奈落の章 (8) 修羅
その日の夕方、華音は朝に宣言したとおり企画書の束を携えて、芹響の本拠地であるホールへと出向いた。
この場所を訪れるのも、久しぶりのことだった。そのせいで、華音はいつにない緊張を覚えていた。
ゴールデンウィーク後半は、楽団員たちは基本的に休暇となっている。
辺りを一望すると、駐車場は閑散としていた。自主練習をしに来ている楽団員が数名いる程度だ。
華音は、警備員のいる楽屋口へと回った。
果たして、鷹山は今どこにいるのだろうか。スケジュールを把握していないため、まったく見当がつかない。
音楽監督室はステージ横の楽屋棟の四階だが、打ち合わせに使うであろう応接室や会議室は、それとは反対側の事務管理棟にある。
いまだ仲直りができていない状態のため、勝手に音楽監督室に出入りするのはためらわれる。
かといって、打ち合わせの様子をうかがいに行くのは、企画から外されてしまった今の立場ではどうにも都合が悪い。
――鷹山さんの出待ちするしかないのかな……。
気が重い。
鷹山が一人ならそれでもいいが、もしホールのスタッフや楽団員たちと一緒になってしまったら、確実にタイミングを逸してしまう。
華音は思案した挙句、楽屋棟からホールへと繋がるドアへと向かった。
とりあえず、応接室と会議室の使用状況を、事務管理室にいるスタッフに問い合わせようと考えたからである。
しかし、華音の思惑は、早くも崩れてしまった。
「あ、華音ちゃんだ。お久しぶりー」
エントランスの片隅に設置されたロビー椅子に、羽賀真琴がひとり腰かけていた。
真琴は黒のカットソーに白のパンツスーツ姿だ。長身細身でショートヘアの真琴だからこそ、決まる服装である。唇の艶やかな深紅がモノトーンに映える。
真琴は華音の姿をとらえると、屈託のない笑顔で無邪気に片手を振ってくる。
そのあまりに人懐っこい反応に、華音はどう反応してよいものか途惑ってしまった。
演奏会の客演が決まった以上、個人的な好き嫌いの感情だけで相手をするわけにはいかない。
華音は気を取り直し、ゆっくりと羽賀真琴のもとへと近づいた。
「え……っと、あの、打ち合わせは終わったんですか?」
「さっきね。今、付き人の車を待ってるところ。ここからこのままパリへ向かうから」
真琴のその言葉を聞いて、華音は先日の首席会議で、確かにコンサートマスターの美濃部が、羽賀真琴がパリでレコーディングの予定があると言っていたのを、ふと思い出した。
国内でもアルバムを何枚も出しているほど、録音には精力的だ。ヴァイオリンの実力だけでなくその容姿の美しさが、彼女の人気を後押ししているのは間違いない。
華音はそんな真琴と自分を比べ、無意識に何度もため息をついてしまう。
自信に満ち溢れた、大人の女。
どんなに頑張っても、華音は到底敵わない――。
ため息をつく華音を見て、真琴は不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、楽人君とケンカでもしたの?」
「……え?」
「華音ちゃんのこと、今回の企画から外したって、さっきの打ち合わせで言ってたから」
やはり、鷹山の気持ちは変わっていないらしい。
華音はまたひとつ、真琴の前で大きなため息をついてみせた。
しかし、元彼女は――。
「アハハ、ひょっとして私のせい?」
真琴のそのあっけらかんとした態度に、華音は思わず絶句した。
関係がないといえば、それは嘘になる。
しかし、鷹山と羽賀真琴の関係がすでに過去のものであると、二人が口を揃えている以上、ひとり冷静になれない華音の未熟さのほうに問題があるのだろうが――。
華音はたまらず目の前の美女に聞き返した。
「羽賀さんは……いったいどうしたいんですか?」
「怒ってる? そんな悪く思わないでよ。楽人君のこと試したかっただけだから」
「試す?」
「華音ちゃんも知ってるかもしれないけどね、楽人君、祥先輩のことをとにかく憎んでるの。弟子同士の嫉妬とかそんなレベルとっくに超えてるし」
知っている。知り過ぎているといったほうが正しい。
「追い出したんでしょ? 祥先輩のこと」
華音は言葉を失った。
鷹山が、兄弟子を追い出した――しかし、あれは。
「祥ちゃんは自分で出ていっちゃったんです。追い出したなんて……」
この人は、どこまで知っているのだろう。
富士川の音大時代の後輩であり、鷹山のウィーン時代に彼女でもあったのだから、時期を異にして二人と繋がりがあったということになる。
「びっくりするよそりゃ。あの祥先輩の愛情を独り占めにしておきながら、楽人君と付き合うって言うんだから、余程のことなのかな……なんて邪推してしまうわけよ」
「祥ちゃんは別にそんな、お兄ちゃんというか、家族みたいなものだし……。鷹山さんは――」
――血が繋がっているけど、恋人みたいなもの……なんて、言えるわけない。
「ああ、別に華音ちゃんのこと責めてるわけじゃないよ? 祥先輩も楽人君も違った意味でカッコいいし、人を好きになるのは本能なんだから、惚れちゃったらしょうがないもんね」
明るくさらりと言い切るその物言いに、華音は返す言葉を失ってしまった。
そして何となく、彼女と付き合っていた鷹山の気持ちがほんの少しだけ、分かった気がしたのである。
「勘違いしないで欲しいんだけど、私はどっちも好きで、でも、どっちにも執着なんかしてないの。ただね、ひとつだけ――」
真琴は一呼吸置くようにして、華音に向き直った。
「祥先輩は、芹沢の名が似合うよ。誰よりも」
華音はその言葉に思わず目を瞠った。
真琴はその反応に満足したのか、それに付け加えるようにして、さらりと続けた。
「そうそう私ね、婚約者がいるの」
「え? あ……そうなんですか?」
「付き人してくれてる人なんだけどねー、楽人君にもさっき紹介しておいた」
その言葉を聞いて、華音は、胸につかえていた大きな塊が、一気に氷解していくような感覚を覚えた。
――なんだ。そう、だったんだ。
今は『あくまで音楽の同志として』の付き合い――その鷹山の説明には、嘘はなかったのだろう。
華音の様子の変化を眺めるようにして見ていた真琴は、意味ありげな笑顔を見せた。
「安心した?」
完全に、見抜かれている。
「私なんかよりね、むしろ彼女のほうが厄介なんじゃないの?」
「彼女?」
「藤堂さん」
華音はふと首を傾げた。その言葉の意味するものが、よく分からなかったためである。
「藤堂さんが祥ちゃんのこと好きなのは……知ってます。厄介だなんて、そんな」
あかりは富士川を崇拝信望しており、そのため華音が富士川のそばにいるときには何かと冷たくあしらわれることが多かったが、現在はそれほど敵意をむき出しにしてくることはない。
むしろ鷹山の暴走を止めるべく楽団に残り、孤軍奮闘していることは、華音も認めている。
しかし、真琴の思惑は別のところにあるようだった。
「そうじゃなくて。あの子、楽人君のことかなり意識してるんじゃない?」
目の前の溌剌とした美女の言わんとすることが、華音には分からなかった。
意識する、とは――。
「藤堂さんと鷹山さんは、性格が合わないみたいでよく言い争いとかしてますけど、でもそれは仕事上の意見のぶつかり合いですから――」
「本当にそう見えてるの? まあ、近くにいすぎてよく分からないのかな、やっぱり。何とも思わない人にね、あんなむきになったりできないよ」
「う……嘘。そんなこと、絶対にあるわけないです」
「案外、藤堂さん自身も気づいてないのかもねー。それに楽人君だって、まんざら嫌そうでもないしね。基本的に、ああいう高嶺の花っぽい清楚な美人はね、彼の好みだから」
真琴は、自分自身以外の鷹山の過去の恋愛遍歴を、いろいろと知っているのだろう。今の発言は、真琴なりの統計に基づいているに違いない。
しかし、鷹山のこれまでの態度を見るかぎり、藤堂あかりに対する好意などは感じられない。
「ああ、やっと車が来た。それじゃ、私はこれで。また今度ね、華音ちゃん。お土産、買ってきてあげるから楽しみにしてて」
真琴はソファの上に置いてあった自分の荷物を携えると、正面玄関脇の通用扉から出ていってしまった。
何面もあるガラス張りの大きな正面玄関の扉は、イベントのないときには堅く施錠されている。その扉の向こう側に、黒い乗用車が停まっているのが見えた。
運転席から降りてきたのは、背の高い若い男だった。真琴と合流し、荷物を預かると、男は嬉しそうな笑顔を見せた。それは付き人の顔ではなく、婚約者のものだった。華音が中から見ていることに気づいていないのだろう。
鷹山とは似ても似つかぬその容貌と雰囲気に、華音は急速に脱力感を覚えた。
華音が一人エントランスで羽賀真琴を見送っているところへ、事務管理棟のほうから鷹山と美濃部が揃ってやってきた。
鷹山は華音の姿をとらえると、これ見よがしにため息をついた。
「美濃部君、先に上に行っててくれ」
「分かりました、では」
音楽監督の機嫌を損ねて、華音が半ば謹慎状態にあることを、美濃部はもちろん知っている。美濃部は気を利かせるようにして、すぐに楽屋棟へ通じるドアの向こうへと消えていった。
鷹山は、エントランスに二人以外、誰もいなくなったのを確認し、華音と向き合った。
「見れば分かるだろう。忙しいんだよ僕は」
その鷹山の瞳には冷酷さと――そして、安堵感が浮かんでいる。
「じゃあ、せめて今夜はうちに帰ってきてください。鷹山さんの部屋までこれを持っていきますから」
「何時になるか分からない。約束なんかできない」
「どんなに遅くなっても、ちゃんと起きて待ってるから。だから、帰ってきて?」
「……」
「お願い」
鷹山は当てつけるようにわざと大きなため息をつくと、返事をせずに華音に背中を向けた。そして、そのまま美濃部のあとを追うようにして、楽屋棟へと向かって歩き去っていく。
華音は企画書の束を胸に抱えたまま、鷹山の背中を見送っていた。
日付もそろそろ変わろうかという深夜に、華音は企画書の束を抱え、自室を抜け出した。
パジャマにカーディガンを羽織っただけの格好で、暗い長い廊下をゆっくりと歩き進む。
鷹山が寝室として使用している部屋は、祖父が生前使用していた場所だ。華音の部屋とは、中庭を挟んだ反対側に位置している。富士川祥が学生時代に居候していたときには何度か入ったことがあるが、鷹山の部屋となってからは、出入りをするのはこれが初めてだった。
――いるのかな? もしかして……今日も、帰ってきてない?
扉の前に立ち、深呼吸をする。勇気を出してノックをするも、中から返事はない。
念のため、ドアノブに手をかけて数センチ開くと、薄暗い光が廊下に漏れ出した。
部屋の主は、中にいた。
――やっぱり、帰ってきてくれてる。
華音は安堵し、部屋の中に入り込んだ。
鷹山はベッドの端に腰をかけていた。ルームランプのほのかな灯りが、鷹山の横顔を照らし出す。
ベッドサイドテーブルには、ワインのボトルとグラスが置かれている。
「……お酒、飲んでるの?」
「ここへ越してからは毎日だよ。睡眠薬代わりにね」
もともと祖父の寝室として使われていた鷹山の部屋には、小ぶりなワインセラーの他に、ソファやテーブルなども設えてある。
だが、鷹山はそれらを使わずに、いつもこうしてベッドに腰かけて飲んでいるのだろう。
「それで、いったいどうしたの? お兄様におやすみの挨拶でもしにきた? それとも僕の添い寝をしにきたの?」
口も聞かないケンカ状態が続いていたため、部屋を訪ねると言ってもそういう雰囲気にはならないと華音は思っていた。ただ、万が一のことを考えて、それなりの覚悟を決めてきたつもりだったが――いざ鷹山に誘い文句を口にされると、華音は緊張のあまり、顔と身体を強張らせてしまう。
「冗談に決まってるじゃないか。企画書を持ってきたんだろう?」
いつになく、声の調子が優しい。低音が艶めいている。
鷹山は無言で、右手をゆっくりと華音のほうへと差し延べた。
華音も黙ったまま、抱えていた紙の束を差し出すと、鷹山は素直にそれ受け取った。そして企画書の中身をざっと確認すると、すぐにテーブルの端に置いた。すでに仕事モードから抜けきってしまったようだ。
鷹山は空いている右側のスペースを数度、誘うように叩いた。
華音はゆっくりと近づき、つかず離れずの微妙な距離を保って、鷹山の隣に静かに腰かけた。
鷹山は、左手をサイドテーブルに伸ばし、ワイングラスを手に取った。
グラスの中身はよく冷えた白だ。その証に、グラスが細かな水滴で曇っている。鷹山は半分ほど入ったそれを、あおるようにして一気に飲み干した。
華音はすぐそばで、鷹山の喉の動きをじっと見つめていた。
「向こうじゃこれが当たり前だった。飲むか、抱くか。『何を』なんて、野暮な質問はしないでくれ」
「……」
「もっとも、飲むより抱くほうが圧倒的に多かったけど」
酔いに任せて、聞きもしないことまで饒舌に語り出す。
「快楽を追い求めるとね、その間だけは忌まわしき過去を忘れていられるんだ」
華音の心臓はどんどん鼓動を早めていく。
それは緊張なのか興奮なのか、華音自身にもよく分からない。
「僕はずっと、一人孤独だった」
そう言って、空いたグラスを静かにサイドテーブルの上に戻した。鷹山の大きな焦げ茶色の瞳が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「鷹山さん……は、富良野に実家があるんでしょ?」
実家のことにあまり触れたがらないため、華音は鷹山家のことをほとんど知らなかった。
しかし今夜は、アルコールの力も手伝ってか、鷹山は珍しく自分のことを語り始めた。
「最近帰ってないけどね。今は父が一人暮らしをしてる。父って言っても、あの人まだ、独身なんだ。だから、母親はずっといなかった」
「へえ……?」
「だって、僕を引き取ったとき、あの人まだ大学出たばかりの、二十五歳の若造だったんだよ。今の僕の歳とほとんど変わらない。まあ、父親というより、年の離れた兄貴に近いかな」
「何だか、不思議な話のような気がするんだけど……?」
「僕たちの母さんの、弟なんだ。つまり、叔父さんってこと。母さんの家もいろいろ複雑でね、両親が離婚してから僕たちのように離れて暮らしていたらしいよ。僕たちの母さんのことはよく知らないって言ってるから」
初めて知る事実だった。
華音にしてみれば会ったことも話したこともない人間だが、――祖父が他界したときに天涯孤独となってしまったと思ったのは、どうやら違っていたようだ。
鷹山にとっての『叔父』であれば、当然華音にとっても『叔父』となる。
「よく知らないのに、そんな若くして子供を引き取ったの?」
「変わってるんだ、あの人」
きっと、大切にされていたのだろう。
富良野時代の話をするときの鷹山には、養父に対する絆が感じられる。
すると突然、穏やかだった表情が、一転して陰りを見せた。
「君はこの家で、あの男と一緒にいて、さぞかし楽しかったんだろうな」
返事ができなかった。
楽しかったとも、楽しくなかったとも、彼には言えない。
華音は黙っていた。
しかし。
鷹山は華音に返事を求めているわけではないようだった。独り言のように、一方的に喋り続ける。
「あのとき――僕もこの家に引き取られることになっていたら、今頃どうなっていただろう」
それは、適うことのなかった並行世界の話である。
「そしたら僕は、もっと兄貴らしくなってたかな」
祖父である芹沢英輔への反抗心もなく、厳格な家風に育ち女性関係も乱れなく、温室育ちの御曹司のようなどこか浮世離れした人間になっていたかもしれない。
そして、当たり前のように『華音』と呼び、同じものを見て、同じものを聞いて、同じ物を食べ、ときには勉強をみて、本やCDの貸し借りをし、両親の命日には揃って悲しみ、誕生日にはともに祝い――。
しかしそれは、取り戻せない過去。
決して訪れることのなかった、未来の姿。
「約束なんて、守らなければよかった」
鷹山の呟くような声が、淡々と響く。
「君のことを愛さなければよかった――」
鷹山は、そばに座る実の妹のほうへとゆっくり顔を向けた。
目と目が合う。
今にも泣き出しそうな鷹山の潤んだ焦げ茶色の大きな両瞳が、切なげに揺れるのを華音は見た。
「僕は芹沢楽人だ。芹沢華音の兄だ」
「……鷹山さん」
「そう、もうその名を名乗っている年月のほうがずっと長いのに、いつまで経っても僕は、『芹沢』の名に縛りつけられている」
酒の酔いが程よくまわり、鷹山はいつも以上に饒舌に喋り捲る。
「ハハハ、兄だってさ。兄貴らしいことなんか、何一つしたことないけど」
「鷹山さん」
「だって君の兄貴は、いつの間にか別の男にすりかわってたんだもんな」
ときおり覗く兄の記憶が、華音を不安にさせる。
「僕は、この家が憎い。憎くて、憎くて、たまらない」
壊れる。
彼の中の記憶が崩壊していく――。
「この家が僕のことを拒絶する。僕と、そして僕のお母さんを…………嫌だ、もう」
鷹山の変化についていけず、華音は唖然と目の前の光景を見つめるばかり。
どう対処してよいのか、まったく分からない。
「僕の妹が、知らない男を兄のように慕っている。この家で、ずっと楽しく、本当の家族のことを一切知ることもなく…………ああ」
「落ち着いて、鷹山さん! お願いだから」
華音は押さえつけるようにして、鷹山に腕ごと抱きついた。
「吐き気がする。この家の匂いが僕を苦しめる。芹沢の名が、芹沢の血が僕を狂わせる」
とっさに。
華音はそっと、鷹山の頬に口づけた。
「……君」
「もう何も言わないで」
華音はそう言うと、鷹山の右の肩に半分身体を預けるようにして左手を載せ、もう片方の手で彼の膝をつかんだ。
そして今度は、そのよく喋る唇を塞ぐようにして、半ば押しつけるようにして重ね合わせていく。
鷹山は驚いた様子を見せながらも、慣れたように華音の唇を受け入れた。
そっと唇を離すと。
「ヘタクソ」
唇が離れるや否や、鷹山はぽつりと呟くように言った。
「なっ……そりゃあ鷹山さんが今までに付き合ってきた人なんかよりも、ちょっと下手かも知れないけど、でも――」
「ちょっとどころの話なんかじゃない。全然ヘタクソだよ」
華音は恥ずかしさで一杯だった。
経験豊富な彼から見れば、自分は物足りない相手だと、そんな烙印を押されてしまったかのような気持ちになり、愕然となる。
それは仕方のないことである。華音の経験のすべてはこの男だけなのだから――。
「でも……もの凄く感じた。今まで生きてきた中で、一番」
華音のすぐ目の前で、鷹山の艶のある大きな瞳がゆっくりと瞬いた。
喉の奥から振り絞るような彼の低い声が、華音の耳をくすぐっていく。
「上手下手じゃないんだよ。愛も、音楽も、心がすべてだ」
華音は、鷹山に抱えられるようにして、徐々に引き寄せられていく。腕の力を決して緩めようとはしない。
「もっと、感じさせて」
これは、試されているのではない。
鷹山に『女』を求められているのだと華音は悟った。
愛する男の求めには当然、応じなければならない。
これまで彼の周りにいた女たちがそうしてきたように――。
鷹山の強引な抱擁に思わず身体をのけぞらせると、鷹山はそれを待っていたかのように腕の力を加減して、半ば圧し掛かるような格好でベッドへなだれ込んだ。
華音の意識はどこか遠くへ飛んでしまっていた。
初めて経験する空気に、華音の強ばった身体の内側が小刻みに揺れ動く。
何度深呼吸をしても、それは収まらない。
「震えてる」
「こ……怖いんだもん」
「そんなに緊張しないで」
美貌の悪魔に圧し掛かられ、そして抱きすくめられている。
鷹山の髪の毛が、華音の頬をくすぐっている。
もう、歯止めが利かない。
慣れたように首筋を這い回る鷹山の唇の動きに、華音の意識はどんどん遠退いていく。
華音が思わず愉悦の声を漏らしてしまうと、鷹山はそれを待っていたかのように、華音の声を塞ぐような激しいキスを始めた。
落ちていく、どこまでも。底は見えない、闇の中。
「怖……い」
「怖くない。僕はここだ」
今自分は、初めて男に身体を許そうとしている。
実の兄に――抱かれようとしている。
何故か華音の頭の中に、富士川の顔が浮かんでくる。
芹沢家で、この建物の中で楽しく過ごしていた思い出が、次から次へとあふれてくる。
しかしそれは、この男が否定する過去。
【俺は本当に、華音ちゃんが幸せならそれでいいんだ――】
――嘘つき。
求められるということは、どういうことなのか――いま華音はそれを、身をもって感じさせられていた。
苦しい。でも、より感じる。
もう、時間の問題だ。
【華音ちゃんが幸せなら――】
――どうしてそれを、あなたが言うの?
脳裏に富士川の声がよぎり、華音は反射的に激しく身をよじらせて、鷹山の口づけを避けてしまった。
すると。
鷹山は一転して、その表情を冷たく硬化させた。
「……嫌なら嫌と、最初からそう言えばいい」
彼が上半身をゆっくり起こしていくにつれ、華音の身体から重みと温もりが急速に失われていく。
「違うの」
華音はとっさに離れかけていた鷹山の身体に抱きついて、引き戻した。
彼の綺麗な顔が、目の前に再び現れる。大きな二重の瞳が、驚いたように緩やかに瞬いている。
「鷹山さんじゃなくちゃ、イヤ……」
「芹沢さん、君――」
「ちゃんと、頑張るから。だから、続けて」
しかし。
鷹山は組み敷いていた華音の上から、自分の身体を除けてしまった。そしてそのまま寄り添うようにして、隣に横たわる。
「鷹……山、さん?」
鷹山は天井を仰ぎながら、呟くように言った。
「君は、僕の快楽を満たすための道具なんかじゃ、ない」
魂のない人形のように、その表情には一切の感情が見られない。
華音は何度も深呼吸を繰り返し、続く鷹山の言葉を待った。
「君だけは違う、絶対に。だから、頑張る必要なんてない」
「でも……」
鷹山は横たわったままで、華音と向き合うように体勢を変えた。彼の片腕がもどかしげに伸ばされ、華音の外側の肩にかけられる。
そして、今度は優しく肩が引き寄せられていき、やがて華音は慈しみ包み込まれるようにして、鷹山の胸へ抱き止められた。
「僕のことを愛して欲しいんだ」
「うん」
「僕は君に、愛されたいだけなんだ」
先程までとはまるで人が変わってしまったかのように、鷹山の声は深くそして優しかった。
「おやすみ、芹沢さん」
幼い子供が母親に甘えるように、鷹山はやんわりと身体にまとわりつく。
華音は、足のところで乱れていた掛布を、腕を伸ばし上手く引っ張り上げ、二人はそれに包まった。
その後、鷹山は枕元に設置されているルームランプのスイッチをオフにした。
一気に、暗闇が襲いくる。
「君がまたこうやって、僕の手の届くところで眠るなんて、ホント夢のようだ」
鷹山の声が華音の耳元で響いた。
また、こうやって――――また。
この場所を訪れるのも、久しぶりのことだった。そのせいで、華音はいつにない緊張を覚えていた。
ゴールデンウィーク後半は、楽団員たちは基本的に休暇となっている。
辺りを一望すると、駐車場は閑散としていた。自主練習をしに来ている楽団員が数名いる程度だ。
華音は、警備員のいる楽屋口へと回った。
果たして、鷹山は今どこにいるのだろうか。スケジュールを把握していないため、まったく見当がつかない。
音楽監督室はステージ横の楽屋棟の四階だが、打ち合わせに使うであろう応接室や会議室は、それとは反対側の事務管理棟にある。
いまだ仲直りができていない状態のため、勝手に音楽監督室に出入りするのはためらわれる。
かといって、打ち合わせの様子をうかがいに行くのは、企画から外されてしまった今の立場ではどうにも都合が悪い。
――鷹山さんの出待ちするしかないのかな……。
気が重い。
鷹山が一人ならそれでもいいが、もしホールのスタッフや楽団員たちと一緒になってしまったら、確実にタイミングを逸してしまう。
華音は思案した挙句、楽屋棟からホールへと繋がるドアへと向かった。
とりあえず、応接室と会議室の使用状況を、事務管理室にいるスタッフに問い合わせようと考えたからである。
しかし、華音の思惑は、早くも崩れてしまった。
「あ、華音ちゃんだ。お久しぶりー」
エントランスの片隅に設置されたロビー椅子に、羽賀真琴がひとり腰かけていた。
真琴は黒のカットソーに白のパンツスーツ姿だ。長身細身でショートヘアの真琴だからこそ、決まる服装である。唇の艶やかな深紅がモノトーンに映える。
真琴は華音の姿をとらえると、屈託のない笑顔で無邪気に片手を振ってくる。
そのあまりに人懐っこい反応に、華音はどう反応してよいものか途惑ってしまった。
演奏会の客演が決まった以上、個人的な好き嫌いの感情だけで相手をするわけにはいかない。
華音は気を取り直し、ゆっくりと羽賀真琴のもとへと近づいた。
「え……っと、あの、打ち合わせは終わったんですか?」
「さっきね。今、付き人の車を待ってるところ。ここからこのままパリへ向かうから」
真琴のその言葉を聞いて、華音は先日の首席会議で、確かにコンサートマスターの美濃部が、羽賀真琴がパリでレコーディングの予定があると言っていたのを、ふと思い出した。
国内でもアルバムを何枚も出しているほど、録音には精力的だ。ヴァイオリンの実力だけでなくその容姿の美しさが、彼女の人気を後押ししているのは間違いない。
華音はそんな真琴と自分を比べ、無意識に何度もため息をついてしまう。
自信に満ち溢れた、大人の女。
どんなに頑張っても、華音は到底敵わない――。
ため息をつく華音を見て、真琴は不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、楽人君とケンカでもしたの?」
「……え?」
「華音ちゃんのこと、今回の企画から外したって、さっきの打ち合わせで言ってたから」
やはり、鷹山の気持ちは変わっていないらしい。
華音はまたひとつ、真琴の前で大きなため息をついてみせた。
しかし、元彼女は――。
「アハハ、ひょっとして私のせい?」
真琴のそのあっけらかんとした態度に、華音は思わず絶句した。
関係がないといえば、それは嘘になる。
しかし、鷹山と羽賀真琴の関係がすでに過去のものであると、二人が口を揃えている以上、ひとり冷静になれない華音の未熟さのほうに問題があるのだろうが――。
華音はたまらず目の前の美女に聞き返した。
「羽賀さんは……いったいどうしたいんですか?」
「怒ってる? そんな悪く思わないでよ。楽人君のこと試したかっただけだから」
「試す?」
「華音ちゃんも知ってるかもしれないけどね、楽人君、祥先輩のことをとにかく憎んでるの。弟子同士の嫉妬とかそんなレベルとっくに超えてるし」
知っている。知り過ぎているといったほうが正しい。
「追い出したんでしょ? 祥先輩のこと」
華音は言葉を失った。
鷹山が、兄弟子を追い出した――しかし、あれは。
「祥ちゃんは自分で出ていっちゃったんです。追い出したなんて……」
この人は、どこまで知っているのだろう。
富士川の音大時代の後輩であり、鷹山のウィーン時代に彼女でもあったのだから、時期を異にして二人と繋がりがあったということになる。
「びっくりするよそりゃ。あの祥先輩の愛情を独り占めにしておきながら、楽人君と付き合うって言うんだから、余程のことなのかな……なんて邪推してしまうわけよ」
「祥ちゃんは別にそんな、お兄ちゃんというか、家族みたいなものだし……。鷹山さんは――」
――血が繋がっているけど、恋人みたいなもの……なんて、言えるわけない。
「ああ、別に華音ちゃんのこと責めてるわけじゃないよ? 祥先輩も楽人君も違った意味でカッコいいし、人を好きになるのは本能なんだから、惚れちゃったらしょうがないもんね」
明るくさらりと言い切るその物言いに、華音は返す言葉を失ってしまった。
そして何となく、彼女と付き合っていた鷹山の気持ちがほんの少しだけ、分かった気がしたのである。
「勘違いしないで欲しいんだけど、私はどっちも好きで、でも、どっちにも執着なんかしてないの。ただね、ひとつだけ――」
真琴は一呼吸置くようにして、華音に向き直った。
「祥先輩は、芹沢の名が似合うよ。誰よりも」
華音はその言葉に思わず目を瞠った。
真琴はその反応に満足したのか、それに付け加えるようにして、さらりと続けた。
「そうそう私ね、婚約者がいるの」
「え? あ……そうなんですか?」
「付き人してくれてる人なんだけどねー、楽人君にもさっき紹介しておいた」
その言葉を聞いて、華音は、胸につかえていた大きな塊が、一気に氷解していくような感覚を覚えた。
――なんだ。そう、だったんだ。
今は『あくまで音楽の同志として』の付き合い――その鷹山の説明には、嘘はなかったのだろう。
華音の様子の変化を眺めるようにして見ていた真琴は、意味ありげな笑顔を見せた。
「安心した?」
完全に、見抜かれている。
「私なんかよりね、むしろ彼女のほうが厄介なんじゃないの?」
「彼女?」
「藤堂さん」
華音はふと首を傾げた。その言葉の意味するものが、よく分からなかったためである。
「藤堂さんが祥ちゃんのこと好きなのは……知ってます。厄介だなんて、そんな」
あかりは富士川を崇拝信望しており、そのため華音が富士川のそばにいるときには何かと冷たくあしらわれることが多かったが、現在はそれほど敵意をむき出しにしてくることはない。
むしろ鷹山の暴走を止めるべく楽団に残り、孤軍奮闘していることは、華音も認めている。
しかし、真琴の思惑は別のところにあるようだった。
「そうじゃなくて。あの子、楽人君のことかなり意識してるんじゃない?」
目の前の溌剌とした美女の言わんとすることが、華音には分からなかった。
意識する、とは――。
「藤堂さんと鷹山さんは、性格が合わないみたいでよく言い争いとかしてますけど、でもそれは仕事上の意見のぶつかり合いですから――」
「本当にそう見えてるの? まあ、近くにいすぎてよく分からないのかな、やっぱり。何とも思わない人にね、あんなむきになったりできないよ」
「う……嘘。そんなこと、絶対にあるわけないです」
「案外、藤堂さん自身も気づいてないのかもねー。それに楽人君だって、まんざら嫌そうでもないしね。基本的に、ああいう高嶺の花っぽい清楚な美人はね、彼の好みだから」
真琴は、自分自身以外の鷹山の過去の恋愛遍歴を、いろいろと知っているのだろう。今の発言は、真琴なりの統計に基づいているに違いない。
しかし、鷹山のこれまでの態度を見るかぎり、藤堂あかりに対する好意などは感じられない。
「ああ、やっと車が来た。それじゃ、私はこれで。また今度ね、華音ちゃん。お土産、買ってきてあげるから楽しみにしてて」
真琴はソファの上に置いてあった自分の荷物を携えると、正面玄関脇の通用扉から出ていってしまった。
何面もあるガラス張りの大きな正面玄関の扉は、イベントのないときには堅く施錠されている。その扉の向こう側に、黒い乗用車が停まっているのが見えた。
運転席から降りてきたのは、背の高い若い男だった。真琴と合流し、荷物を預かると、男は嬉しそうな笑顔を見せた。それは付き人の顔ではなく、婚約者のものだった。華音が中から見ていることに気づいていないのだろう。
鷹山とは似ても似つかぬその容貌と雰囲気に、華音は急速に脱力感を覚えた。
華音が一人エントランスで羽賀真琴を見送っているところへ、事務管理棟のほうから鷹山と美濃部が揃ってやってきた。
鷹山は華音の姿をとらえると、これ見よがしにため息をついた。
「美濃部君、先に上に行っててくれ」
「分かりました、では」
音楽監督の機嫌を損ねて、華音が半ば謹慎状態にあることを、美濃部はもちろん知っている。美濃部は気を利かせるようにして、すぐに楽屋棟へ通じるドアの向こうへと消えていった。
鷹山は、エントランスに二人以外、誰もいなくなったのを確認し、華音と向き合った。
「見れば分かるだろう。忙しいんだよ僕は」
その鷹山の瞳には冷酷さと――そして、安堵感が浮かんでいる。
「じゃあ、せめて今夜はうちに帰ってきてください。鷹山さんの部屋までこれを持っていきますから」
「何時になるか分からない。約束なんかできない」
「どんなに遅くなっても、ちゃんと起きて待ってるから。だから、帰ってきて?」
「……」
「お願い」
鷹山は当てつけるようにわざと大きなため息をつくと、返事をせずに華音に背中を向けた。そして、そのまま美濃部のあとを追うようにして、楽屋棟へと向かって歩き去っていく。
華音は企画書の束を胸に抱えたまま、鷹山の背中を見送っていた。
日付もそろそろ変わろうかという深夜に、華音は企画書の束を抱え、自室を抜け出した。
パジャマにカーディガンを羽織っただけの格好で、暗い長い廊下をゆっくりと歩き進む。
鷹山が寝室として使用している部屋は、祖父が生前使用していた場所だ。華音の部屋とは、中庭を挟んだ反対側に位置している。富士川祥が学生時代に居候していたときには何度か入ったことがあるが、鷹山の部屋となってからは、出入りをするのはこれが初めてだった。
――いるのかな? もしかして……今日も、帰ってきてない?
扉の前に立ち、深呼吸をする。勇気を出してノックをするも、中から返事はない。
念のため、ドアノブに手をかけて数センチ開くと、薄暗い光が廊下に漏れ出した。
部屋の主は、中にいた。
――やっぱり、帰ってきてくれてる。
華音は安堵し、部屋の中に入り込んだ。
鷹山はベッドの端に腰をかけていた。ルームランプのほのかな灯りが、鷹山の横顔を照らし出す。
ベッドサイドテーブルには、ワインのボトルとグラスが置かれている。
「……お酒、飲んでるの?」
「ここへ越してからは毎日だよ。睡眠薬代わりにね」
もともと祖父の寝室として使われていた鷹山の部屋には、小ぶりなワインセラーの他に、ソファやテーブルなども設えてある。
だが、鷹山はそれらを使わずに、いつもこうしてベッドに腰かけて飲んでいるのだろう。
「それで、いったいどうしたの? お兄様におやすみの挨拶でもしにきた? それとも僕の添い寝をしにきたの?」
口も聞かないケンカ状態が続いていたため、部屋を訪ねると言ってもそういう雰囲気にはならないと華音は思っていた。ただ、万が一のことを考えて、それなりの覚悟を決めてきたつもりだったが――いざ鷹山に誘い文句を口にされると、華音は緊張のあまり、顔と身体を強張らせてしまう。
「冗談に決まってるじゃないか。企画書を持ってきたんだろう?」
いつになく、声の調子が優しい。低音が艶めいている。
鷹山は無言で、右手をゆっくりと華音のほうへと差し延べた。
華音も黙ったまま、抱えていた紙の束を差し出すと、鷹山は素直にそれ受け取った。そして企画書の中身をざっと確認すると、すぐにテーブルの端に置いた。すでに仕事モードから抜けきってしまったようだ。
鷹山は空いている右側のスペースを数度、誘うように叩いた。
華音はゆっくりと近づき、つかず離れずの微妙な距離を保って、鷹山の隣に静かに腰かけた。
鷹山は、左手をサイドテーブルに伸ばし、ワイングラスを手に取った。
グラスの中身はよく冷えた白だ。その証に、グラスが細かな水滴で曇っている。鷹山は半分ほど入ったそれを、あおるようにして一気に飲み干した。
華音はすぐそばで、鷹山の喉の動きをじっと見つめていた。
「向こうじゃこれが当たり前だった。飲むか、抱くか。『何を』なんて、野暮な質問はしないでくれ」
「……」
「もっとも、飲むより抱くほうが圧倒的に多かったけど」
酔いに任せて、聞きもしないことまで饒舌に語り出す。
「快楽を追い求めるとね、その間だけは忌まわしき過去を忘れていられるんだ」
華音の心臓はどんどん鼓動を早めていく。
それは緊張なのか興奮なのか、華音自身にもよく分からない。
「僕はずっと、一人孤独だった」
そう言って、空いたグラスを静かにサイドテーブルの上に戻した。鷹山の大きな焦げ茶色の瞳が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「鷹山さん……は、富良野に実家があるんでしょ?」
実家のことにあまり触れたがらないため、華音は鷹山家のことをほとんど知らなかった。
しかし今夜は、アルコールの力も手伝ってか、鷹山は珍しく自分のことを語り始めた。
「最近帰ってないけどね。今は父が一人暮らしをしてる。父って言っても、あの人まだ、独身なんだ。だから、母親はずっといなかった」
「へえ……?」
「だって、僕を引き取ったとき、あの人まだ大学出たばかりの、二十五歳の若造だったんだよ。今の僕の歳とほとんど変わらない。まあ、父親というより、年の離れた兄貴に近いかな」
「何だか、不思議な話のような気がするんだけど……?」
「僕たちの母さんの、弟なんだ。つまり、叔父さんってこと。母さんの家もいろいろ複雑でね、両親が離婚してから僕たちのように離れて暮らしていたらしいよ。僕たちの母さんのことはよく知らないって言ってるから」
初めて知る事実だった。
華音にしてみれば会ったことも話したこともない人間だが、――祖父が他界したときに天涯孤独となってしまったと思ったのは、どうやら違っていたようだ。
鷹山にとっての『叔父』であれば、当然華音にとっても『叔父』となる。
「よく知らないのに、そんな若くして子供を引き取ったの?」
「変わってるんだ、あの人」
きっと、大切にされていたのだろう。
富良野時代の話をするときの鷹山には、養父に対する絆が感じられる。
すると突然、穏やかだった表情が、一転して陰りを見せた。
「君はこの家で、あの男と一緒にいて、さぞかし楽しかったんだろうな」
返事ができなかった。
楽しかったとも、楽しくなかったとも、彼には言えない。
華音は黙っていた。
しかし。
鷹山は華音に返事を求めているわけではないようだった。独り言のように、一方的に喋り続ける。
「あのとき――僕もこの家に引き取られることになっていたら、今頃どうなっていただろう」
それは、適うことのなかった並行世界の話である。
「そしたら僕は、もっと兄貴らしくなってたかな」
祖父である芹沢英輔への反抗心もなく、厳格な家風に育ち女性関係も乱れなく、温室育ちの御曹司のようなどこか浮世離れした人間になっていたかもしれない。
そして、当たり前のように『華音』と呼び、同じものを見て、同じものを聞いて、同じ物を食べ、ときには勉強をみて、本やCDの貸し借りをし、両親の命日には揃って悲しみ、誕生日にはともに祝い――。
しかしそれは、取り戻せない過去。
決して訪れることのなかった、未来の姿。
「約束なんて、守らなければよかった」
鷹山の呟くような声が、淡々と響く。
「君のことを愛さなければよかった――」
鷹山は、そばに座る実の妹のほうへとゆっくり顔を向けた。
目と目が合う。
今にも泣き出しそうな鷹山の潤んだ焦げ茶色の大きな両瞳が、切なげに揺れるのを華音は見た。
「僕は芹沢楽人だ。芹沢華音の兄だ」
「……鷹山さん」
「そう、もうその名を名乗っている年月のほうがずっと長いのに、いつまで経っても僕は、『芹沢』の名に縛りつけられている」
酒の酔いが程よくまわり、鷹山はいつも以上に饒舌に喋り捲る。
「ハハハ、兄だってさ。兄貴らしいことなんか、何一つしたことないけど」
「鷹山さん」
「だって君の兄貴は、いつの間にか別の男にすりかわってたんだもんな」
ときおり覗く兄の記憶が、華音を不安にさせる。
「僕は、この家が憎い。憎くて、憎くて、たまらない」
壊れる。
彼の中の記憶が崩壊していく――。
「この家が僕のことを拒絶する。僕と、そして僕のお母さんを…………嫌だ、もう」
鷹山の変化についていけず、華音は唖然と目の前の光景を見つめるばかり。
どう対処してよいのか、まったく分からない。
「僕の妹が、知らない男を兄のように慕っている。この家で、ずっと楽しく、本当の家族のことを一切知ることもなく…………ああ」
「落ち着いて、鷹山さん! お願いだから」
華音は押さえつけるようにして、鷹山に腕ごと抱きついた。
「吐き気がする。この家の匂いが僕を苦しめる。芹沢の名が、芹沢の血が僕を狂わせる」
とっさに。
華音はそっと、鷹山の頬に口づけた。
「……君」
「もう何も言わないで」
華音はそう言うと、鷹山の右の肩に半分身体を預けるようにして左手を載せ、もう片方の手で彼の膝をつかんだ。
そして今度は、そのよく喋る唇を塞ぐようにして、半ば押しつけるようにして重ね合わせていく。
鷹山は驚いた様子を見せながらも、慣れたように華音の唇を受け入れた。
そっと唇を離すと。
「ヘタクソ」
唇が離れるや否や、鷹山はぽつりと呟くように言った。
「なっ……そりゃあ鷹山さんが今までに付き合ってきた人なんかよりも、ちょっと下手かも知れないけど、でも――」
「ちょっとどころの話なんかじゃない。全然ヘタクソだよ」
華音は恥ずかしさで一杯だった。
経験豊富な彼から見れば、自分は物足りない相手だと、そんな烙印を押されてしまったかのような気持ちになり、愕然となる。
それは仕方のないことである。華音の経験のすべてはこの男だけなのだから――。
「でも……もの凄く感じた。今まで生きてきた中で、一番」
華音のすぐ目の前で、鷹山の艶のある大きな瞳がゆっくりと瞬いた。
喉の奥から振り絞るような彼の低い声が、華音の耳をくすぐっていく。
「上手下手じゃないんだよ。愛も、音楽も、心がすべてだ」
華音は、鷹山に抱えられるようにして、徐々に引き寄せられていく。腕の力を決して緩めようとはしない。
「もっと、感じさせて」
これは、試されているのではない。
鷹山に『女』を求められているのだと華音は悟った。
愛する男の求めには当然、応じなければならない。
これまで彼の周りにいた女たちがそうしてきたように――。
鷹山の強引な抱擁に思わず身体をのけぞらせると、鷹山はそれを待っていたかのように腕の力を加減して、半ば圧し掛かるような格好でベッドへなだれ込んだ。
華音の意識はどこか遠くへ飛んでしまっていた。
初めて経験する空気に、華音の強ばった身体の内側が小刻みに揺れ動く。
何度深呼吸をしても、それは収まらない。
「震えてる」
「こ……怖いんだもん」
「そんなに緊張しないで」
美貌の悪魔に圧し掛かられ、そして抱きすくめられている。
鷹山の髪の毛が、華音の頬をくすぐっている。
もう、歯止めが利かない。
慣れたように首筋を這い回る鷹山の唇の動きに、華音の意識はどんどん遠退いていく。
華音が思わず愉悦の声を漏らしてしまうと、鷹山はそれを待っていたかのように、華音の声を塞ぐような激しいキスを始めた。
落ちていく、どこまでも。底は見えない、闇の中。
「怖……い」
「怖くない。僕はここだ」
今自分は、初めて男に身体を許そうとしている。
実の兄に――抱かれようとしている。
何故か華音の頭の中に、富士川の顔が浮かんでくる。
芹沢家で、この建物の中で楽しく過ごしていた思い出が、次から次へとあふれてくる。
しかしそれは、この男が否定する過去。
【俺は本当に、華音ちゃんが幸せならそれでいいんだ――】
――嘘つき。
求められるということは、どういうことなのか――いま華音はそれを、身をもって感じさせられていた。
苦しい。でも、より感じる。
もう、時間の問題だ。
【華音ちゃんが幸せなら――】
――どうしてそれを、あなたが言うの?
脳裏に富士川の声がよぎり、華音は反射的に激しく身をよじらせて、鷹山の口づけを避けてしまった。
すると。
鷹山は一転して、その表情を冷たく硬化させた。
「……嫌なら嫌と、最初からそう言えばいい」
彼が上半身をゆっくり起こしていくにつれ、華音の身体から重みと温もりが急速に失われていく。
「違うの」
華音はとっさに離れかけていた鷹山の身体に抱きついて、引き戻した。
彼の綺麗な顔が、目の前に再び現れる。大きな二重の瞳が、驚いたように緩やかに瞬いている。
「鷹山さんじゃなくちゃ、イヤ……」
「芹沢さん、君――」
「ちゃんと、頑張るから。だから、続けて」
しかし。
鷹山は組み敷いていた華音の上から、自分の身体を除けてしまった。そしてそのまま寄り添うようにして、隣に横たわる。
「鷹……山、さん?」
鷹山は天井を仰ぎながら、呟くように言った。
「君は、僕の快楽を満たすための道具なんかじゃ、ない」
魂のない人形のように、その表情には一切の感情が見られない。
華音は何度も深呼吸を繰り返し、続く鷹山の言葉を待った。
「君だけは違う、絶対に。だから、頑張る必要なんてない」
「でも……」
鷹山は横たわったままで、華音と向き合うように体勢を変えた。彼の片腕がもどかしげに伸ばされ、華音の外側の肩にかけられる。
そして、今度は優しく肩が引き寄せられていき、やがて華音は慈しみ包み込まれるようにして、鷹山の胸へ抱き止められた。
「僕のことを愛して欲しいんだ」
「うん」
「僕は君に、愛されたいだけなんだ」
先程までとはまるで人が変わってしまったかのように、鷹山の声は深くそして優しかった。
「おやすみ、芹沢さん」
幼い子供が母親に甘えるように、鷹山はやんわりと身体にまとわりつく。
華音は、足のところで乱れていた掛布を、腕を伸ばし上手く引っ張り上げ、二人はそれに包まった。
その後、鷹山は枕元に設置されているルームランプのスイッチをオフにした。
一気に、暗闇が襲いくる。
「君がまたこうやって、僕の手の届くところで眠るなんて、ホント夢のようだ」
鷹山の声が華音の耳元で響いた。
また、こうやって――――また。