奈落の章 (12)前  風は囁く

 オーナーの赤城の命令によって、華音が鷹山と『別居』してから、早一週間という日々が過ぎようとしていた。
 
 広大な芹沢邸から比べたら、富士川が暮らすワンルームマンションはかなり手狭だ。
 ただ、ワンルームと言っても、大きな家具はほとんど置かれていないため、居住スペースはかなり広々としている。
 その証拠に、華音のために用意したベッドも、センターテーブルをはさんで、もともと置かれていた家主のベッドと反対側の壁際に、きちんと収まった。
 ウォークインクローゼットにも充分空きがあったため、富士川は少ない私物を片側に寄せて、華音の身の回りの物はすべてそこへ収納した。

 富士川と同じ部屋に寝泊まりすることの緊張感は、全くなかった。あるのは、昔のようにいつも一緒にいられる、という安心感だけだ。
 ゆるりと、時間は過ぎていく。
 一方の富士川青年は、それとは対照的に、華音との同居にかなり気を遣っているようだった。
 特に、お風呂や洗濯などの扱いには、かなり途惑っているらしい。
 今も洗濯機を前にして、別々のバスケットに分けた洗濯物をどうするべきか、富士川青年は真剣に悩んでいる。
 華音は首を傾げて、洗面所にたたずむ富士川の背中に向かって声をかける。
「お洗濯? 祥ちゃんと一緒でいいよ?」
「いや、一応、年頃の女の子なんだからさ……一緒っていうのは、さすがに、ちょっとアレかなって」
「うちに居候してたときは、家政婦さんのお手伝いしてお洗濯とかもしてたんでしょ? いまさら気にしなくても」
 実際、富士川が芹沢家を出て一人暮らしを始めたのは、音大を卒業した七年前のことだ。当時、華音はまだ小学校低学年だった。
「小さな子供の下着を洗うのとはわけが違うよ」
「ふうん? じゃあ、お洗濯は私がやる」
「駄目だよ、そんな。絶対に駄目」
「どうして?」
「華音ちゃんにそんな事させたら、芹沢先生に顔向けできないよ」
 眼鏡の奥の切れ長の目が、慈しむように穏やかに緩む。
 変わらない。何一つ。
 華音はゆっくりと瞳を閉じた。

 ――鷹山さんなら「そのくらい出来るだろ」って、そう言う、きっと。

 ――それか、「君がそう言うなら、特別にやってあげてもいい」かな。

 何故か、脳裏に浮かんでくるのは、綺麗な顔をした天邪鬼な男だ。
 どことなく物憂げで、毒舌でとにかくよく喋る、一筋縄ではいかない優しい悪魔。

【芹沢さん、コーヒー。濃い目で】

【君が早く来ないから、僕はカフェインが切れてしまって落ち着かないじゃないか。さあ、早く。早くしないとお仕置きするから】

 取り留めなく次から次へと、彼の声が華音の頭の中に浮かんでは消えていく。
 今頃どうしているだろう。準備していたコーヒー豆もそろそろ切れるころだ。
 華音がふと、そんなことを考えていた時――。
「そういえば、もうじき芹沢先生の一周忌だな……芹響で何かやったりしないの?」
 その声で、華音はようやく我に返った。
 富士川は洗濯機の前で、液体洗剤をキャップで計量しながら、華音に問いかけてくる。
「え……っと、分かんない。春先から私、あまり会議にも入れてもらえなくなってたし。でも……新しい団員もいるから、おじいちゃんがらみのイベントは、きっと考えてないと思う」
 そもそも、演奏会の企画の草案を考えているのは華音なのである。
 祖父がらみの企画を提案したところで、鷹山が採用するとは思えない。そのため、富士川に言われるまで、祖父の一周忌のことは頭の片隅にもなかった。
「あとで、乾さんに確認しておくよ。ひょっとしたら、奥様の七回忌と一緒にやられるのかな。確か、来月の半ばだったはずだから」
「おばあちゃんの七回忌……もうそんなに経つんだっけ。私、自分の家のこと、なんにも分かってないんだね」
 華音の口から、自虐的なため息が漏れる。
 洗濯機の操作を終えて、富士川はようやく部屋の中へと戻ってきた。
「そんなこと気にしてどうするの。華音ちゃんはまだ高校生なんだから、当たり前だよ。それを考えるのは俺の役目だから、華音ちゃんは心配しなくてもいい」
 本当に、変わらない。
 大丈夫。
 俺が何とかする。
 心配しなくていい。
 華音は富士川の言葉に素直にうなずいた。
「そうだ、明日からまた、学校帰りに芹響へ顔を出してくればいいよ」
「えっ?」
 富士川はあくまで淡々とした口調で、華音へ尋ねてくる。
「気になってるんだろう? 鷹山のことが」
「……うん。でも」
 華音が躊躇するのには理由があった。
「赤城オーナー……許してくれるかな?」
「大丈夫だよ。華音ちゃんがちゃんとここへ帰ってくれば、赤城さんは何も言わないよ」
 富士川は穏やかに微笑んで、華音の頭に手を載せ、優しくなでた。
「鷹山は『芹沢』の名前を背負って頑張ってくれてる――だろ? だったら華音ちゃんも、自分にできることを精一杯、頑張ってくればいい」
 この男は、華音のすべてを受け入れてくれている。
 歪んだ愛も、断ち切れぬ想いも、何もかも――。
「ありがとう、祥ちゃん。あとで、赤城オーナーに電話してみる」
 富士川は静かに頷いた。
 次の演奏会までは、すでに一週間を切っている。今から音楽監督のアシスタント業務復帰は厳しいだろうが、招待チケットやパンフレットの準備など、事務作業はたくさんある。
 オーナーの赤城も、それなら納得するのでは、華音は何となくそう思った。
「そういえば……もうすぐ、羽賀さんがパリから帰ってくるな……」
 華音は、『お土産、買ってきてあげるから楽しみにしてて』と言い残し、颯爽とパリへ旅立った、大胆不敵な美女の姿を思い出した。
 いよいよ、本番である。
 富士川は華音のおしゃべりに付き合うように、慣れたように相槌を打つ。
「ああ、例のチャイコフスキーか。しかし、よく羽賀は受けたな。あの手の叙情的な曲は、彼女には似合わないと思ったけど」

 それを聞いて、ふと。
 華音は、羽賀真琴が初めて本拠地ホールを訪れた時のことを思い出した。
 音楽監督室に通され、演奏会の曲目の話になったときに、鷹山も同じようなことを口にしていた。

【チャイコン? 君が?】

 いがみ合ってばかりいるようで、こと音楽性に関しては、富士川と鷹山はこうやって似通った考えを持っていたりもする。
 そのことを、真琴を通して知ることになるとは、心中複雑なのであるが――。

 華音は、付け加えるようにして富士川に説明をした。
「羽賀さん、自分からその曲指定してきたの。祥ちゃんが前にソロやった曲だから、自分もやりたい、って」
 富士川は驚きのあまりしばし瞬くのも忘れ――やがて、呆れ返ったように言った。
「……しょうがないやつだな。いったい何を考えてるんだか、まったく」
「祥ちゃんのことが好きだから、じゃないの?」
 華音のストレートな問いに、富士川は迷いなく即答した。
「異様に懐かれていたのは確かだけどさ。あんなに大っぴらに、ところ構わずキャーキャー言われ続けたら、もう諦めの境地というか、怒る気も失せるというか……」
 遠い昔のことを思い出したのか、富士川は空を見つめて、嘆息を漏らす。
「俺が大学出て、芹響に正式入団してからも――その頃羽賀はもう、世界コンクールの上位入賞を果たしてたほどの実力者だったんだよ。それなのに、俺を理由にアシスタントプレーヤーやるやる言って聞かないし、それで芹沢先生にもご迷惑をおかけしてしまったりして――もう、めちゃくちゃなんだよ、本当に」
 もちろんその言葉に嘘はないのだろうが、目をかけていた後輩であることには変わりないはずである。むしろ、先輩後輩としての確かな絆が存在するからこそ、あえて厳しいことを言っているのだ、そう華音は思った。
「羽賀は、昔っから自由奔放で、自分に正直なヤツだったよ」
 富士川青年なりの、真琴への誉め言葉なのだろう。
 なんだか分かる気がする――華音は妙に納得してしまった。



 様子見をしていたオーナーの赤城からようやくアルバイト再開の許可を取りつけると、華音は久しぶりに芹響の本拠地ホールへとやってきた。

 休んでいる間は、コンサートマスターの美濃部とだけは、事務上必要なやり取りを電話で何度かしていた。
 鷹山が、用事のすべてをあかりに頼むようになった、ということ。ただ、コーヒーだけは自分で淹れているらしいというのを、華音は監督室に出入りする美濃部から聞いた。

 まずは、管理棟にある事務室へと足を向けると、その途中にある休憩スペースで、さっそくヴィオラの若手団員と遭遇した。
 安西青年は、愛器のヴィオラを自身が腰掛けるベンチの側に置いて、悠然と缶コーヒーを飲んでいた。
「…………華音サン? お久しぶりー」
 華音の姿をとらえ、安西青年はいつになく驚いた表情を見せた。しかしすぐに脱力し、黙々とコーヒーをすすり出す。
「ホントにお久しぶりです、安西さん。ようやく今日からバイト復活したので、またよろしくお願いします。といっても、やることはほとんどないんですけど」
 そこまで説明をして、ふと、華音は壁掛け時計に視線をやった。
 時計の針は、十五時半を指している。
「あれ……安西さん、合わせの練習は? 十六時まででしたよね?」
 安西青年は、手にしていた缶コーヒーを一気に飲み干した。ふうと軽く息をつき、華音の問いに答える。 
「最近はもう、スケジュールなんて、あってないようなものだからさー」
「え……どういうことですか?」
「時間通りに始まらないくらいならまだいいほうで……突然前倒しで始まって、メンバーが集まってなければ暗雲ならぬ雷雲が立ち込めて、巨大な雷をいくつも落として、そのあとの予定をすべてキャンセルとか、まあ、華音さんが来なくなってからは毎日そんな感じー」
 華音は言葉を失った。
 安西青年特有の軽い物言いが、逆に事の深刻さを感じさせる。もはや、驚嘆という名の深い深いため息しか出てこない。
 華音の心の内を見透かすように、安西青年はさらに続ける。
「荒れ狂う監督にさー、もう誰も手がつけられないんだって。唯一、藤堂サンが必死に説得してるみたいだけど、そこはやっぱり、華音サンじゃないと上手く転がせないっていうか」
 ずきりと、胸が痛む。
 鷹山と藤堂あかりのやりとりが、極めて鮮明に、華音の脳裏に浮かび上がる。
「でも、元はといえば華音サンが、元彼を選んで監督のコト振っちゃったからなんでしょ」
「祥ちゃんは、元彼とかそういうのじゃないです」
「違うの? 古くからいる人はみんなそう言ってたんだけどなー。元のさやに収まった――って。だって華音サン、監督を置いて芹沢邸から出て、いまは兄弟子サンと一緒に暮らしてるんでしょ?」
「祥ちゃんはもともと一緒に住んでたこともあったし、家族みたいなものなの。鷹山さんと同じ家にいるのよりも、自然というか……」
 華音がその場を取り繕うように、そう言うと。
 安西青年は手にしていたコーヒーの空き缶を、リサイクル用のゴミ箱めがけて投げ入れた。空き缶は派手な音をたてて、きちんと箱の中へと収まる。
 そして、これまで見たことのないような厳しい表情をして、何かを振り払うかのように首を横に振り、大きなため息をつくと、突き刺すような眼差しで華音を見据えた。
「もうドロッドロ。まあ、華音サンひとりのせいとは言わないけどさ。でも、ただでさえ監督は、兄弟子サンとは犬猿の仲なんでしょ? 何があったか知らないけど、乗り換えたらこうなることくらい、華音サンでも予想ついたんじゃないの?」
 普段は飄々としている安西青年の、いつになく強い口調に押され、華音はわずかにたじろいだ。
「……乗り換えた、って……そんな。だって、鷹山さんのために、こうするしか」
 華音はそこまで口にして、続く言葉を飲み込んだ。
 ただでさえ噂好きで、口の軽い安西青年に話しては、尾ひれがついてすぐに広まってしまう――そう、警戒したのもつかの間。
 安西青年は、いつものように茶化したりすることも、好奇心に任せて追及してくることもせず、言い淀んだ華音の表情をじっと観察するように見つめている。
 二人の目と目が、しっかりと合い、そして。
「監督のため、なんだ」
「……うん」
 華音は素直に答える。
「そっか」
「うん」
「それ聞いて安心した」
 意外な言葉だった。
 驚きの表情を見せる華音をよそに、安西青年はまたいつものような飄々とした口調に戻って、さらりと言う。
「俺、兄弟子サンのこと、知らないから。最近さ、その『富士川派』? っていう団員の人たちが、鷹山監督のことを腫れものを触るかのようにしてるの、正直、面白くないんだよね」
「安西さん……」
「監督には、華音サンが必要だと思うな」
 そう言って安西青年は、ベンチから立ち上がっると、ヴィオラを再び携え、自主練習のためリハーサル室のほうへ歩き去っていく。

 華音は立ちすくんだまま、若き楽団員の後姿を見送っていた。
 そしてようやく心を決めると、鷹山がいるであろう楽屋棟四階の音楽監督室へと向かって、ゆっくりと歩き出した。