奈落の章 (3−6) 禁断の果実
傾きかけた夕陽の差す中庭を、華音は自室の窓辺からゆるりと眺めていた。
もう何度目だろう。自分の口からは、もはやため息しか出てこない。
ただでさえギクシャクしている鷹山との関係のことを思うと、今日はとてもバイトをする気分にはなれなかった。
しかし、気のきいた言い訳も思いつかない。華音はコンサートマスターの美濃部の携帯に電話をかけ、体調が優れないと伝えた。
美濃部からは、いつものように理路整然とした答えが返ってくる。
鷹山のスケジュールについての申し送りを簡単にすませ電話を切ると、華音はそのまま力なくベッドの上に寝転がった。
ちょうどそこへ、執事の乾が華音の部屋へとやってきた。
いつもながらに、品の良いたたずまいで華音を気遣ってくる。
「華音様、何かお召し上がりになりませんか?」
「……食欲ないから」
「でしたら、サッパリとしたデザートか果物をご用意いたしましょうか」
決して無理に勧めてこないのが老執事の心得だ。
華音は掛け布団に包まりながら、乾に告げた。
「イチゴ……がいい」
「承知いたしました。では後ほどお持ちします」
華音の要望に、乾は嫌な顔一つせず笑顔で承知し、部屋を去っていった。
枕に顔をうずめると、先程までいた病院での出来事が次々とよみがえってくる。
富士川の声、そして赤城の声――。
【これからも鷹山と仲良くやっていってくれれば、それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいいですから】
【血縁的には、彼が芹沢英輔氏の正統な跡取りということになる】
【芹沢先生が特別扱いするわけだ。俺は初めから、あいつに敵うはずが……なかったんだな】
【その憎しみのために、人としての判断力が狂ってしまっているのだからな】
華音は掛け布団を頭からかぶり、ぎゅっと両目を瞑った。
完全に、ばれてしまった。
鷹山が、芹沢英輔の正統な血縁者であること。
そして、兄妹が図らずも恋愛関係にある――ということ。
確かに、いつまでも隠し通せることではない。
しかし。
ここまで落ち込んでいるのには、別な要因もあった。
――カノンね、大きくなったらショウちゃんとけっこんするの!
【そうなってくれたらいいとは……思っていましたけど】
それは――鷹山が、華音の世界に存在していなかった日々である。
祖父の一番弟子が、自分の結婚相手となる。それは、決して政略的な匂いのするものではなく、自分が望みうる最上の未来のはずだった。
富士川は、華音のすべてを知り、すべてを理解する唯一の人間なのだ。
たとえどんなことがあっても、切り捨ててしまうことなどできないのである。
その繋がりの深さを再確認してしまった、今――。
しばらくして、再びドアをノックをする音が聞こえてきた。
なかなか入ってこようとはしない。
華音は首を傾げた。執事の乾であれば、反応がなければ様子を確かめに、中へ入ってくるはずだからである。
「乾さん?」
華音が問いかけるとようやく、ドアがゆっくりと開いた。
「……随分と、元気そうじゃないか?」
華音はベッドの中で驚き、わずかに飛び上がった。
嘘。これは嘘。
「君の部屋に入るのは、これが初めてだな」
そう言う鷹山の手には、大粒のイチゴを盛りつけたガラスボウルが載せられている。それは先程、華音が乾に所望したものに違いなかった。
「それにしても、本当にわがままお嬢さんだな、芹沢さんは」
鷹山は悠然と辺りを見回しながら、徐々に華音に近づいてくる。
華音は状況が飲み込めないまま、慌ててベッドの上で上半身を起こした。
壁掛け時計に目をやり素早く時刻を確認すると、まだ午後七時前だった。これまで鷹山は、毎日合わせの練習が終わったあとも、音楽監督控室にこもって楽譜の解釈の研究に励んだり、来客の対応をしたりしていて、午後九時前に帰宅することはほとんどなかったのである。
華音は、完全に油断してしまっていた。
鷹山は威圧的なほどの至近距離で、華音のすぐそばに腰かけた。そして、身体を斜めに構え、その怜悧なまでに美しい西洋人形のような顔を、華音の顔のすぐそばまで近づけてくる。
艶のある大きな瞳に長い睫毛。
華音はごくりと唾を飲み込んだ。
「なんで美濃部君なの? 美濃部君は君の何?」
「べ、別に何でもないですけど……鷹山さんのスケジュール調整とか、代わりに頼めるのは美濃部さんだけだから――」
「そんな分かりきったことを聞いてるんじゃないよ」
いつものように、上手く対処ができない。
華音はどんどん焦燥感に駆られていく。
「芹沢さんは僕のアシスタントでありマネージャーであり、演奏会のプランナー見習でもある。いいか、君の上司は僕だ。違うか?」
「……違わないです」
「だったらどうして、僕に直接言わないの?」
怖い。
怖い、とても。
「何を隠してる?」
「何も……隠してない」
「君は嘘をつくのが下手だ」
鷹山の心の内が、まったく読めない。
「君がバイトを休むって聞いて、乾さんに電話をしたんだよ。そしたら、オーナーが君を午後の早い時間にここまで送ってきて、それから君の様子がおかしいって、そう言ってたからね」
鷹山は手にしていたイチゴのガラスボウルを、ベッドのサイドテーブルの上に静かに置いた。
そして再び、訝しげな眼差しで華音を見据え、ゆっくりと問う。
「僕に内緒で、いったいオーナーと何をしてたんだ?」
華音は黙った。
すぐそばで、鷹山は大きな目を何度も瞬かせている。
待っている。
しかし、言葉が出てこない。
「黙ってちゃ分からない」
絶対に言うことはできない。
オーナーの赤城と何をしていたかなんて、目の前の美貌の悪魔には、絶対に口が裂けても言えない。
「……何も、してない」
「じゃあ、どうしてオーナーがここまで君を送ってきたんだ?」
「なんで……なんでそうやって私のこと責めるの? 羽賀さんにはあんなに愛想振りまくくせに、私にはそうやって疑うようなことばかり言って……もう、意味分かんない」
華音が感情に任せて訴えると、鷹山のまとう空気が変わった。
黄昏の薄闇が、二人を別世界へと誘う。
「目を閉じて、芹沢さん」
「ど……うして?」
「いいから――」
鷹山はネクタイの結び目に指を差し入れ、手馴れたようにそれを緩めて解き始めた。そして、シャツの襟から抜き取ったそれを、鷹山は真っ直ぐに整えて、両端を持った。
何をするのだろう。
いったい何を――されるのだろう。
「怖がらなくてもいいよ。ほら、言うとおりにして」
華音の心の中を読み取るように、鷹山は優しくなだめてくる。
完全に、鷹山のペースにはまり込んでしまっている。こうなってしまっては、華音には抗う術などない。
華音は言われたとおり、そっとまぶたを閉じて、目の前の男を視界から消し去った。すると、すぐさま目隠しの要領で、閉じた目の上からネクタイを巻かれる感触がした。
一瞬にして、漆黒の闇の世界に包まれる。
「さあ芹沢さん、人間の五感をすべて答えて」
「ご……かん?」
「そう」
鷹山の問いかけに、華音は視界を遮られたまま怖々と答える。
「視覚、聴覚……嗅覚、味覚? あとは……」
「触覚ね。愛し合うとは、そこが感じること」
鷹山の声が、いっそう近づいてくる。距離感を上手くつかむことができない。
「その五感のひとつを遮られると、その他の四つの感覚がいっそう研ぎ澄まされるんだ。遮られるものが多くなればなるほど、残りの感覚は驚くほど敏感になる」
耳のすぐそばまで、鷹山の声が近づいている。
華音はいつになく緊張していた。心臓の鼓動がどんどん早まっていくのを感じる。
「いま君は視覚を遮られている。だから、いつもよりイチゴの香りに芳しく包まれる――はい、口を開けて」
目を瞑ったまま、怖々と口を開くと、そこに甘酸っぱい果実が押し込まれた。
「半分だけくわえて、そのまま静止」
声が出せない。
次の瞬間、首筋に唇を押し当てられる感触がした。視界が遮られていても、何度か経験しているためそれはすぐに分かった。
いつも以上に、全身に痺れが走り、目が眩むような感覚に陥る。
華音はたまらず、イチゴをくわえる口のさらにその奥から、唸るような声を漏らした。
鼻腔をくすぐるイチゴの甘酸っぱい香りが快感にまとわりつき、脳髄を突き抜けていく。
「愛するということは、感じるということ――」
鷹山は耳元でそう囁くと、華音の耳たぶに優しく噛みついた。そのまま唇を滑らせるようにして外耳をなでさすっていく。
感じる。気が遠くなるほどの強烈な触感に、華音はとうとう根負けし、圧し掛かられるような格好で再びベッドに上半身を横たわらせた。
口元が緩み、くわえていたイチゴが唇から離れ、枕元へと転がり落ちていく。
瞑ったままの華音の両目から、涙があふれ出した。目隠し代わりのネクタイをもどかしい手つきでずり下げると、すぐ目の前に琥珀色の大きな両瞳があった。
「鷹……山さ……ん」
「止めて? それとも、もっと?」
答えが出ない。
涙があふれ続ける。
「さあ。いい子だから、オーナーと何をしていたか、正直に言うんだ」
艶のある低音が、華音の頬に降り注ぐ。
感じる。
確かに感じる。
感じさせているのは、この男なのである。
【それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいい――】
富士川の優しい声がする。
分からない。
幸せかどうかなんて、分からない。
ただ、この目の前の男を愛している。
涙でぼやけた視界の中に、鷹山の綺麗な顔が映っている。
「何も……してない」
「――そう。それが君の答えか」
鷹山は華音をつけ離すようにして身体を起こすと、ネクタイを無造作につかみ取り、そのまま部屋を出ていってしまった。
名残を惜しむように、枕元のシーツに転がったかじりかけのイチゴから、甘い香りが漂っていた。
次の日の夕方、鷹山はその態度を一気に豹変させた。
それが昨夜の出来事に起因しているであろうことは、華音には簡単に予想がついた。
その証拠に、華音が学校からそのままホールへ姿を見せても、鷹山はひたすら無視を決め込んでいる。
しかし、機嫌が悪いことなどしょっちゅうあるため、華音は特に気にせず、安西青年や他の団員と和気藹々と過ごしていた。
そして、練習後。
本日残された予定は、首席会議である。
事務室や応接室が連なるホール内の管理棟に、小さな会議室がある。
首席会議のメンバーは、音楽監督の鷹山、コンサートマスターの美濃部の他各セクション首席五名、ヴァイオリン副首席の藤堂あかりもその名を連ねている。
そして議事を取るために、華音はいつもこの首席会議に同席していた。
会議が始まるなり、鷹山は開始の挨拶もそこそこに、部屋の隅にいた華音に淡々と告げた。
「まず、芹沢さん。君はこの演奏会の運営サポートから外す」
室内が水を打ったように静まり返った。
上座の鷹山を取り囲む出席者たちは、皆一様に途惑いの表情を見せている。
もちろん一番驚いたのは、名指しされた華音自身だった。
「え? あ、あの……それってどういう」
「藤堂さん、ちょっと――」
鷹山は華音の問いをわざとらしく無視し、末席につく藤堂あかりに顔を向けた。
「君、この間真琴さんのこと先輩って言ってたけど、直接面識はあるの?」
「私が一年のときの四年生です。同じ先生に師事していましたので」
「そう。じゃあ君に、この企画のサポートをお願いしよう」
会議室内は、再び重苦しい沈黙が支配する。
空気の流れが悪い。淀んでいる。
あかりはいつまで経っても返事をしようとしない。少なからずの迷いがあるようだ。
鷹山は繰り返し尋ねた。
「何か不都合でも?」
あかりは一瞬、華音のほうをちらり見やった。この状況にどう反応していいものか悩んでいるに違いない。
しかし、鷹山の威圧的な視線に耐えかねたのか、あかりはようやく口を開いた。
「私と羽賀先輩は、特に友好的な関係ではありませんけど」
「だろうね。同じ穴のムジナ、ってやつなんじゃないのか?」
「……どういう意味でしょうか」
「どっちも男の趣味が最悪ってことだよ」
場の空気が一瞬にして凍りついた。
今日の会議はいつもと違う――華音はひどく胸騒ぎを覚えた。
おかしい。
いつも以上に、鷹山がおかしい。
「失礼ですが、監督は羽賀先輩とお付き合いなさってたんでしょう? ご自分も『最悪の趣味』の中に入っていらっしゃるんでしょうか?」
「真琴さんと君に共通している男の趣味のことを言ってるんだよ。もし君が僕のことを好きだって言うなら、『最悪の趣味』に入ってあげてもいいけどね」
そんな鷹山の悪態に、あかりは珍しく引き下がろうとはしない。いつになく冷静さを欠いた様子で、鷹山にくってかかる。
「だいたい、公私混同しすぎではないですか? 監督の女性関係をとやかく言いたくはありませんけど」
その淀んだ雰囲気を打ち破るように、鷹山に一番近い席に着いていた美濃部が、ようやく仲裁に入った。
「あかりさん、今は会議中だよ。少し冷静になって」
穏やかだが力がある。
あかりは我に返ったように、すぐに口をつぐんだ。
会議室内は異様な雰囲気に包まれていた。
進行役の美濃部は、淡々と演奏会の企画の流れを説明していく。委嘱作の初演や難曲でもない限り、会議に参加している首席陣たちが口を挟むことはほとんどない。
今回もすんなりと進み、羽賀真琴を迎えての演奏会は完全に決定して、首席会議は終了となった。
もちろん、ここまでくれば華音が異論を唱える余地はない。
最後につけ加えるようにして、美濃部は鷹山に尋ねた。
「打ち合わせの日程なんですけど、羽賀さんの希望は五月四日とのことでした。パリへレコーディングしに行くそうで、その日を逃すと六月まで無理だそうです」
「あ、そう。いいよ、四日で」
――嘘? だってその日は……。
華音は、その鷹山の一言に愕然となった。
信じられない。どうして。
【今度、二人で旅行に出かけようか――】
【芹沢さん、来月誕生日だったよね。五月四日、連休のど真ん中だ】
【じゃあ、その日にしようか。予定、空けておいてね】
会議がすべて終わると、出席者が次々と会議室を出ていった。
華音は部屋の隅の椅子に一人座ったまま、それを見送っていた。
そして、偶然か必然か。鷹山と華音の二人が部屋に残される。
そこに言葉はない。二人の無言の攻防が続く。
鷹山が最後に上座から立ち上がると、口を真一文字に結んだまま資料をまとめて、華音に一瞥もくれようとはせず、そのまま部屋を出ていこうとした。
華音は我慢できずに、思わず鷹山の背に向かって言葉をぶつけた。
「自分から言い出したのに」
鷹山はその場に立ち止まった。
そして、わざとらしく大きなため息をつき、ゆっくりと華音を振り返る。
「何のこと?」
「約束してたはずなのに。鷹山さんの嘘つき」
「嘘つき? 隠し事ばかりして僕を欺いている君が、そんなことを言うんだ?」
今まで無視を決め込んでいた鷹山が、一転して流暢な嫌味をたたみかけてくる。
どうやら完全に火をつけてしまったらしい。
しかし。
自分から仕掛けた手前、華音も後には退けない。
「私がこの演奏会の企画から外されたのは、そういう理由なんですか?」
「ハッ、ちゃんと分かってるじゃないか」
「……羽賀さんといちゃつくのに、私がそばにいたらマズいから――なんじゃないですか?」
不機嫌をあらわにした眉間のしわが、いっそう深く寄せられる。
その表情の変化で。
鷹山の血管がぶち切れる音が、華音の耳に聞こえてきた気がした。
「僕は仕事に私情を持ち込まないよ、君と違ってね。彼女のヴァイオリンを君は聴いたことがあるのか? あるわけないか。じゃあ美濃部君にでも彼女の腕を聞いてみたらいい。彼女との共演は芹響にとっても大きなプラスとなると僕は考えた。だから彼女の申し出を受けた。それだけの話じゃないか。昔付き合ってたよしみで、なんて馬鹿なことを僕が本当にしてると君は思っているのか? どうなんだよ。三秒以内に答えないと肯定したと見なすから」
鷹山は得意の弁舌をふるい、一気にまくし立てた。
もちろん、たった三秒というなけなしの猶予は、茫然としている間に過ぎ去っていく。
「ああ、そう。君の気持ちはよーく分かったよ。君はさっさと帰って、部屋にこもって新しい企画書を百本作ればいい。いいか百本だ。全部揃うまで僕の前に顔を出すな」
鷹山はそう怒鳴りつけて踵を返すと、会議室から出ていってしまった。
一人取り残された華音は、もはや追いかける気力などあるはずもなく、呆然と瞬きを繰り返すので精一杯だった。
――悪魔だ……ホントに、もう。
しかし、そこにあるのは悲しみという感情ではない。
売り言葉に買い言葉。
華音は決して負けてなるものか、と半ばやけになりながら、無謀な数の企画書作りをする決意を固めた。
もう何度目だろう。自分の口からは、もはやため息しか出てこない。
ただでさえギクシャクしている鷹山との関係のことを思うと、今日はとてもバイトをする気分にはなれなかった。
しかし、気のきいた言い訳も思いつかない。華音はコンサートマスターの美濃部の携帯に電話をかけ、体調が優れないと伝えた。
美濃部からは、いつものように理路整然とした答えが返ってくる。
鷹山のスケジュールについての申し送りを簡単にすませ電話を切ると、華音はそのまま力なくベッドの上に寝転がった。
ちょうどそこへ、執事の乾が華音の部屋へとやってきた。
いつもながらに、品の良いたたずまいで華音を気遣ってくる。
「華音様、何かお召し上がりになりませんか?」
「……食欲ないから」
「でしたら、サッパリとしたデザートか果物をご用意いたしましょうか」
決して無理に勧めてこないのが老執事の心得だ。
華音は掛け布団に包まりながら、乾に告げた。
「イチゴ……がいい」
「承知いたしました。では後ほどお持ちします」
華音の要望に、乾は嫌な顔一つせず笑顔で承知し、部屋を去っていった。
枕に顔をうずめると、先程までいた病院での出来事が次々とよみがえってくる。
富士川の声、そして赤城の声――。
【これからも鷹山と仲良くやっていってくれれば、それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいいですから】
【血縁的には、彼が芹沢英輔氏の正統な跡取りということになる】
【芹沢先生が特別扱いするわけだ。俺は初めから、あいつに敵うはずが……なかったんだな】
【その憎しみのために、人としての判断力が狂ってしまっているのだからな】
華音は掛け布団を頭からかぶり、ぎゅっと両目を瞑った。
完全に、ばれてしまった。
鷹山が、芹沢英輔の正統な血縁者であること。
そして、兄妹が図らずも恋愛関係にある――ということ。
確かに、いつまでも隠し通せることではない。
しかし。
ここまで落ち込んでいるのには、別な要因もあった。
――カノンね、大きくなったらショウちゃんとけっこんするの!
【そうなってくれたらいいとは……思っていましたけど】
それは――鷹山が、華音の世界に存在していなかった日々である。
祖父の一番弟子が、自分の結婚相手となる。それは、決して政略的な匂いのするものではなく、自分が望みうる最上の未来のはずだった。
富士川は、華音のすべてを知り、すべてを理解する唯一の人間なのだ。
たとえどんなことがあっても、切り捨ててしまうことなどできないのである。
その繋がりの深さを再確認してしまった、今――。
しばらくして、再びドアをノックをする音が聞こえてきた。
なかなか入ってこようとはしない。
華音は首を傾げた。執事の乾であれば、反応がなければ様子を確かめに、中へ入ってくるはずだからである。
「乾さん?」
華音が問いかけるとようやく、ドアがゆっくりと開いた。
「……随分と、元気そうじゃないか?」
華音はベッドの中で驚き、わずかに飛び上がった。
嘘。これは嘘。
「君の部屋に入るのは、これが初めてだな」
そう言う鷹山の手には、大粒のイチゴを盛りつけたガラスボウルが載せられている。それは先程、華音が乾に所望したものに違いなかった。
「それにしても、本当にわがままお嬢さんだな、芹沢さんは」
鷹山は悠然と辺りを見回しながら、徐々に華音に近づいてくる。
華音は状況が飲み込めないまま、慌ててベッドの上で上半身を起こした。
壁掛け時計に目をやり素早く時刻を確認すると、まだ午後七時前だった。これまで鷹山は、毎日合わせの練習が終わったあとも、音楽監督控室にこもって楽譜の解釈の研究に励んだり、来客の対応をしたりしていて、午後九時前に帰宅することはほとんどなかったのである。
華音は、完全に油断してしまっていた。
鷹山は威圧的なほどの至近距離で、華音のすぐそばに腰かけた。そして、身体を斜めに構え、その怜悧なまでに美しい西洋人形のような顔を、華音の顔のすぐそばまで近づけてくる。
艶のある大きな瞳に長い睫毛。
華音はごくりと唾を飲み込んだ。
「なんで美濃部君なの? 美濃部君は君の何?」
「べ、別に何でもないですけど……鷹山さんのスケジュール調整とか、代わりに頼めるのは美濃部さんだけだから――」
「そんな分かりきったことを聞いてるんじゃないよ」
いつものように、上手く対処ができない。
華音はどんどん焦燥感に駆られていく。
「芹沢さんは僕のアシスタントでありマネージャーであり、演奏会のプランナー見習でもある。いいか、君の上司は僕だ。違うか?」
「……違わないです」
「だったらどうして、僕に直接言わないの?」
怖い。
怖い、とても。
「何を隠してる?」
「何も……隠してない」
「君は嘘をつくのが下手だ」
鷹山の心の内が、まったく読めない。
「君がバイトを休むって聞いて、乾さんに電話をしたんだよ。そしたら、オーナーが君を午後の早い時間にここまで送ってきて、それから君の様子がおかしいって、そう言ってたからね」
鷹山は手にしていたイチゴのガラスボウルを、ベッドのサイドテーブルの上に静かに置いた。
そして再び、訝しげな眼差しで華音を見据え、ゆっくりと問う。
「僕に内緒で、いったいオーナーと何をしてたんだ?」
華音は黙った。
すぐそばで、鷹山は大きな目を何度も瞬かせている。
待っている。
しかし、言葉が出てこない。
「黙ってちゃ分からない」
絶対に言うことはできない。
オーナーの赤城と何をしていたかなんて、目の前の美貌の悪魔には、絶対に口が裂けても言えない。
「……何も、してない」
「じゃあ、どうしてオーナーがここまで君を送ってきたんだ?」
「なんで……なんでそうやって私のこと責めるの? 羽賀さんにはあんなに愛想振りまくくせに、私にはそうやって疑うようなことばかり言って……もう、意味分かんない」
華音が感情に任せて訴えると、鷹山のまとう空気が変わった。
黄昏の薄闇が、二人を別世界へと誘う。
「目を閉じて、芹沢さん」
「ど……うして?」
「いいから――」
鷹山はネクタイの結び目に指を差し入れ、手馴れたようにそれを緩めて解き始めた。そして、シャツの襟から抜き取ったそれを、鷹山は真っ直ぐに整えて、両端を持った。
何をするのだろう。
いったい何を――されるのだろう。
「怖がらなくてもいいよ。ほら、言うとおりにして」
華音の心の中を読み取るように、鷹山は優しくなだめてくる。
完全に、鷹山のペースにはまり込んでしまっている。こうなってしまっては、華音には抗う術などない。
華音は言われたとおり、そっとまぶたを閉じて、目の前の男を視界から消し去った。すると、すぐさま目隠しの要領で、閉じた目の上からネクタイを巻かれる感触がした。
一瞬にして、漆黒の闇の世界に包まれる。
「さあ芹沢さん、人間の五感をすべて答えて」
「ご……かん?」
「そう」
鷹山の問いかけに、華音は視界を遮られたまま怖々と答える。
「視覚、聴覚……嗅覚、味覚? あとは……」
「触覚ね。愛し合うとは、そこが感じること」
鷹山の声が、いっそう近づいてくる。距離感を上手くつかむことができない。
「その五感のひとつを遮られると、その他の四つの感覚がいっそう研ぎ澄まされるんだ。遮られるものが多くなればなるほど、残りの感覚は驚くほど敏感になる」
耳のすぐそばまで、鷹山の声が近づいている。
華音はいつになく緊張していた。心臓の鼓動がどんどん早まっていくのを感じる。
「いま君は視覚を遮られている。だから、いつもよりイチゴの香りに芳しく包まれる――はい、口を開けて」
目を瞑ったまま、怖々と口を開くと、そこに甘酸っぱい果実が押し込まれた。
「半分だけくわえて、そのまま静止」
声が出せない。
次の瞬間、首筋に唇を押し当てられる感触がした。視界が遮られていても、何度か経験しているためそれはすぐに分かった。
いつも以上に、全身に痺れが走り、目が眩むような感覚に陥る。
華音はたまらず、イチゴをくわえる口のさらにその奥から、唸るような声を漏らした。
鼻腔をくすぐるイチゴの甘酸っぱい香りが快感にまとわりつき、脳髄を突き抜けていく。
「愛するということは、感じるということ――」
鷹山は耳元でそう囁くと、華音の耳たぶに優しく噛みついた。そのまま唇を滑らせるようにして外耳をなでさすっていく。
感じる。気が遠くなるほどの強烈な触感に、華音はとうとう根負けし、圧し掛かられるような格好で再びベッドに上半身を横たわらせた。
口元が緩み、くわえていたイチゴが唇から離れ、枕元へと転がり落ちていく。
瞑ったままの華音の両目から、涙があふれ出した。目隠し代わりのネクタイをもどかしい手つきでずり下げると、すぐ目の前に琥珀色の大きな両瞳があった。
「鷹……山さ……ん」
「止めて? それとも、もっと?」
答えが出ない。
涙があふれ続ける。
「さあ。いい子だから、オーナーと何をしていたか、正直に言うんだ」
艶のある低音が、華音の頬に降り注ぐ。
感じる。
確かに感じる。
感じさせているのは、この男なのである。
【それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいい――】
富士川の優しい声がする。
分からない。
幸せかどうかなんて、分からない。
ただ、この目の前の男を愛している。
涙でぼやけた視界の中に、鷹山の綺麗な顔が映っている。
「何も……してない」
「――そう。それが君の答えか」
鷹山は華音をつけ離すようにして身体を起こすと、ネクタイを無造作につかみ取り、そのまま部屋を出ていってしまった。
名残を惜しむように、枕元のシーツに転がったかじりかけのイチゴから、甘い香りが漂っていた。
次の日の夕方、鷹山はその態度を一気に豹変させた。
それが昨夜の出来事に起因しているであろうことは、華音には簡単に予想がついた。
その証拠に、華音が学校からそのままホールへ姿を見せても、鷹山はひたすら無視を決め込んでいる。
しかし、機嫌が悪いことなどしょっちゅうあるため、華音は特に気にせず、安西青年や他の団員と和気藹々と過ごしていた。
そして、練習後。
本日残された予定は、首席会議である。
事務室や応接室が連なるホール内の管理棟に、小さな会議室がある。
首席会議のメンバーは、音楽監督の鷹山、コンサートマスターの美濃部の他各セクション首席五名、ヴァイオリン副首席の藤堂あかりもその名を連ねている。
そして議事を取るために、華音はいつもこの首席会議に同席していた。
会議が始まるなり、鷹山は開始の挨拶もそこそこに、部屋の隅にいた華音に淡々と告げた。
「まず、芹沢さん。君はこの演奏会の運営サポートから外す」
室内が水を打ったように静まり返った。
上座の鷹山を取り囲む出席者たちは、皆一様に途惑いの表情を見せている。
もちろん一番驚いたのは、名指しされた華音自身だった。
「え? あ、あの……それってどういう」
「藤堂さん、ちょっと――」
鷹山は華音の問いをわざとらしく無視し、末席につく藤堂あかりに顔を向けた。
「君、この間真琴さんのこと先輩って言ってたけど、直接面識はあるの?」
「私が一年のときの四年生です。同じ先生に師事していましたので」
「そう。じゃあ君に、この企画のサポートをお願いしよう」
会議室内は、再び重苦しい沈黙が支配する。
空気の流れが悪い。淀んでいる。
あかりはいつまで経っても返事をしようとしない。少なからずの迷いがあるようだ。
鷹山は繰り返し尋ねた。
「何か不都合でも?」
あかりは一瞬、華音のほうをちらり見やった。この状況にどう反応していいものか悩んでいるに違いない。
しかし、鷹山の威圧的な視線に耐えかねたのか、あかりはようやく口を開いた。
「私と羽賀先輩は、特に友好的な関係ではありませんけど」
「だろうね。同じ穴のムジナ、ってやつなんじゃないのか?」
「……どういう意味でしょうか」
「どっちも男の趣味が最悪ってことだよ」
場の空気が一瞬にして凍りついた。
今日の会議はいつもと違う――華音はひどく胸騒ぎを覚えた。
おかしい。
いつも以上に、鷹山がおかしい。
「失礼ですが、監督は羽賀先輩とお付き合いなさってたんでしょう? ご自分も『最悪の趣味』の中に入っていらっしゃるんでしょうか?」
「真琴さんと君に共通している男の趣味のことを言ってるんだよ。もし君が僕のことを好きだって言うなら、『最悪の趣味』に入ってあげてもいいけどね」
そんな鷹山の悪態に、あかりは珍しく引き下がろうとはしない。いつになく冷静さを欠いた様子で、鷹山にくってかかる。
「だいたい、公私混同しすぎではないですか? 監督の女性関係をとやかく言いたくはありませんけど」
その淀んだ雰囲気を打ち破るように、鷹山に一番近い席に着いていた美濃部が、ようやく仲裁に入った。
「あかりさん、今は会議中だよ。少し冷静になって」
穏やかだが力がある。
あかりは我に返ったように、すぐに口をつぐんだ。
会議室内は異様な雰囲気に包まれていた。
進行役の美濃部は、淡々と演奏会の企画の流れを説明していく。委嘱作の初演や難曲でもない限り、会議に参加している首席陣たちが口を挟むことはほとんどない。
今回もすんなりと進み、羽賀真琴を迎えての演奏会は完全に決定して、首席会議は終了となった。
もちろん、ここまでくれば華音が異論を唱える余地はない。
最後につけ加えるようにして、美濃部は鷹山に尋ねた。
「打ち合わせの日程なんですけど、羽賀さんの希望は五月四日とのことでした。パリへレコーディングしに行くそうで、その日を逃すと六月まで無理だそうです」
「あ、そう。いいよ、四日で」
――嘘? だってその日は……。
華音は、その鷹山の一言に愕然となった。
信じられない。どうして。
【今度、二人で旅行に出かけようか――】
【芹沢さん、来月誕生日だったよね。五月四日、連休のど真ん中だ】
【じゃあ、その日にしようか。予定、空けておいてね】
会議がすべて終わると、出席者が次々と会議室を出ていった。
華音は部屋の隅の椅子に一人座ったまま、それを見送っていた。
そして、偶然か必然か。鷹山と華音の二人が部屋に残される。
そこに言葉はない。二人の無言の攻防が続く。
鷹山が最後に上座から立ち上がると、口を真一文字に結んだまま資料をまとめて、華音に一瞥もくれようとはせず、そのまま部屋を出ていこうとした。
華音は我慢できずに、思わず鷹山の背に向かって言葉をぶつけた。
「自分から言い出したのに」
鷹山はその場に立ち止まった。
そして、わざとらしく大きなため息をつき、ゆっくりと華音を振り返る。
「何のこと?」
「約束してたはずなのに。鷹山さんの嘘つき」
「嘘つき? 隠し事ばかりして僕を欺いている君が、そんなことを言うんだ?」
今まで無視を決め込んでいた鷹山が、一転して流暢な嫌味をたたみかけてくる。
どうやら完全に火をつけてしまったらしい。
しかし。
自分から仕掛けた手前、華音も後には退けない。
「私がこの演奏会の企画から外されたのは、そういう理由なんですか?」
「ハッ、ちゃんと分かってるじゃないか」
「……羽賀さんといちゃつくのに、私がそばにいたらマズいから――なんじゃないですか?」
不機嫌をあらわにした眉間のしわが、いっそう深く寄せられる。
その表情の変化で。
鷹山の血管がぶち切れる音が、華音の耳に聞こえてきた気がした。
「僕は仕事に私情を持ち込まないよ、君と違ってね。彼女のヴァイオリンを君は聴いたことがあるのか? あるわけないか。じゃあ美濃部君にでも彼女の腕を聞いてみたらいい。彼女との共演は芹響にとっても大きなプラスとなると僕は考えた。だから彼女の申し出を受けた。それだけの話じゃないか。昔付き合ってたよしみで、なんて馬鹿なことを僕が本当にしてると君は思っているのか? どうなんだよ。三秒以内に答えないと肯定したと見なすから」
鷹山は得意の弁舌をふるい、一気にまくし立てた。
もちろん、たった三秒というなけなしの猶予は、茫然としている間に過ぎ去っていく。
「ああ、そう。君の気持ちはよーく分かったよ。君はさっさと帰って、部屋にこもって新しい企画書を百本作ればいい。いいか百本だ。全部揃うまで僕の前に顔を出すな」
鷹山はそう怒鳴りつけて踵を返すと、会議室から出ていってしまった。
一人取り残された華音は、もはや追いかける気力などあるはずもなく、呆然と瞬きを繰り返すので精一杯だった。
――悪魔だ……ホントに、もう。
しかし、そこにあるのは悲しみという感情ではない。
売り言葉に買い言葉。
華音は決して負けてなるものか、と半ばやけになりながら、無謀な数の企画書作りをする決意を固めた。