懺悔の章 (4)  夢か幻か現実か 《現実》

 客席の照明は落とされていたが、ステージ上は煌々とライトで照らされている。その中央には、コンサート用のグランドピアノがすでに準備されて置かれていた。
 華音はステージの明かりを頼りに、邪魔にならないように極力気配を消して、ホールの壁づたいに進んでいった。

 ステージの上では、先程のワンピース姿の女の子が、ピアノの傍にたたずむ富士川と高野にまとわりついている。
 二人の男にとっては、何度となく繰り広げられている光景なのだろう。特に驚く様子もみせていない。
 高野は女の子の頭をなでながら、楽しそうに微笑みかけた。
「あれ、まーたパパママのところから脱走してきたか。ははは、元気だなー。ホールは巨大な遊び場だもんなー」
「あそびじゃないの! あいらは、かんとくのおきゃくさんなの!」
 とりわけ富士川は、この美濃部夫妻の娘である『あいら』という女の子の、お気に入りの存在である。
 高野よりも富士川の方が顔を合わせる頻度が多いせいでもあるが、単純に、『相手をしてくれる優しい人間』だと認定されているのだろう。

 最近はもっぱら、この優しい音楽監督との『演奏会ごっこ』が、彼女の流行りらしい。
 もちろん、多忙な音楽監督にヴァイオリンを弾かせるようなまねはしてはいけないと、両親からは言いつけられている。
 しかし、小さな女の子の相手をすることに長けている富士川は、ついつい甘くなってしまうようで――わずかな空き時間にあいらの要望を聞き入れているのである。

 こうして親の監視の目をかいくぐってまでやってくる可愛らしいお客様を、富士川青年は慈しむような柔らかな表情で受け入れる。
「あいらちゃん、何を弾いてほしいの?」
「パガニーニ! パガニーニのカプリス!」
「ああ……この間弾いてあげたやつか。あとでママに弾いてもらったらどうかな? あいらちゃんのママはとても上手だから」
「かんとくのがいいの! パガニーニのカプリス!」
 大きな黒目がちの瞳をキラキラさせて、あいらは無邪気にはしゃいでいる。

 華音は、富士川とあいらのやりとりを眺めつつ、そのまま鍵盤を前にして座っている高野の方へと近づいた。
 高野は華音が戻ってきたのを確認し、肩をすくめてみせる。
 調律の作業が始まるまでは、もうしばらくかかりそうだ――ということらしい。

 あいらの幼いながらもその整った顔立ちは、さすが母親譲りだ。しかし、その目元の雰囲気は、どことなく既視感のある雰囲気を醸し出している――華音はそんな気がしていた。
 気のせいだ、と済まされてしまうレベルなのかもしれない。
 しかしその既視感は、華音のよく知る、父親の美濃部青年のそれではない。

 ――あいらちゃんの父親って、やっぱり……。

「富士川ちゃんにパガニーニ弾かせようとするなんて、末恐ろしいなこの子猫ちゃんは。両親の才能が遺伝しているのかねー」
 脳天気な高野の声に、華音は我に返った。
 いま思っていたことをあわてて頭の中から消し去り、気取られぬように返事をする。
「そう、だよね。祥ちゃんのこと『カントク』って呼んでるのも、パパママの呼び方を真似てるんだろうしね」

 ――両親の、遺伝……か。

 華音はため息をついた。
 いくら一人で考えても、真実にはたどり着けないのである。


 ピアノの傍らでは、いまだ富士川青年と女の子のやりとりが続いている。
「これからピアノを直すから、いまここでは音を出せないんだよ。終わってからにしようか」
「いつおわるのー? ひいてくれるまで、あいら、ここにいるー」
「ええ? まいったな……」
 あいらは富士川青年の上着の袖をしっかり掴み、ヴァイオリンを弾くようにせがんでいる。ピアノの調律をするからと丁寧に説明しても言うことを聞こうとせず、頑なに首を横に振るばかりだ。

 すぐそばでその様子を見ていた高野は、父性に満ちた眼差しで、富士川に取りすがっているあいらに優しく微笑みかけた。
「よし、おじさんがピアノで弾いてあげよう。パガニーニ、だよね?」
 さすがは娘を持つ父親だ。その扱い方には風格さえ感じさせる。

 スタインウェイのグランドピアノを前にして高野が弾き始めたのは、リスト作曲・パガニーニ大練習曲第6番「主題と変奏」だ。
 フランツ・リストによってピアノ独奏用に編曲されたパガニーニの曲は、練習曲とは名ばかりの、ヴァイオリンに匹敵するほどの難易度の高い曲である。

 あいらは聞き覚えのあるフレーズに、にわかに反応した。
 取りすがっていた富士川青年のもとを離れ、ピアノのそばまで数歩走り寄り、高野の側にぴたりと張り付く。そしてそのまま、鍵盤の上を軽やかに跳ね回る指の動きをじっと見つめ、その目を輝かせた。



 華音はゆっくりと、解放されたばかりの富士川青年に近づいた。
 彼の表情には、『安堵』の二文字がはっきりと浮かび上がっている。
「ごめんね祥ちゃん。高野先生に、自主練のメンバーしかいないから、荷物持ちでついてくればって、そう言われて」
 今日は合わせの練習ではないため、遭遇してもそこまで困らせるようなことにはならないと思っていたが、念のため、先に謝罪の姿勢をみせる。
 いつもであれば、先程まで美濃部の娘がしていたように、腕に取りすがって許しを請うところだが――。
 仕事モードの富士川は、数十センチの距離を保ち、どこかよそよそしい雰囲気の中、穏やかに返事をした。
「そんな、謝らなくてもいいよ。まあ、こうなるだろうとは思ってたから。別に、華音ちゃんを出入り禁止にしたいわけじゃないんだから、高野さんと一緒の仕事なら、堂々と来ればいいよ」
「ありがとう、祥ちゃん!」
「どういたしまして。ちゃんと仕事、頑張ってね」
 その口振りは淡々としていたが、眼鏡の奥の涼しげな目元を穏やかに緩ませている。
 ちゃんと一人前の大人として扱われたような気がして、華音は嬉しさで胸が一杯になった。
「うん! フフフ、祥ちゃんやっぱり大好き!」
 華音が嬉しさをこらえきれずにそう言うと、富士川はどこか照れたようにしながら、やれやれとため息をついた。
「……華音ちゃん。ここではその呼び方禁止。『監督』ね」
「はい、富士川監督。フフフ」

 高野和久のピアノ演奏によるリストのパガニーニ「主題と変奏」は、早くも中盤にさしかかった。
 あいらはいまだ夢中になって、高野の背中に張り付くようにしてパガニーニの複雑な旋律に聴き入っている
 富士川は華音に目配せをし、演奏する高野の邪魔にならないよう、ステージ上から客席のほうへと誘導した。

 二人は連れだってステージを降り、そのまま階段状になっている一階席の中央通路を、奥へ奥へと上がっていった。
 一階席の最後列までたどり着くと、富士川は華音を促して先に座らせた。そしてその右側に、富士川も隣り合うようにして着席した。

 二人はそのまま、高野のピアノから繰り出される珠玉の音の波間に、その身を預けていた。
 束の間の休息だ。
 ステージ上の高野は、見た目こそ寝起きのボサボサ頭にラフなパーカーにジーパン姿だが、指慣らしもせずにいきなり暗譜で難曲を弾きこなす様は、さすが天才と言わざるを得ない。
 華音は、隣で黙ったまま静かに演奏を聴いている富士川青年に話しかけた。
「高野先生って、ピアノだけは本当にスゴいよね。『東洋のフランツ・リスト』の異名はダテじゃないんだな、って」
「そうだな。こんな立派なホールで、こうやって二人だけで高野さんのピアノを聴くのは、相当な贅沢かもしれないな」
 確かに、貸し切りのライブ状態である。
 演奏を聴きながら、高野とあいらの様子をしばらく眺めていた富士川は、感慨深げに語り出した。
「なんだかすごく懐かしい。小さい頃の華音ちゃんも、あんな感じだったから」
「そう?」
「どこに行くにも俺についてきて、本当に可愛かった」
 遠き日々の光景に思いを馳せるように、富士川はしみじみと言う。
「過去形? 今はそうでもない?」
「もう、可愛いという言葉を使っていい年齢じゃないからさ」
「ええ? まだ二十二だし」
「もう二十二だよ。充分大人だ」
 そう言って、富士川は隣に座る華音に、穏やかに微笑んでみせた。
 どことなく、くすぐったい。思わず華音も、それにつられて微笑み返す。
 二人を包み込んでいる慣れ親しんだ空気感が、どこまでも心地よい。
「あっという間だったな。俺たちが出会ったとき、華音ちゃんは二歳だったから、あれからもう二十年経ったんだ」
 当時、華音はまだ小さかったが、初めて出会った日のことは、いまでもハッキリと記憶している。
 それからずっと、二人は長い長い時間をともに過ごしてきた。
「華音ちゃん、あのさ……」
「うん? なあに?」
 富士川青年は慎重に言葉を選んでいるのか――不自然な沈黙が、言葉の間に挟み込まれる。
「……どうしたの? 祥ちゃん」
 華音は続く言葉をひたすら待った。
 すると。
「大学も無事卒業できたことだし、そろそろ……ちゃんとけじめをつけようかと思うんだ。もう、保護者は必要ないだろうから」
 唐突に告げられた言葉に、一瞬、言葉を失った。
 照明の落とされた客席では、こちらを向いている彼の表情の微妙な動きが読み取れない。
 華音は動揺する心の内を悟られないように、平静を装って答えた。
「え? ああ……そうだよね、もう独り立ちしないとダメ、だよね」
「いや、そういうことじゃなくて」
 富士川は、パガニーニのピアノの調べに載せて、続く言葉をさらりと言った。
「籍、入れようか。華音ちゃん」
「…………え?」
「十三も歳が離れてるし、こんな音楽バカの男じゃ、華音ちゃんには相応しくないかもしれないけど」

 ――籍を、入れる? それって……う……そ?

 驚きすぎて、返事をしようにも言葉が出てこない。

 これまで、いわゆる『同棲』状態にあったとはいえ、身体的接触は皆無だった。ふざけたり、甘えて抱きつくことはあっても、それ以上のことは何もなかったのである。
 同居している他人同士だが、恋人関係という認識はまるでなかった。

 華音は、完全に取り乱してしまっていた。
 首も頬も耳たぶも、焼け付くように熱い。

 お互いの膝と膝が触れ合い、お互いの吐息が感じられるほどの親密な位置関係で。
 これまでもこうやって、当たり前のように寄り添っていたはずなのに、富士川青年のあまりにも唐突でストレートなプロポーズに、にわかに『男』を意識してしまい、身体と心が過剰反応してしまう。
 華音は気恥ずかしさに耐えられず、黙ったまま座席でじっと身を強ばらせていた。
 そんな挙動不審の華音の姿に、富士川は途惑いの表情を見せた。
「俺のこと、好きじゃない?」
「ま……さか。祥ちゃんのことは好き。大好き」
「だったら、大丈夫だ」
「大丈夫って、あの、でも……」
「側にいて欲しいんだ、ずっと。最後まで」

 あのとき。
 祖父が突然他界しなかったなら――せめてあと五年長生きしていたら、ひょっとしたら、祖父がこの富士川との結婚を言い出していたかもしれない。いや、確実にそうなっていたはずだった。
 政略的匂いの強い婚姻関係とはいえ、相手が富士川なら――それは華音にとって願ってもないことだった。
 自分のすべてを知る男。
 自分のすべてを許す男。
 そして、自分のすべてを預けられる唯一の男。

 ただ、華音にはまだ富士川の言葉の真意が、いまひとつ掴み切れていなかった。
 素直にその疑問をぶつけてみる。
「本当に、私でいいの?」
「もちろん。この日が来るのをずっと待ってた。芹沢先生に跡継ぎを打診される、ずっとずっと前から――」
 富士川青年は迷いなく、その長き想いを淡々と口にする。

 跡継ぎを打診されていたのは、おそらく華音が高校生になった頃――祖父が亡くなる直前のことだ。祖父と富士川青年がそのような会話をしていたことを、華音は覚えている。
 それよりもずっと前から――華音には全く想像がつかなかった。

「ずっと前って、いつから?」
「そうだな……大学を卒業して、芹沢の家を出て、一人暮らしを始めてから、かな」
「そんなに前?」
 華音は再び驚いた。
 それは、もう十数年も前、華音がまだ小学校低学年だったころの話だ。
「俺が一人暮らしを始めて間もなく、乾さんに連れられて華音ちゃんが泣きながらマンションまでやって来たとき、華音ちゃんには俺が必要なんだ、この子に俺は必要とされてるんだって、そう思ったんだ。自意識過剰だったかもしれないけどさ」

 そのときの出来事は、華音もよく覚えている。
 芹沢家に居候していた彼が急にいなくなり、取り乱して泣きじゃくり、当時健在だった祖父母を散々困らせた。

 祖父の命で、執事の乾が幼い華音の手を引き――そうこの、いま右隣に座っている男は、自分にとって本当に本当に、かけがえのない存在だったのである。
 その幼き記憶が、華音の忘れかけていた富士川への思いを、再び呼び起こした。

「でも、本当に結婚を意識したのは、アマティを手放した瞬間かもしれない」
「え?」
「この五年間はそのつもりで、ずっと一緒に暮らしてたから」
 富士川青年の、その真っ直ぐな二度目のプロポーズの言葉が、華音の胸の真ん中を、見事に射抜いていった。

 ――そう、だったんだ……ずっと、そういう風に見てくれてたんだ、私のこと。

 こんなにも自然に一緒にいて、平穏に日々の生活を共にしてきた歳月が、鮮明な色彩と確かな輪郭をもって浮かび上がる。

 もちろんこれまでも、富士川から全力で愛されているという認識はあったが、それはあくまで肉親としての愛情であると華音は思っていた。
 しかし、当の本人はそうは思っていなかった――その事実をここまでハッキリと告げられたのは、長い付き合いの中でこれが初めてだった。


 ただひとつ。
 富士川の言葉に、華音は引っかかりを覚えた。

 アマティを手放した、その瞬間。
 命よりも大切にしていた楽器を、手放した代わりに手に入れたもの。
 それが、華音のことを指しているとするならば。

 その身代わりとして、富士川青年のヴァイオリンは今――。


【五年前の監督の交代劇って、本当に円満だったのかな】
 先程の安西青年の言葉が、華音の脳裏によみがえってくる。

【君の手を放してくれた鷹山君の気持ちも察してやれ】
 そう。五年前のあの日、オーナーの赤城言われた言葉が――すべてだ。

 ――そっか、そうなんだ。だから鷹山さんは……。

 『彼』は私の手を放した、ずっとずっと前に。
 その身代わりとして、兄弟子の大切な楽器を持って、いなくなってしまった。

 だからもう――待ち続けても、帰ってくることはないのだ。



 リストのパガニーニ大練習曲6番は、フィナーレに差し掛かる。
 鍵盤の上を縦横無尽に跳ね回る、天才ピアニストの十本の指。

「返事を聞かせてもらえる?」
 富士川は猶予を与えず、華音に答えを求めた。
 何を迷うことがあろうか。
 出会った瞬間から、自分は特別だったのだ。
 富士川青年に好意を寄せる数多の女性たちの、到底手の届かぬ特別な場所で、いつでも守られていたのだ。
 そして、これからも――。
「うん。祥ちゃんの側にいる、ずっと」

 その瞬間。
 高野が絶妙なタイミングで、リストの超絶的難曲・パガニーニ大練習曲6番を、見事に弾ききった。
 大ホール内に響き渡るピアノの余韻と、小さな手からは可愛らしい賞賛の拍手が上がる。

 それはまるで、二人の未来の始まりを祝福しているかのようだった。