違うが、二人とも類稀なる美貌の持ち主だ。並ぶと迫力がある。
真琴は驚いたように目を瞬かせていたが、やがて口の端を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「ああ、そういえば藤堂さんって芹響に入ったんだっけ。ハハッ、まーだ祥先輩の追っかけやってたんだ」
あかりはそのストレートな指摘に眉をひそめた。
華音の目の前で、二人の大人の女が火花を散らしている。
ただならぬ現場に居合わせてしまった――華音は二人のやり取りを、固唾を飲んで見守っていた。
「追っかけだなんてそんなつもりはありません。私は違います」
「私は違います、か。『あなたとは』ってこと? まあ、確かに昔は、祥先輩のことを熱狂的に追っかけてたけどさ。若気の至りってやつ?」
「富士川さんなら、もうここにはいらっしゃいませんから」
「知ってるよ。楽人君から聞いた」
その、真琴のひと言で。
あかりの勢いが一瞬にして弱まった。
鷹山と真琴の関係が、あかりにはまったく見えていなかったらしい。
「今日は楽人君に会いにきたの。そしたらこの子に門前払いをされかけて」
あかりにはようやく、華音の泣きそうな表情の意味が分かったようだ。
「彼女に何を?」
「別に何も。楽人君の元彼女だって、言っただけ」
「でまかせ言うのは止めてください!」
森閑としていた三階席ロビーに、あかりのヒステリックな叫び声が響き渡った。
「でまかせなんかじゃないよ? まあ、ウィーンにいた頃の話だから。元だよ、元」
飄々と答える真琴に、あかりは苛立ちを隠しきれていない。
「華音さん、よろしいんですか? この人を監督に会わせたりして」
真琴の目がひときわ大きく見開かれた。
「カノン? あなた、カノンっていうの?」
記憶の糸と糸が、どこかで結びついたらしい。素っ頓狂な声を上げて、華音の顔を人差し指で指し示した。
「あーっ、思い出した。カノンちゃんって、あの華音ちゃん? へえー、これは驚きー」
まるで子供のように明るく素直に感心してみせる真琴の無邪気さに、華音はただただ圧倒されてしまった。
すべてが崩れてしまいそうだった。
真琴は何がおかしいのか、華音の顔をしげしげと見つめ、意味ありげな含み笑いをした。
「華音ちゃんって、祥先輩が目に入れても痛くないほど可愛がってた子、だもんね。へー、それが今は楽人君の彼女なのか。面白いー」
「華音さん! 本当に、本当にいいんですか?」
「いいも何も……鷹山さんに、お客様をお連れするように言われてますから」
そう。
鷹山の指示に逆らうことは――できないのである。
「そういうこと。じゃあまたねー、藤堂さん」
勝ち誇ったように手を振る先輩を、後輩は悔しそうな顔で見送っている。
二人の間にあるただならぬ因縁のようなものを、華音はその身にひしひしと感じさせられていた。