懺悔の章 (2)  夢か幻か現実か 《夢》

 華音は手にしていたカギを差し込み、解錠された音を耳で確認した。マンション特有のスチール製の重厚なドアをゆっくり開けると、中からは暖かい空気が流れて優しく頬を撫でてていく。
 同居人はすでに帰宅しているようだ。
 広すぎない玄関。わずか数歩進むと、キッチンと一続きになったリビングへとつながる、柔らかな木目調のドアがある。

 華音はコートのボタンを一つずつ外しながら、リビングへと進んだ。
「祥ちゃん、ただいまー」
 いい香りがする。
 ビーフコンソメスープだろうか。暖められた濃厚な香気が華音の鼻腔をくすぐっていく。
 その香りの元を辿っていくと、キッチンの流し台に向かって作業をするすらりとした長身の男性の背中が、華音の視界に入った。
 富士川祥青年である。
 帰宅してからすぐに作業に取り掛かったのだろう。スーツの上着とネクタイは外されているが、白ワイシャツにエプロンという出で立ちだ。痩せ型で背の高い彼は、深緑のカフェエプロン姿がよく似合っている。
 華音の声に、富士川は作業の手を止めることなく、顔だけを振り向かせた。
「おかえり。もうすぐ支度できるから、着替えておいで」
 知性を醸し出す眼鏡の奥の両瞳が、華音をとらえて優しく緩む。
 いつも変わらない、日常風景だ。
 華音は二人用の小ぶりのダイニングテーブルに所狭しと並べられた料理の数々を眺め、一気にテンションが上がった。
「わ、すごい! ご馳走だー! ひょっとしてお酒も?」
 いつも使っているペアグラスの横に、ピンク色の液体の入った大きなビンが添えられている。
 ラベルに印字されたアルファベットの羅列が、非日常の特別感を醸し出している。
「お祝いだから、乾杯だけでもね。大丈夫だよ、そんなにアルコール度数高くない甘めのシードルにしたから、華音ちゃんでも食前酒代わりにいけると思う」
 すでに二十二歳で、飲酒を咎められる年齢ではなくなっているが、華音はほとんどお酒を飲むことはなかった。大学の友人たちに誘われても、ノンアルコールでやり過ごすのが常だった。
 それは、同居する富士川青年がお酒をたしなむことがないため、華音もなんとなくそうなっているだけにすぎない。
 昔、富士川がまだ学生で芹沢家に居候していた頃は、師である華音の祖父や馴染みのピアニストの高野和久とお酒を酌み交わすこともあったが、決して強くはないのだろう。二日酔いの富士川青年を介抱した経験も、華音は何度かある。
 ただ、五年前に入院してからは、やはり身体に気を遣っているのか、飲酒することは一切なかった。

 そう。今日は特別なのだ。

 華音が大学を卒業したお祝いとして。
 富士川青年が形だけでも華音を大人として扱ってくれる『儀式』として、お酒を用意してくれたのだ。
 その気持ちが、華音にはとても嬉しかった。


 グラスに淡いルビー色の液体が注がれる。
 シードルのロゼ。炭酸の泡がはじけ、独特のアルコールの香りが漂う。

 華音は意を決して、心に決めた『本題』を切り出した。
「あのね、今日赤城さんともちょっと話してたんだけど、こうやって無事卒業できたことだし、これからね、ちゃんとお仕事したいなって」
 富士川は首を横に振った。
「この前も言ったけど、華音ちゃんがわざわざ働きに出る必要はないよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
 いつにない華音の訝しげな眼差しを受け、富士川は困惑の表情でため息をついた。
「うーん……そうだな、この際だから、ちゃんと話しておいたほうがいいよな。華音ちゃんももう、大人なんだし」
 これでは何かにつけて子供扱いしてくる富士川だったが、華音の真剣な様子に、きちんと向き合う姿勢をみせた。
 富士川は手にしていた箸をいったん箸置きの上に戻し、姿勢を正した。華音もあわててそれにならう。
「華音ちゃんは芹沢家の資産だけで、なんの問題もなく一生暮らしていけるんだよ。だから、わざわざ働かなくてもいいって、そう言ったんだ」
「そう……なんだ。よく分からないけど」
「芹沢先生がお亡くなりになって、華音ちゃんが成人するまでは、高野さんが未成年後見人として華音ちゃんについていてくれたけど、それはあくまで書類上のことで、そのほとんどは赤城オーナーが実質的に管理してくれていたんだよ。五年前、俺が入院した時に高野さんじゃなく赤城オーナーが身元引受人になってくれたのも、そういう絡みがあってのことだったんだ」
 初めて知らされる話だった。
 もっとも、学生だったときには、富士川青年が生活費の類の話を一切口にしてこなかったため、華音もあえて聞こうとしなかった――ただ、それだけである。
 こうやって難しい金銭的な事情を説明してくる富士川の姿が、華音の目には新鮮に映った。ちゃんと、富士川から大人として扱われてもらえている気がして、やはり嬉しく感じてしまう。
 そんな華音の心の内など露知らず――尚も説明は続く。
「芹沢邸の管理も、執事の乾さんの雇用契約も、華音ちゃんの授業料も、口座に毎月振り込んでいるお小遣いも、赤城オーナーが管理している現金資産の中から出ているんだ」
 確かに。
 自堕落ピアニストの高野が、自身の生計ならいざ知らず、かなりの資産を有する芹沢家の細かな金銭管理など、できるはずもないのである。
 楽団オーナーの赤城が、芹沢家の財務管理を引き受けているという話は、なにも驚くところはない。むしろ、すべて合点がいく。
「食費とか、光熱費とか、そういうのは?」
「それは俺と一緒だから、俺が出してるけど」
「だったら。その分だけでも、働きたい」
 華音はすかさず切り込んだ。
 ここで、退くわけにはいかない。
「大丈夫だよ、たいした額じゃないし、そんなこと気にする必要ないよ」
「学生のうちは学業優先だっていってアルバイトをさせてもらえなかったけど……お金があるとかないとかそんなことじゃなくて、私、何もしないでずっとこのまま?」
「華音ちゃん……」
「私、楽団のお仕事がしたい。雑用でも何でもするから――」
 明らかに困っている。
 長い付き合いである。その微妙な表情から、彼の複雑な心の内が、手に取るように分かる。
「あのさ。確かにオーナーは赤城さんだけど、実際は華音ちゃんが発言力のある存在だってことを、自覚してほしいんだ」
「発言力? そんなの全然ないけど?」
「芹沢先生の血を引いてる、芹沢家のお嬢様なんだから。楽団の雑用なんてとてもやらせられないんだよ。それに、いま俺が音楽監督というポジションなんだから、公私混同してると周りから思われたら、俺がやりにくい」
 確かに。
 華音がまだ高校生だったときは、アルバイトのアシスタントとして扱われていた。それは、雑用しかできない子供だったためなのであるが、当時は最年少だったこともあり、楽団員たちからも妹分のように扱われていたのである。
 しかし、現在は――。
 オーナーの赤城にも意見を通すことができ、音楽監督の富士川青年とは家族同然の間柄である。
 年齢的にはまだまだ下ではあるが、ときおり学生との共演もあるため、華音はすでに最年少ではなくなっている。
 ただのアルバイトとして雑用をこなすという立場ではない――そういう富士川の意見はもっともなことだった。

「赤城さんの会社で働くのもダメ?」
「それもちょっとね。社長と気安く話をできるようじゃ、周りの社員さんたちがやりにくくなるよ、きっと」
 八方塞がりだ。
 どんどん曇っていく華音の表情を、もちろん富士川は見逃さない。
「どうしてもって言うなら、高野楽器で働いてみる?」
「え……高野先生のお店?」
 もちろん、華音も昔からよく知っている。
「この間、高野さんが芹沢邸のピアノのメンテナンスに来たときにさ、今までいたパートさんが、この春の旦那さんの転勤で、急遽辞めることになったとかで、店番できる新しいパートさんを探してたんだよね。ちょっと聞いてみようか?」
 店主の高野和久は、華音が物心ついたころからの古い古い付き合いだ。
 個人経営の小さな店舗で、芹響の楽団員の多くも高野楽器店の常連であり、隣の喫茶店『ヴァルハラ』のマスターも日常的に出入りしていて、楽器店の楽譜の在庫やら音盤のライブラリを漁っている。
 赤城と違って、高野と気安く話をしたところで周りがやりにくくなる、ということはなさそうだ。
 気楽に働けるという点においては、これ以上の好条件はそうそうないだろう。
「高野先生と祥ちゃんがいいなら、私、働きたい!」
 富士川青年の精一杯の譲歩を、華音は引き出してみせた。

 間接的にではあるが、久しぶりに楽団に関わる仕事ができるかもしれない――そう思うと、まだ決まったわけでもないのに、華音はすでにはやる心を抑えられなくなってしまった。



「まあこっちとしても、募集かけて採用してイチから仕事教えてって、結構大変だから良かったよ。ホント、縁故採用もいいとこだけど」
 高野和久は、あくびを噛み殺しながら、ぼさぼさの髪を掻き上げた。

 時刻はすでに午前十時近く――高野楽器店の開店時刻は表向き九時からだが、昼行灯店長はいつも気まぐれで、寝起き同然の身なりでふらりと現れるのが常だった。確かにこれでは、店の開け閉めをするパート店員がいないと成り立たないだろう。

 急ぎの仕事がない時には、昼前に店に姿を現して、すぐに隣の喫茶店へ顔を出し、朝食とも昼食ともつかぬ軽食をとり、また店に戻って時間があれば演奏会のためにピアノの練習をしたり、実に気ままな生活を送っている。

 高野は五年前、離婚した元妻と再婚した。一人娘の和奏はもう高校生だ。家族三人仲良く暮らしているはずなのだが、その生活態度は独り身だった頃とほとんど変わらない。
 妻もそれを咎めようとはしない。むしろそれを楽しんでいるようだ。高野としても、文句は言いつつも、縛りすぎずに明るく笑ってやり過ごしてくれる妻との関係は、充分心地いいのだろう。
 なんだかんだで、幸せなのである。

「採用って、表向きは――でしょ? 実際は赤城さんの会社からお給料が支払われるって聞いたけど」
 華音は店の隅に置かれた商談用の応接スペースで、店長とカタチだけの簡単な面談を行っていた。
 当然のことながら、二人の間に敬語のやり取りは存在しない。

 一見複雑極まりない現在の状況であるが、元をただせば、実に単純な話なのである。
 どうして高野ではなく赤城から賃金が支払われることになったのか。
 それは、社会保障などの雇用面の待遇が、赤城エンタープライズのほうが当然ながらしっかりしている、ということだった。
 そのため、赤城の会社に籍を置き、『出向』扱いで、高野楽器店に勤務する、ということになったのである。
 もちろん、それは華音が希望したことではない。自分のあずかり知らないところで勝手に話が進められてしまっていたのである。
 保護者の富士川と楽団オーナーの赤城が話し合い、詳細を決めたに違いない。高野の口ぶりからすると、旧知の二人が決めたことに、押し切られるようにして従うことなった、ということなのだろう。
 過保護な大人たちばかりだ。
 自立とは程遠い、社会人生活のスタートである。

 赤城エンタープライズに籍を置くといっても、赤城はあくまで富士川の意向を汲んで、その手続きをしたに過ぎないはずだ。社員として採用した、という認識ではないようだ。
 要するに、華音の現状は何から何まで、中途半端なのである。
「まあ、富士川ちゃんは心配性だから、ノン君が苦労するようなことはさせたくないんでしょ。俺のトコなら、時間の自由がきくし、休みは取り放題だし、店主は怒らないし、安心して預けられるって富士川ちゃんは判断したんだろうね」
 おそらく、高野の言うことは正しい。

 しかし。
 お金のために働くわけではない以上、少しでも自分がやりたいことをしたいのだが――。

 華音は、成り行きでこうなったと言わんばかりに緊張感のない高野に向かって、これ見よがしに深々とため息をついてみせた。
「本当は楽団のお仕事がしたかったんだけど……はあああ」
「え、なに、いきなりウチの仕事、否定する? ひどいよノン君……」
 昼行灯店長・高野は、なんとも恨めしそうに言う。

 高野は、赤城とは高校の同級生なのだから、実年齢は四十を超えているはずなのだが――いつまで経っても大人になりきれないピーターパンのごとく、その言動はどこか子供じみている。
 根っからのロマンティストで芸術家気質であるからだろう。
 華音はいつものこと、と高野の言葉をさらりとかわした。
「いや、そういう意味じゃないから。家にいて何もしないで過ごすよりは全然マシだもん。やるからには、ちゃんと働くから」
 緩やかな時間が流れる。
 高野はテーブル下の雑誌の上に置かれていた灰皿を取り出した。
 無造作にシャツの胸ポケットから煙草の箱と安物のライターを取り出し、一本取り出してくわえて火を点けた。

 愛煙家の高野は、再婚してからは自由にタバコが吸えなくなったと、よく愚痴をこぼしていた。妻と娘のために、部屋の中で吸うことを止め、律儀にベランダに出て吸っているらしい。
 しかしここでは、店長の裁量で自由に喫煙できるのだ。その証拠に、紫煙を燻らせる高野の表情は、至福に満ちあふれている。
「富士川ちゃんの過保護は今に始まったことじゃないけどさ。オヤジが死んでからは、その過保護っぷりに拍車がかかったよね」
「そう? 自分ではよく分からないけど」
「ノン君を守ることへの使命感? 献身的というか盲目的というか……ここまで一途に溺愛できるなんて、もはや神の領域だよ」
 どうもスッキリとしない。
 祖父が亡くなってから――はたして、そうだったろうか。
 何故だろう。はっきりと思い出すことができない。

 幼いころから、富士川青年は何も変わっていない。
 嫌いなものは代わりに食べてくれて、怖い夢を見て眠れないときには添い寝をしてくれて、熱を出せば朝までつきっきりで看病してくれて、誕生日には一番におめでとうを言ってくれて――。
 ずっとずっと、変わらずそうだった。

 おかしい。
 パズルのピースが、なぜか一つ、はまらない。

「そういえば今週、芹響ホールのピアノのメンテの予定入ってるけど、ノン君も一緒に行く?」
 何度目かの煙をゆっくりと吐き出しながら、高野はさらりと言った。
「え? ホールのピアノ?」
「楽団に関わる仕事がしたいんでしょ? 毎日とはいかないけどさ、週イチ程度には芹響に出入りの仕事あるし、ピアノ弾く仕事のときならもっと頻度は高いしさ。ノン君、俺の荷物持ちでついて来ればいいじゃん」
 そう言って、高野は灰が落ちそうになった煙草をそのまま灰皿に押し付けて、火をもみ消した。
 高野はあくまでお気楽な口ぶりだが、同伴の提案に、華音はどうも前向きになれない。
「行ってもいいのかな……祥ちゃん、いい顔しないと思うんだけど」

【公私混同してると周りから思われたら、俺がやりにくい】

 華音は富士川に言われた言葉を、そのまま高野に話してきかせた。
 すると高野は、合点がいったように数度小さく頷いてみせる。
「それはアレだよ。富士川ちゃんは仕事に関しては『鬼』だから、合わせの練習のときにノン君に側にいられると、やりにくいってことでしょ?」
「それ、よく言われるんだけど、祥ちゃんが『鬼』って、全然想像つかないんだよね」
 職務に真面目で忠実。優しく穏やかで献身的。いつでもどんな時でも助け、かばってくれる。
 声を荒げて誰かと言い争うことなど――あった気もするし無かった気もする。

 まただ。どうもハッキリと思い出せない。
 しかし、不思議なことなのだが、思い出そうとする気が何故か起きないのである。

 華音の煮え切らない表情を見て、高野は付け加えるようにして説明をした。
「『鬼』って言ったって、むやみやたらと怒鳴りつけたりするようなことはしてないよ。でも、ミスに妥協は許さないし、できるまで何時間も淡々と繰り返すから、合わせが先に進まなくなったりすることもあるんだよ。そのニコリともしない無言の圧力ときたら……だからそうならないように、団員たちは必死に自主練に励む――というわけ」
 つまり。
 『鬼』とは、「恐怖」というよりも「怒涛」に近いイメージなのかもしれない――華音は、高野のその説明で、何となくそのように解釈した。
「それなら別に、隅っこで練習見学くらい許してくれても良くない? 怒ってる姿を見られたくないから、拒否してるのかなって、思ってたんだけど」
「分かってないなー。富士川ちゃんのノン君に対するアンテナはどんだけ敏感だと思ってるのさ。咳払い一つしようもんなら、いてもたってもいられなくなって、音楽に集中できなくなるんだから」
「そんな大袈裟な……」
「優先順位の問題。例えばなんだけど、ノン君が合わせの練習を見学していたとして、そこでくしゃみをしたら、芹沢のオヤジなら構わずそのまま練習を続けるだろうし、富士川ちゃんなら――すぐにノン君をほうを振り返って、風邪ひく前になにか羽織らせないと……って、音楽が二の次になるというわけ」
 このピアニストは、祖父とも富士川とも付き合いは長いのだ。彼の分析はおそらく正しい。
 華音もその見解に異論はなかった。
 俺がやりにくい、とは、決して迷惑だという意味ではなく、音楽よりも優先順位が高いものが側にあると、集中できなくなり、仕事に支障をきたす、ということなのだろう。
「だったら、やっぱりホールに出入りしないほうが良くない?」
 音楽に集中できなくなるというのなら尚のこと、音楽監督の足を引っ張るようなことはしたくないのである。
 迷いを見せて躊躇する華音を、高野はいつものいい加減さを十二分に発揮して、軽く笑い飛ばした。
「平気平気。だってさ、それ気にしてるのは富士川ちゃんだけだって。楽団員のみんなは、二人の関係性なんて、もうとっくに分ってるんだからさ」
 言われてみれば、その通りである。
 それに、ピアノのメンテナンスは合わせの練習が休みの日に行われる。自主練習の団員たちはいるだろうが、音楽監督の富士川を含めて一堂に会することにはならないだろう。

 そう思い至り、華音は急に気が楽になった。
 残る問題は、ただ一つ――。
「あ、でも! 私が一緒についていったら、ここのお店番はどうするの?」
「んなもん、隣のちょび髭マスターに頼んどけばいいんだよ。どうせ喫茶店なんか、奥さんが切り盛りしてるんだから」
 適当だ。適当すぎる。
 華音は、あきらめにも似たため息を一つ、ついてみせた。
 やはり、高野の下で働くのは、ある種の忍耐と覚悟が必要になりそうである。