奈落の章 (3−6)  禁断の果実

 傾きかけた夕陽の差す中庭を、華音は自室の窓辺からゆるりと眺めていた。
 もう何度目だろう。自分の口からは、もはやため息しか出てこない。
 ただでさえギクシャクしている鷹山との関係のことを思うと、今日はとてもバイトをする気分にはなれなかった。
 しかし、気のきいた言い訳も思いつかない。華音はコンサートマスターの美濃部の携帯に電話をかけ、体調が優れないと伝えた。
 美濃部からは、いつものように理路整然とした答えが返ってくる。
 鷹山のスケジュールについての申し送りを簡単にすませ電話を切ると、華音はそのまま力なくベッドの上に寝転がった。

 ちょうどそこへ、執事の乾が華音の部屋へとやってきた。
 いつもながらに、品の良いたたずまいで華音を気遣ってくる。
「華音様、何かお召し上がりになりませんか?」
「……食欲ないから」
「でしたら、サッパリとしたデザートか果物をご用意いたしましょうか」
 決して無理に勧めてこないのが老執事の心得だ。
 華音は掛け布団に包まりながら、乾に告げた。
「イチゴ……がいい」
「承知いたしました。では後ほどお持ちします」
 華音の要望に、乾は嫌な顔一つせず笑顔で承知し、部屋を去っていった。


 枕に顔をうずめると、先程までいた病院での出来事が次々とよみがえってくる。
 富士川の声、そして赤城の声――。

【これからも鷹山と仲良くやっていってくれれば、それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいいですから】

【血縁的には、彼が芹沢英輔氏の正統な跡取りということになる】

【芹沢先生が特別扱いするわけだ。俺は初めから、あいつに敵うはずが……なかったんだな】

【その憎しみのために、人としての判断力が狂ってしまっているのだからな】

 華音は掛け布団を頭からかぶり、ぎゅっと両目を瞑った。
 完全に、ばれてしまった。
 鷹山が、芹沢英輔の正統な血縁者であること。
 そして、兄妹が図らずも恋愛関係にある――ということ。
 確かに、いつまでも隠し通せることではない。
 しかし。
 ここまで落ち込んでいるのには、別な要因もあった。

 ――カノンね、大きくなったらショウちゃんとけっこんするの!

【そうなってくれたらいいとは……思っていましたけど】

 それは――鷹山が、華音の世界に存在していなかった日々である。
 祖父の一番弟子が、自分の結婚相手となる。それは、決して政略的な匂いのするものではなく、自分が望みうる最上の未来のはずだった。
 富士川は、華音のすべてを知り、すべてを理解する唯一の人間なのだ。
 たとえどんなことがあっても、切り捨ててしまうことなどできないのである。
 その繋がりの深さを再確認してしまった、今――。


 しばらくして、再びドアをノックをする音が聞こえてきた。
 なかなか入ってこようとはしない。
 華音は首を傾げた。執事の乾であれば、反応がなければ様子を確かめに、中へ入ってくるはずだからである。
「乾さん?」
 華音が問いかけるとようやく、ドアがゆっくりと開いた。
「……随分と、元気そうじゃないか?」
 華音はベッドの中で驚き、わずかに飛び上がった。
 嘘。これは嘘。
「君の部屋に入るのは、これが初めてだな」
 そう言う鷹山の手には、大粒のイチゴを盛りつけたガラスボウルが載せられている。それは先程、華音が乾に所望したものに違いなかった。
「それにしても、本当にわがままお嬢さんだな、芹沢さんは」
 鷹山は悠然と辺りを見回しながら、徐々に華音に近づいてくる。
 華音は状況が飲み込めないまま、慌ててベッドの上で上半身を起こした。
 壁掛け時計に目をやり素早く時刻を確認すると、まだ午後七時前だった。これまで鷹山は、毎日合わせの練習が終わったあとも、音楽監督控室にこもって楽譜の解釈の研究に励んだり、来客の対応をしたりしていて、午後九時前に帰宅することはほとんどなかったのである。
 華音は、完全に油断してしまっていた。
 鷹山は威圧的なほどの至近距離で、華音のすぐそばに腰かけた。そして、身体を斜めに構え、その怜悧なまでに美しい西洋人形のような顔を、華音の顔のすぐそばまで近づけてくる。
 艶のある大きな瞳に長い睫毛。
 華音はごくりと唾を飲み込んだ。
「なんで美濃部君なの? 美濃部君は君の何?」
「べ、別に何でもないですけど……鷹山さんのスケジュール調整とか、代わりに頼めるのは美濃部さんだけだから――」
「そんな分かりきったことを聞いてるんじゃないよ」
 いつものように、上手く対処ができない。
 華音はどんどん焦燥感に駆られていく。
「芹沢さんは僕のアシスタントでありマネージャーであり、演奏会のプランナー見習でもある。いいか、君の上司は僕だ。違うか?」
「……違わないです」
「だったらどうして、僕に直接言わないの?」
 怖い。
 怖い、とても。
「何を隠してる?」
「何も……隠してない」
「君は嘘をつくのが下手だ」
 鷹山の心の内が、まったく読めない。
「君がバイトを休むって聞いて、乾さんに電話をしたんだよ。そしたら、オーナーが君を午後の早い時間にここまで送ってきて、それから君の様子がおかしいって、そう言ってたからね」
 鷹山は手にしていたイチゴのガラスボウルを、ベッドのサイドテーブルの上に静かに置いた。
 そして再び、訝しげな眼差しで華音を見据え、ゆっくりと問う。
「僕に内緒で、いったいオーナーと何をしてたんだ?」
 華音は黙った。
 すぐそばで、鷹山は大きな目を何度も瞬かせている。
 待っている。
 しかし、言葉が出てこない。
「黙ってちゃ分からない」
 絶対に言うことはできない。
 オーナーの赤城と何をしていたかなんて、目の前の美貌の悪魔には、絶対に口が裂けても言えない。
「……何も、してない」
「じゃあ、どうしてオーナーがここまで君を送ってきたんだ?」
「なんで……なんでそうやって私のこと責めるの? 羽賀さんにはあんなに愛想振りまくくせに、私にはそうやって疑うようなことばかり言って……もう、意味分かんない」
 華音が感情に任せて訴えると、鷹山のまとう空気が変わった。
 黄昏の薄闇が、二人を別世界へと誘う。
「目を閉じて、芹沢さん」
「ど……うして?」
「いいから――」
 鷹山はネクタイの結び目に指を差し入れ、手馴れたようにそれを緩めて解き始めた。そして、シャツの襟から抜き取ったそれを、鷹山は真っ直ぐに整えて、両端を持った。
 何をするのだろう。
 いったい何を――されるのだろう。
「怖がらなくてもいいよ。ほら、言うとおりにして」
 華音の心の中を読み取るように、鷹山は優しくなだめてくる。
 完全に、鷹山のペースにはまり込んでしまっている。こうなってしまっては、華音には抗う術などない。
 華音は言われたとおり、そっとまぶたを閉じて、目の前の男を視界から消し去った。すると、すぐさま目隠しの要領で、閉じた目の上からネクタイを巻かれる感触がした。
 一瞬にして、漆黒の闇の世界に包まれる。
「さあ芹沢さん、人間の五感をすべて答えて」
「ご……かん?」
「そう」
 鷹山の問いかけに、華音は視界を遮られたまま怖々と答える。
「視覚、聴覚……嗅覚、味覚? あとは……」
「触覚ね。愛し合うとは、そこが感じること」
 鷹山の声が、いっそう近づいてくる。距離感を上手くつかむことができない。
「その五感のひとつを遮られると、その他の四つの感覚がいっそう研ぎ澄まされるんだ。遮られるものが多くなればなるほど、残りの感覚は驚くほど敏感になる」
 耳のすぐそばまで、鷹山の声が近づいている。
 華音はいつになく緊張していた。心臓の鼓動がどんどん早まっていくのを感じる。
「いま君は視覚を遮られている。だから、いつもよりイチゴの香りに芳しく包まれる――はい、口を開けて」
 目を瞑ったまま、怖々と口を開くと、そこに甘酸っぱい果実が押し込まれた。
「半分だけくわえて、そのまま静止」
 声が出せない。
 次の瞬間、首筋に唇を押し当てられる感触がした。視界が遮られていても、何度か経験しているためそれはすぐに分かった。
 いつも以上に、全身に痺れが走り、目が眩むような感覚に陥る。
 華音はたまらず、イチゴをくわえる口のさらにその奥から、唸るような声を漏らした。
 鼻腔をくすぐるイチゴの甘酸っぱい香りが快感にまとわりつき、脳髄を突き抜けていく。
「愛するということは、感じるということ――」
 鷹山は耳元でそう囁くと、華音の耳たぶに優しく噛みついた。そのまま唇を滑らせるようにして外耳をなでさすっていく。
 感じる。気が遠くなるほどの強烈な触感に、華音はとうとう根負けし、圧し掛かられるような格好で再びベッドに上半身を横たわらせた。
 口元が緩み、くわえていたイチゴが唇から離れ、枕元へと転がり落ちていく。
 瞑ったままの華音の両目から、涙があふれ出した。目隠し代わりのネクタイをもどかしい手つきでずり下げると、すぐ目の前に琥珀色の大きな両瞳があった。
「鷹……山さ……ん」
「止めて? それとも、もっと?」
 答えが出ない。
 涙があふれ続ける。
「さあ。いい子だから、オーナーと何をしていたか、正直に言うんだ」
 艶のある低音が、華音の頬に降り注ぐ。
 感じる。
 確かに感じる。
 感じさせているのは、この男なのである。

【それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいい――】

 富士川の優しい声がする。
 分からない。
 幸せかどうかなんて、分からない。

 ただ、この目の前の男を愛している。

 涙でぼやけた視界の中に、鷹山の綺麗な顔が映っている。
「何も……してない」
「――そう。それが君の答えか」
 鷹山は華音をつけ離すようにして身体を起こすと、ネクタイを無造作につかみ取り、そのまま部屋を出ていってしまった。
 名残を惜しむように、枕元のシーツに転がったかじりかけのイチゴから、甘い香りが漂っていた。


 次の日の夕方、鷹山はその態度を一気に豹変させた。
 それが昨夜の出来事に起因しているであろうことは、華音には簡単に予想がついた。
 その証拠に、華音が学校からそのままホールへ姿を見せても、鷹山はひたすら無視を決め込んでいる。
 しかし、機嫌が悪いことなどしょっちゅうあるため、華音は特に気にせず、安西青年や他の団員と和気藹々と過ごしていた。
 そして、練習後。
 本日残された予定は、首席会議である。

 事務室や応接室が連なるホール内の管理棟に、小さな会議室がある。
 首席会議のメンバーは、音楽監督の鷹山、コンサートマスターの美濃部の他各セクション首席五名、ヴァイオリン副首席の藤堂あかりもその名を連ねている。
 そして議事を取るために、華音はいつもこの首席会議に同席していた。

 会議が始まるなり、鷹山は開始の挨拶もそこそこに、部屋の隅にいた華音に淡々と告げた。
「まず、芹沢さん。君はこの演奏会の運営サポートから外す」
 室内が水を打ったように静まり返った。
 上座の鷹山を取り囲む出席者たちは、皆一様に途惑いの表情を見せている。
 もちろん一番驚いたのは、名指しされた華音自身だった。
「え? あ、あの……それってどういう」
「藤堂さん、ちょっと――」
 鷹山は華音の問いをわざとらしく無視し、末席につく藤堂あかりに顔を向けた。
「君、この間真琴さんのこと先輩って言ってたけど、直接面識はあるの?」
「私が一年のときの四年生です。同じ先生に師事していましたので」
「そう。じゃあ君に、この企画のサポートをお願いしよう」
 会議室内は、再び重苦しい沈黙が支配する。
 空気の流れが悪い。淀んでいる。
 あかりはいつまで経っても返事をしようとしない。少なからずの迷いがあるようだ。
 鷹山は繰り返し尋ねた。
「何か不都合でも?」
 あかりは一瞬、華音のほうをちらり見やった。この状況にどう反応していいものか悩んでいるに違いない。
 しかし、鷹山の威圧的な視線に耐えかねたのか、あかりはようやく口を開いた。
「私と羽賀先輩は、特に友好的な関係ではありませんけど」
「だろうね。同じ穴のムジナ、ってやつなんじゃないのか?」
「……どういう意味でしょうか」
「どっちも男の趣味が最悪ってことだよ」
 場の空気が一瞬にして凍りついた。
 今日の会議はいつもと違う――華音はひどく胸騒ぎを覚えた。
 おかしい。
 いつも以上に、鷹山がおかしい。
「失礼ですが、監督は羽賀先輩とお付き合いなさってたんでしょう? ご自分も『最悪の趣味』の中に入っていらっしゃるんでしょうか?」
「真琴さんと君に共通している男の趣味のことを言ってるんだよ。もし君が僕のことを好きだって言うなら、『最悪の趣味』に入ってあげてもいいけどね」
 そんな鷹山の悪態に、あかりは珍しく引き下がろうとはしない。いつになく冷静さを欠いた様子で、鷹山にくってかかる。
「だいたい、公私混同しすぎではないですか? 監督の女性関係をとやかく言いたくはありませんけど」
 その淀んだ雰囲気を打ち破るように、鷹山に一番近い席に着いていた美濃部が、ようやく仲裁に入った。
「あかりさん、今は会議中だよ。少し冷静になって」
 穏やかだが力がある。
 あかりは我に返ったように、すぐに口をつぐんだ。

 会議室内は異様な雰囲気に包まれていた。
 進行役の美濃部は、淡々と演奏会の企画の流れを説明していく。委嘱作の初演や難曲でもない限り、会議に参加している首席陣たちが口を挟むことはほとんどない。
 今回もすんなりと進み、羽賀真琴を迎えての演奏会は完全に決定して、首席会議は終了となった。
 もちろん、ここまでくれば華音が異論を唱える余地はない。
 最後につけ加えるようにして、美濃部は鷹山に尋ねた。
「打ち合わせの日程なんですけど、羽賀さんの希望は五月四日とのことでした。パリへレコーディングしに行くそうで、その日を逃すと六月まで無理だそうです」
「あ、そう。いいよ、四日で」

 ――嘘? だってその日は……。

 華音は、その鷹山の一言に愕然となった。
 信じられない。どうして。

【今度、二人で旅行に出かけようか――】

【芹沢さん、来月誕生日だったよね。五月四日、連休のど真ん中だ】

【じゃあ、その日にしようか。予定、空けておいてね】


 会議がすべて終わると、出席者が次々と会議室を出ていった。
 華音は部屋の隅の椅子に一人座ったまま、それを見送っていた。
 そして、偶然か必然か。鷹山と華音の二人が部屋に残される。
 そこに言葉はない。二人の無言の攻防が続く。
 鷹山が最後に上座から立ち上がると、口を真一文字に結んだまま資料をまとめて、華音に一瞥もくれようとはせず、そのまま部屋を出ていこうとした。
 華音は我慢できずに、思わず鷹山の背に向かって言葉をぶつけた。
「自分から言い出したのに」
 鷹山はその場に立ち止まった。
 そして、わざとらしく大きなため息をつき、ゆっくりと華音を振り返る。
「何のこと?」
「約束してたはずなのに。鷹山さんの嘘つき」
「嘘つき? 隠し事ばかりして僕を欺いている君が、そんなことを言うんだ?」
 今まで無視を決め込んでいた鷹山が、一転して流暢な嫌味をたたみかけてくる。
 どうやら完全に火をつけてしまったらしい。
 しかし。
 自分から仕掛けた手前、華音も後には退けない。
「私がこの演奏会の企画から外されたのは、そういう理由なんですか?」
「ハッ、ちゃんと分かってるじゃないか」
「……羽賀さんといちゃつくのに、私がそばにいたらマズいから――なんじゃないですか?」
 不機嫌をあらわにした眉間のしわが、いっそう深く寄せられる。
 その表情の変化で。
 鷹山の血管がぶち切れる音が、華音の耳に聞こえてきた気がした。
「僕は仕事に私情を持ち込まないよ、君と違ってね。彼女のヴァイオリンを君は聴いたことがあるのか? あるわけないか。じゃあ美濃部君にでも彼女の腕を聞いてみたらいい。彼女との共演は芹響にとっても大きなプラスとなると僕は考えた。だから彼女の申し出を受けた。それだけの話じゃないか。昔付き合ってたよしみで、なんて馬鹿なことを僕が本当にしてると君は思っているのか? どうなんだよ。三秒以内に答えないと肯定したと見なすから」
 鷹山は得意の弁舌をふるい、一気にまくし立てた。
 もちろん、たった三秒というなけなしの猶予は、茫然としている間に過ぎ去っていく。
「ああ、そう。君の気持ちはよーく分かったよ。君はさっさと帰って、部屋にこもって新しい企画書を百本作ればいい。いいか百本だ。全部揃うまで僕の前に顔を出すな」
 鷹山はそう怒鳴りつけて踵を返すと、会議室から出ていってしまった。
 一人取り残された華音は、もはや追いかける気力などあるはずもなく、呆然と瞬きを繰り返すので精一杯だった。

 ――悪魔だ……ホントに、もう。

 しかし、そこにあるのは悲しみという感情ではない。
 売り言葉に買い言葉。
 華音は決して負けてなるものか、と半ばやけになりながら、無謀な数の企画書作りをする決意を固めた。