奈落の章 (5)後 繋がり
赤城に連れられてやってきたのは、県内随一の設備を誇る、医大の附属病院だった。
華音はBMVの助手席から降りると、落ち着きなく辺りを見回した。
駐車場は、外来患者や見舞い客の車でごった返している。ここではぐれてしまったら厄介だ。
長身の赤城は、必然的にその歩幅も並以上ある。颯爽と早足で歩を進められてしまうと、どんどん引き離されていくばかりだ。
華音は先を行く赤城に半歩ほど遅れる形で、必死にその後を追った。
やがて、赤城は大きな案内板の前で足を止めた。
小走り状態だった華音は、ようやくその背に追いつくことができた。
赤城は難しい顔をしながら、指をなぞらせるようにして道筋を確認している。どうやら目的の場所を探しているらしい。
「あの……祥ちゃんはどこが悪いんですか?」
「第二外科とか言ってたかな。私は医者ではないんでね。詳しいことまでは聞いていない」
赤城の淡々とした物言いが、逆に華音の緊張をあおった。この説明では、面会謝絶か絶対安静なのか――すでに快復に向かって退院間近であるのか、まったく予想がつかない。
「以前も同じようなことがあったと、和久から聞いているが?」
第二外科の病棟へ向かう間、赤城は華音に尋ねてきた。
その出来事はしっかりと覚えている。そんな昔の話ではない。三年ほど前のことだ。
「まあ、ストレス性の胃炎みたいな……一人で頑張って無理しちゃうところがあるから、祥ちゃんは」
おととしの定演で、富士川は初めてヴァイオリン協奏曲のソロを任されることになった。
さらに一年前、その企画が持ち上がった頃――。
富士川はまさしく寝食忘れて稽古に没頭することとなり、その結果体調を崩し、吐血する騒ぎにまで発展したのである。
その後、ソロの交代も代案として挙がったが、富士川は頑としてそれを聞き入れず、師の芹沢英輔を困らせた。
その代案とは――ウィーンにいる若手ヴァイオリニストに、ソロを任せるというものだったからである。
そのときの富士川の様子を、華音は忘れることができない。
冷静で知的な彼が、鬼気迫る凄まじい形相で、見舞いに訪れる師に懇願を繰り返し、挙句の果てには練習を続けると言って、ひとり病院を抜け出してくる始末だった。
その後退院してからも、富士川は再び狂ったように練習して、ひたすら研鑚を積み、英輔や華音をひどく心配させたのだった。
当時、二番弟子の存在を知らなかった華音はそれを、自分よりも年下のヴァイオリニストなどにソロを任せたくはない、という富士川の弟子としてのプライドと意地だとばかり思っていた。
だが今考えてみると、その代役を指名された若手ヴァイオリニストというのが、同じ師を持つ不敬不遜な態度の『もう一人の弟子』であったからこそ――。
そう。
誰よりも師の芹沢英輔を愛し、そして愛された一番弟子だからこそ、富士川は複雑な思いを抱えていたのであろう。
それにしても。
また同じことを繰り返してしまったのだろうか――華音は、ひどく寂しさを覚えていた。
赤城と華音は、ようやく第二外科病棟へと辿り着いた。
富士川の病室は二人部屋だった。大部屋というほど広くもない。入り口に掲示されている患者のネームプレートを改めて確認し、二人は中に入った。
同部屋の患者である初老の男が、仕切られたカーテンの合間から、物珍しそうにして華音と赤城の姿を眺めている。
赤城が会釈をすると、老人は暇を持て余していたのか、気さくに話しかけてきた。
「お兄さんのお知り合い?」
老人の言う『お兄さん』とは、どうやら富士川のことを指しているらしい。
「いやな、独り身で家族もいないって言ってたもんだから……入院してることあんまり知らせてねえのか、見舞い客もほとんど来んし、珍しいなあと思って」
その老人の言葉を聞き、華音は胸が引き絞られるような苦しさを覚えた。
身元引受人すらいない状況で、富士川は一人病院の一室で毎日を過ごしていた。
華音にとって家族以上の存在だった富士川に、どうしてこんな孤独を味わわせてしまったのだろうか。いくら悔やんでも悔やみきれない。
「彼は今どちらに?」
赤城が尋ねると、老人は白髪頭をかきながら首を傾げてみせた。
「さっき検査から戻ってきて、また屋上あたり散策してるんじゃねえのかな? 安静にしてろと言われてるのに、看護師さんの目を盗んであちこち歩き回ってるから」
何もせずにベッドの上で過ごすことが苦痛なのであろう。持って生まれた性質は、やはり変えられないようだ。勤勉実直、真面目で堅物な富士川らしい。
「私、捜してきます」
華音はそう言い残し、赤城に老人の相手役を任せると、一人病室をあとにした。
華音は老人が言っていたとおり、院内の案内図を頼りに屋上へと向かった。
屋上は誤って転落しないよう、フェンスが高く張り巡らされている。すでに日は傾きかけているが、春風はまだ暖かい。
華音は一通り屋上を見渡した。すると、隅のほうで一人、フェンスの外の景色を物憂げに眺めていた、目的の人物を見つけることができた。
何ヶ月ぶりだろうか。
本拠地ホールのこけら落としは、昨年の十二月だった。あの雪のちらつく寒い日に言葉を交わしてから、富士川とはまったくの音信不通となっていた。
今は四月、桜の散りゆく季節である。かれこれもう四ヶ月も会っていなかったことに、華音はいまさらながら気づいてしまう。
仕方のないことだったのだ。
自分のそばには鷹山という男がいて――ともに仕事をしたり、ときにじゃれたり、しょっちゅうケンカしたりと、目まぐるしいほどに充実した時間を過ごしているのだから。
――そう、だって私には……鷹山さんがいるんだもん。
「祥ちゃん」
久しぶりに彼の名を、そのすらりとした背中に投げかける。
緊張で、声がわずかに震えるのが自分でも分かった。
「……華音ちゃん?」
華音は富士川がこちらを振り返るや否や、勢いよく抱きついた。
消毒薬の匂いが、患者衣に染みついている。
「もう、祥ちゃん……」
「華音ちゃん……よく、分かったね」
抱きついている男の声は、明らかに驚いている。
華音はゆっくりと腕を放し、茫然としたままの富士川を見上げた。
「うん。赤城さんがね、教えてくれたから。大丈夫なの? どこが悪いの?」
「大したことないよ。ちょっと胃の具合が良くないだけで……まあ、もともと胃は強いほうじゃないから。かなり良くなったから、心配要らないよ」
富士川は大袈裟だと言いたげに、肩をすくめてみせる。
「どうしてこんな……」
「華音ちゃん?」
いつでもそうなのだ、この人は。
大丈夫。
心配しなくていい。
俺が何とかする。
華音ちゃんは何も考えなくていい――。
いつだって、そうだったのだ。
華音はもう、自分の気持ちを上手く抑えることができなかった。感情に任せ、患者衣をつかみ、富士川の身体を何度も揺さぶってしまう。
「いつもいつもそうやって一人で抱え込んで、倒れるまで無理して! どれだけ心配したと思ってるの?」
「どうして……俺の心配なんかするの?」
「心配する家族もいないから気楽? 家族じゃなかったら心配しちゃいけない?」
華音は、富士川を半ば睨みつけるようにして見上げた。
一番弟子の眼鏡の奥の瞳は、驚きで見開かれたまま。瞬くことも忘れてしまっているようだ。
「……華音ちゃんが、鷹山に責められることになったら可哀想だから、高野さんに黙っていて欲しいって、言ってたんだ」
「高野先生は知ってたの? 知らなかったのは私だけ? 何それ……」
鷹山に責められることになったら――可哀想。
そんなの、間違っている。
いちいち責めるほうが、どうかしているのだ。
華音は、迷いを払拭するように、首を横に振った。
富士川は流れる雲を見上げ、どこか寂しげに苦笑いをしてみせている。
「天罰が下ったんだな、きっと」
「……天罰?」
華音の問い返しに、富士川からの答えはなかった。
病室に戻ると、赤城はベッド脇のパイプ椅子に座って、一人悠々と待っていた。
同室の老人の姿は見当たらない。同室患者の見舞い客に気を遣って、病棟付きの談話室へと移動してくれたらしい。
赤城は立ち上がると、軽く会釈をし、おもむろに自己紹介を始めた。
「初めましてと言うべきかな、富士川君。芹響のオーナーでもあり、君の代わりに芹沢君の教育係をしている赤城という。もっとも、放任主義だがね」
その説明の仕方に若干のとげが感じられる。
「教育係って……そんな話、初めて聞きましたけど」
華音の行動に目を光らせて口を出してくるということに関して言えば、『教育係』という言葉もあながち間違いとは言えない。
しかし、随分と勝手な言い草だ、と華音は不満のため息を漏らした。
「まあ、和久の友人と言ったほうが、親しみが湧くかな?」
「ああ、高野さんの高校時代の同級生……でしたよね、確か」
「そのとおり。君は和久と仲がいいんだろう?」
「ええ、まあ」
現在富士川が持っている赤城の情報は、その程度であろう。赤城とスポンサー契約の交渉に至る前に、富士川は芹響を退団している。
赤城は富士川にベッドに腰かけるよう勧めた。そして、どこからかもうひとつのパイプ椅子を調達してきてそこに華音を座らせ、手際よく面会の体裁を整える。
それっきり、赤城は一歩距離を置いたところへ椅子ごと移動し、第三者を決め込んでしまった。あくまで華音に付き添ってきた保護者役を自負しているためであろう。
華音は富士川のほうへと向き直った。
「必要なものとかあれば持って来るけど?」
「大丈夫だよ」
すでに半月あまり入院しているのだから、身の回りのものはひと通り揃っているだろう。
華音は思案をめぐらせた。
「暇だったら、マンガとか……あ、でも祥ちゃん少女マンガなんか読まないよね。そうだ、祥ちゃんが昔くれた本、私の部屋の本棚にちゃんととってあるから、今度持ってきてあげる!」
「華音ちゃんにあげた本って、俺が芹沢の家を出るときに置いていったやつ?」
「なんか難しくて、まだ半分も読んでないけど……」
「大学時代に読んでたものがほとんどだからね。大切に取っておいてくれただけで嬉しいよ」
富士川が所持していた本は、海外の古典名作と呼ばれるものがほとんどだ。ゲーテからドストエフスキーまで、タイトルだけなら華音も知っているものが多い。しかし、なかなか読もうという気になれず、今は華音の本棚の飾りとなっている。
富士川の表情が柔らかい。その嬉しそうな顔が華音を安堵させる。
二人の時間は、一年前に戻っていく。
優しい優しい、緩やかなひとときだ。
「洗濯物とかはどうしてるの?」
「こういう大きな病院は、クリーニングサービスとか充実してるから。至れり尽くせりなんだよ」
「でもお金かかるんでしょ? もったいない! 私がやる!」
華音の突然の申し出に、富士川は二の句が継げなくなったようだ。
そのときである。
それまで黙って二人のやり取りを眺めていた赤城が、ようやく口を開き、からかうようにひと言を発した。
「ハッ、まるで幼な妻だな」
すると、先に反応をしたのは華音ではなく、患者衣姿の青年のほうだった。
「お、お、幼な妻だなんて、とんでもない!」
完全に取り乱してしまっている。
華音は恥ずかしさよりも、赤城の不躾な物言いに対する腹立たしさのほうが大きかった。
「……オジサンの考えることって、これだからイヤ」
そんな華音の嫌味も、赤城はどこ吹く風だ。
「そりゃそうだろう。男の下着を洗濯したいと、自分から志願してるんだからな」
「別に、祥ちゃんのパンツなんか見慣れてるもん!」
「うら若き乙女の発言とは到底思えんな、まったく」
「そんなのお互い様だもん。祥ちゃんだって、私のをいっぱい見てるし!」
赤城と華音のいつものかけ合いに、富士川は一人取り乱し、一人赤くなったり青くなったりしている。
「ご、誤解しないでください! 華音ちゃんがまだ小さかった頃の話ですから! ……華音ちゃん、もうそのくらいにして。俺が恥ずかしいから」
二人の様子を見て、赤城は珍しく腹を抱えるようにして豪快に笑い出した。
「どこで――歯車が狂ってしまったのだろうな」
赤城は一転して神妙な面持ちになり、ベッド上の一番弟子の顔を真っ直ぐに見つめた。
「君は芹沢の人間じゃない。だから芹沢英輔氏が亡くなってその跡を引き継ぐことに、どこか後ろめたさがあった。だから君は、もう一人の弟子である鷹山君の揶揄に勝てなかったんだろう。その辺の詳しい経緯は私にはよく分からないが――しかし、それが五年後だったなら話は変わったのではないかと、私は思っている」
赤城は一呼吸置くと、続く言葉を力強く言い切った。
「芹沢氏はおそらくそのつもりだったはずだ。そして富士川君、君自身もね」
富士川は唖然としたまま、赤城の顔から目をそらせずにいる。
「それは、その――ひ、否定はしませんが」
「……祥ちゃん? 『そのつもり』って、何?」
答えが返ってこない。
黙る富士川に代わって、赤城が素早く説明をした。
「君と結婚して正式に婿入りすれば、富士川君は紛れもない『芹沢』の人間となれるからね」
華音は思わず目を瞠った。
真偽を確かめるべく富士川のほうへと顔を向けると、そこには途惑いを隠しきれていない複雑な表情があった。
確かに――。
自分が幼い頃には、富士川と将来結婚するのだと周囲の人間たちに公言していた。華音自身も、そのことはハッキリと覚えている。
しかし、華音が中学に上がり、富士川が二十代半ばの結婚適齢期を迎えると、結婚するという言葉は幼い少女の淡い夢だったのだ、と片付けられていた。
片付けられていたはず、だったのに――。
まさか祖父や富士川自身がそのつもりでいたとは、華音は思ってもみなかったのである。
「で、でも俺は決して、華音ちゃんにそれを押しつけようなんて思ってなかったです。華音ちゃんが選ぶ相手なら誰でも……」
富士川のしどろもどろの言い訳を、赤城は簡単に切り捨てた。
「そんなことはありえない。君が『光源氏』なら芹沢君は『紫の上』だからな」
赤城は、自分好みの女性に育てるという、古典名作のあらすじを採り上げて、迷いなく決めつけるようにして説明した。
もちろん富士川は、ベッドの上でどうしていいのか分からずに、落ち着きなく辺りを見回しながら弁明を続ける。
「光源氏だなんて、本当にそんなつもりじゃないです。そうなってくれたらいいとは……思っていましたけど。でも、華音ちゃんにはまだまだ早い話ですから――」
「いつになったらいいんだ。二十歳になってからか? まったく、君はいつの時代の人間だ。まあ、敬愛する師匠の孫娘に、そうそう手を出すわけにはいかなかったんだろうが」
祖父の愛弟子と結婚する。
兄のように慕っていた大好きな富士川と結婚する。
それが祖父の希望であり、一番弟子の願いでもあり、そして華音の夢でもあった。
しかし、歯車が狂ってしまった。
「君は芹沢君のそばを離れるべきではなかった。それが、君が犯してしまった最大の過ちだ」
分からない。
何が正しくて、何が間違っているのか。
「たとえ、跡を継ぐ資格がないと弟分に言われたとしても――彼女のそばについていなければならなかった。芹沢英輔氏のためにも」
もしも、あのとき――。
「いいえ、これで良かったんです」
富士川は赤城に、そう静かに告げた。
そして淡々と落ち着いた声で、さらに続ける。
「華音ちゃんには華音ちゃんの人生がありますから。芹沢先生の希望を押しつけられることもなくなったわけですし。これからも鷹山と仲良くやっていってくれれば、それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいいですから」
華音の全身に衝撃が走った。
「えっ!? い、いやあの、鷹山さんと……って、ど、どうしてそんな」
確かに、芹響の楽団員の中には、鷹山と華音の恋愛関係に気づいている人間もいる。
しかし富士川は違う。同じ時間を過ごしているわけではない。
「俺が気づいていないとでも思った? 華音ちゃんを見ていれば、俺はすぐに分かるよ」
「祥ちゃん……」
ふと。
赤城がじっとこちらを見つめていることに、華音は気がついた。
すると、赤城は突然、奇妙なことを言い出した。
「富士川君、君は芹沢君に兄弟がいることを知っているか?」
華音は思わず自分の耳を疑った。
この大男は、いま何と?
「兄弟? 華音ちゃんに……ですか? いえ、そんな話は聞いたことがないですけど」
富士川は不思議そうに首を傾げている。
「止めて」
「そうやって、いつまで逃げているつもりだ?」
初めからそのつもりだったのだ。
赤城が自分をここまで連れてきたのは、鷹山へのカムフラージュのためなんかではない。
富士川に対して、華音が背負っている秘密を暴露するためだったのだ。
「鷹山君が現在、芹沢氏の邸宅で彼女と暮らしている。君が昔そうしていたようにね。そのことは知っていたか?」
「止めてください! 赤城さん!」
「この二つの話はイコールだ。離れ離れになっていた二人きりの兄妹が、一つ屋根の下に暮らすことになった――ということだな」
「お願いですから、もう――もう、止めてください赤城さん……」
最悪だ。
たとえそれが紛れもない真実だとしても――。
「……鷹山が? 華音ちゃん、そうなの?」
華音が黙っていると、すかさず赤城が答えた。
「そうだ。血縁的には、彼が芹沢英輔氏の正統な跡取りということになる」
華音はもはや何も言うことができなかった。緊張のあまり呼吸もままならず、身を強ばらせじっと座っているばかりだ。
「そう、ですか」
赤城は穏やかな口調で、ベッドの上の一番弟子に聞き返した。
「それだけかな?」
「……ええ、それだけです」
幾分やつれた富士川の顔には、まったく精気がない。
長い沈黙が続く。
「そりゃあ、芹沢先生が特別扱いするわけだ。俺は初めから、あいつに敵うはずが……なかったんだな」
富士川は大袈裟に驚くこともせず、淡々と言う。
すると。
赤城は初対面であるはずの一番弟子を、ためらいもなく一喝した。
「まったく馬鹿馬鹿しい! 君もうちの音楽監督と一緒で、まだまだ青二才だな」
富士川は当然、面食らった表情を見せている。
赤城は構わず、さらに続けた。
「いいか、芹沢君は君が育てたんだ。お互い分かってるはずだろう? この先どんなことがあっても、君たちは他人に戻ることなどできない。さっきも言ったが、君は芹沢君のそばを離れるべきではなかった。過ぎたことをあれこれ言うのは私の性分ではないが、富士川君、君はずっと彼女のそばについているべきだったんだよ。たとえどのような形であっても! 君たちは、肉親よりも深い深い絆で結ばれているのだからね」
富士川は唇を噛み締めたまま、じっと赤城を見つめている。
赤城はなおも続けた。
「そして鷹山君もだ。いまさら身内として、ましてや家族として振る舞うことなどできるはずがない。彼はウィーンに留まっているべきだったのだ」
どうしてそんなことを言うのだろう。
彼は血を分けた兄である。
彼は兄ではない。
兄である。
兄ではない。兄ではない。兄ではない。たった一人の愛する男。
心が軋む音がする。
「鷹山君自身も、そして芹沢氏も、それが最良の選択だと納得していたはずなんだよ。鷹山君は誰よりも芹沢という名を憎み、そして愛している。だからこそ、芹沢の名を背負わせるべきではなかったのだ。その憎しみのために、人としての判断力が狂ってしまっているのだからな」
赤城の容赦ない言葉が、華音の胸に真っ直ぐ突き刺さった。
正しいことを言っているのかもしれない。
狂っている。人としての判断力が、狂ってしまっている――。
「いいか富士川君。鷹山君は芹沢君の実の兄だ。だから現在、『兄妹として仲良く』本来あるべき姿にとりあえず収まっている。それだけの話だ」
赤城の威圧的な声が、華音に容赦なく降りかかる。
「そうだな? 芹沢君」
このままだときっと、自分は壊れてしまう。
華音はじっと病室の床を見つめ、短く何度も呼吸を繰り返した。
「返事はどうした?」
「……はい」
狂った歯車に巻き込まれ、やがてこの身を引き裂かれてしまう。
もしかしたら、すでに自分は壊れ始めているのかもしれない――華音は目には見えない無数の亀裂を、心の奥底で感じ取っていた。
華音はBMVの助手席から降りると、落ち着きなく辺りを見回した。
駐車場は、外来患者や見舞い客の車でごった返している。ここではぐれてしまったら厄介だ。
長身の赤城は、必然的にその歩幅も並以上ある。颯爽と早足で歩を進められてしまうと、どんどん引き離されていくばかりだ。
華音は先を行く赤城に半歩ほど遅れる形で、必死にその後を追った。
やがて、赤城は大きな案内板の前で足を止めた。
小走り状態だった華音は、ようやくその背に追いつくことができた。
赤城は難しい顔をしながら、指をなぞらせるようにして道筋を確認している。どうやら目的の場所を探しているらしい。
「あの……祥ちゃんはどこが悪いんですか?」
「第二外科とか言ってたかな。私は医者ではないんでね。詳しいことまでは聞いていない」
赤城の淡々とした物言いが、逆に華音の緊張をあおった。この説明では、面会謝絶か絶対安静なのか――すでに快復に向かって退院間近であるのか、まったく予想がつかない。
「以前も同じようなことがあったと、和久から聞いているが?」
第二外科の病棟へ向かう間、赤城は華音に尋ねてきた。
その出来事はしっかりと覚えている。そんな昔の話ではない。三年ほど前のことだ。
「まあ、ストレス性の胃炎みたいな……一人で頑張って無理しちゃうところがあるから、祥ちゃんは」
おととしの定演で、富士川は初めてヴァイオリン協奏曲のソロを任されることになった。
さらに一年前、その企画が持ち上がった頃――。
富士川はまさしく寝食忘れて稽古に没頭することとなり、その結果体調を崩し、吐血する騒ぎにまで発展したのである。
その後、ソロの交代も代案として挙がったが、富士川は頑としてそれを聞き入れず、師の芹沢英輔を困らせた。
その代案とは――ウィーンにいる若手ヴァイオリニストに、ソロを任せるというものだったからである。
そのときの富士川の様子を、華音は忘れることができない。
冷静で知的な彼が、鬼気迫る凄まじい形相で、見舞いに訪れる師に懇願を繰り返し、挙句の果てには練習を続けると言って、ひとり病院を抜け出してくる始末だった。
その後退院してからも、富士川は再び狂ったように練習して、ひたすら研鑚を積み、英輔や華音をひどく心配させたのだった。
当時、二番弟子の存在を知らなかった華音はそれを、自分よりも年下のヴァイオリニストなどにソロを任せたくはない、という富士川の弟子としてのプライドと意地だとばかり思っていた。
だが今考えてみると、その代役を指名された若手ヴァイオリニストというのが、同じ師を持つ不敬不遜な態度の『もう一人の弟子』であったからこそ――。
そう。
誰よりも師の芹沢英輔を愛し、そして愛された一番弟子だからこそ、富士川は複雑な思いを抱えていたのであろう。
それにしても。
また同じことを繰り返してしまったのだろうか――華音は、ひどく寂しさを覚えていた。
赤城と華音は、ようやく第二外科病棟へと辿り着いた。
富士川の病室は二人部屋だった。大部屋というほど広くもない。入り口に掲示されている患者のネームプレートを改めて確認し、二人は中に入った。
同部屋の患者である初老の男が、仕切られたカーテンの合間から、物珍しそうにして華音と赤城の姿を眺めている。
赤城が会釈をすると、老人は暇を持て余していたのか、気さくに話しかけてきた。
「お兄さんのお知り合い?」
老人の言う『お兄さん』とは、どうやら富士川のことを指しているらしい。
「いやな、独り身で家族もいないって言ってたもんだから……入院してることあんまり知らせてねえのか、見舞い客もほとんど来んし、珍しいなあと思って」
その老人の言葉を聞き、華音は胸が引き絞られるような苦しさを覚えた。
身元引受人すらいない状況で、富士川は一人病院の一室で毎日を過ごしていた。
華音にとって家族以上の存在だった富士川に、どうしてこんな孤独を味わわせてしまったのだろうか。いくら悔やんでも悔やみきれない。
「彼は今どちらに?」
赤城が尋ねると、老人は白髪頭をかきながら首を傾げてみせた。
「さっき検査から戻ってきて、また屋上あたり散策してるんじゃねえのかな? 安静にしてろと言われてるのに、看護師さんの目を盗んであちこち歩き回ってるから」
何もせずにベッドの上で過ごすことが苦痛なのであろう。持って生まれた性質は、やはり変えられないようだ。勤勉実直、真面目で堅物な富士川らしい。
「私、捜してきます」
華音はそう言い残し、赤城に老人の相手役を任せると、一人病室をあとにした。
華音は老人が言っていたとおり、院内の案内図を頼りに屋上へと向かった。
屋上は誤って転落しないよう、フェンスが高く張り巡らされている。すでに日は傾きかけているが、春風はまだ暖かい。
華音は一通り屋上を見渡した。すると、隅のほうで一人、フェンスの外の景色を物憂げに眺めていた、目的の人物を見つけることができた。
何ヶ月ぶりだろうか。
本拠地ホールのこけら落としは、昨年の十二月だった。あの雪のちらつく寒い日に言葉を交わしてから、富士川とはまったくの音信不通となっていた。
今は四月、桜の散りゆく季節である。かれこれもう四ヶ月も会っていなかったことに、華音はいまさらながら気づいてしまう。
仕方のないことだったのだ。
自分のそばには鷹山という男がいて――ともに仕事をしたり、ときにじゃれたり、しょっちゅうケンカしたりと、目まぐるしいほどに充実した時間を過ごしているのだから。
――そう、だって私には……鷹山さんがいるんだもん。
「祥ちゃん」
久しぶりに彼の名を、そのすらりとした背中に投げかける。
緊張で、声がわずかに震えるのが自分でも分かった。
「……華音ちゃん?」
華音は富士川がこちらを振り返るや否や、勢いよく抱きついた。
消毒薬の匂いが、患者衣に染みついている。
「もう、祥ちゃん……」
「華音ちゃん……よく、分かったね」
抱きついている男の声は、明らかに驚いている。
華音はゆっくりと腕を放し、茫然としたままの富士川を見上げた。
「うん。赤城さんがね、教えてくれたから。大丈夫なの? どこが悪いの?」
「大したことないよ。ちょっと胃の具合が良くないだけで……まあ、もともと胃は強いほうじゃないから。かなり良くなったから、心配要らないよ」
富士川は大袈裟だと言いたげに、肩をすくめてみせる。
「どうしてこんな……」
「華音ちゃん?」
いつでもそうなのだ、この人は。
大丈夫。
心配しなくていい。
俺が何とかする。
華音ちゃんは何も考えなくていい――。
いつだって、そうだったのだ。
華音はもう、自分の気持ちを上手く抑えることができなかった。感情に任せ、患者衣をつかみ、富士川の身体を何度も揺さぶってしまう。
「いつもいつもそうやって一人で抱え込んで、倒れるまで無理して! どれだけ心配したと思ってるの?」
「どうして……俺の心配なんかするの?」
「心配する家族もいないから気楽? 家族じゃなかったら心配しちゃいけない?」
華音は、富士川を半ば睨みつけるようにして見上げた。
一番弟子の眼鏡の奥の瞳は、驚きで見開かれたまま。瞬くことも忘れてしまっているようだ。
「……華音ちゃんが、鷹山に責められることになったら可哀想だから、高野さんに黙っていて欲しいって、言ってたんだ」
「高野先生は知ってたの? 知らなかったのは私だけ? 何それ……」
鷹山に責められることになったら――可哀想。
そんなの、間違っている。
いちいち責めるほうが、どうかしているのだ。
華音は、迷いを払拭するように、首を横に振った。
富士川は流れる雲を見上げ、どこか寂しげに苦笑いをしてみせている。
「天罰が下ったんだな、きっと」
「……天罰?」
華音の問い返しに、富士川からの答えはなかった。
病室に戻ると、赤城はベッド脇のパイプ椅子に座って、一人悠々と待っていた。
同室の老人の姿は見当たらない。同室患者の見舞い客に気を遣って、病棟付きの談話室へと移動してくれたらしい。
赤城は立ち上がると、軽く会釈をし、おもむろに自己紹介を始めた。
「初めましてと言うべきかな、富士川君。芹響のオーナーでもあり、君の代わりに芹沢君の教育係をしている赤城という。もっとも、放任主義だがね」
その説明の仕方に若干のとげが感じられる。
「教育係って……そんな話、初めて聞きましたけど」
華音の行動に目を光らせて口を出してくるということに関して言えば、『教育係』という言葉もあながち間違いとは言えない。
しかし、随分と勝手な言い草だ、と華音は不満のため息を漏らした。
「まあ、和久の友人と言ったほうが、親しみが湧くかな?」
「ああ、高野さんの高校時代の同級生……でしたよね、確か」
「そのとおり。君は和久と仲がいいんだろう?」
「ええ、まあ」
現在富士川が持っている赤城の情報は、その程度であろう。赤城とスポンサー契約の交渉に至る前に、富士川は芹響を退団している。
赤城は富士川にベッドに腰かけるよう勧めた。そして、どこからかもうひとつのパイプ椅子を調達してきてそこに華音を座らせ、手際よく面会の体裁を整える。
それっきり、赤城は一歩距離を置いたところへ椅子ごと移動し、第三者を決め込んでしまった。あくまで華音に付き添ってきた保護者役を自負しているためであろう。
華音は富士川のほうへと向き直った。
「必要なものとかあれば持って来るけど?」
「大丈夫だよ」
すでに半月あまり入院しているのだから、身の回りのものはひと通り揃っているだろう。
華音は思案をめぐらせた。
「暇だったら、マンガとか……あ、でも祥ちゃん少女マンガなんか読まないよね。そうだ、祥ちゃんが昔くれた本、私の部屋の本棚にちゃんととってあるから、今度持ってきてあげる!」
「華音ちゃんにあげた本って、俺が芹沢の家を出るときに置いていったやつ?」
「なんか難しくて、まだ半分も読んでないけど……」
「大学時代に読んでたものがほとんどだからね。大切に取っておいてくれただけで嬉しいよ」
富士川が所持していた本は、海外の古典名作と呼ばれるものがほとんどだ。ゲーテからドストエフスキーまで、タイトルだけなら華音も知っているものが多い。しかし、なかなか読もうという気になれず、今は華音の本棚の飾りとなっている。
富士川の表情が柔らかい。その嬉しそうな顔が華音を安堵させる。
二人の時間は、一年前に戻っていく。
優しい優しい、緩やかなひとときだ。
「洗濯物とかはどうしてるの?」
「こういう大きな病院は、クリーニングサービスとか充実してるから。至れり尽くせりなんだよ」
「でもお金かかるんでしょ? もったいない! 私がやる!」
華音の突然の申し出に、富士川は二の句が継げなくなったようだ。
そのときである。
それまで黙って二人のやり取りを眺めていた赤城が、ようやく口を開き、からかうようにひと言を発した。
「ハッ、まるで幼な妻だな」
すると、先に反応をしたのは華音ではなく、患者衣姿の青年のほうだった。
「お、お、幼な妻だなんて、とんでもない!」
完全に取り乱してしまっている。
華音は恥ずかしさよりも、赤城の不躾な物言いに対する腹立たしさのほうが大きかった。
「……オジサンの考えることって、これだからイヤ」
そんな華音の嫌味も、赤城はどこ吹く風だ。
「そりゃそうだろう。男の下着を洗濯したいと、自分から志願してるんだからな」
「別に、祥ちゃんのパンツなんか見慣れてるもん!」
「うら若き乙女の発言とは到底思えんな、まったく」
「そんなのお互い様だもん。祥ちゃんだって、私のをいっぱい見てるし!」
赤城と華音のいつものかけ合いに、富士川は一人取り乱し、一人赤くなったり青くなったりしている。
「ご、誤解しないでください! 華音ちゃんがまだ小さかった頃の話ですから! ……華音ちゃん、もうそのくらいにして。俺が恥ずかしいから」
二人の様子を見て、赤城は珍しく腹を抱えるようにして豪快に笑い出した。
「どこで――歯車が狂ってしまったのだろうな」
赤城は一転して神妙な面持ちになり、ベッド上の一番弟子の顔を真っ直ぐに見つめた。
「君は芹沢の人間じゃない。だから芹沢英輔氏が亡くなってその跡を引き継ぐことに、どこか後ろめたさがあった。だから君は、もう一人の弟子である鷹山君の揶揄に勝てなかったんだろう。その辺の詳しい経緯は私にはよく分からないが――しかし、それが五年後だったなら話は変わったのではないかと、私は思っている」
赤城は一呼吸置くと、続く言葉を力強く言い切った。
「芹沢氏はおそらくそのつもりだったはずだ。そして富士川君、君自身もね」
富士川は唖然としたまま、赤城の顔から目をそらせずにいる。
「それは、その――ひ、否定はしませんが」
「……祥ちゃん? 『そのつもり』って、何?」
答えが返ってこない。
黙る富士川に代わって、赤城が素早く説明をした。
「君と結婚して正式に婿入りすれば、富士川君は紛れもない『芹沢』の人間となれるからね」
華音は思わず目を瞠った。
真偽を確かめるべく富士川のほうへと顔を向けると、そこには途惑いを隠しきれていない複雑な表情があった。
確かに――。
自分が幼い頃には、富士川と将来結婚するのだと周囲の人間たちに公言していた。華音自身も、そのことはハッキリと覚えている。
しかし、華音が中学に上がり、富士川が二十代半ばの結婚適齢期を迎えると、結婚するという言葉は幼い少女の淡い夢だったのだ、と片付けられていた。
片付けられていたはず、だったのに――。
まさか祖父や富士川自身がそのつもりでいたとは、華音は思ってもみなかったのである。
「で、でも俺は決して、華音ちゃんにそれを押しつけようなんて思ってなかったです。華音ちゃんが選ぶ相手なら誰でも……」
富士川のしどろもどろの言い訳を、赤城は簡単に切り捨てた。
「そんなことはありえない。君が『光源氏』なら芹沢君は『紫の上』だからな」
赤城は、自分好みの女性に育てるという、古典名作のあらすじを採り上げて、迷いなく決めつけるようにして説明した。
もちろん富士川は、ベッドの上でどうしていいのか分からずに、落ち着きなく辺りを見回しながら弁明を続ける。
「光源氏だなんて、本当にそんなつもりじゃないです。そうなってくれたらいいとは……思っていましたけど。でも、華音ちゃんにはまだまだ早い話ですから――」
「いつになったらいいんだ。二十歳になってからか? まったく、君はいつの時代の人間だ。まあ、敬愛する師匠の孫娘に、そうそう手を出すわけにはいかなかったんだろうが」
祖父の愛弟子と結婚する。
兄のように慕っていた大好きな富士川と結婚する。
それが祖父の希望であり、一番弟子の願いでもあり、そして華音の夢でもあった。
しかし、歯車が狂ってしまった。
「君は芹沢君のそばを離れるべきではなかった。それが、君が犯してしまった最大の過ちだ」
分からない。
何が正しくて、何が間違っているのか。
「たとえ、跡を継ぐ資格がないと弟分に言われたとしても――彼女のそばについていなければならなかった。芹沢英輔氏のためにも」
もしも、あのとき――。
「いいえ、これで良かったんです」
富士川は赤城に、そう静かに告げた。
そして淡々と落ち着いた声で、さらに続ける。
「華音ちゃんには華音ちゃんの人生がありますから。芹沢先生の希望を押しつけられることもなくなったわけですし。これからも鷹山と仲良くやっていってくれれば、それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいいですから」
華音の全身に衝撃が走った。
「えっ!? い、いやあの、鷹山さんと……って、ど、どうしてそんな」
確かに、芹響の楽団員の中には、鷹山と華音の恋愛関係に気づいている人間もいる。
しかし富士川は違う。同じ時間を過ごしているわけではない。
「俺が気づいていないとでも思った? 華音ちゃんを見ていれば、俺はすぐに分かるよ」
「祥ちゃん……」
ふと。
赤城がじっとこちらを見つめていることに、華音は気がついた。
すると、赤城は突然、奇妙なことを言い出した。
「富士川君、君は芹沢君に兄弟がいることを知っているか?」
華音は思わず自分の耳を疑った。
この大男は、いま何と?
「兄弟? 華音ちゃんに……ですか? いえ、そんな話は聞いたことがないですけど」
富士川は不思議そうに首を傾げている。
「止めて」
「そうやって、いつまで逃げているつもりだ?」
初めからそのつもりだったのだ。
赤城が自分をここまで連れてきたのは、鷹山へのカムフラージュのためなんかではない。
富士川に対して、華音が背負っている秘密を暴露するためだったのだ。
「鷹山君が現在、芹沢氏の邸宅で彼女と暮らしている。君が昔そうしていたようにね。そのことは知っていたか?」
「止めてください! 赤城さん!」
「この二つの話はイコールだ。離れ離れになっていた二人きりの兄妹が、一つ屋根の下に暮らすことになった――ということだな」
「お願いですから、もう――もう、止めてください赤城さん……」
最悪だ。
たとえそれが紛れもない真実だとしても――。
「……鷹山が? 華音ちゃん、そうなの?」
華音が黙っていると、すかさず赤城が答えた。
「そうだ。血縁的には、彼が芹沢英輔氏の正統な跡取りということになる」
華音はもはや何も言うことができなかった。緊張のあまり呼吸もままならず、身を強ばらせじっと座っているばかりだ。
「そう、ですか」
赤城は穏やかな口調で、ベッドの上の一番弟子に聞き返した。
「それだけかな?」
「……ええ、それだけです」
幾分やつれた富士川の顔には、まったく精気がない。
長い沈黙が続く。
「そりゃあ、芹沢先生が特別扱いするわけだ。俺は初めから、あいつに敵うはずが……なかったんだな」
富士川は大袈裟に驚くこともせず、淡々と言う。
すると。
赤城は初対面であるはずの一番弟子を、ためらいもなく一喝した。
「まったく馬鹿馬鹿しい! 君もうちの音楽監督と一緒で、まだまだ青二才だな」
富士川は当然、面食らった表情を見せている。
赤城は構わず、さらに続けた。
「いいか、芹沢君は君が育てたんだ。お互い分かってるはずだろう? この先どんなことがあっても、君たちは他人に戻ることなどできない。さっきも言ったが、君は芹沢君のそばを離れるべきではなかった。過ぎたことをあれこれ言うのは私の性分ではないが、富士川君、君はずっと彼女のそばについているべきだったんだよ。たとえどのような形であっても! 君たちは、肉親よりも深い深い絆で結ばれているのだからね」
富士川は唇を噛み締めたまま、じっと赤城を見つめている。
赤城はなおも続けた。
「そして鷹山君もだ。いまさら身内として、ましてや家族として振る舞うことなどできるはずがない。彼はウィーンに留まっているべきだったのだ」
どうしてそんなことを言うのだろう。
彼は血を分けた兄である。
彼は兄ではない。
兄である。
兄ではない。兄ではない。兄ではない。たった一人の愛する男。
心が軋む音がする。
「鷹山君自身も、そして芹沢氏も、それが最良の選択だと納得していたはずなんだよ。鷹山君は誰よりも芹沢という名を憎み、そして愛している。だからこそ、芹沢の名を背負わせるべきではなかったのだ。その憎しみのために、人としての判断力が狂ってしまっているのだからな」
赤城の容赦ない言葉が、華音の胸に真っ直ぐ突き刺さった。
正しいことを言っているのかもしれない。
狂っている。人としての判断力が、狂ってしまっている――。
「いいか富士川君。鷹山君は芹沢君の実の兄だ。だから現在、『兄妹として仲良く』本来あるべき姿にとりあえず収まっている。それだけの話だ」
赤城の威圧的な声が、華音に容赦なく降りかかる。
「そうだな? 芹沢君」
このままだときっと、自分は壊れてしまう。
華音はじっと病室の床を見つめ、短く何度も呼吸を繰り返した。
「返事はどうした?」
「……はい」
狂った歯車に巻き込まれ、やがてこの身を引き裂かれてしまう。
もしかしたら、すでに自分は壊れ始めているのかもしれない――華音は目には見えない無数の亀裂を、心の奥底で感じ取っていた。