奈落の章 (7)  その花の名は

 鷹山と仲違いをしてからというもの、彼が芹沢邸に帰宅してくることが大幅に減ってしまった。
 芹響の本拠地である専用ホールの楽屋棟には、シャワー室や仮眠室などが完備されている。鷹山は、仕事が多忙だということにかこつけて、ホールへ泊り込んでいる。
 華音が学校に出かけてから、着替えをしに芹沢邸へ戻ってきているらしいが、それはあくまで執事の乾から伝え聞いた話で、華音が実際に鷹山と遭遇することはなかった。
 もう、かれこれ二週間になる。

【いいか百本だ。全部揃うまで僕の前に顔を出すな――】

 鷹山から出された指示は「企画書百本」である。
 一日三本ずつ考えたとしても、ひと月以上かかってしまうほどの膨大な量だ。

 しかし、思ったように作業ははかどらなかった。
 一日いっぱい、企画書作りに時間を割くわけにもいかない。日中は学校がある。普段鷹山のそばでバイトをしていた時間を充てても、せいぜい三、四時間といったところだ。
 その結果。
 二週間を過ぎて、作った企画書はいまだ二十五本あまり。予定のペースを完全にオーバーしてしまっている。
 このままでは、二ヶ月はかかってしまうだろう。

 一緒にいることがなければ、ケンカをすることもない。
 だから、とても気楽――ではある。
 しかし、鷹山のいない毎日は、モノクロ写真のようにまるで彩りがなく、とても空虚なものだった。

 彼の声が聞きたい。
 鷹山の感触が、恋しい。

 どうしてこんなにも彼の過去に嫉妬してしまうのか――華音自身、よく分からなかった。
 彼は自分よりも八つも年上で、立派な大人の男性なのだから、過去に一人や二人、そのような相手がいてもおかしくはないのである。
 いや、それは違う。
 話を聞くだけならまだよかったのだ。
 実際にその、過去の恋愛遍歴が目の前に現れたからこそ、華音は動揺してしまったのである。

 二人が言葉を交わす。以前そうしていたように。
 二人が見つめ合う。以前そうしていたように。

 そして。

 ――私にはないものを、あの人は持ってる。

 早くしないと、本当に鷹山を奪われてしまう――そんな妄想が華音を苦しめていく。


 その一方で。
 華音は、体調を崩して入院している富士川のことが、とても気がかりとなっていた。
 鷹山に距離を置かれている今なら、彼の目を盗んでまた富士川の見舞いに出かけることもできる。今度はオーナー赤城の手助けは要らない。
 しかし、これ以上、鷹山に嘘をつき通せる自信はなかった。

 今、自分ができること。自分がしなければならないこと。

 ――負けない。意地でも企画書百本作ってやる。

 華音は自室の机に向かい、紙とペンを目の前にして、気合いを入れ直した。
 とにかく、あの悪魔な音楽監督のよく喋る口を、何としてでも黙らせてやりたい。その一心である。
 鷹山はおそらく、華音ができないと音を上げて謝ってくるのを、ひたすら待っているに違いない。
 だからこそ、こうやって無理難題をわざと押しつけたのだ。

 諦めたくない。彼に認めさせたい。
 自分のことを認めて欲しい――ただそれだけだ。

 百本。気の遠くなるような数だ。二十五本を考えただけで、華音の持っている案はすでに枯渇してしまっていた。
 演奏会の構成は、ある程度パターンが決まっている。
 もちろん、従来にはない新しい演奏スタイルというものも、鷹山は決して否定しないだろうが――それでも、そう簡単に何本も企画が思いつくものではない。

 ――どうしよう……あと七十五本もあるし――あ、そうだ。

 華音は、突如ひらめいた。
 今まで気づかなかったほうがどうかしている。

 ――過去の演奏会の記録を、写しちゃえばいいんだ。

 クラシック音楽というものは、何も新曲ばかりを演奏するわけではないのである。愛好者を唸らせる馴染みのある定番曲というものが、多数存在する。
 つまり。
 同じ曲を何度も採り上げても、問題はないのである。
 今回のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲にしても、おととし富士川がソロで演奏をしたことを聞いて、鷹山は別に構わないと答えていたのだ。
 方法は、それしか残されていない。
 華音は思い立ってすぐに、祖父の書斎へと向かった。



 日は流れ、世間はゴールデンウィーク真っ只中という時節となった。
 華音は出かける予定もなく、ただひたすら企画書作りに没頭していた。
 そして、誕生日当日の朝を迎えた。
 華音はいつものように朝食を摂るため、自室のある二階から一階の食堂へと向かった。
 その途中、なんと――。
 階段の降り口のところで、華音は反対側からやってきた鷹山と遭遇したのである。
 彼と顔を合わせるのは、実に三週間ぶりのことだった。
 鷹山はきっちりとスーツに身を包み、身なりを完璧に整えている。これからすぐに出かけるらしい。
 鷹山は、華音に一瞥をくれただけで、声もかけずに先に階段を降りていこうとした。
「鷹山さん――」
 華音の呼び止める声に、鷹山は階段を降りる足を一度止めた。しかし、そこから振り返ろうとはしない。
 華音は勇気を振り絞って、鷹山の背中に向かって言った。
「企画書ができたので、あとでホールへ持っていきます。打ち合わせの邪魔、したりしませんから」
 しかし。
 鷹山は肯定も否定もせず、ひたすら無視を決め込んで、再び階段を降りていってしまった。

 ――まだ駄目? これでも許してくれないの?


 誕生日の朝から、華音は深いため息をついていた。
 ひと月前には、あんなに嬉しそうに抱き締め、当然のようにキスをして、一緒に旅行へ行こうなどと少年のようにはしゃいでいたのに――そのときのことを思い出すと、現状があまりに惨めで、いくらため息をついても足りない。
 食堂で一人遅い朝食を食べていると、給仕をしていた執事の乾が、華音に奇妙なことを問いかけてきた。
「何か、お気づきになりませんか?」
 目の前に、特に変わったところは見受けられない。華音が首を傾げると、乾は穏やかな笑顔を見せ、オムレツの皿の奥に置かれたデザート用の小皿を指し示した。
 小皿の上には、バニラの風味豊かなケーキが一切れ載っている。
 確かに、朝食のテーブルにケーキが載るのは滅多にないことだが――毎年家族の誕生日には、家政婦が気をきかせて、このような特別メニューを出してくれていた。そのため、目の前の風景は『いつもの誕生日の食卓』としか、華音の目には映らなかったのである。
「こちらは、楽人坊ちゃまからですよ」
 執事の言葉に、華音は思わず目を瞠った。
 本人のいる前では『鷹山様』という呼称を使用する乾が、どこまでも嬉しそうにして華音に説明を始める。
「家政婦に言いつけると申し上げたのですが、ご自分でどうしても切り分けて差し上げたいと。多少端が崩れているのはご愛嬌ということで」
 言われてよくよく見ると、乾の言うとおり、断面はお世辞にも美しいと言える状態ではなかった。ホールのケーキの上に載っていたであろうイチゴやオレンジやキウイフルーツが、クリームやムースにまみれて無理矢理添えられている状態である。遠目に彩りは美しいが――。
 華音は可笑しくてしょうがなかった。
 自分で大きなバースデーケーキを買ってきて、華音に食べさせようと慣れない手つきでナイフを振るう――そんな鷹山の姿を想像しただけで、例えようもない嬉しさがどんどん込み上げてくる。
 先ほど階段で出くわしたときには、すでにこのケーキを切り分けたあとだったのだろう。
 そうでなければ、いくらケンカして気まずい状態が長く続いているとはいえ、もともと饒舌で雄弁な彼が久々に顔を合わせて、何も言わずにすませられるはずがないのである。
 あれは天邪鬼な彼の、精一杯の虚勢だったのだ、おそらく。

 ――可笑しい。可笑しすぎる。

「こういうところは、本当に卓人様とそっくりでいらっしゃるんですよね」
 ため息ばかりついていた華音が途端に顔をほころばせたのを見て、乾は満足げに頷き、慈しむような眼差しで華音を見つめた。
 昔と今を重ねて、執事は懐かしい記憶に思いを馳せている。
「たった二人きりのご兄妹ですから――華音様のことは何よりも大切なんですよ」
 執事の穏やかなその言葉が、鋭い刃となって華音の胸の真ん中を突き刺した。

 兄――あの男は自分の、兄。
 同じ父と母を持つ、たった一人の兄。だから、何よりも大切。
 嘘。
 そんな記憶は、どこにもない。
 自分には、父も母もいない。
 祖父と祖母と、一人の青年と――。

「もうじき、華音様にお客様がお見えになられますよ」
 何も知らずに淡々と給仕を続けている乾の声に、華音はようやく我に返った。
「お客? 私に?」
「ええ。華音様がお出迎えになられたほうが、よろしいかと思います」
 乾は楽しそうに笑っている。そして、壁掛け時計を目をやり時刻を確認すると、再び華音を促した。
「さあ、ともに玄関へ参りましょう。時間には正確な方ですから――」


 玄関の重厚な扉を開けた先に、長身の青年が一人たたずんでいた。
 何が起こっているのか、華音にはすぐに認識できなかった。
「嘘……祥ちゃん?」
「お誕生日、おめでとう」
 華音は驚きを隠せずに、ひたすら瞬きを繰り返す。
「退院したの? いつ? 具合は大丈夫なの?」
「華音ちゃん。俺のことより、まずは『おめでとう』の返事が聞きたいかな」
「だって……」
「今日で十七歳だね、本当におめでとう」
 華音はいつもそうしてきたように、富士川に抱きついた。
 そして富士川も、慣れたように華音の身体を優しく包み込む。
「さあ富士川様、どうぞ中へ」
 華音の背後に控えていた乾が、懐かしい来客を手馴れたように招き入れた。
「お気遣いありがとうございます。でも――」
「鷹山様は遅くまでお仕事の予定ですから、心配ございませんよ」
 二人の弟子が決して友好的ではないことを、乾はちゃんと心得ている。どちらか一方に肩入れすることもなく、平等に丁寧な対応ができるのは、執事としてのプロフェッショナル意識の表れであろう。
 それに対し、富士川はいまだ困ったような顔を乾に向けている。
「いいえ。家主の留守中に、赤の他人が勝手に上がり込むわけにはいきませんので」
「赤の他人だなんて、旦那様の一番弟子であられる方が、そんな滅相もないことを」
 しかし、富士川は頑なに乾の勧めを受け入れようとはしなかった。
 家主の留守中に――それは富士川が、敬愛する師と不敬不遜な二番弟子との関係を知ってしまったからこそ、発せられる言葉。
「庭先で結構ですよ。晴れていて春風も心地いいですし――華音ちゃんさえ良ければ」


 二人は連れ立って、のんびりと中庭の芝の上を歩き始めた。
 富士川はおもむろに華音に尋ねた。
「仕事って?」
「え?」
「仕事なら一緒に行動するんじゃないのかな、と思って。別に探りを入れようと思ってるわけじゃないよ。企業秘密なら言わなくてもいいから」
 その言葉に嘘偽りがないことは、華音には分かる。
 芹響を退団し別の団体に所属しているとはいえ、現在は企画運営にまで携わるような仕事をしているわけではない。
「鷹山さん、元カノとデートだって」
「元カノ? へえ……」
 華音の答えを、富士川は複雑な表情をしながら聞いている。その言葉の持つ微妙な雰囲気を、読み取っているからに違いない。
 華音は構わず続けた。
「今度その人、うちの演奏会に客演することが決まったから、今日はその打ち合わせ。祥ちゃんの知ってる人だよ」
「俺の知ってる人?」
「羽賀真琴」
「羽賀?」
 富士川が珍しく驚嘆の声を上げてみせた。
「しかも、チャイコフスキーをやるんだって」
「そうなんだ……鷹山と羽賀が、ね」
 富士川にとって、二人の関係はかなり意外な事実だったらしい。
「それって、ヤキモチ?」
「ん? どうして?」
「だって、羽賀さんは祥ちゃんのことが好きだったんじゃないの?」
「鷹山に獲られてヤキモチって? ハハハ、ないよそんなの」
 やはり。
 きっぱりと否定されて、どこか安心している自分がいる。

 いったい自分はどうしたいのだろう。
 何を言いたいのだろう。

 芹沢邸の中庭の真ん中に、大きな樫の木がある。二人が樫の木の辺りへ辿り着くと、華音は立ち止まった。
 どこを目指しているわけでもない。富士川もつられるようにして歩くのを止め、樫の幹にその背を預けて、大きく深呼吸した。
 大きく伸び広がった枝葉が、日除けの代わりにちょうどいい。
「ここへ来るとなんだか落ち着くな。芹沢先生の音楽があふれている」
 ほんの一年前までは、これが当たり前のことだったのだ。
 目を瞑ると、今でも鮮明に情景が浮かび上がってくる。

 富士川は遠い日の記憶を呼び起こすように、ゆっくりと空を見上げた。
「初めっから芹沢先生に反抗的だったんだ、鷹山は」
 退院して間もない幾分やつれた頬に、柔らかな日の光が差している。
 華音は黙って、富士川の話に耳を傾けていた。
「当時中学生だったとはいえ、あまりにも口の聞き方がなっていなくて、見るに見かねて俺が注意をしたら、『何も知らないくせにいい気になるな』と返された」
 富士川が鷹山との過去を口にするのは、華音の記憶ではこれが初めてだった。
 淡々とした言葉が、風にのって華音の耳へと届く。
「『俺は兄弟子だから、君よりは音楽を知ってる』って、俺はそう答えた。でも、そういうことじゃなかったんだな。あのときの言葉の意味が、十年経って、ようやく分かった」

 ――『何も知らないくせにいい気になるな』……か。

「華音ちゃん、俺はこれでも芹沢の家に長く世話になっていたから、いろいろなことが分かるんだよ。華音ちゃんに兄弟がいて、どうして一緒に育てられなかったのか――理由を聞かなくても、想像はつく」
 芹沢夫人は生前、華音の母親である女性の悪口を言い続けていた。当然そのことは、富士川もよく知っている。
 華音が父親の卓人によく似ているということも、夫人や高野和久から聞かされ、知っている。
 そして、まったく似ていない『兄』と『妹』。
 いろいろな事実を一つ一つパズルのように繋ぎ合わせていくと、やがて大きな真実へと辿り着く。
「だから鷹山は、芹沢先生や俺が憎いんだろうな。ようやく納得がいったよ。真実を教えてくれた赤城さんには感謝してる」
「祥ちゃん……」
 そこには、怒りも憎しみもない。
 もう、二番弟子に対する複雑な思いは、富士川の中で色褪せてしまっている。
 同時に、彼の一番弟子としての威信とプライドも、すでに失われてしまったようだった。
 それは、華音がもっとも怖れていたこと――。
「今年も綺麗に咲いたね」
「え?」
「芹沢先生の奥様が、とても気に入ってた花――」
 富士川の横顔――その視線の先を辿ると、手入れの行き届いた花壇に、白とピンクの花が咲き乱れているのが見えた。
「華音ちゃんのお父さんも好きだったんだって、奥様はよく俺に言ってたよ」
「そう……みたいだね」
「華音ちゃんも奥様から聞いてた?」
 違う。
 鷹山がそう言っていたのだ。
 自分の死んだ父親が好きだった花は、その『アルストロメリア』であると――。

 怖い。
 繋がっていく。
 どんどん鷹山が、近しくなっていく。

「鷹山はちゃんと優しくしてくれてる?」
 富士川は真っ直ぐに華音を見下ろしてくる。
 すべてを知って、なお。
「軽蔑……しないの? だって、鷹山さんは私の――」
 突然、華音の言葉は遮られた。
 気づくと、華音は富士川の胸の中にしっかりと抱き止められていた。
 懐かしい感触に、崩れ落ちそうになる。
「祥ちゃん、私」
「三分いや、一分でいい――」
 もう、自分たちの関係は変わってしまった。
 抱きすくめる富士川の腕の感触が、以前のそれとはまったく異なっていることに、華音は気づいていた。
「俺は本当に、華音ちゃんが幸せならそれでいいんだ」
 ほのかに甘い花の香りが、辺りに漂っている。
 花の名は、アルストロメリア。
「どんなときでも、どんなことがあっても、俺は華音ちゃんの味方だよ」

 どうしても振り解けない、この腕を。
 この人はいったい自分の何なのだろう。
 この人は何故、自分のすべてを許してくれるのだろう。
 彼の声が聞こえる。こんなにも近くで。

 そうなってくれたらいいのに、と――。