懺悔の章 (1) 長く平坦な道程の先に
芹沢華音は、大学の卒業証書を携えて、赤城エンタープライズの本社ビルへとやってきた。
春の柔らかな日差しの差し込む、吹き抜けのエントランスに足を踏み入れると、どこからともなくヴァイオリンの調べが聞こえてくる。
いま流れているのは、華音もよく知っている曲だった。
フランチェスコ・マンフレディーニ。
concerro grosso in C major, Op.3 No.8――合奏協奏曲の第2楽章「Largo」である。
ヴァイオリンの二重奏の旋律が、ときに複雑に絡み、ときに滑らかに寄り添い、聴く者の心の隅々にまで染み込んでいく。
――祥ちゃん、昔よく、この曲を練習してたな。
華音は懐かしく思い出した。
まだ祖父母が健在で、いま芹沢交響楽団の音楽監督を務めている青年・富士川祥が、芹沢家に居候していたころだった。
幼かった華音は、当時音大生だった富士川青年の練習するヴァイオリンを側で聴きながら、その足元にお絵かきノートとクレヨンを床に広げて、いつもお絵かきに夢中になっていた。
ときおり彼の練習の様子を見に来る華音の祖父に、テーブルと椅子を使うように促されても、頑なに彼の側を離れようとしなかった。
そんな華音を見て、困惑の表情を浮かべる祖父の姿。そして、穏やかにその場を取り繕いながら優しく華音をその背にかばう青年の姿――そんな光景が、このマンフレディーニの調べにのせられて、ぼんやりと蘇ってくる。
もう、過ぎ去ってしまった遥か遥か昔の記憶――。
五年前。
芹沢交響楽団の音楽監督が代わったのをきっかけに、赤城エンタープライズでは、新たに『音楽配信事業部』が立ち上げられた。
国内の名だたる演奏家や、代表取締役社長の赤城がオーナーとなっている芹沢交響楽団と契約を結び、古今東西のクラシック音楽作品の録音を積極的に行っている。そしてその演奏の音源の一部は、有料配信もされている。
今ではそのディスコグラフィーも大幅に増え、一大レーベルとして成長を遂げつつある。
いまこの社屋ビル内で流れているのも、音楽配信事業部のものだ。配信される前の貴重な音源を先取りして流しているのだと、華音は以前、社長の赤城から直々に説明を受けた。
ヴァイオリンを演奏しているのは、芹沢交響楽団に籍を置く若手奏者たちだ。
現在の音楽監督が優秀なヴァイオリニストだったこともあり、とりわけ弦セクションの楽団員たちの演奏技術は一縷の隙もなく、徹底的に鍛え上げられている。
受付の社員は華音に微笑みかけ、会釈をした。
もう、いちいち断りを入れる必要はない。顔パスである。
華音は受付を素通りし、慣れたように奥のエレベーターに乗り込み、最上階を目指した。
目的の人物は、その先にいる。
「随分と早かったな」
社長室と書かれた重厚な扉の向こうで華音を待ち受けていたのは、赤城麗児だった。
芹沢交響楽団のオーナーも務める青年実業家である。
赤城は自分のデスクではなく、社長室内に設えてある応接セットのソファに座って、華音を待ち受けていた。
すでにお客様という扱いではなくなっているため、部屋の主は立ち上がって出迎えるようなことはしない。ただ無言で、右手で向かい側のソファを指し示し、着席するように促してくる。
三つ揃えのジャケットだけいつものようにクロークハンガーにかけ、グレーを基調とした縦縞のベストとスラックスを身に着けている。上品な白シャツに、相変わらず派手な柄の緋色のネクタイをしている。
ヴィヴィアン・ウェストウッドの新作なのだろうか――華音が見たことのない色柄のネクタイだ。
この青年実業家とは付き合いはそこそこ長いのに、ここは一貫して変わらないところだ。
華音は、赤城に指し示された向かいのソファにゆっくりと腰掛けた。
「赤城さん、午後は打ち合わせで忙しいって秘書の方に聞いてたので、寄り道せずに来ました」
赤城はソファに座ったまま、華音の全身を眺めるように、ゆっくりと視線を動かす。紺色の大人しめのワンピースに、水色のコートを携えているのを見て、どこか残念そうな顔をした。
「せっかくなのだから、袴姿で記念撮影でもすれば良かったんじゃないか?」
「記念写真を撮ったって、それを見せる家族はいませんから」
華音は自虐の意味を込め答えると、赤城は肩をすくめて軽くため息をついてみせた。
それは事実なのである。二年前の成人式でさえ、振袖を着て写真を撮ることをしなかった。
しかし、赤城は引き下がるどころか、さらに食いついてくる。
「私は見てみたい。女学生の袴姿なんて、なかなかお目にかかれるものじゃないしな」
「じょ、女学生って……赤城さんがどうしてもって言うなら、今からでもコスプレしましょうか?」
もう、あしらい方は慣れている。
いつもの戯言と割り切って、負けじと切り返していくが、そうやすやすと退治できる相手ではない。
「では、私も学生服を来て、並んで記念写真を撮らせてもらおうかな」
「えええ? それ、真面目に言ってます? こんな人が社長で大丈夫なんですか、この会社」
思わず並んだ二人の姿を想像し、華音はそれをかき消そうと必死に首を横に振った。
ありえない。しかし、この男なら――やりかねない。
不安に彩られた華音の表情を見て、赤城は楽しそうに表情を緩めた。
「ははは。組織のトップはそういう柔軟性があった方が、社員の受けはいいんだよ。さあ、ではさっそく、卒業証書を見せてもらえるか?」
華音は素直に頷いた。
そう。
今日、卒業式を終えたその足で赤城の元を訪れたのは、大学卒業の報告のためだった。
特別な理由があってのことではない。高校時代から、行事があるごとに赤城に報告がてら顔を見せるというのが、いつのまにかお約束のようになっている。
不思議な関係だと、華音自身も思っている。
しかし、いつのころからか、その理由を考えるのをやめた。
赤城のほうももう当たり前のことと割り切っているのか、アポを取ればこのように優先的に時間を取ってくれている。
華音は手にしていた上品な青色の二つ折り用の賞状ケースを、意気揚々と差し出した。
「ちゃんと卒業できました」
赤城は無表情でそれを受け取ると、まるで契約書類に目を通すがごとく、隅々まできっちりと中身を確認していく。
「今どきの卒業証書というのは、横書きのものもあるのだな。二十年もすれば時代は変わる、か」
赤城はそんな感想を漏らし、ゆっくりと卒業証書を折りたたんだ。そしてそのまま持ち主へと返却する。
二人の間に、わずかな沈黙が流れた。
赤城には何か思うところがあるらしい。わずかに首を傾げ、じっと華音のほうを見つめてくる。
「それはそうと……これからどうするつもりだ?」
「どうする、って?」
「学校を卒業したのなら、もう保護者は必要ないだろう?」
赤城の言わんとすることが、華音にはすぐに理解できた。なにもおかしなことは言っていない。むしろ正論だろう。
しかし、現状を説明するのはなかなか難しい。
華音は言葉を選び、『保護者』の考えを伝えた。
「そう……なんですけど、祥ちゃんはそう思ってないみたい」
「そう思ってない、とは?」
「社会に出たら、家を出て、自立して生活していく――っていう考えは全くないみたい、ってことです」
うまく言い表せないもどかしさばかりが、華音の胸に残される。
なんの不自由ない暮らしを送っている自分が、このようなモヤモヤした気持ちを抱えるのは、贅沢でわがままなのかもしれないが――。
深々とため息をつく華音を見て、赤城は肩をすくめてみせた。
「君たちは家族みたいなものだからな。まあ、慌てて独立別居を考える必要はないと思うが。しかしまだ、就職先を決めていないのだろう? もうこの季節だし、いまさらの話だが……」
「そう! そこなんですよ赤城さん!」
華音はここぞとばかりに、赤城の言葉に食いつくようにしてその思いの丈をぶちまけた。
この男にしか、ぶつけられない。
唯一自分の気持ちを理解してくれるのは、いつだってこの青年実業家――。
「私としては、雑用係で構わないので、楽団の仕事を手伝いたいんです! だけど……祥ちゃんが頑なに反対してて。はああ」
もう何度目だろう。肺の中の空気がすべてなくなってしまうほどの深い深いため息が、華音の口から吐き出された。
やるせない、行き場のない思い。
「富士川君は、君に対しては過保護すぎるところがあるからな……」
赤城は、目の前でうなだれている華音に同情の眼差しを向けた。
赤城麗児と富士川祥が、楽団のオーナーと音楽監督という関係に収まって早五年――気心はとうに知れている仲であるはずだが、それはあくまでビジネス上の関係にすぎない。
富士川は、赤城の言うことをおおむね友好に聞き入れる柔軟性は、きちんと持ち合わせている。
しかし、音楽監督という職位を離れて華音の保護者という立場になると、神経質なまでの生真面目さを発揮して、ありとあらゆる世話を焼いているのは、赤城もよく知るところだ。
「今までは、学業優先だからって楽団の仕事に一切立ち入らせてくれなかったけど、まさか、卒業してからも反対されるとは思ってなかったし。祥ちゃんが就職活動しなくていいって言ってたから、楽団のお仕事をさせてもらえるんだって、そう思ってたのに……まさか、本当に働かなくてもいいとか言い出すんだもん」
もう何度目だろう。また、華音の口から大きなため息が吐き出された。
華音が芹響の本拠地ホールを訪れるのは、月イチで行われている定期演奏会のときだけだった。それ以外では、ほとんど足を踏み入れることはない。
もちろん、楽団員の多くは見知った人たちであるし、スケジュールもおおむね把握しているため、普段の練習日に遊びに行くことも充分可能なはずだった。
しかし、音楽監督の富士川祥は、練習の妨げになるからと言って、頑なに演奏会以外の立ち入りを許可しないのである。
「君のことが大切なのは分かるが、いくら資産家のお嬢様でも、社会に出ていろいろと勉強をすることも大切だと、私は思うがね」
「でしょ? 赤城さんからも祥ちゃんに言ってください!」
華音はここぞとばかりに赤城をけしかけた。
こういう時こそ、オーナーという立場を利用しない手はない。
すると。
華音の話に耳を傾けていた赤城の口から、意外な言葉が発せられた。
「まあ、就職する気があるなら、希望の職種を世話するが?」
「え……赤城さんの会社に?」
「何なら、社長秘書でもいいぞ」
「ひ、秘書? そんな恐れ多い……」
華音は慌てて首を横に振り、赤城の申し出を断った。
赤城にはすでに優秀な秘書が二名いる。その二人の仕事ぶりを見ていても、とてもお飾りで務まる仕事とは思えない。
「まあ、芹沢君は案外、企画開発室の仕事なんか、向いてるかもしれないな。音楽配信事業は、来期から新たに映像も取り扱うことにしているから、人手はいくらでも欲しいところだ」
「映像? そうなんですか?」
初めて聞く話だった。
「なんだかんだ言っても、男前や美人の演奏は相応のファンも獲得できる。現に今までだって、ソロアルバムを出せばそれなりに売れている人間も少なからずいるんだ。まあ、容姿の良し悪しに関わらず、清潔感をもって見られることを意識して演奏を行うことは、決して悪いことではないと思うが。音楽は空間芸術なのだからな」
赤城はもっともらしいことを言っているが、その発言の裏には、ライトユーザーを見た目で釣る――そんな思惑が透けて見える。
華音だって、どちらかと言えばそういった人種である。演奏技術よりもその容姿で惹きつけるという考えは、一応理解できる。
華音はざっと楽団員の顔を思い浮かべた。
『美貌』で真っ先に思い浮かんだのが、やはりこの人――。
「藤堂さんあたりは美人ヴァイオリニストで売れそうですけど……でも、美濃部さんがいい顔しないんじゃ?」
藤堂あかりは五年前、同じ楽団員の美濃部達郎と結婚をし、一人娘は四歳になった。
楽団では、便宜上旧姓のまま活動しているが、夫と子供のいる既婚者である。
その美貌で売り出すことは、配偶者としては心中穏やかではないに違いない――そう華音は思ったのだが。
赤城の答えはまったくの逆だった。
「彼は両手放しで喜んでいたよ。美しい自慢の妻をみんなに見てもらいたい、とのことだ」
「……ですよね。美濃部さんですもんね。そう言いますよね」
華音は思わず苦笑してしまった。
美濃部青年は常識人でありながら常識にとらわれず、自由な思考の持ち主なのである。
赤城に相談されてノリノリになっている美濃部の姿が、華音には容易に想像できた。
「富士川君だって、若手指揮者としてかなりの人気があるしな。映像配信の需要は、そこそこ見込めると思うがね。最終的には、オペラにも着手していくつもりだ。やることは山積みだ」
「へー、オペラ……」
赤城の口にする楽団の展望は、すでに華音の思考の限界を超えていた。
新しい試みに積極的に取り組んでいるのは、同居する音楽監督のその多忙な仕事ぶりからも想像はついた。
それにしても――祖父が音楽監督だった時代には考えられなかったようなプロジェクトが、次から次へと立ち上がっているようだ。
華音の祖父・芹沢英輔が音楽監督をしていたころは、年齢的なこともあったし、旧時代的なやり方を踏襲していたこともあって、こんなふうに大きなプロジェクトを立て続けに進めていくことは、とても考えられなかった。
音楽監督が若くなったこともさることながら、ネスのエキスパートがバックについたことで、活動の幅が大きく広がった。
やはり、この目の前の青年実業家の手腕によるところが大きいと、言わざるを得ないのである。
赤城はひと呼吸おき、さらに続けた。
「まあ、就職先を世話するににしても、富士川君の意向も確認しないとな。今は楽団の仕事にかかりっきりで、芹沢君のことまで気を回す余裕がないのかもしれないな」
「そうですね。なんか、いつもすごく忙しそうにしてるし。音楽監督の仕事が忙しいのに、お料理もお洗濯もお掃除も、全部ひとりでやってるし……」
「さすがは、『芹沢家のお姫様に仕える、忠実な青年騎士』――だな。世の女性たちからすれば、君は憧れの的だ」
はたしてそうなのだろうか。華音にはよく分からない。
いつも側にいて、守られていることが当たり前すぎて、そのありがたさに気づくことができない、ということなのかもしれない。
それが幼いころからずっと『当たり前』だったのである。
そう、ずっと――。
ちょうど話が途切れたところで、赤城の秘書を務める女性社員が、タブレット端末を片手に社長室へとやってきた。
「社長、十四時からの打ち合わせですが、先方の都合で十五分早めてほしいとのことですが、宜しいでしょうか?」
「十五分後か。分かった、そのように調整してくれ」
指示を受け、秘書はすぐに隣接する秘書室へと下がっていく。
社長は『午後は打ち合わせで忙しい』と事前に秘書から聞かされていた予定は、どうやら本当らしい。
となれば、ここは空気を読み、長居は無用――である。
それにしても、華音と赤城は随分と長い時間、話し込んでいたようだ。
出会ったばかりの頃の、二人きりでの居心地の悪さが、いまとなっては嘘のようである。
華音はコートと卒業証書を入れたトートバックを携え、そそくさとソファから立ち上がった。
「では、私はそろそろ帰ります」
「もっとゆっくり話をしたかったが、すまないな」
赤城は名残惜しそうにしながら、緩みかけていた緋色のネクタイをきっちりと締め直した。すでに仕事モードに気持ちを切り替えたようだ。
華音を見送ろうと立ち上がった赤城に、華音はゆっくりと近づき、真正面に向き合って、顔を見上げた。
「赤城さん」
「どうした?」
不思議そうに首を傾げる赤城に、華音は淡々と告げた。
「たまには息抜きも必要ですよ」
「心配してくれるのか? 優しいな」
こういう時に、無駄に優しい男のオーラを出してくる。
思わず心臓が高鳴って、いままで意識していなかった恋心が少しずつ目覚めていく――わけはない。
切り返しは手慣れたものである。
「だって赤城さん、今年厄年でしょ? 見た目は三十代かもしれないですけど、もう四十二なんですから。ちゃんと自覚しないと。人間ドックを受けにいく時間もとってくれないって、秘書の方が嘆いてましたよ?」
面食らった赤城の表情に、華音は不謹慎にも勝った、と心の中でほくそ笑んでしまった。
「……私の個人情報が筒抜けだな。秘書失格だ」
「もう。話をすり替えないでください。秘書の方を責めるのはお門違いです。私に心配されて、何か困ることでも?」
明らかに動揺している姿に味を占めて、さらに畳みかけると――。
赤城は参った、と苦笑しながら、早々に白旗を上げた。
「ハッ、君はいいお嫁さんになりそうだな」
その瞬間。
胸が引き絞られるような鋭い痛みを、華音は感じた。
これは何? 既視感?
以前、同じことを言われたことがある。
何故だろう。ハッキリと思い出せない。
堅く封印をした心のどこかが、きしむような音をたてている。
黙ったまま複雑な表情をしている華音を見て、赤城はなだめるようにして言った。
「わかったわかった。人間ドックの件は前向きに考えよう」
「そうしてください。赤城さんに死なれたら困りますから」
「芹沢君を残しては死ねないさ。君には、私が必要だ。そうだろう?」
この男ときたら、凝りもせず――恋愛映画のワンシーンを気取って、芝居がかったセリフをためらいもなく口にする。
しかし。この程度で、負けるわけにはいかない。
華音は右手の親指と人差し指をくっつけて丸め、それをキザ男の目の前に突きつけた。
「当たり前です。赤城さんの生死は、リアルに楽団の存亡に関わるんですから。金銭的に」
「やれやれ、つれないな。そこは嘘でも、頬を赤らめてときめいてくれても、いいところなんだがな?」
大人の男の余裕を見せつけて、わざと色香をふりまく真似をする赤城のせいで、場の空気が真冬のシベリア並みに凍りつく。
「…………帰ります」
華音は冷ややかな眼差しで、目の前の大男を見上げて淡々と告げた。
すると。
赤城は、その華音の反応に気をよくしたのか、満足そうにして楽しそうに微笑んでみせた。
「ああ、気をつけて。富士川君によろしく言っておいてくれ」
「分かりました」
形ばかりの社交辞令を託されて、華音はくるりと赤城に背を向け、そのまま社長室をあとにした。
赤城エンタープライズ本社ビルの外へ出ると、穏やかな早春の陽気が華音の頬に心地よくまとわりついた。
『今夜は二人で卒業祝いをしよう』
そう言って、今朝、マンションを送り出してくれた富士川青年の穏やかな笑顔を、華音はぼんやり思い出した。
今日は早く仕事を切り上げて、必要な食材の買い出しに行くと言っていた。
彼の性格を考えると、正午できっちり仕事を終わらせて、いつもよりもちょっといい食材を探しに、百貨店の食品売り場へ出かけているはずだ。
華音の好物である季節のフルーツタルトも、ぬかりなく準備してくれるに違いない。
彼のすべてが、華音には手に取るように分かる。
『芹沢家のお姫様に仕える、忠実な青年騎士』――そう例えた赤城の言葉は、おそらく正しい。
――どうしようかな。祥ちゃん、そろそろ帰ってるかな?
帰ったらもう一度、きちんと今後のことを話してみよう――華音はそう強く心に決め、二人が暮らすマンションへの長い道のりを、ゆっくりと歩き始めた。
春の柔らかな日差しの差し込む、吹き抜けのエントランスに足を踏み入れると、どこからともなくヴァイオリンの調べが聞こえてくる。
いま流れているのは、華音もよく知っている曲だった。
フランチェスコ・マンフレディーニ。
concerro grosso in C major, Op.3 No.8――合奏協奏曲の第2楽章「Largo」である。
ヴァイオリンの二重奏の旋律が、ときに複雑に絡み、ときに滑らかに寄り添い、聴く者の心の隅々にまで染み込んでいく。
――祥ちゃん、昔よく、この曲を練習してたな。
華音は懐かしく思い出した。
まだ祖父母が健在で、いま芹沢交響楽団の音楽監督を務めている青年・富士川祥が、芹沢家に居候していたころだった。
幼かった華音は、当時音大生だった富士川青年の練習するヴァイオリンを側で聴きながら、その足元にお絵かきノートとクレヨンを床に広げて、いつもお絵かきに夢中になっていた。
ときおり彼の練習の様子を見に来る華音の祖父に、テーブルと椅子を使うように促されても、頑なに彼の側を離れようとしなかった。
そんな華音を見て、困惑の表情を浮かべる祖父の姿。そして、穏やかにその場を取り繕いながら優しく華音をその背にかばう青年の姿――そんな光景が、このマンフレディーニの調べにのせられて、ぼんやりと蘇ってくる。
もう、過ぎ去ってしまった遥か遥か昔の記憶――。
五年前。
芹沢交響楽団の音楽監督が代わったのをきっかけに、赤城エンタープライズでは、新たに『音楽配信事業部』が立ち上げられた。
国内の名だたる演奏家や、代表取締役社長の赤城がオーナーとなっている芹沢交響楽団と契約を結び、古今東西のクラシック音楽作品の録音を積極的に行っている。そしてその演奏の音源の一部は、有料配信もされている。
今ではそのディスコグラフィーも大幅に増え、一大レーベルとして成長を遂げつつある。
いまこの社屋ビル内で流れているのも、音楽配信事業部のものだ。配信される前の貴重な音源を先取りして流しているのだと、華音は以前、社長の赤城から直々に説明を受けた。
ヴァイオリンを演奏しているのは、芹沢交響楽団に籍を置く若手奏者たちだ。
現在の音楽監督が優秀なヴァイオリニストだったこともあり、とりわけ弦セクションの楽団員たちの演奏技術は一縷の隙もなく、徹底的に鍛え上げられている。
受付の社員は華音に微笑みかけ、会釈をした。
もう、いちいち断りを入れる必要はない。顔パスである。
華音は受付を素通りし、慣れたように奥のエレベーターに乗り込み、最上階を目指した。
目的の人物は、その先にいる。
「随分と早かったな」
社長室と書かれた重厚な扉の向こうで華音を待ち受けていたのは、赤城麗児だった。
芹沢交響楽団のオーナーも務める青年実業家である。
赤城は自分のデスクではなく、社長室内に設えてある応接セットのソファに座って、華音を待ち受けていた。
すでにお客様という扱いではなくなっているため、部屋の主は立ち上がって出迎えるようなことはしない。ただ無言で、右手で向かい側のソファを指し示し、着席するように促してくる。
三つ揃えのジャケットだけいつものようにクロークハンガーにかけ、グレーを基調とした縦縞のベストとスラックスを身に着けている。上品な白シャツに、相変わらず派手な柄の緋色のネクタイをしている。
ヴィヴィアン・ウェストウッドの新作なのだろうか――華音が見たことのない色柄のネクタイだ。
この青年実業家とは付き合いはそこそこ長いのに、ここは一貫して変わらないところだ。
華音は、赤城に指し示された向かいのソファにゆっくりと腰掛けた。
「赤城さん、午後は打ち合わせで忙しいって秘書の方に聞いてたので、寄り道せずに来ました」
赤城はソファに座ったまま、華音の全身を眺めるように、ゆっくりと視線を動かす。紺色の大人しめのワンピースに、水色のコートを携えているのを見て、どこか残念そうな顔をした。
「せっかくなのだから、袴姿で記念撮影でもすれば良かったんじゃないか?」
「記念写真を撮ったって、それを見せる家族はいませんから」
華音は自虐の意味を込め答えると、赤城は肩をすくめて軽くため息をついてみせた。
それは事実なのである。二年前の成人式でさえ、振袖を着て写真を撮ることをしなかった。
しかし、赤城は引き下がるどころか、さらに食いついてくる。
「私は見てみたい。女学生の袴姿なんて、なかなかお目にかかれるものじゃないしな」
「じょ、女学生って……赤城さんがどうしてもって言うなら、今からでもコスプレしましょうか?」
もう、あしらい方は慣れている。
いつもの戯言と割り切って、負けじと切り返していくが、そうやすやすと退治できる相手ではない。
「では、私も学生服を来て、並んで記念写真を撮らせてもらおうかな」
「えええ? それ、真面目に言ってます? こんな人が社長で大丈夫なんですか、この会社」
思わず並んだ二人の姿を想像し、華音はそれをかき消そうと必死に首を横に振った。
ありえない。しかし、この男なら――やりかねない。
不安に彩られた華音の表情を見て、赤城は楽しそうに表情を緩めた。
「ははは。組織のトップはそういう柔軟性があった方が、社員の受けはいいんだよ。さあ、ではさっそく、卒業証書を見せてもらえるか?」
華音は素直に頷いた。
そう。
今日、卒業式を終えたその足で赤城の元を訪れたのは、大学卒業の報告のためだった。
特別な理由があってのことではない。高校時代から、行事があるごとに赤城に報告がてら顔を見せるというのが、いつのまにかお約束のようになっている。
不思議な関係だと、華音自身も思っている。
しかし、いつのころからか、その理由を考えるのをやめた。
赤城のほうももう当たり前のことと割り切っているのか、アポを取ればこのように優先的に時間を取ってくれている。
華音は手にしていた上品な青色の二つ折り用の賞状ケースを、意気揚々と差し出した。
「ちゃんと卒業できました」
赤城は無表情でそれを受け取ると、まるで契約書類に目を通すがごとく、隅々まできっちりと中身を確認していく。
「今どきの卒業証書というのは、横書きのものもあるのだな。二十年もすれば時代は変わる、か」
赤城はそんな感想を漏らし、ゆっくりと卒業証書を折りたたんだ。そしてそのまま持ち主へと返却する。
二人の間に、わずかな沈黙が流れた。
赤城には何か思うところがあるらしい。わずかに首を傾げ、じっと華音のほうを見つめてくる。
「それはそうと……これからどうするつもりだ?」
「どうする、って?」
「学校を卒業したのなら、もう保護者は必要ないだろう?」
赤城の言わんとすることが、華音にはすぐに理解できた。なにもおかしなことは言っていない。むしろ正論だろう。
しかし、現状を説明するのはなかなか難しい。
華音は言葉を選び、『保護者』の考えを伝えた。
「そう……なんですけど、祥ちゃんはそう思ってないみたい」
「そう思ってない、とは?」
「社会に出たら、家を出て、自立して生活していく――っていう考えは全くないみたい、ってことです」
うまく言い表せないもどかしさばかりが、華音の胸に残される。
なんの不自由ない暮らしを送っている自分が、このようなモヤモヤした気持ちを抱えるのは、贅沢でわがままなのかもしれないが――。
深々とため息をつく華音を見て、赤城は肩をすくめてみせた。
「君たちは家族みたいなものだからな。まあ、慌てて独立別居を考える必要はないと思うが。しかしまだ、就職先を決めていないのだろう? もうこの季節だし、いまさらの話だが……」
「そう! そこなんですよ赤城さん!」
華音はここぞとばかりに、赤城の言葉に食いつくようにしてその思いの丈をぶちまけた。
この男にしか、ぶつけられない。
唯一自分の気持ちを理解してくれるのは、いつだってこの青年実業家――。
「私としては、雑用係で構わないので、楽団の仕事を手伝いたいんです! だけど……祥ちゃんが頑なに反対してて。はああ」
もう何度目だろう。肺の中の空気がすべてなくなってしまうほどの深い深いため息が、華音の口から吐き出された。
やるせない、行き場のない思い。
「富士川君は、君に対しては過保護すぎるところがあるからな……」
赤城は、目の前でうなだれている華音に同情の眼差しを向けた。
赤城麗児と富士川祥が、楽団のオーナーと音楽監督という関係に収まって早五年――気心はとうに知れている仲であるはずだが、それはあくまでビジネス上の関係にすぎない。
富士川は、赤城の言うことをおおむね友好に聞き入れる柔軟性は、きちんと持ち合わせている。
しかし、音楽監督という職位を離れて華音の保護者という立場になると、神経質なまでの生真面目さを発揮して、ありとあらゆる世話を焼いているのは、赤城もよく知るところだ。
「今までは、学業優先だからって楽団の仕事に一切立ち入らせてくれなかったけど、まさか、卒業してからも反対されるとは思ってなかったし。祥ちゃんが就職活動しなくていいって言ってたから、楽団のお仕事をさせてもらえるんだって、そう思ってたのに……まさか、本当に働かなくてもいいとか言い出すんだもん」
もう何度目だろう。また、華音の口から大きなため息が吐き出された。
華音が芹響の本拠地ホールを訪れるのは、月イチで行われている定期演奏会のときだけだった。それ以外では、ほとんど足を踏み入れることはない。
もちろん、楽団員の多くは見知った人たちであるし、スケジュールもおおむね把握しているため、普段の練習日に遊びに行くことも充分可能なはずだった。
しかし、音楽監督の富士川祥は、練習の妨げになるからと言って、頑なに演奏会以外の立ち入りを許可しないのである。
「君のことが大切なのは分かるが、いくら資産家のお嬢様でも、社会に出ていろいろと勉強をすることも大切だと、私は思うがね」
「でしょ? 赤城さんからも祥ちゃんに言ってください!」
華音はここぞとばかりに赤城をけしかけた。
こういう時こそ、オーナーという立場を利用しない手はない。
すると。
華音の話に耳を傾けていた赤城の口から、意外な言葉が発せられた。
「まあ、就職する気があるなら、希望の職種を世話するが?」
「え……赤城さんの会社に?」
「何なら、社長秘書でもいいぞ」
「ひ、秘書? そんな恐れ多い……」
華音は慌てて首を横に振り、赤城の申し出を断った。
赤城にはすでに優秀な秘書が二名いる。その二人の仕事ぶりを見ていても、とてもお飾りで務まる仕事とは思えない。
「まあ、芹沢君は案外、企画開発室の仕事なんか、向いてるかもしれないな。音楽配信事業は、来期から新たに映像も取り扱うことにしているから、人手はいくらでも欲しいところだ」
「映像? そうなんですか?」
初めて聞く話だった。
「なんだかんだ言っても、男前や美人の演奏は相応のファンも獲得できる。現に今までだって、ソロアルバムを出せばそれなりに売れている人間も少なからずいるんだ。まあ、容姿の良し悪しに関わらず、清潔感をもって見られることを意識して演奏を行うことは、決して悪いことではないと思うが。音楽は空間芸術なのだからな」
赤城はもっともらしいことを言っているが、その発言の裏には、ライトユーザーを見た目で釣る――そんな思惑が透けて見える。
華音だって、どちらかと言えばそういった人種である。演奏技術よりもその容姿で惹きつけるという考えは、一応理解できる。
華音はざっと楽団員の顔を思い浮かべた。
『美貌』で真っ先に思い浮かんだのが、やはりこの人――。
「藤堂さんあたりは美人ヴァイオリニストで売れそうですけど……でも、美濃部さんがいい顔しないんじゃ?」
藤堂あかりは五年前、同じ楽団員の美濃部達郎と結婚をし、一人娘は四歳になった。
楽団では、便宜上旧姓のまま活動しているが、夫と子供のいる既婚者である。
その美貌で売り出すことは、配偶者としては心中穏やかではないに違いない――そう華音は思ったのだが。
赤城の答えはまったくの逆だった。
「彼は両手放しで喜んでいたよ。美しい自慢の妻をみんなに見てもらいたい、とのことだ」
「……ですよね。美濃部さんですもんね。そう言いますよね」
華音は思わず苦笑してしまった。
美濃部青年は常識人でありながら常識にとらわれず、自由な思考の持ち主なのである。
赤城に相談されてノリノリになっている美濃部の姿が、華音には容易に想像できた。
「富士川君だって、若手指揮者としてかなりの人気があるしな。映像配信の需要は、そこそこ見込めると思うがね。最終的には、オペラにも着手していくつもりだ。やることは山積みだ」
「へー、オペラ……」
赤城の口にする楽団の展望は、すでに華音の思考の限界を超えていた。
新しい試みに積極的に取り組んでいるのは、同居する音楽監督のその多忙な仕事ぶりからも想像はついた。
それにしても――祖父が音楽監督だった時代には考えられなかったようなプロジェクトが、次から次へと立ち上がっているようだ。
華音の祖父・芹沢英輔が音楽監督をしていたころは、年齢的なこともあったし、旧時代的なやり方を踏襲していたこともあって、こんなふうに大きなプロジェクトを立て続けに進めていくことは、とても考えられなかった。
音楽監督が若くなったこともさることながら、ネスのエキスパートがバックについたことで、活動の幅が大きく広がった。
やはり、この目の前の青年実業家の手腕によるところが大きいと、言わざるを得ないのである。
赤城はひと呼吸おき、さらに続けた。
「まあ、就職先を世話するににしても、富士川君の意向も確認しないとな。今は楽団の仕事にかかりっきりで、芹沢君のことまで気を回す余裕がないのかもしれないな」
「そうですね。なんか、いつもすごく忙しそうにしてるし。音楽監督の仕事が忙しいのに、お料理もお洗濯もお掃除も、全部ひとりでやってるし……」
「さすがは、『芹沢家のお姫様に仕える、忠実な青年騎士』――だな。世の女性たちからすれば、君は憧れの的だ」
はたしてそうなのだろうか。華音にはよく分からない。
いつも側にいて、守られていることが当たり前すぎて、そのありがたさに気づくことができない、ということなのかもしれない。
それが幼いころからずっと『当たり前』だったのである。
そう、ずっと――。
ちょうど話が途切れたところで、赤城の秘書を務める女性社員が、タブレット端末を片手に社長室へとやってきた。
「社長、十四時からの打ち合わせですが、先方の都合で十五分早めてほしいとのことですが、宜しいでしょうか?」
「十五分後か。分かった、そのように調整してくれ」
指示を受け、秘書はすぐに隣接する秘書室へと下がっていく。
社長は『午後は打ち合わせで忙しい』と事前に秘書から聞かされていた予定は、どうやら本当らしい。
となれば、ここは空気を読み、長居は無用――である。
それにしても、華音と赤城は随分と長い時間、話し込んでいたようだ。
出会ったばかりの頃の、二人きりでの居心地の悪さが、いまとなっては嘘のようである。
華音はコートと卒業証書を入れたトートバックを携え、そそくさとソファから立ち上がった。
「では、私はそろそろ帰ります」
「もっとゆっくり話をしたかったが、すまないな」
赤城は名残惜しそうにしながら、緩みかけていた緋色のネクタイをきっちりと締め直した。すでに仕事モードに気持ちを切り替えたようだ。
華音を見送ろうと立ち上がった赤城に、華音はゆっくりと近づき、真正面に向き合って、顔を見上げた。
「赤城さん」
「どうした?」
不思議そうに首を傾げる赤城に、華音は淡々と告げた。
「たまには息抜きも必要ですよ」
「心配してくれるのか? 優しいな」
こういう時に、無駄に優しい男のオーラを出してくる。
思わず心臓が高鳴って、いままで意識していなかった恋心が少しずつ目覚めていく――わけはない。
切り返しは手慣れたものである。
「だって赤城さん、今年厄年でしょ? 見た目は三十代かもしれないですけど、もう四十二なんですから。ちゃんと自覚しないと。人間ドックを受けにいく時間もとってくれないって、秘書の方が嘆いてましたよ?」
面食らった赤城の表情に、華音は不謹慎にも勝った、と心の中でほくそ笑んでしまった。
「……私の個人情報が筒抜けだな。秘書失格だ」
「もう。話をすり替えないでください。秘書の方を責めるのはお門違いです。私に心配されて、何か困ることでも?」
明らかに動揺している姿に味を占めて、さらに畳みかけると――。
赤城は参った、と苦笑しながら、早々に白旗を上げた。
「ハッ、君はいいお嫁さんになりそうだな」
その瞬間。
胸が引き絞られるような鋭い痛みを、華音は感じた。
これは何? 既視感?
以前、同じことを言われたことがある。
何故だろう。ハッキリと思い出せない。
堅く封印をした心のどこかが、きしむような音をたてている。
黙ったまま複雑な表情をしている華音を見て、赤城はなだめるようにして言った。
「わかったわかった。人間ドックの件は前向きに考えよう」
「そうしてください。赤城さんに死なれたら困りますから」
「芹沢君を残しては死ねないさ。君には、私が必要だ。そうだろう?」
この男ときたら、凝りもせず――恋愛映画のワンシーンを気取って、芝居がかったセリフをためらいもなく口にする。
しかし。この程度で、負けるわけにはいかない。
華音は右手の親指と人差し指をくっつけて丸め、それをキザ男の目の前に突きつけた。
「当たり前です。赤城さんの生死は、リアルに楽団の存亡に関わるんですから。金銭的に」
「やれやれ、つれないな。そこは嘘でも、頬を赤らめてときめいてくれても、いいところなんだがな?」
大人の男の余裕を見せつけて、わざと色香をふりまく真似をする赤城のせいで、場の空気が真冬のシベリア並みに凍りつく。
「…………帰ります」
華音は冷ややかな眼差しで、目の前の大男を見上げて淡々と告げた。
すると。
赤城は、その華音の反応に気をよくしたのか、満足そうにして楽しそうに微笑んでみせた。
「ああ、気をつけて。富士川君によろしく言っておいてくれ」
「分かりました」
形ばかりの社交辞令を託されて、華音はくるりと赤城に背を向け、そのまま社長室をあとにした。
赤城エンタープライズ本社ビルの外へ出ると、穏やかな早春の陽気が華音の頬に心地よくまとわりついた。
『今夜は二人で卒業祝いをしよう』
そう言って、今朝、マンションを送り出してくれた富士川青年の穏やかな笑顔を、華音はぼんやり思い出した。
今日は早く仕事を切り上げて、必要な食材の買い出しに行くと言っていた。
彼の性格を考えると、正午できっちり仕事を終わらせて、いつもよりもちょっといい食材を探しに、百貨店の食品売り場へ出かけているはずだ。
華音の好物である季節のフルーツタルトも、ぬかりなく準備してくれるに違いない。
彼のすべてが、華音には手に取るように分かる。
『芹沢家のお姫様に仕える、忠実な青年騎士』――そう例えた赤城の言葉は、おそらく正しい。
――どうしようかな。祥ちゃん、そろそろ帰ってるかな?
帰ったらもう一度、きちんと今後のことを話してみよう――華音はそう強く心に決め、二人が暮らすマンションへの長い道のりを、ゆっくりと歩き始めた。