奈落の章 (3)前  一陣のつむじ風

 年度が変わり、華音は今日から高校二年生となった。

 この一年で、華音を取り巻く環境は一変した。
 昨年の今頃――桜咲くこの季節には、祖父と二人でこの大きな洋館に暮らしていた。もちろん住み込みの執事や通いの家政婦がいたため、祖父と二人の暮らしでも寂しさを感じることはなかった。
 それに何といっても。
 祖父の愛弟子が、華音のそばにいつもいてくれた。

 それがどうだろう。
 その存在すら知らなかった男が、今日からこの家で暮らすこととなる。


 華音は朝から緊張していた。
 どうにも落ち着かず、遅々として進まぬ壁掛け時計の針に、何度も何度も目をやってしまう。
 鷹山は、芹沢邸を仕事場として九ヶ月近く出入りしていたのだから、いまさら緊張するような間柄でもないはずだった。それでも、鷹山とプライベートの時間を共有するということは、華音にとって未知の経験である。
 これまでも、仕事の合間にじゃれるようにして時間を過ごすことはあったが、一緒に暮らすとなるとまた別の一面をお互い晒さなければならないだろう。
 どうなるのか、華音には皆目見当がつかない。緊張しないでいられるはずもないのである。
 不思議なことに、執事の乾が華音以上に落ち着きがなかった。先ほどから何度も廊下を往復している。

 程なくして、鷹山が芹沢邸へ姿を現した。
 いつもの仕事時に訪れるときと特に変わらない。荷物は愛用のカバンひとつだけである。
 華音は玄関で彼を出迎えた。
「え……っと、おはようございます」
「おはよう、芹沢さん」
 鷹山も少し緊張しているのだろう。彼の大きな瞳が華音の顔を真正面にとらえる。そして照れたような微妙な笑顔で、今日から宜しく、と素早く言った。
「鷹山さん、マンションのほうは?」
「さっき不動産屋に寄って、鍵も返してきた」
 ここへ来る間に、手際よく手続きをすませてきたらしい。
 鷹山はゆっくりと辺りを見回すと、大きく深呼吸をした。
「僕の荷物はどこですか?」
「大きなものは取り急ぎ、一階の客間へ運んであります。もちろん、お好きな部屋をご用意いたしますよ。空いているお部屋はたくさんございますので」
 乾は嬉しそうに鷹山の問いに答えながら、いつも以上に気配りをみせている。
 その乾の興奮の仕方が、華音の目にはひどく滑稽に映った。
「じゃあ、英輔先生の使ってた部屋は? あそこなら書斎も近いし、いろいろと都合がいい。可能ですか?」
「もちろんでございます。あのお部屋は日当たりも良いですし、広くて過ごしやすいかと」
「まあ、広くたって、きっとすぐに散らかるでしょうけど」
「大丈夫でございますよ。掃除は家政婦がいたしますので」
「いや、いいですよ。芹沢さん、掃除は君がやって」
 鷹山の無茶振りに、華音は青ざめた。
「ええ? そんな……」
「音楽監督命令」
「そうやって、都合のいいときだけ権力振りかざさないでください」
「いいだろ、そのくらい。やってくれよ」
 いつものように他愛もない言い合いを続けているうちに、乾がじっとこちらを見ていることに華音は気がついた。
 実の兄妹であることは知っていても、恋愛関係にあることは知らないはずである。不審がられてしまったらどうしよう――華音はすかさず口を閉ざした。
 鷹山は気づいているのかいないのか、華音の目の前でいまだにああでもないこうでもないと、喋り続けている。
 しかし、乾の思惑は別のところにあったようだ。慈しむような眼差しで、じっと鷹山の顔を見つめている。
 やがて、乾は鷹山に深々と頭を下げた。
「本当に――お帰りなさいませ、坊ちゃま」
 ようやく、鷹山のよく喋る口がおとなしくなった。
 執事の発言に、聞き捨てならない言葉が混じっていたからである。

 ――『坊ちゃま』。

「乾さん、僕は……」
「承知しております。今まで通り、鷹山様と。しかし今日だけは、お許しください」
 鷹山は黙った。
 その大きな瞳は、乾の白髪混じりの髪をとらえたままだ。
「私に力がないばかりに、坊ちゃまには不憫な思いをさせてしまいました。卓人様の大切な大切なご子息を、私は――」
 乾は華音の父親であった人物の名を口にした。

 長きに渡りこの芹沢家に仕えてきた乾にとって、芹沢英輔の一人息子である卓人は、特別な存在だったはずである。勘当同然に芹沢家を出ていったあとも、乾はその身を案じ、しばしば様子を確かめに卓人のもとを訪れていた。
 そして、十五年前。
 仕える芹沢英輔とその夫人の意向に逆らうこともできずに、幼い兄妹を離れ離れにさせてしまった――その罪悪感が、ずっと乾を苦しめていたに違いない。
「仕方がないよ、僕は父さんにまったく似てなかったからね」
 鷹山は吐き捨てるように言い放った。
 その口調の変化に、華音は思わず目を瞠った。冷酷なまでの美しい鷹山の横顔が、華音のすぐそばにある。
「僕はこの家の人間にひどく嫌われてた。第一僕はもう、芹沢の名を失くしてしまったんだから」
「何を仰いますか! 私はよく存じております。楽人坊ちゃまは卓人様とご気性が本当にそっくりでいらっしゃいます。親子に間違いはございません。坊ちゃまは、確かに芹沢の人間でいらっしゃいます!」
 乾は興奮気味に、鷹山の右腕をつかんで揺り動かした。

 鷹山が芹沢家の人間であるということは、華音もすでに分かっている。分かってはいるのだが、今まで鷹山がそういう言動を極力避けていたため、なかなか認識できずにいた。

 鷹山楽人という人間は、祖父の二番弟子。
 ウィーンで修業していた、不敬不遜な態度の男。

 それだけだったはずなのに――。

 華音は思わず執事に聞き返した。
「へえ……そうなんだ。お父さんって、こんな人だったの?」
「なに、その不審な目」
 見下ろす鷹山の瞳が、怜悧な輝きを帯びている。
 華音はこれ見よがしにため息をついて、白々しく呟いてみせた。
「こんな人が二人もいたら、大変だろうなー……って」
「どうしてそういう言い方しかできないんだよ。いつだって君はそうやって僕につっかかってくる。いったい何なの? 僕に恨みでもあるの? 残念だけど、僕にはまったく身に覚えがないからね」
 そういうところでしょ、と喉まで出かかった。しかし、何とかこらえる。
 つっかかってくるのはいったいどちらなのか――華音はまともに相手にするのを、すでに諦めていた。
 良い意味でも悪い意味でも、賑やかな暮らしになるのは間違いなさそうである。

 色褪せた過ぎ去りし日々に思いを馳せるように、乾はその目をゆっくりと細めた。
「お二人のやり取りを拝見していますと、若き日の卓人様と鞠子様を見ているようで……いつも楽しそうでしたよ」
 華音の知らない両親の姿。
 決してこの芹沢邸では聞かれることはなかった、幸せな若き家族の声。
 鷹山と華音の他愛もないやり取りが、乾の胸に何物にも代え難い喜びを満ちあふれさせているようだった。
「やっとこの家に、戻ってきてくださった……本当に」
 執事は何度も何度も、繰り返し頭を下げる。
 鷹山は母親似の大きな瞳を何度も瞬かせ、途惑ったように軽くため息をついた。


 それから数日は、何事もなく淡々と過ぎていった。
 華音が予想していたほどの違和感もなく、緊張も徐々に解けていった。
 お互いの部屋も、中央の階段を挟んで左右に分かれた先にあり、簡単に遭遇したりもしなかった。音楽監督としての仕事が多忙で、華音とは仕事以外で一緒にいる時間がほとんどない。
 専用ホールでの打ち合わせを終えてからも、鷹山は真っ直ぐ家へ帰ることはなかった。情報収集を兼ねて会食をしたり、練習室にこもって楽譜の研究をしたりしているらしい。
 華音が思っていた以上に、鷹山は忙しく動き回っている。
 夜遅く帰ってきて、朝は華音よりも早く起きる。
 そんな生活がしばらく続いた。


 ある朝、いつものように食堂へ行くと、二人分の食器が並べられていた。居候人・高野和久がいなくなってからは、初めてのことである。
 華音は自分の席に着きながら、向かい側の空席を眺めていた。
「今朝は鷹山様もご一緒に朝食を召し上がるそうですよ」
 乾が給仕しながら、そう説明した。
 同じ屋根の下に暮らしていれば当たり前であるはずなのに、まるで特別な儀式のように緊張する。
 待っていればいいのだろうか――しかし鷹山はなかなか現れない。
 華音は迷った挙句、目の前に置かれたパンの籠に手を伸ばした。
 クロワッサンとフランスパンが綺麗に盛りつけてある。酵母の香りが息づく焼きたてのフランスパンを選んで、それを一切れ自分の皿へ取り分けた。バターはほんの少し。一口かじって皿に置き、トマトサラダそしてチーズオムレツに手をつけ始めた。
 いつもと変わらない。乾がせわしなく給仕をする中で、黙々とフォークを口に運ぶ。

 半分ほど食べ終えたところへ、ようやく鷹山が現れた。
 普段から早起きで特に低血圧ということでもなさそうなのに、どことなく気だるそうに、ゆっくりと席に着く。
 高野とは違い、きっちりと身なりを整えた状態だ。
「君とここで食事するのは、初めてだね」
 鷹山は一通りテーブルの上を見回して、感心したように言った。
「へぇ、すごいな。君、いつもこんなにいいもの食べてるの」
「そう? 別に普通でしょ」
「和久さんが居候したがった気持ちも分かるな。男の一人暮らしだと、こうはいかないからね」
 鷹山はまず、コーヒーを所望した。
 乾が手際よく注いだカップを手に取り、華音の食事する様を眺めながら、優雅な所作で液体を口の中へと流し込んでいる。
 見られている――しかし、華音はあえて気づいていないふりをして、食べ続けた。
 すると。
 鷹山は向かい側から、右手を伸ばしてきた。その先にはバターナイフが握られている。
「……なに?」
「ヨイショ」
 鷹山は妙なかけ声とともに、おもむろに華音のパンの上に、山盛りのバターを塗りつけた。
 華音は慌てて、パン皿を自分の手元に引き寄せる。しかしときすでに遅し。
「ヤだ、何するの! 止めてよ」
「バター、嫌いなの?」
「こんなの食べたら太るもん」
 鷹山は華音の訴えもさらりと流し、悪びれずに言い放った。
「いいから食べろよ。痩せっぽちの女なんか魅力ないよ」
「どうして? 細いほうがいいでしょ」
「どこがいいもんか。抱き心地が悪いだけだ」
 華音は言葉を失った。鷹山の顔をじっと見つめたまま、そらすことができない。
 なんと答えたらいいのだろう。
 こういうときは、どうやって――。

 鷹山はコーヒーを飲み干すと、空になったカップをソーサーの上に軽く戻した。そして、ため息をつきながら呆れたように言う。
「言っておくけど、『抱き締め心地』だから。ハグだよハグ。君、朝から想像力たくましすぎなんじゃないの?」
「ヘンな想像なんてしてないもん! 鷹山さんこそ、いつもそうやって人のこと馬鹿にして!」
 鷹山は聞いているのかいないのか、むきになる華音の顔をまじまじと見つめ、楽しそうに笑っている。
 もう、胸もお腹も一杯だった。
 このままゆっくりしていては学校に遅れてしまう――そう思い、華音は早々と席を立った。
 鷹山は執事を呼び止めた。
「乾さんすみません、コーヒーのお替わりをお願いできますか。できたら淹れたてで」
「かしこまりました」
 執事の乾は嫌な顔一つせず、極上の笑顔で鷹山のわがままを聞き入れる。

 乾のあとを追うようにして、華音が食堂を出ようとすると、すかさず鷹山に呼び止められた。
「行ってきますの挨拶は?」
 しばらくそんなこともしていなかった。祖父が生きていた頃は、普通にしていたような記憶もあるが――もはや曖昧だ。
 今となっては、鷹山が同じ家に暮らす同居人であり、芹沢家の人間という立場から考えると、華音よりも格上という位置付けとなる。
 世が世なら、芹沢家の正統な跡取りだ。鷹山本人には、そのつもりはないようだが――。
 華音は制服のリボンを軽く調えながら、素直に頭を下げた。
「行ってきます」
「ちょっと。そうじゃないだろう?」
 食堂内に鷹山の艶のある声が響いた。
 華音は周囲の気配を気にしながら、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
 鷹山の要求するものが何であるのか、その声色から分かる。分かるのだが――華音は焦った。
「……ここで? 乾さんが戻ってきちゃうかも」
「別に構わないだろう?」
「だって! 乾さんは知らないんだから!」
「欧米では、兄妹でも挨拶のキスくらいするさ」
「ここは日本でしょ!」
 赤城との約束は早くも守れそうになかった。
 同じ屋根の下で暮らす以上、一線を引いた付き合いなど――できるはずもない。

 鷹山と恋愛関係になってからも、挨拶のキスなどしたことがない。何度もキスをかわしているのに異様なほどの緊張を覚える。
 普段生活している場所で。
 一日が始まる朝の早い時間に。

 華音は鷹山の席のそばまで近寄り、テーブルに片手をつくと、もう片方の手を彼の肩に軽く載せた。
 目を瞑りそっと、座っている鷹山の唇の端に触れるよう口づける。
 微かにコーヒーの味がした。
 鷹山がそのまま華音の腕を引き寄せた。キスのお替わりの要求に、華音は不自然な体勢を何とか保ちつつ、途惑いながらも応じようとした――そのとき。

 食堂のドアがゆっくりと開いた。
 乾がトレイに淹れたてのコーヒーを載せて戻ってきた。

 華音はすぐさま、鷹山のそばを飛び退いた。
 間一髪。
 乾の視界には入らなかったらしい。華音は胸をなで下ろした。
「もうお出かけでいらっしゃいますか、華音様?」
「あ、うん。ゆっくりしてたら学校に遅れそうだから!」
 落ち着いてご飯も食べることができない。
 一人焦る華音とは対照的に、鷹山は何事もなかったかのように平然とクロワッサンをかじっている。
「じゃあ、また夕方にね」
 執事に給仕された二杯目のコーヒーに口をつけながら、悪魔な音楽監督は軽く手を挙げた。



 その日の夕方、華音は授業を終えて、芹響の本拠地ホールへとやってきた。
 専用ホールは四ヶ月前にオープンしたばかりの、真新しいモダンな建造物である。
 エントランスを歩いているとさっそく、飄々と歩いてくる男につかまった。楽団の最若手、ヴィオラの安西延彦である。
「華音サン、お疲れー」
「安西さん、練習は?」
「今は休憩中。お偉方は打ち合わせしてるさ。平団員はヒマなんだよね」
 他の団員はステージや練習室で自主練習に励んでいることだろう。
 しかし、安西青年は地道な練習が好きではないらしい。こうやっていつでも自由気ままであるのが、彼の長所でもあり短所でもある。
 華音ともっとも歳の近い安西青年は、こうやって華音に構うのがほぼ日課となっている。
 今日もその例にもれず、彼は好奇心旺盛な笑顔を振りまいて、遠慮もなく切り込んでくる。
「それよりさ華音サン、どう? 監督とのらぶらぶ生活の感想は?」
 その下世話な言い方に、華音は思わず顔から火が出そうになった。すぐさま安西青年を鋭く睨みつける。
「あ、安西さん! そういう言い方止めてくれません? 高野先生と一緒のときは何にも言われなかったのに、鷹山さんだとどうして、『らぶらぶ』とか言われなくちゃならないんですか!?」
 付き合っているという事実を肯定したことなどないはずなのに、安西青年には見抜かれてしまっている。いくら取り繕って否定してみたところで、もはや無駄である。
 安西青年には、そんな華音の反応が楽しくてたまらないらしい。

 鷹山が芹沢家に住まいを移したことは、すでに団員には広く知れ渡っていた。
 富士川と同じく、師の愛弟子であることに加えて、過去に一番弟子が芹沢邸に居候していたという事実もあり、二人の実際の血縁関係を知らない人間にも、引っ越しはさほど不思議には映らなかったようだ。
 天涯孤独となった華音の身の上や、高野和久の慶事のことを合わせ見ると、鷹山の取った行動は概ね肯定的に受け入れられている。

 もちろん、オーナーの赤城を除いて――である。

「ねえねえ、監督と華音サンってさ、朝起きるの、どっちが早いの?」
「え? ……鷹山さんは基本的に早起きみたいですけど。何時に起きてるか分かんないです」
「てことはつまり、『起きて、早く起きないとお目覚めのキスを……』――」
「するわけないでしょ!」
「むきになってる。カワイイなー、女子高生って」

 ふと――。
 視線を感じ、華音は入り口のほうを振り向いた。
 関係者以外立ち入り禁止、というプレートが提げられたガラス張りのドアの向こうに、背の高い細身の女性が、中をうかがうようにして立っている。
 凛々しい目鼻立ちと、溌剌とした雰囲気のショートヘアが春風になびいている。黒のパンツスーツに白のスプリングコートが目に鮮やかだ。
 女はエントランスの中に華音と安西青年二人の姿を見つけると、ドアを開けて建物の中へと入り込んできた。
「ちょっといい? 君たち、ここの関係者?」
 女の問いに、二人は返答もできずに立ち尽くしていた。
「どうかしたかな?」
 女が再度尋ねると、惚けていた安西青年はようやく口を開いた。
「あ、いや。有名なヴァイオリニストによく似てたもんで、つい」
「安西さん、この人、本人ですよ」
 華音がそう耳打ちすると、安西青年は驚いたように大きく相槌を打った。
「え? そっかー、そりゃ似てるわな。で、誰サンにご用事ですか?」
「楽人君、いる?」
 ガクト――それは鷹山のファーストネームを指していることに、華音はすぐに気づいた。
 その親しげな呼び方に、華音は思わず眉をひそめる。
 安西青年は能天気に答えた。
「あー、監督に用事なら、この子を通したほうが早いっスよ。監督とお知り合いで?」
「お知り合いっていうか、まあ、『元彼』ってやつかな?」
「も……元彼? てことは、監督の元彼女さんなんスか!?」
 安西青年はその隣で大袈裟に飛び上がった。
 華音はあまりの衝撃に、もはや声も出せない。
「そんなに驚かなくても。あくまで元、だから」
「ですよね、まさか二股ってこともないだろうし――」

 ――何てことを。

 このときばかりは、安西青年の口の軽さを恨めしく思った。
 華音の不安は、やがて現実となる。
「二股? へえ……楽人君の新しい彼女って、どんな子?」
 安西青年は無言のまま、人差し指を傍らの少女に向けた。
「安西さん!」
 華音の訴えもどこ吹く風。安西青年は飄々としたまま、あえて厄介ごとを楽しんでいるかのようだ。
「そうなんだ!? うわ、これまた随分と若い。何だか意外、かも」
 過去には付き合っていた人もいる――そう聞いていたはずなのに、嫉妬で狂いそうだった。
 しかもこの人は、もっともっと以前から、別の意味で知っている人間だ。

 ――この人は、祥ちゃんと特別仲の良かった音大時代の後輩。ただそれだけだった、はず。

 それなのに――。

 華音はのぼせ上がってしまい、自分の頭でものが考えられなくなっていた。
 意味が分からない。
 どうしてこの人が。
「帰ってください。鷹山さんは忙しいんです。予定が一杯詰まってますから」
「そう。じゃあ、いつなら空いてるの? アポだけでも取らせてよ」
 華音は黙った。
 安西青年は冷やかすように言った。
「元って言ってるじゃない? いいのー? 勝手に追い返しちゃったりして。また雷落とされるんじゃない? あ、今は優しくお仕置きだったっけ」
「んもう、安西さん!!」
「俺、とりあえず美濃部サン呼んできますよ。羽賀さんはここで待っていてください」
 そう言って、安西青年は意味ありげに華音に目配せをして、調子よく笑ってみせた。


 安西青年がいなくなってしまうと、広いエントランスに華音と羽賀真琴の二人が残された。
 気まずい空気が流れている。
 重苦しい沈黙を破るようにして、真琴はさらりと尋ねてくる。
「美濃部って、誰?」
「うちのコンサートマスターです」
「ふーん。聞いたことない名前だね。祥先輩の後釜ってわけか」
 美濃部は非音大出で、コンサートマスターとしては異例の大抜擢である。コンクール受賞歴もないため、真琴はその存在をまったく知らないようだ。
 富士川の後釜という言い方が華音の耳に引っかかる。
 しかし今は、それよりももっと確認したいことがあった。
「あの……ホントなんですか?」
 華音は訝しげな眼差しを露骨に真琴に向けながら、怖ず怖ずと切り出した。
「ん? 何が?」
「……鷹山さんと付き合ってたっていうの」
「本当だよ」
 間髪入れずに、ハッキリと答えが返ってくる。
 華音はさらなる衝撃を受けた。胸が引き絞られるような痛みと全身の血液が逆流するような感覚で、次第に目の前が霞んでいく。
「そんな怖い顔しなくても、今はただのお友達だから」
 真琴は、優越感に満ちた極上の作り笑いをしてみせている。その余裕の表情が、なおいっそう華音の胸をかき乱した。

 いったい何なのだ、この人は。
 富士川だけでなく、どうして鷹山まで。

 元彼女――彼女だなんて。