優しき旋律  (5)

 地獄だった。
 完全な二日酔いだ。いや、その頭痛と倦怠感はさらに次の日まで続いた。
 ようやく体調が戻りかけたその日の夕方、俺のアパートに仁美ちゃんが訪ねてきた。差し入れだといって、野菜ジュースの大きなペットボトルを三本、スーパーの袋に入れて持ってきてくれた。これでビタミン不足を補えということなのだろう。
「二人とも大学に来なくなっちゃうから、どうしたのかと思って様子を見に来たんだよ」
 意外な情報だった。
「……稲葉が休むなんて、珍しいこともあるもんだ」
「綿貫先生もそう言ってた。電話にも出ないしね」
「俺、よく覚えてないんだ」
 稲葉は一日限りで「ムジーク」のアルバイトを辞めた。店側からクビを言い渡されたわけではなく、あくまで自主的に辞めた、ということだった。
 そしてあの晩、稲葉がベヒシュタインを弾き壊したのだということを知ったのは、さらに二日後だった。
 あの日以来、俺は稲葉と顔を合わせていなかった。大学にも姿を見せていないと仁美ちゃんは言っていた。
 怒らないはずはない。それなのに何も言ってこないのが、かえって怖かった。
 仁美ちゃんはそんな俺たちの様子を、しきりに気にしているようだった。
 俺を慰めに部屋まで訪ねてきたかと思えば、今度はその足で稲葉の自宅まで出向いていってるらしい。
 仁美ちゃんが気を使ってくれているのは痛いほど伝わってくる。
 俺が悪いのだ。それは分かっている。
 でも、それでも。



 俺は次の日、午後になってから、大学へ出かけた。
 そして一応、稲葉の行動範囲を一通り回ってみた。講義室、演習室、ピアノ練習個室、楽譜資料室、学食……しかし、稲葉の姿はどこにもなかった。
 俺はヴァイオリン科の練習個室へ足を向けた。廊下を挟んで左右に五部屋ずつ並んでいる。ドアの中央には使用許可証を入れるスペースがあり、それをチェックすれば、誰が中にいるのか判るようになっている。
 そして目的の人物は一番奥の個室にいるようだ。許可証の名前を確認し、ドアをノックした。
 どうぞ、と中から声がした。俺はそっとドアを開けた。
「久我山、……練習中、悪いな」
「あっ、高野君! 大丈夫だったかい? 心配してたんだよ」
「この間はホントごめんな。お詫びにコーヒーでもおごるよ。練習、いつまで? 終わる頃にまた来るけど?」
「いや、いいんだ。すぐ終わるよ」
 久我山は屈託のない笑顔を見せた。そして自分の楽器を丁寧にそしてすばやくケースへしまい込む。
 俺と久我山は練習個室を出て、学食へと向かった。



 時間は午後二時を過ぎていた。学食に人はまばらだった。
 俺はカウンターで本日のオススメ『キリマンブレンド』を二つ注文し、トレイにミルクとシュガーステックを多めに載せ、先に座っていた久我山のところへ移動した。
「久我山は、知ってたんだよな。あの晩のこと」
 俺は砂糖だけ二つ入れた。久我山は逆にミルクだけ二つ入れて、スプーンで静かにかき回している。
 そしてゆっくりとカップを口元に引き寄せ、一口飲み、キリマンはやっぱり美味しいね、と言った。カップをソーサーの上に戻し、久我山はようやく顔を上げた。
「あの店に入た全ての人間が……お客はもちろん、店の連中も、度肝を抜かされたよ。皆、唖然として、誰一人、高野君を止めようとするものはいなかった」
 俺は羞恥心で一杯だった。
 仁美ちゃんに聞いても、あの日の俺のことを話してくれなかった。俺に気を使ってのことだろう。しかし、俺にしてみれば自分がいったい何をしたのか、事実をちゃんと知りたかった。
 久我山に訊くという選択肢は、どうやら正しかったようだ。
「そんなに酷かったんだ……ホントごめん俺、全然覚えてなくて……」
「素晴らしいの一言だよ。僕も、随分とたくさんの演奏を聴いてきたけど、あのようなショパンは初めてだったよ」
「……えっ?」
 久我山の言葉に、俺は一瞬詰まった。
「心震える、優しい旋律だったよ」
 俺が黙ってしまうと、久我山はゆっくりと、あの晩あった出来事を語り始めた。
「シューマン、ベートーベン、リスト……高野君は稲葉君が用意していた楽譜順に、弾いてたよ。さすがは音大のピアノ科生だなあと感心してしまった。最後に弾いたショパンの『幻想曲』は、稲葉君が弾く予定のなかった曲だったみたいだね。譜面なしに弾きこなしていたけど、高野君の得意曲なのかい?」
 自分で言うのもなんだが、俺は「ショパン弾き」だ。それを意識するあまり、逆にショパンを選曲しない。「ショパン弾き」という言葉は、自分にとっては、ショパンが得意だという意味よりは、ショパンしか弾けないというマイナスイメージが強いのだ。俺があえてショパンを避けているので、稲葉も仁美ちゃんも、俺がショパン嫌いだと思っているくらいだ。
 ショパンの幻想曲。
 無意識下で、俺が弾いたのが、ショパンの幻想曲か。
 それは彼女のお気に入りの曲だ。クラス名簿の自己PR欄にもそう書かれている。その幻想曲の、様々なピアニストの演奏のCDを持っているということを、本人の口から聞いたこともある。
「恐らくね、稲葉君は度肝を抜かれたんだよ、高野君のショパンを聴いてね」
「……まあ、あいつの前でショパンなんか弾いたことなかったからな。レベルが違いすぎるし、得意だって言うのもなんだかおこがましくて」
 けして謙遜しているわけじゃない。ショパンコンクールを目指している人間の前で、ショパンの曲を弾いて見せるほどの度胸なんか、俺にはない。
「レベルが違うって、そんなこともないだろう? まあ、しらふの演奏よりも随分と様相が違うことは確かだけど」
「俺、周りに人がいると、アガっちゃうんだよ。稲葉は俺のこと、『弾けるのに弾こうとしない』って言うけど、俺ホント、ダメなんだ。『弾けるけど弾けない』んだよ。酒飲んで酔っ払って自分を見失って初めてまともに弾けるだなんて、……演奏家を志すにはあまりにお粗末だよな」
 冷めかけたコーヒーを口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。



 それからはほとんど稲葉と顔を合わせることはなかった。
 あいつが俺を避けている。
 もともと大して仲も良くなかったし、俺のほうから仲直りを持ちかける必要性も、べつになかった。
 必修の講義も、お互い講義室の端と端に座り、終わるとそれぞれ反対方向へ歩き出す。
 仁美ちゃんは、そんな俺たち二人の関係にひどく戸惑っているようだった。
 何かしら理由をつけて俺についてくることもあれば、稲葉と一緒に学食へ行ったりもしていた。

 俺達はもう、三人で行動するということがなくなった。

 その代わりといってはなんだが、俺が一人の時は、久我山と一緒にいることが多くなった。正直、稲葉といるときとは天地の差だった。久我山は俺を挑発するようなこともなく、ただ、音楽談義に花を咲かせていた。
 そうやって久我山と話すようになって、気づいたことがある。
 俺は今まで、音楽で誰かと競うということに、ひどく嫌悪感を覚えていた。
 ライバルなんて言葉も、俺にとってはクズみたいなものだった。そう思っていた。
 しかし。
 俺は心のどこかで、稲葉をうらやましいと思っていたんじゃないか。稲葉には負けたくない、いや、決して負けていないとずっと思っていた。
 態度に出していなかっただけで。
 久我山と一緒にいて精神的に楽なのは、もちろん久我山自身の人柄もあったのだが、要するに楽器が違うから、自分と比較せずに済む、ということなのだ。



 例の一件があってからひと月ほどたったその日も、俺は久我山と一緒に学食にいた。
「高野君、コンクールではなに弾くの?」
 学内コンクールまで、あと二ヵ月を切っていた。まあ俺にしてみれば、単位を取るために仕方なく出るので、誰かさんのように気合いを入れて練習しているというわけではなかった。
 出場すればとりあえず単位はもらえるとは言っても、あまりにお粗末な演奏をするわけにもいかない。俺もそろそろ準備を始めようかなと思っている矢先だった。
「ちゃんとは決めてないけど、課題曲は三曲の中から選択できるから、ドビュッシーにしようと思ってるんだ。自由曲は『ハンマークラヴィーア』あたり……」
「ハンマークラヴィーアって、ベートーベンだよね?」
 こういう久我山の反応が、俺には非常に新鮮だった。ピアノ科の連中ならいちいちベートーベンか、なんて聞き返してこない。
「そうだよ。ベートーベンは高校のころ、徹底的に叩き込まれたから、何とかなるかなと思って」
 へぇ、と久我山は興味深そうに俺の顔を見た。
「ちょっと聴いてみたいなあ、高野君のベートーベン」
 俺は思わず心を動かされた。
 今まで、誰一人として俺のピアノを聴きたいなんて言う奴はいなかった。
 俺がピアノを弾くときは、いつも厳しい顔をしたピアノ教師や同級生の前だけだった。
「聴く? たいした腕じゃないけど」
「弾いてくれるの? 聴く聴く」
 久我山は目を輝かせて、嬉しそうに笑った。
 なんとなく、仁美ちゃんに似ているな、と思った。
 ピアノ科の練習個室に連れて行き、俺は久我山のために、誰でも知ってる有名な曲を弾いてみせた。CDと同じだ、と久我山は喜んでいる。
「CDの方が上手いだろう」
「いやいや、やっぱり生演奏にはかなわないよ。音楽は『空間芸術』だからね」
 そして久我山はショパンの『子犬のワルツ』をリクエストしてきた。
 そんなの余裕である。



 稲葉とは相変わらず一言も口を利いていない。
 奴が学内コンクールでの自由曲を決めかねている、という話を仁美ちゃんが教えてくれた。いつになく選曲に神経質になっている、と。
 どんな難曲でも器用に弾きこなせるくせに、いまさら何を悩む必要があるのか、理解に苦しむ。
 そうして、二ヵ月の時が流れた。



 学内コンクールの前日のことだった。
 夜八時を過ぎた頃、俺のアパートへ突然、稲葉がやってきたのだ。
「話があるんだけど、上がっていいかな」
「……ああ。どうぞ」
 稲葉と言葉を交わすのは、実に三ヶ月ぶり。あの『ムジーク』の夜以来だ。俺は動揺を隠せないでいた。
 あの日の一件は、俺の方に非があったのだ。いくら稲葉を好かないからといって、奴のバイト先で挑発してしまったのは俺の方だ。
「怒っているんだろう」
「何のことだい?」
「酒に酔ってたとはいえ、勝手なマネをしたことは悪かった。すまなかった」
 俺は素直に謝った。
「ムジークのことなら別にいいんだよ。あれは僕が勝手に辞めたんだし、高野君のせいじゃない。そんなことより……」
 稲葉はつり上がり気味の目を、ゆっくりと伏せた。
「君、弾けるんじゃないかショパン……」
 その時は、稲葉が何を言いたいのかが解らなかった。
「そりゃ俺だって、一応音大に入ってんだからさ、そこそこは弾けるつもりだけど。まあお前ほどじゃないけどさ……」
「君があんな凄いショパンを弾くなんて、正直驚いたよ。僕は君が弾いたショパンの『幻想曲』に、今まで感じたことのない嫉妬心に駆られて、思わずベヒシュタインに八つ当たりしてしまった。君は覚えていないだろうけどね」
 ベヒシュタインを弾き壊したというのは、そういうことだったのか。
 俺が思わず黙ってしまうと、稲葉は持参した色とりどりのカクテルのビンを袋から取り出し、テーブルの上に並べ始めた。
「おい、明日はコンクールだぞ?」
「こんなの、ジュースと一緒だよ。一本くらい、付き合いなよ」
 一本くらいと稲葉は言ったが、目の前に並んだのはざっと二十本以上。取りあえず二本残して、あとは冷蔵庫に無理やり押し込んだ。
 俺は紫色のを、稲葉はピンク色のを選んだ。酒に詳しくないので、名前はよく判らない。
 なんとなく気まずい雰囲気の中、黙々と酒を飲み始めた。稲葉は一気に飲みきると、すぐに新しいビンを取り出し、また飲んだ。俺と違って、稲葉は酒に強いから、これくらいどうってことはない。
 先に沈黙を破ったのは、稲葉の方だった。
「赤川さんはいつも君のピアノの話ばかりしている」
「俺の? 何でだよ」
「知らないよそんなこと」
 今日の稲葉はやたらと攻撃的だ。いつも気障で嫌味だが、声を荒げたりすることはないのだが。
「はっきり言わせてもらうけど、気に入らないね」
 俺の目を睨みつけてくる。勢いに押され、俺も目をそらすことが出来ない。
 何なんだ、何が言いたいのだ稲葉は。
「お前が俺のピアノを気に入らないのは、いまさらハッキリ言わなくったって知ってるさ」
 俺がそう言うと突然、稲葉は手にしていたカクテルのビンを、テーブルに叩き付けるようにして置いた。
「君のピアノが気に入らないんじゃない。赤川さんが君のピアノを好きだというのが気に入らないんだ」
 そう、だったのか。
 ようやく分かった。