奈落の章 (3−11)  無償の愛を君に

 華音は芹響のホールの楽屋口から、逃げるようにして外へと飛び出した。
 耳の中に、ガラスの割れるような派手な音の残響がある。
 鏡やカップだけではない。すべてを壊してしまった。
 彼の信頼も、彼からの愛情も、すべて――。

「待ちたまえ」
 よく聞き覚えのある男の声に、華音は思わずその場で足を止め、とっさに声がしたほうを振り返った。
 駐車場の隅に、磨き上げられたBMWが停まっていた。その運転席側のドアにもたれかかるようにして、三つ揃えのスーツに身を包んだ大男が、まるで高みの見物をしているかのように悠然と立っているのが見えた。
 オーナーの赤城は華音の前に進み出ると、観察するように華音の全身を眺め回した。
「その様子だと、私の出した条件は、半分は――クリアできたようだな」
 制服のシャツには、先程の惨劇の痕跡であるコーヒーの染みがいくつかできている。そして、恐怖のあまり強ばってしまっている華音の表情がすべてを物語り、多くの説明をする必要はなかった。
「辛かっただろう。よく、頑張ったな」
 赤城は理解ある大人の男を装い、あくまでさらりと言ってのける。
 華音はとっさに身構え、大男を睨みつけるようにして見上げた。
「……赤城さんの、せいなんだから。全部、赤城さんのせい」
「君のためなら、いくらでも憎まれ役を買って出よう」
 こんなことが、どうして自分のためになるのか――華音には到底理解できないことだった。
「約束は……約束はちゃんと、守ってください」
 震える声を押し殺すようにして、華音はオーナーの赤城に念を押した。
 鬱々とした空気が、二人の間を流れていく。
 つかの間の沈黙のあと、赤城はゆっくりと口を開いた。
「それは――残りの条件も受け入れたら、の話だ」
 華音は渇ききった喉を潤すように、ごくりと唾を飲み込んだ。
 もう、逆らえる立場ではないのだ――華音は観念し、静かに頷いた。
「では、しかるべきところまで送っていこう。さあ、乗りたまえ」
 赤城は、愛車BMWの助手席に華音を促し、自身も颯爽と運転席に乗り込んだ。


 車はゆっくりと動き出す。いつもながらに慎重で丁寧な運転ぶりだ。
「どちらにするか、決めたか?」
 運転席の赤城は、ハンドルを握りながら淡々と尋ねてくる。

【行き先は和久か富士川君か、二人のどちらかを選ぶがいい】

 赤城が以前出した『もう一つの条件』を、華音はぼんやりと思い出した。
 しかし、この大男の思惑は、すでに読めている。
「どちらか、なんて、初めから選択する余地なんてないくせに」
 華音が呟くようにそう言うと、赤城は図星を指されて途惑ったのか―― 一瞬、言葉を詰まらせた。
 そして、今度は慎重に言葉を選んで、傍らの少女を説得しようと試みてくる。
「……まあ、確かに今の和久では、家族水入らずの生活にそれこそ水を差す話となってしまうだろうがね。どちらかを選べとは言ったが、芹沢君さえ良ければ、私のマンションへ来てくれても構わない――――が、しかし、さすがにそれでは、鷹山君も納得するまい」
「……」
 赤城は、自分の問いかけに応じようとしない華音を横目に、軽くため息をついた。そして、その頑ななまでの厳しい態度を、わずかずつ軟化させていく。
「何をそんなに困ることがある? 富士川君では不満か?」
 やはり赤城は、華音の思惑通りの言葉を告げた。
 一時的に身を寄せる場所として、富士川祥はもっとも自然な人物だと、そう赤城は認識しているようだ。
 もちろん、華音にとって、その認識はおそらく正しい。
 だが、しかし。
「だって、私が祥ちゃんのお見舞いに行ったって聞いただけで、鷹山さん、あんなになっちゃうのに……」
 華音は、つい先程の音楽監督室での惨状を思い出し、再び身を強ばらせた。
「君の『お兄さん』が、どうなるって?」
 赤城は特定の単語を強調し、吐き捨てるように冷たく言い放った。そして、さらに続ける。
「彼が君のことを、本当に愛していると思っているのか?」
「思ってます」
「フン、君の過去を受け入れられない鷹山君に、『愛』を語る資格などない」
「……赤城さんは、鷹山さんのことが嫌いなんですか?」
 華音がそう尋ねると、赤城はどこか呆れたようにして、これ見よがしにため息をついてみせた。
「君は本当に子供だな。嫌いな人間と仕事を続けるほど、私は暇ではないのだが」
 その言葉が本当か嘘か、今の華音には到底判断がつかない。
 華音は、赤城の運転するBMWの助手席で、再び口を閉ざした。
 赤城も黙ったままハンドルを捌き、目的地に向かって慣れた風景の道をひたすら進んでいく。
「私はね、彼を狂わせた原因は――君にあると思っている」
 意味が分からない。
 すべてが狂ったのは、十五年前の出来事のはずだ。
 その原因が、自分にある――そんなことを言われても。
 華音は動揺を隠せずに、助手席で身を強ばらせたまま、視線だけを運転する大男に向けた。
「私たちが、二度目に出会ったときのことを、君は覚えているか?」
 華音は赤城に言われるがままに、記憶の糸をたぐり寄せる。

 初めて出会ったのは、祖父の告別式。
 雨の降りしきる中、セレモニーホールの受付へ突然姿を現した。

 そして二度目は、富士川が退団した直後だった。
 高野に連れられて、鷹山と一緒にスポンサーの契約交渉をしに、赤城エンタープライズまで出向いたときだ。

 このときはまだ、鷹山のことは祖父の二番弟子というだけで、とにかく横柄で辛辣な物言いをする男、という印象しかなかった。
「君はあのとき、鷹山君のことを『要らない』と言った。血の繋がっているだけの他人なんかいまさら要らない――と、彼のいる前でね」
「だって、あのときは……知らなかったから」
「狂いたくもなるだろう。たった一人の妹に、その存在を否定されたのだからな」

 富士川を失った悲しみがあまりにも大きくて。
 だから華音はその夜、彼の腕を果物ナイフで傷つけ、そして――。

 歯車が狂ってしまった。

「しかし、彼は君の兄である記憶を捨てられない。あの家にいたらなおのこと」
 知らなかったのだ。
 何も、知らされていなかったのだ。
 だから自分は――。
「彼は君の実の兄であることはずっと隠しておきたかったんだろう。十五年前の出来事を、君にまで背負わせたくはなかっただろうし。富士川君が去ったあとの芹響を支えようと、ウィーンでの生活を捨てて日本へ戻ったのは、他でもない、君のためだ」
 赤城はいつになく穏やかな口調で、華音に語りかけてくる。
 真っ直ぐな言葉が、砂漠に降り注ぐ雨のように、どんどんと胸に染み込んでいく。
「鷹山君は最初、随分君に辛く当たっていた。でもそれは、君のことを嫌ってそうしていたわけではない。祖父の英輔氏が亡くなって、富士川君がいなくなったら、当然芹響には君の居場所はどこにもなかった。それを鷹山君があらゆる雑用をさせ、演奏会の企画を考えさせて、ステージマネジメントをこなす音楽監督の片腕としてここまで育ててきた」
 赤城の言うとおりだ。
 自分は本当に弱く、そして甘かった。一人では何もできず、守られているのが当たり前だと思っていた。
「その部分については、私は彼の采配手腕を評価している。確実に君は変わった。何一つできないお嬢さんだった君が、今では私のところへ単身で乗り込んでくることもあるくらいだからね」
 それは富士川にも言われたことがある。
 鷹山に怒鳴られるのが嫌だから――最初はそれが理由だった。一方的に怒鳴られるのが悔しくて、必死に雑用をこなしていき、やがて彼に必要とされていると実感できる頃には、楽団のメンバーたちとも一通り対等に話ができるようになっていた。
 確かに自分は変わった。
 そう、それはすべて鷹山のお陰なのである。
 もし富士川が、あのとき楽団を辞めずに祖父の跡を引き継いでいたなら、どうなっていただろうか。少なくとも、現在のように楽団と繋がりを持つことはなかったはずだ。

 あのとき、鷹山が目の前に現れなかったら――。

 華音は首を横に振った。
 過去に『もしも』などという問いかけは無意味である。
 いま目の前に置かれている状況がすべてなのだから。
「鷹山君が妹としての君に執着する気持ちは分からなくもない。私にだって兄弟はいる。仲はすこぶる悪いがね。しかし、心配は心配だ。それが兄弟というものだろう」
 華音はもう何も言うことができずに、ただ赤城の説明に耳を傾けていた。
「君は知らなさ過ぎるんだ。だからこうなる。君はご両親のことをもっと知るべきだ。十五年前のことだけではなく、その前のことからね。ずっと君の祖父母が教えたがらなかったことを、もっともっと知っていくべきだ。それが、鷹山君を救う手助けとなるかもしれない」
「鷹山さんを……救う?」
「私は以前、君が、君自身の手で、二人の弟子を引き寄せろ、と言った。まだ、覚えているか?」
「……言われたことは、覚えてますけど」
「どちらかを選ぶことはできない。君自身が引き裂かれて壊れることになる。富士川君と鷹山君、二人の距離が広がるほど、君は苦しむ。そうだろう?」
「赤城さん……」
「君が引き寄せられないのであれば、彼らがお互いの存在を受け入れて歩み寄るしかない。しかし、鷹山君にはそれができないんだよ。君が苦しむことになると分かっていても!」
 恐らく、赤城の言うことは正しいのだろう。
「はたして、富士川君はどうだろうね。少なくとも、自分の思いを優先させて君を犠牲にしたりはしないだろう。それが――富士川君と鷹山君の決定的な違いだと、私は思うがね」
 赤城は淡々と持論を展開していく。そこに迷いはない。
 そのときである。
 BMWの車内に、携帯の着信音が響きわたった。
 運転中の赤城は、ホルダーに固定されていたそのディスプレイに表示された名前を確認すると、路肩に車を寄せてゆるやかに停車させた。そして、スピーカーをオンにして、華音にもその通話内容がわざと聞こえるようにした。
 よく知った男の、感情を押し殺したような声が聞こえてくる。
『あなたの仕業ですね?』
 華音の心臓が縮み上がった。彼だ。
「仕業? 人聞きの悪いことを言うのは止めたまえ。すべて、彼女とは合意の上だ」
『意味が分かりません。あなたはいったい彼女に何を?』
 赤城は唇の前に人差し指を立てる仕草をして、華音に目配せをしてくる。声を出すな、と言うことらしい。
 赤城はそのまま会話を続けていく。
「君が音楽監督として居続ける条件として、君たち二人の同居を解消してもらうことを提示した――ただそれだけだが?」
『何を馬鹿な……あなたにそこまで口出しされる筋合いはないと、前にも申し上げたはずでしたが?』
「節操なく女性と関係を持ったりするようなスキャンダラスな人間は必要ないと、そう言っている。ましてや未成年相手など言語道断だ!」
『ハッ、そんな証拠がどこにあると言うんです? あなたが勝手に妄想を膨らませているだけでしょう? とにかく! 芹沢さんは僕のアシスタントですよ。許可なく勝手に連れ出すのは止めていただけますか。早急にホールまで戻ってください』
「君の指図は受けない。しばらくの間、芹沢君を然るべきところに預けることにした」
『ふざけるのもいい加減にしてください。彼女に手を出したら、けっしてタダではすまされませんよ?』
「ハッ、見損なわないでくれたまえ。私は君とは違う。力ずくで奪い返しに来るか? この私のところまで。そのときは、音楽監督の辞任を覚悟してから来るがいい。君の後釜は兄弟子で決まりだ」
「赤城さん、止めて!」
 堪えきれずに、華音は声を出してしまった。しかし、赤城はまったく耳を貸さず、あくまでビジネスライクに淡々と告げる。
「君は音楽監督の責務を果たすことにだけ、専念してくれればいい。私からは以上だ」
 赤城は言いたいことを言ってしまうと、そのまま通話を切ってしまった。


 程なくして、BMWはよく見知った白亜のマンションの前へとやってきた。
「さあ、到着だ」
 赤城に促されるも、華音は黙ったまま助手席のシートで身を強ばらせていた。
「どうした? ここまで来て、気が変わったか?」 
 華音は力なく首を横に振った。
 ある程度、話はついているのだろう。しかし、富士川が歓迎して受け入れるとは限らない。
 しかし、ここまで来たら後戻りはできない。
 華音は車を降りて赤城と別れると、一人でマンション内へと入った。
 部屋の前で数分迷った挙げ句、華音はようやく意を決してインターホンを押した。
 部屋の主は、すぐに目の前に現れた。
 開いたドアの間から、すらりとした長身の男が立っているのが見えた。
「祥ちゃん……あの……私」
「それ以上、何も言わなくていいから。さあ、どうぞ」
 赤城がすでに手を回してくれていたのだろう。富士川にはすべての事情がすでに飲み込めているようだった。
 華音は促されるがままに部屋の中へと入り、ベッドの上に腰掛けた。
 相変わらずきれいに整頓されていて、どことなく殺風景だ。しかしその変わらぬ無機感が、逆に心地よかった。
「でも、あの……私がここにきたら、祥ちゃんに迷惑がかかっちゃうし」
「迷惑なもんか。俺さ、華音ちゃんの面倒みるのは、ヴァイオリンよりも得意だから。炊事洗濯掃除のことは気にしなくても、全部俺がやるし」
「そんなこと言ったって……鷹山さんが許してくれるはずないもん」
「鷹山の許しは必要ないから。別に俺が芹響に戻るわけじゃない。その身ひとつで、俺のところにおいで」
 富士川はつかず離れずの距離を保って、華音と向かい合うようにして両膝をついた。
 目線の高さが合う。
 富士川青年がまっすぐと向き合おうとしてくれているのが、華音には分かった。
 その思いに、どう応えればいいのだろう――華音はある種の途惑いを覚えていた。
 どこまで話せばよいのか、それが分からない。
「あのね、私がここに来たのは、あの――」
「聞いてるよ。だから華音ちゃんはここで暮らして、芹響での鷹山のサポートは今までどおり続けたらいい」
「だってそんな……それじゃ駄目なの。私がそばにいたら、鷹山さんが……辞めさせられちゃう――」
「華音ちゃんが毎日ちゃんと俺の元に帰ってくれば、鷹山のサポートを続けたって大丈夫だよ。仕事は仕事だから。赤城という人もそれで納得するよ」
「納得なんかしないもん。赤城さんはそんな甘い人じゃない」
 華音は両頬を殴られた日のことを思い出した。
 闇雲に暴力を受けたわけではなかったが、華音はこれまで、あれほどまでの叱咤をされたことがなかった。
 鷹山と同居を続けることは、赤城がオーナーであるうちは不可能なのである。
 もう、普通の兄妹として、振る舞うことができない以上――物理的な距離を置くことでしか、赤城を納得させることはできない。
「大丈夫だよ。俺のそばにいれば、もう大丈夫だから」
 華音には、何故富士川がそのようなことを言っているのか、まったく理解できなかった。
「どうしてなの祥ちゃん? 赤城さんから私のことを預かれって、そう頼まれたからって、どうしてそんな」
「俺が無条件に華音ちゃんを受け入れることが、そんなにおかしい?」
「だって……祥ちゃんと私は」
 この男が肉親以上の存在であることは、華音も承知している。
 しかし、その微妙な歳の差ゆえに親子にも兄弟にもなりえず、また華音の祖父との厳格な師弟関係ゆえに容易く恋愛関係にも踏み込めず――祖父亡きあと、華音とこの一番弟子とは、繋がりと呼べる確かなものが何もない状況なのである。
 それなのに――何故。
 そんな華音の心の中を読み取ったかのように、富士川は優しく微笑んだ。
「俺たちはいったい、何をそんなにこだわっていたんだろうな」
「こ……だわる?」
「芹沢先生がお亡くなりになったからといって、俺と華音ちゃんの関係が崩れるなんてこと、絶対にあるはずがなかったのに」
 時計の針がゆっくりと逆回転し始める。
 二人が紡いできた優しい優しい時間が、どんどん巻き戻っていく。
「俺は、芹沢先生に命じられて華音ちゃんの面倒を見てきたわけじゃないから。もちろんきっかけはそうだったかもしれないけど、決して強制ではなかった――学費と生活費を出してもらっているせめてものお礼に、俺がすすんでやっていたことだし。それに――」
 富士川はそこでいったん言葉を止めた。どこか気恥ずかしそうな表情をして、眼鏡を持ち上げ直す。
 そして懸命に言葉を選び、目の前の少女にその想いをまっすぐに伝えた。
「それに、芹沢先生がお亡くなりになられた今となっては、俺にとって華音ちゃんは、たった一人の――かけがえのない『家族』だ。そうだろう? 華音ちゃん」

【はたして、富士川君はどうだろうね――】

【それが富士川君と鷹山君の決定的な違いだと、私は思うがね】

 崩れていく。
 魂が、震えていく。
 もう、自分自身の感情に抗うことができない。
「祥ちゃん」
「なに?」
「祥、ちゃん……」
 好きだとか嫌いだとか、血が繋がっているとかいないとか、そんなことはまるで関係のないことだったのである。
 目の前にいるこの青年こそが、自分のすべてを預けられる唯一無二の人間であることを、華音は改めて確認した。
 堪えきれなくなった想いが言葉となって、どんどんとあふれ出す。
「私、鷹山さんのことが好き」
「うん」
「本当に血の繋がったお兄ちゃんだと分かってても――好き」
「うん」
 そんな華音の歪んだ想いを、富士川はすべて淡々と受け止めていく。
「分かってるよ、私が鷹山さんのことそう思っちゃいけないんだって。赤城さんが怒るのは、私が人として間違ったことをしてるから――だからこんな」
 富士川は慣れたように華音の頬を撫でさすった。
 幼い頃から何度も何度も、そうされてきた。
「私、どうなっちゃうんだろう。本当に――――怖い」
 彼の親指が、華音の眼の下を優しくなぞっていく。
 その行動で、自分がいつの間にか涙を流していたことに、華音は気づいた。
「俺は、華音ちゃんが幸せならいいって、言った。でも、それは間違ってた」
「祥ちゃん……」
「華音ちゃんの幸せは、俺が守るよ。最後まで――」
 富士川のどこか憂いを含んだ眼差しは、まっすぐ華音の瞳をとらえていく。
 今まで感じたことのない複雑な感情が、二人の間を交錯しているのが、華音にはハッキリと分かった。