懺悔の章 (5) 報告
朝、陽の光で目が覚めてベッドから起き出すと、すでに同居人はキッチンに立ってパンをトーストし、スープを温めていた。
ベーコンと玉ねぎのうまみが引き出された濃厚なコンソメの香りが、微かに漂ってくる。
いつもとなにも変わらない、日常風景だ。
彼はコンロにかけられたスープ鍋の様子を見ながら、背中越しに華音に問いかける。
「華音ちゃん、卵はどうする?」
「オムレツがいい」
「じゃあ、サラダはなしにして、野菜はオムレツに入れるよ」
「うん」
華音はキッチンを素通りしてパジャマのまま洗面所へ向かい、顔を洗って髪を整える。それが終わって部屋へ戻り、服を着替えるころには、所望したメニューがきちんと仕上がって、テーブルの上に並べられているのだ。
執事が給仕していた昔の芹沢邸での朝食と、ほとんど変わらない。
富士川青年はそれを踏襲して、一日たりとも手を抜くことはなく、こうして華音に食事の用意をしてくれるのである。
彼の動きには、無駄が一つもない。てきぱきと作業をこなし、華音がテーブルに着くのに合わせて、自分も向かい合うようにして着席する。
「では、いただきます」
「いただきます」
昨日のプロポーズが、まるで夢の中の出来事だったかのように、現実は何も変わることはなかった。
これまでも、そしてこれからも――ぬるくて心地いい幸せな空気に包まれて、ゆるりとした時間を過ごしていくのだ、きっと。
華音は、目の前で淡々と食事を済ませる男の顔をじっと見つめた。
ふと、目と目が合う。
【この五年間はそのつもりで、ずっと一緒に暮らしてたから】
その瞳の奥に、彼の想いがあふれている。
華音は途端に気恥ずかしくなり、思わず視線を泳がせた。
すると。
その動揺が伝わったのか、富士川はわずかに首を傾げて、眼鏡の奥の目元を穏やかに緩ませる。
「今日、高野さんのお店が休みだったよね。華音ちゃんのお昼ご飯、作っておこうか?」
「お昼は大丈夫だよ。外で食べる」
「そう? 出かけるの?」
「うん。赤城さんのところ。結婚のこと、報告に行ってくる」
あっさりと答える華音に、富士川は驚いたように何度も目を瞬かせた。
「え……今日? 俺、今日はちょっと仕事が立て込んでるんだけどな」
「一人で大丈夫だよ。週末には一緒に挨拶しにいくって、言っておくから」
華音がそう説明すると、富士川はどこか心配そうにしながらも、分かった、と素直に頷いてみせた。
昨日プロポーズされたあと、お互いそれぞれの仕事に戻り、帰宅したあとも特にそのことについて触れることはなかった。
いつものように一緒に夕ご飯を食べ、それぞれお風呂に入って、それぞれのペースで就寝につく――そんな、いつもと変わらぬ日常が繰り広げられていただけだった。
そのため、華音が自ら赤城のところへ『結婚』の意思を前向きに伝えに行こうとするのが、婚約者となったばかりの男にはかなり意外なことだったようだ。彼の微妙な表情がそれを物語っている。
確かにそんなに急ぐことでもないのだろうが――なぜか、オーナーの赤城には一番最初に伝えるべきだと、そう華音は思った。
赤城に認めてもらって、自分の選んだ道に賛同し、そして後押ししてほしい。
以前、赤城は自身のことを、華音の『教育係』だとうそぶいていたことがあったが、実際その通りなのだと、つくづく華音はそう思う。
富士川青年は壁掛け時計に目をやった。
あと五分。仕事に出かけるまでの時間は、残り少ない。
彼はそそくさと立ち上がり、二人分の食器をまとめて、素早く丁寧に洗いだした。
何度言っても、富士川は頑なに華音に家事をさせようとしない。
唯一許されているのは、テーブルの上をふきんできれいに拭くことだけだ。
華音がいつものようにテーブルをつやつやに拭き上げていると、富士川はてきぱきと後片付けを済ませて、つけていたカフェエプロンを外し、先程まで座っていた椅子の背もたれにそれをかけた。
「じゃあこっちも、今日の練習が終わった後に、楽団のみんなには報告しておくよ」
「え……うそ? ど、どうしよう……緊張しちゃうんだけど!」
ふと、富士川が実際に練習後のミーティングで話を切り出す姿を想像してしまい、華音は恥ずかしさで一杯になった。
美濃部夫妻や安西青年など、普段から親しくしている楽団員たちの反応が気になり、にわかに焦燥感にかられてしまう。
すると。
一人慌てる華音をよそに、富士川はいつもと変わらず落ち着き払った表情で、淡々と華音に告げた。
「そんな、緊張しなくても大丈夫だよ。きっと、そんなに驚かないんじゃないのかな」
「そう……かな?」
「だってさ、俺たちずっと一緒に暮らしていたんだし、自然の流れだって、きっとみんなそう思うよ」
確かに、彼の言うとおりなのかもしれない。富士川の言葉に、華音は次第に冷静さを取り戻す。
自然の流れ――。
そこには、意外性など微塵も存在しない。
華音はひと呼吸置き、富士川の顔をゆっくりとを見上げた。
「それもそうだよね。ずっと、一緒だったんだもんね」
富士川は黙ったまま頷いた。そして、両手で華音の頬を包み込むようにして、優しく触れてくる。
その親密さを醸し出す撫で方に、華音の身体がピクリと反応した。
「そうだよ。そして、これからもずっとね」
艶めく低音に、自分自身でも分からない身体のどこかが、痺れていく。
「それじゃ、行ってくる。赤城オーナーによろしく言っておいて」
「い……ってらっしゃい」
富士川が仕事に出かけてしまうと、華音は部屋に一人残された。
――ビックリ、した……キスされるのかと思った。
今まで至近距離を取られても、そんなことを考えたことは一度もなかった。
しかし結婚するとなると、当たり前のようにそういうことが行われることになるわけで――。
富士川青年相手に、男女の愛情行為がちゃんとできるのだろうか――華音は恥ずかしさと途惑いが入り混じった、なんとも言えない複雑な気持ちになってしまった。
経験値が圧倒的に少ない。それは華音自身も認めるところだ。
唯一のキス経験の相手は、女性経験豊富な手練れの男性だった。
やたらと口数が多く、甘い言葉を好き勝手にささやいて、気まぐれに抱きしめて唇を重ね合う――その先の関係に進まなかったのが奇跡と思えるほど、その愛情行為は濃密だった。
比べるのはおかしい。おかしいのは分かっている。
しかし――。
いままで思い出すことさえできなかったというのに、ここ最近、タガが外れてしまったかのように、鷹山のことばかり考えてしまう。
未練があるとかそういうことではない。おそらくは。
目の前から姿を消して、音信不通となってからもう、五年も経っている。
もうすでに、過去の存在なのである。
昼近くになって、華音はようやく予定していた場所へとたどり着いた。
赤城エンタープライズ本社ビルである。
なんだかんだで、赤城に会うのは卒業式以来、およそひと月ぶりのことだった。
今日はアポなしだ。いつもは素通りする受付で、社長の赤城の所在を訪ねる。
受付の社員はすぐに秘書室へと取次ぎ、二言三言やり取りすると、あっけないほど簡単に話がついた。
「社長は在室中ですので、直接社長室をお訪ねくださいとのことです」
「分かりました。ありがとうございます」
午前中は社内ミーティングに忙しく、午後は来客で忙しいことが多い。突然訪問するには昼休み直前がつかまりやすいということを、華音は経験的に知っている。
やはり。
華音の読みは見事的中したようだ。
社長室のドアをノックすると、中からすぐに返事がした。受付の社員から秘書を通してすでに、華音の来訪は伝わっているはずだ。
その証拠に、部屋の主は華音の姿にまったく驚くようなことはなく、むしろ歓迎しているような笑顔を見せる。
「今日は店休日だろう? 貴重なオフに、わざわざ私に会いに来てくれるとはな」
いつもであれば、きっちりスケジュール管理をしてきびきびと仕事に励んでいるはずなのだが――今日はすでに一通りの決済を終えたのか、赤城は立派な造りの自身のエグゼクティブデスクで、頬杖をつきながら手持ち無沙汰にのんびりとビジネス雑誌に目を通していた。
華音は愛想よく笑顔を作って、赤城のデスクに歩み寄った。
「赤城さんにお話があって」
しばし考え、赤城は首を傾げてみせる。どうやら思い当たる節がないらしい。
「話? いったい何だ? まさかとは思うが、初任給の前に賃上げ交渉か?」
「そんな、違いますよ」
華音が首を横に振ると、赤城はすかさず語調を和らげて、艶めく声を出す。
「では、愛しい男の働く姿を、間近で見ていたいからか?」
「全然違います」
「そんな間髪入れずに全力で否定することもあるまい? ほんの冗談だ」
ため息交じりにそう言うと、赤城はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「赤城さんの冗談は笑えないですから」
本当に油断も隙もない男である。
「まあ、いい。今日は珍しくスケジュールに余裕がある。一緒に昼飯でもどうだ?」
ふと社長室のデジタル壁掛け時計に目をやると、すでに正午近い時刻となっている。
話をするにはそのほうが都合がいい――そう思い、華音は素直に赤城の申し出を受けた。
赤城に連れられてやってきたのは、三軒隣のビルの一階にある、モダンなインテリアがお洒落なイタリアンレストランだった。レストランとは銘打っても、日中はカフェ、夜にはダイニングバーへと変わるような、開放的なつくりの店舗である。
赤城は席に着くなり二人分のランチコースを注文すると、無駄な時間を過ごすまいと早々に話題に切り込んできた。
「それで? 話とはいったいなんだ?」
「あの……私、その――」
「どうした?」
赤城は早々にお冷に手をつけ、のどを潤すべくグラスを傾けている。
華音はその様子を眺めながら、意を決して目の前の男に宣言した。
「祥ちゃんと、結婚します」
青年実業家の、水を飲み込む喉の動きがピタリと止まった。
そして、液体がどこかおかしなところへ入り込んだのか――目の前の男は苦しげに何度も咳き込み、上着のポケットからハンカチを取り出し口元を押さえて、懸命に呼吸を整えている。
「…………結婚、だと?」
ようやく、赤城が言葉を発した。
その両目はこれほどまでにないほど見開かれ、半信半疑の眼差しで華音にその真偽を問いただす。
「本当か? 結婚? 富士川君と?」
その、赤城のあまりのうろたえぶりに、華音は途惑いを覚えた。
そもそもこの男は、富士川と華音がともに人生を歩んでいくことを良しとするような言動を、これまで何度もしてきたのである。
そのため、ここまで赤城が動揺を見せるとは、華音は全く想像していなかった。
「あの……ひょっとして反対ですか?」
「そういうわけでは――ただ、意外だと、そう思っただけだ」
華音にしてみれば、赤城のその反応のほうが意外なのである。その思いを、素直に目の前の男にぶつけてみる。
「もっと、喜んでくれるかと思った」
「もちろん喜んでいるさ」
その言葉とは裏腹に、赤城の表情は硬いままだった。そして、それっきり口を閉ざしてしまい、何やら考え事を始めてしまった。
テーブルは、しばし沈黙に包まれる。
華音は赤城の様子をときおり伺いながら、手持ち無沙汰に、お冷のグラスの水滴をおしぼりでのんびりと拭った。
数分後――。
「それで? 富士川君からは、なんと?」
ようやく、目の前の男から『質問』が返ってきた。
「なんとって……えーと、なにがですか?」
「プロポーズの言葉だ。なんと言われたんだ?」
「え、興味あるんですか。他人のプロポーズなんて」
「後学のために聞かせてもらえると嬉しい。他言はしないさ」
ぺらぺらと話すのは気が引けるが、隠しておくほどのことでもない。
華音は話せる範囲でなら、と、まだ記憶に新しい昨日のプロポーズの内容を、赤城に説明して聞かせた。
まだ幼かった頃、富士川が芹沢家を出ていったとき、執事の乾に手を引かれて華音が会いに行った日のこと。そして、そのときに結婚を意識したこと――。
「なるほどな。なかなか素敵なエピソードじゃないか!」
赤城は無作法にもテーブルに肘杖をつき、前のめりになって頷いている。
「つまりその時がまさに、『運命の赤い糸』が結ばれた瞬間、というわけだな! 素晴らしい!!」
先程までの沈黙とは一転して、大袈裟に反応してみせる赤城を前に、華音は思わずため息を漏らした。
「……前にも誰かが言ってたと思いますけど、赤城さんって、そういうところは意外とロマンティストですよね」
「男女が結ばれる瞬間というのは、往々にしてロマンティシズムにあふれているものなのだよ!」
意外と、と少々毒づいた華音の言葉もどこ吹く風だ。華音の反応に構うことなく、赤城は意気揚々と語り出す。
「そうと決めたのなら、結婚式のプロデュースを私に任せてもらえないか?」
「結婚式のプロデュース? 赤城さんがですか?」
その華音の反応に気を良くし、赤城はさらに説明を続ける。
「昨年から我が社にブライダル事業部を新たに立ち上げて、いくつかのプロジェクトも控えているのだが――まあ、若いプランナーたちを育てるのにいい機会だしな」
「ロマンティシズムのなれの果てが、新事業参入ですか? ……恐れ知らずというか何というか……赤城さんらしすぎて、もう大して驚かないですけど」
「誉め言葉として受け取っておこう。費用のことは気にしなくてもいい。楽団と当社で折半する」
「完全に実験台じゃないですか。もう……」
「もちろん、納得のいくものにさせるさ。我が社の機運を賭けてね」
この男の強引な手腕には、逆らうだけ時間の無駄なのである。
華音は早々に観念し、深々とため息をついた。
「そうと決まれば善は急げだ。ジューンブライダルに間に合わせるから、そのつもりでいてくれたまえ」
「え、そんな急すぎません? 祥ちゃんにも聞いてみないと……」
いまは四月になったばかりである。六月のジューンブライドに照準を合わせるなら、猶予は二ヶ月程しか残されていない。
さすがに、それは無謀だろう。
すると、目の前の青年実業家は意味ありげな笑みを浮かべ、さらりとひと言――。
「富士川君は私に逆らうものか。君のお兄さんと違って従順だからな」
目と目が合う。
とっさに返答が出てこない。
君の『お兄さん』と、違って――。
赤城の口から、『彼』の存在を認識させられるような言葉が発せられるのは、本当に久しぶりのことだった。
その絶妙なタイミングで、二人の前に注文していたランチコースが運ばれてきた。
サラダとスープ、二種類のパスタが載った華やかなプレートがそれぞれの目の前に置かれていく。
店員が去ってしまうと、赤城は目の前に置かれたカトラリーケースからフォークを取り出し、残りを華音が取りやすいようにテーブルの上を滑らせるようにして差し伸べた。
とにかく所作に無駄がない。
華音がフォークとスプーンを取り出し、サラダに手を付け始めるころには、赤城はすでにスープを飲み干し、パスタの皿に豪快にフォークを突き刺していた。
相変わらず、豪快だ。しかし、その食べ方は思いのほか洗練されていて、きちんと品がある。
華音はサラダのレタスをフォークでいじりながら、おずおずと尋ねた。
「あの……鷹山さんに、このことを?」
オーナーの赤城と、鷹山に関する話をするのは、彼が楽団を去ってから初めてのことだった。
華音は努めて平静を装いながら、慎重に赤城の表情を確かめる。
顔色はなに一つ変わらない。予想に反して、その反応は実にあっさりしたものだった。
「伝えるべきだろうな、一応は。富良野の実家のほうに案内を出しておこうか?」
オーナーの赤城とこんなにも冷静に彼の話が出来ていることが、ものすごく不思議だった。
移りゆく時の流れを、改めてひしひしと感じさせられる。
そう。
富士川青年との結婚が決まった身なのである。
不必要に避けることは、逆におかしいのかもしれない――華音は、勇気を振り絞って、赤城に再び尋ねた。
「赤城さんは、鷹山さんと直接連絡取り合ったりしているんですか?」
「必要なことがあれば、メールを送ることもある。が、返事はまず返ってこない。確認はしているようだから、こちらの用件は伝わっているものと認識しているが」
赤城と彼はいまだ、何らかのカタチで繋がっている――。
冷静さを保とうとするも、華音の心臓はどんどん鼓動を速めていく。
生きている。
この世のどこかに存在している。
過去ではなく、今――。
華音は、まだ手の付けられていないパスタの皿の隅に、持っていたフォークを静かに置いた。
そしてゆっくりと息を吸い込み、すでに半分ほどパスタを平らげている大男に向かって、勇気を出して思いを告げた。
「あの……鷹山さんの連絡先、教えてもらえませんか」
「なぜだ?」
予想通りの反応だ。すんなりと肯定の答えは返ってこない。
しかし、ここで引き下がるのもかえって不自然である。
華音は、なおも続けた。
「直接伝えた方が……いいのかなって。電話はあれですけど、メッセージなら」
「教えることはできない。個人情報だからな」
赤城がもっともらしい言い訳をした。
「個人的にやりとりするのは、お互いのためにならない。富士川君を含め皆が不幸になる」
赤城の迷いのない物言いに、華音は二の句が継げなくなった。
皆が、不幸に――。
返事が出来ずに固まってしまった華音を見て、赤城は語調をゆるめて諭すように言った。
「芹沢君のことが憎くて言ってるんじゃない」
「……分かってます。私ももう、子供じゃないので、赤城さんの立場からすれば、そうするのが……当然だと思います」
「ただし――」
「……なんですか?」
「芹沢君が書いた文章を、私が代わりに送信するというのであれば、まあ、引き受けてもいいがね」
珍しく、赤城が譲歩してみせた。
「じゃあ、いまここで書いてもいいですか?」
「ああ。私のタブレット端末を使いたまえ。出来たらすぐに送ってやろう」
赤城はスーツの内ポケットから小型のタブレット端末を取り出し、メッセージがすぐに送れるように操作して、それを華音の目の前に置いた。
しかし。
いざ編集画面を前にすると、なにも文章が出てこない。
怖い。
考えれば考えるほど、何を伝えればよいのか分からなくなってしまう。
「余計なことは考えるな。事実を淡々と書けばいい」
迷いに迷うその様子を見かねて、赤城が口を挟んでくる。
華音は、その言葉に素直に従った。
――事実を、淡々と。事実を、淡々……と。
心の中で呪文のように繰り返し、華音は文字を入力し始めた。
富士川祥と結婚することになったこと。
六月に挙式が執り行われること。
それに合わせて、一時帰国できるかどうかを確認したいこと。
聞きたいことは山のようにあっても、彼がいま置かれている状況がまったく分からない状態では、たわいもないことを尋ねる勇気はまったく出てこない。
華音は、鷹山へのメッセージを入力したタブレット端末を、持ち主へと返してやった。
赤城は、華音が作成したメッセージの内容に対して特に口出しすることなく、戻ってきた端末を器用に操作して、すぐに送信した。そして、送信された画面を華音のほうへと向けて、ちゃんと送ったと言わんばかりに、それを見せつけてくる。
先程赤城は、『鷹山からのメールの返事はまず返ってこない』ということを話していた。
いま送ったメッセージが、はたして彼に届くのかどうか――全くの未知数である。
華音はようやく、すっかり冷めてしまったパスタに手をつけ始めた。
一方の赤城はすでに食べ終えて、手持ち無沙汰にタブレット端末をいじり続けている。
しばらくして赤城は、ああ、と呟くような声を出した。
「読んだようだから、これで鷹山君に伝わったはずだ」
「あの……返事、は?」
「ウィーンとの時差は八時間だから、現在早朝四時過ぎだ。すぐ読んだだけでも御の字だ。二度寝でもしてるんじゃないか? まあ、このメッセージを読んで、二度寝するとは考えられない、か。彼の唖然としている顔が目に浮かぶよ」
赤城は可笑しくなさそうに笑った。
「怒ったのかな……そうですよね、怒りますよね。こんな突然」
「いや、怒るのとは、少し違うんじゃないのか? なんと返事をすればいいのか途惑っている、という方が近いと思うが」
「それって、要するに怒ってるんじゃないですか?」
「私だって、仲の良くない弟が十年ぶりに連絡を寄越して『結婚するから式に参列してくれ』なんて言われたときは、かなり途惑ったがな。そんなものだろ」
「そんなものですか?」
「そんなものだ」
赤城なりの優しさなのだろう――自分の体験談を披露して、あくまでさらりと流そうとしてくれているのが、華音にはよく分かった。
「一応連絡はした。相手にその内容が伝わった。そしたらこの件はもうおしまいだ。あとは向こうの都合次第で、こちらが臨機応変に対応すればいいだけの話だ」
鷹山からの反応があろうとなかろうと――どのみち、華音に直接返事がくるわけではない。
あとのことは、この目の前の青年実業家に委ねるしかないのである。
華音は黙ってうなずくと、冷めきって固くなったパスタを急いで胃袋へ収めた。
ベーコンと玉ねぎのうまみが引き出された濃厚なコンソメの香りが、微かに漂ってくる。
いつもとなにも変わらない、日常風景だ。
彼はコンロにかけられたスープ鍋の様子を見ながら、背中越しに華音に問いかける。
「華音ちゃん、卵はどうする?」
「オムレツがいい」
「じゃあ、サラダはなしにして、野菜はオムレツに入れるよ」
「うん」
華音はキッチンを素通りしてパジャマのまま洗面所へ向かい、顔を洗って髪を整える。それが終わって部屋へ戻り、服を着替えるころには、所望したメニューがきちんと仕上がって、テーブルの上に並べられているのだ。
執事が給仕していた昔の芹沢邸での朝食と、ほとんど変わらない。
富士川青年はそれを踏襲して、一日たりとも手を抜くことはなく、こうして華音に食事の用意をしてくれるのである。
彼の動きには、無駄が一つもない。てきぱきと作業をこなし、華音がテーブルに着くのに合わせて、自分も向かい合うようにして着席する。
「では、いただきます」
「いただきます」
昨日のプロポーズが、まるで夢の中の出来事だったかのように、現実は何も変わることはなかった。
これまでも、そしてこれからも――ぬるくて心地いい幸せな空気に包まれて、ゆるりとした時間を過ごしていくのだ、きっと。
華音は、目の前で淡々と食事を済ませる男の顔をじっと見つめた。
ふと、目と目が合う。
【この五年間はそのつもりで、ずっと一緒に暮らしてたから】
その瞳の奥に、彼の想いがあふれている。
華音は途端に気恥ずかしくなり、思わず視線を泳がせた。
すると。
その動揺が伝わったのか、富士川はわずかに首を傾げて、眼鏡の奥の目元を穏やかに緩ませる。
「今日、高野さんのお店が休みだったよね。華音ちゃんのお昼ご飯、作っておこうか?」
「お昼は大丈夫だよ。外で食べる」
「そう? 出かけるの?」
「うん。赤城さんのところ。結婚のこと、報告に行ってくる」
あっさりと答える華音に、富士川は驚いたように何度も目を瞬かせた。
「え……今日? 俺、今日はちょっと仕事が立て込んでるんだけどな」
「一人で大丈夫だよ。週末には一緒に挨拶しにいくって、言っておくから」
華音がそう説明すると、富士川はどこか心配そうにしながらも、分かった、と素直に頷いてみせた。
昨日プロポーズされたあと、お互いそれぞれの仕事に戻り、帰宅したあとも特にそのことについて触れることはなかった。
いつものように一緒に夕ご飯を食べ、それぞれお風呂に入って、それぞれのペースで就寝につく――そんな、いつもと変わらぬ日常が繰り広げられていただけだった。
そのため、華音が自ら赤城のところへ『結婚』の意思を前向きに伝えに行こうとするのが、婚約者となったばかりの男にはかなり意外なことだったようだ。彼の微妙な表情がそれを物語っている。
確かにそんなに急ぐことでもないのだろうが――なぜか、オーナーの赤城には一番最初に伝えるべきだと、そう華音は思った。
赤城に認めてもらって、自分の選んだ道に賛同し、そして後押ししてほしい。
以前、赤城は自身のことを、華音の『教育係』だとうそぶいていたことがあったが、実際その通りなのだと、つくづく華音はそう思う。
富士川青年は壁掛け時計に目をやった。
あと五分。仕事に出かけるまでの時間は、残り少ない。
彼はそそくさと立ち上がり、二人分の食器をまとめて、素早く丁寧に洗いだした。
何度言っても、富士川は頑なに華音に家事をさせようとしない。
唯一許されているのは、テーブルの上をふきんできれいに拭くことだけだ。
華音がいつものようにテーブルをつやつやに拭き上げていると、富士川はてきぱきと後片付けを済ませて、つけていたカフェエプロンを外し、先程まで座っていた椅子の背もたれにそれをかけた。
「じゃあこっちも、今日の練習が終わった後に、楽団のみんなには報告しておくよ」
「え……うそ? ど、どうしよう……緊張しちゃうんだけど!」
ふと、富士川が実際に練習後のミーティングで話を切り出す姿を想像してしまい、華音は恥ずかしさで一杯になった。
美濃部夫妻や安西青年など、普段から親しくしている楽団員たちの反応が気になり、にわかに焦燥感にかられてしまう。
すると。
一人慌てる華音をよそに、富士川はいつもと変わらず落ち着き払った表情で、淡々と華音に告げた。
「そんな、緊張しなくても大丈夫だよ。きっと、そんなに驚かないんじゃないのかな」
「そう……かな?」
「だってさ、俺たちずっと一緒に暮らしていたんだし、自然の流れだって、きっとみんなそう思うよ」
確かに、彼の言うとおりなのかもしれない。富士川の言葉に、華音は次第に冷静さを取り戻す。
自然の流れ――。
そこには、意外性など微塵も存在しない。
華音はひと呼吸置き、富士川の顔をゆっくりとを見上げた。
「それもそうだよね。ずっと、一緒だったんだもんね」
富士川は黙ったまま頷いた。そして、両手で華音の頬を包み込むようにして、優しく触れてくる。
その親密さを醸し出す撫で方に、華音の身体がピクリと反応した。
「そうだよ。そして、これからもずっとね」
艶めく低音に、自分自身でも分からない身体のどこかが、痺れていく。
「それじゃ、行ってくる。赤城オーナーによろしく言っておいて」
「い……ってらっしゃい」
富士川が仕事に出かけてしまうと、華音は部屋に一人残された。
――ビックリ、した……キスされるのかと思った。
今まで至近距離を取られても、そんなことを考えたことは一度もなかった。
しかし結婚するとなると、当たり前のようにそういうことが行われることになるわけで――。
富士川青年相手に、男女の愛情行為がちゃんとできるのだろうか――華音は恥ずかしさと途惑いが入り混じった、なんとも言えない複雑な気持ちになってしまった。
経験値が圧倒的に少ない。それは華音自身も認めるところだ。
唯一のキス経験の相手は、女性経験豊富な手練れの男性だった。
やたらと口数が多く、甘い言葉を好き勝手にささやいて、気まぐれに抱きしめて唇を重ね合う――その先の関係に進まなかったのが奇跡と思えるほど、その愛情行為は濃密だった。
比べるのはおかしい。おかしいのは分かっている。
しかし――。
いままで思い出すことさえできなかったというのに、ここ最近、タガが外れてしまったかのように、鷹山のことばかり考えてしまう。
未練があるとかそういうことではない。おそらくは。
目の前から姿を消して、音信不通となってからもう、五年も経っている。
もうすでに、過去の存在なのである。
昼近くになって、華音はようやく予定していた場所へとたどり着いた。
赤城エンタープライズ本社ビルである。
なんだかんだで、赤城に会うのは卒業式以来、およそひと月ぶりのことだった。
今日はアポなしだ。いつもは素通りする受付で、社長の赤城の所在を訪ねる。
受付の社員はすぐに秘書室へと取次ぎ、二言三言やり取りすると、あっけないほど簡単に話がついた。
「社長は在室中ですので、直接社長室をお訪ねくださいとのことです」
「分かりました。ありがとうございます」
午前中は社内ミーティングに忙しく、午後は来客で忙しいことが多い。突然訪問するには昼休み直前がつかまりやすいということを、華音は経験的に知っている。
やはり。
華音の読みは見事的中したようだ。
社長室のドアをノックすると、中からすぐに返事がした。受付の社員から秘書を通してすでに、華音の来訪は伝わっているはずだ。
その証拠に、部屋の主は華音の姿にまったく驚くようなことはなく、むしろ歓迎しているような笑顔を見せる。
「今日は店休日だろう? 貴重なオフに、わざわざ私に会いに来てくれるとはな」
いつもであれば、きっちりスケジュール管理をしてきびきびと仕事に励んでいるはずなのだが――今日はすでに一通りの決済を終えたのか、赤城は立派な造りの自身のエグゼクティブデスクで、頬杖をつきながら手持ち無沙汰にのんびりとビジネス雑誌に目を通していた。
華音は愛想よく笑顔を作って、赤城のデスクに歩み寄った。
「赤城さんにお話があって」
しばし考え、赤城は首を傾げてみせる。どうやら思い当たる節がないらしい。
「話? いったい何だ? まさかとは思うが、初任給の前に賃上げ交渉か?」
「そんな、違いますよ」
華音が首を横に振ると、赤城はすかさず語調を和らげて、艶めく声を出す。
「では、愛しい男の働く姿を、間近で見ていたいからか?」
「全然違います」
「そんな間髪入れずに全力で否定することもあるまい? ほんの冗談だ」
ため息交じりにそう言うと、赤城はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「赤城さんの冗談は笑えないですから」
本当に油断も隙もない男である。
「まあ、いい。今日は珍しくスケジュールに余裕がある。一緒に昼飯でもどうだ?」
ふと社長室のデジタル壁掛け時計に目をやると、すでに正午近い時刻となっている。
話をするにはそのほうが都合がいい――そう思い、華音は素直に赤城の申し出を受けた。
赤城に連れられてやってきたのは、三軒隣のビルの一階にある、モダンなインテリアがお洒落なイタリアンレストランだった。レストランとは銘打っても、日中はカフェ、夜にはダイニングバーへと変わるような、開放的なつくりの店舗である。
赤城は席に着くなり二人分のランチコースを注文すると、無駄な時間を過ごすまいと早々に話題に切り込んできた。
「それで? 話とはいったいなんだ?」
「あの……私、その――」
「どうした?」
赤城は早々にお冷に手をつけ、のどを潤すべくグラスを傾けている。
華音はその様子を眺めながら、意を決して目の前の男に宣言した。
「祥ちゃんと、結婚します」
青年実業家の、水を飲み込む喉の動きがピタリと止まった。
そして、液体がどこかおかしなところへ入り込んだのか――目の前の男は苦しげに何度も咳き込み、上着のポケットからハンカチを取り出し口元を押さえて、懸命に呼吸を整えている。
「…………結婚、だと?」
ようやく、赤城が言葉を発した。
その両目はこれほどまでにないほど見開かれ、半信半疑の眼差しで華音にその真偽を問いただす。
「本当か? 結婚? 富士川君と?」
その、赤城のあまりのうろたえぶりに、華音は途惑いを覚えた。
そもそもこの男は、富士川と華音がともに人生を歩んでいくことを良しとするような言動を、これまで何度もしてきたのである。
そのため、ここまで赤城が動揺を見せるとは、華音は全く想像していなかった。
「あの……ひょっとして反対ですか?」
「そういうわけでは――ただ、意外だと、そう思っただけだ」
華音にしてみれば、赤城のその反応のほうが意外なのである。その思いを、素直に目の前の男にぶつけてみる。
「もっと、喜んでくれるかと思った」
「もちろん喜んでいるさ」
その言葉とは裏腹に、赤城の表情は硬いままだった。そして、それっきり口を閉ざしてしまい、何やら考え事を始めてしまった。
テーブルは、しばし沈黙に包まれる。
華音は赤城の様子をときおり伺いながら、手持ち無沙汰に、お冷のグラスの水滴をおしぼりでのんびりと拭った。
数分後――。
「それで? 富士川君からは、なんと?」
ようやく、目の前の男から『質問』が返ってきた。
「なんとって……えーと、なにがですか?」
「プロポーズの言葉だ。なんと言われたんだ?」
「え、興味あるんですか。他人のプロポーズなんて」
「後学のために聞かせてもらえると嬉しい。他言はしないさ」
ぺらぺらと話すのは気が引けるが、隠しておくほどのことでもない。
華音は話せる範囲でなら、と、まだ記憶に新しい昨日のプロポーズの内容を、赤城に説明して聞かせた。
まだ幼かった頃、富士川が芹沢家を出ていったとき、執事の乾に手を引かれて華音が会いに行った日のこと。そして、そのときに結婚を意識したこと――。
「なるほどな。なかなか素敵なエピソードじゃないか!」
赤城は無作法にもテーブルに肘杖をつき、前のめりになって頷いている。
「つまりその時がまさに、『運命の赤い糸』が結ばれた瞬間、というわけだな! 素晴らしい!!」
先程までの沈黙とは一転して、大袈裟に反応してみせる赤城を前に、華音は思わずため息を漏らした。
「……前にも誰かが言ってたと思いますけど、赤城さんって、そういうところは意外とロマンティストですよね」
「男女が結ばれる瞬間というのは、往々にしてロマンティシズムにあふれているものなのだよ!」
意外と、と少々毒づいた華音の言葉もどこ吹く風だ。華音の反応に構うことなく、赤城は意気揚々と語り出す。
「そうと決めたのなら、結婚式のプロデュースを私に任せてもらえないか?」
「結婚式のプロデュース? 赤城さんがですか?」
その華音の反応に気を良くし、赤城はさらに説明を続ける。
「昨年から我が社にブライダル事業部を新たに立ち上げて、いくつかのプロジェクトも控えているのだが――まあ、若いプランナーたちを育てるのにいい機会だしな」
「ロマンティシズムのなれの果てが、新事業参入ですか? ……恐れ知らずというか何というか……赤城さんらしすぎて、もう大して驚かないですけど」
「誉め言葉として受け取っておこう。費用のことは気にしなくてもいい。楽団と当社で折半する」
「完全に実験台じゃないですか。もう……」
「もちろん、納得のいくものにさせるさ。我が社の機運を賭けてね」
この男の強引な手腕には、逆らうだけ時間の無駄なのである。
華音は早々に観念し、深々とため息をついた。
「そうと決まれば善は急げだ。ジューンブライダルに間に合わせるから、そのつもりでいてくれたまえ」
「え、そんな急すぎません? 祥ちゃんにも聞いてみないと……」
いまは四月になったばかりである。六月のジューンブライドに照準を合わせるなら、猶予は二ヶ月程しか残されていない。
さすがに、それは無謀だろう。
すると、目の前の青年実業家は意味ありげな笑みを浮かべ、さらりとひと言――。
「富士川君は私に逆らうものか。君のお兄さんと違って従順だからな」
目と目が合う。
とっさに返答が出てこない。
君の『お兄さん』と、違って――。
赤城の口から、『彼』の存在を認識させられるような言葉が発せられるのは、本当に久しぶりのことだった。
その絶妙なタイミングで、二人の前に注文していたランチコースが運ばれてきた。
サラダとスープ、二種類のパスタが載った華やかなプレートがそれぞれの目の前に置かれていく。
店員が去ってしまうと、赤城は目の前に置かれたカトラリーケースからフォークを取り出し、残りを華音が取りやすいようにテーブルの上を滑らせるようにして差し伸べた。
とにかく所作に無駄がない。
華音がフォークとスプーンを取り出し、サラダに手を付け始めるころには、赤城はすでにスープを飲み干し、パスタの皿に豪快にフォークを突き刺していた。
相変わらず、豪快だ。しかし、その食べ方は思いのほか洗練されていて、きちんと品がある。
華音はサラダのレタスをフォークでいじりながら、おずおずと尋ねた。
「あの……鷹山さんに、このことを?」
オーナーの赤城と、鷹山に関する話をするのは、彼が楽団を去ってから初めてのことだった。
華音は努めて平静を装いながら、慎重に赤城の表情を確かめる。
顔色はなに一つ変わらない。予想に反して、その反応は実にあっさりしたものだった。
「伝えるべきだろうな、一応は。富良野の実家のほうに案内を出しておこうか?」
オーナーの赤城とこんなにも冷静に彼の話が出来ていることが、ものすごく不思議だった。
移りゆく時の流れを、改めてひしひしと感じさせられる。
そう。
富士川青年との結婚が決まった身なのである。
不必要に避けることは、逆におかしいのかもしれない――華音は、勇気を振り絞って、赤城に再び尋ねた。
「赤城さんは、鷹山さんと直接連絡取り合ったりしているんですか?」
「必要なことがあれば、メールを送ることもある。が、返事はまず返ってこない。確認はしているようだから、こちらの用件は伝わっているものと認識しているが」
赤城と彼はいまだ、何らかのカタチで繋がっている――。
冷静さを保とうとするも、華音の心臓はどんどん鼓動を速めていく。
生きている。
この世のどこかに存在している。
過去ではなく、今――。
華音は、まだ手の付けられていないパスタの皿の隅に、持っていたフォークを静かに置いた。
そしてゆっくりと息を吸い込み、すでに半分ほどパスタを平らげている大男に向かって、勇気を出して思いを告げた。
「あの……鷹山さんの連絡先、教えてもらえませんか」
「なぜだ?」
予想通りの反応だ。すんなりと肯定の答えは返ってこない。
しかし、ここで引き下がるのもかえって不自然である。
華音は、なおも続けた。
「直接伝えた方が……いいのかなって。電話はあれですけど、メッセージなら」
「教えることはできない。個人情報だからな」
赤城がもっともらしい言い訳をした。
「個人的にやりとりするのは、お互いのためにならない。富士川君を含め皆が不幸になる」
赤城の迷いのない物言いに、華音は二の句が継げなくなった。
皆が、不幸に――。
返事が出来ずに固まってしまった華音を見て、赤城は語調をゆるめて諭すように言った。
「芹沢君のことが憎くて言ってるんじゃない」
「……分かってます。私ももう、子供じゃないので、赤城さんの立場からすれば、そうするのが……当然だと思います」
「ただし――」
「……なんですか?」
「芹沢君が書いた文章を、私が代わりに送信するというのであれば、まあ、引き受けてもいいがね」
珍しく、赤城が譲歩してみせた。
「じゃあ、いまここで書いてもいいですか?」
「ああ。私のタブレット端末を使いたまえ。出来たらすぐに送ってやろう」
赤城はスーツの内ポケットから小型のタブレット端末を取り出し、メッセージがすぐに送れるように操作して、それを華音の目の前に置いた。
しかし。
いざ編集画面を前にすると、なにも文章が出てこない。
怖い。
考えれば考えるほど、何を伝えればよいのか分からなくなってしまう。
「余計なことは考えるな。事実を淡々と書けばいい」
迷いに迷うその様子を見かねて、赤城が口を挟んでくる。
華音は、その言葉に素直に従った。
――事実を、淡々と。事実を、淡々……と。
心の中で呪文のように繰り返し、華音は文字を入力し始めた。
富士川祥と結婚することになったこと。
六月に挙式が執り行われること。
それに合わせて、一時帰国できるかどうかを確認したいこと。
聞きたいことは山のようにあっても、彼がいま置かれている状況がまったく分からない状態では、たわいもないことを尋ねる勇気はまったく出てこない。
華音は、鷹山へのメッセージを入力したタブレット端末を、持ち主へと返してやった。
赤城は、華音が作成したメッセージの内容に対して特に口出しすることなく、戻ってきた端末を器用に操作して、すぐに送信した。そして、送信された画面を華音のほうへと向けて、ちゃんと送ったと言わんばかりに、それを見せつけてくる。
先程赤城は、『鷹山からのメールの返事はまず返ってこない』ということを話していた。
いま送ったメッセージが、はたして彼に届くのかどうか――全くの未知数である。
華音はようやく、すっかり冷めてしまったパスタに手をつけ始めた。
一方の赤城はすでに食べ終えて、手持ち無沙汰にタブレット端末をいじり続けている。
しばらくして赤城は、ああ、と呟くような声を出した。
「読んだようだから、これで鷹山君に伝わったはずだ」
「あの……返事、は?」
「ウィーンとの時差は八時間だから、現在早朝四時過ぎだ。すぐ読んだだけでも御の字だ。二度寝でもしてるんじゃないか? まあ、このメッセージを読んで、二度寝するとは考えられない、か。彼の唖然としている顔が目に浮かぶよ」
赤城は可笑しくなさそうに笑った。
「怒ったのかな……そうですよね、怒りますよね。こんな突然」
「いや、怒るのとは、少し違うんじゃないのか? なんと返事をすればいいのか途惑っている、という方が近いと思うが」
「それって、要するに怒ってるんじゃないですか?」
「私だって、仲の良くない弟が十年ぶりに連絡を寄越して『結婚するから式に参列してくれ』なんて言われたときは、かなり途惑ったがな。そんなものだろ」
「そんなものですか?」
「そんなものだ」
赤城なりの優しさなのだろう――自分の体験談を披露して、あくまでさらりと流そうとしてくれているのが、華音にはよく分かった。
「一応連絡はした。相手にその内容が伝わった。そしたらこの件はもうおしまいだ。あとは向こうの都合次第で、こちらが臨機応変に対応すればいいだけの話だ」
鷹山からの反応があろうとなかろうと――どのみち、華音に直接返事がくるわけではない。
あとのことは、この目の前の青年実業家に委ねるしかないのである。
華音は黙ってうなずくと、冷めきって固くなったパスタを急いで胃袋へ収めた。