優しき旋律  (6)

 いつの間にか、朝になっていた。
 気づくと、俺たちの周りにはたくさんの空きビンが転がっていた。
 稲葉はあれだけ飲んで軽い二日酔いだが、俺は完璧な泥酔状態。
 俺は稲葉に半ば背負われるようにして、大学へ向かった。
 コンクール会場は構内にある音楽講堂である。わけの分からないまま、俺は講堂ロビーのベンチに転がされていた。
 どのくらい時間が過ぎたのだろう、稲葉が俺の腕を引っ張り、体を起こそうとする。
「さあ、もうすぐ君の出番だ。本気出して、弾いてみせてよ。さあ、高野君!」
「稲葉君止めて!」
 仁美ちゃんが俺の前に立ちはだかり、稲葉に向かって懇願するように言う。
「これ以上高野君を苦しめないで。こんな……お酒飲んで酔わせて、稲葉君と同じ舞台に引きずり出させるようなマネ、同じ音楽を志すものとして、どうかと思うよ?」
 いつになく真剣な仁美ちゃんの様子に、一瞬稲葉はひるんだようだ。
「出来ないことを無理強いしてるわけじゃない。高野君は弾けるんだ。君だってあの時、その耳で確かに聴いただろう?」
「高野君に本気出させて、そのうえで自分が優勝したいってこと?」
「そうだよ。僕は手を抜いて欲しくないんだよ。正々堂々と勝負したいんだ、それがいけないことか?」
「稲葉君はテクニックは最高かもしれないけど、あなたの音楽には心が感じられないよ。高野君のピアノは高野君だけのものでしょ? 稲葉君が好き勝手にできることじゃ、ない!」
 仁美ちゃんがそう言いきると、稲葉は今まで見せたことのない、愕然とした表情になった。
「それは違うんじゃないかな、赤川さん」
 そこへ姿を現したのは、久我山だった。そういえば俺たちの演奏を聴きに来ると言っていた。どうやら俺たちのやり取りを見ていたらしい。
「確かに稲葉君のやり方は乱暴かもしれない。でも、誰よりも高野君の才能を認めているのは他でもない、稲葉君だと思うよ。それにね、聴衆がいて初めて、音楽という空間芸術が成り立つんだよ」
 久我山の声は力強く、そして落ち着き払っている。
「僕は高野君のピアノが好きだよ。だから、いろんな人に聴いて欲しいと思うよ。決して、高野君だけのものにはして欲しくない」
 仁美ちゃんも黙ってしまった。
 俺は横たわりながら、必死に酔いからくるめまいと闘っていた。何かを言ってこの場を収めたいのはやまやまだったが、徐々に気分が悪くなり、それどころではない。
 久我山は、今度は俺のそばに来て、ささやくように言った。
「いいかい、高野君。誰かのために演奏するんだってこと、僕たちは忘れてはいけないんだよ」
 いつになく真剣な表情だ。俺の焦点の合わない目は、それでも久我山の顔を正面にとらえた。
「たった一人でもいいんだ。大勢の前でなくたっていい。自分の音楽を聴いてくれる誰かのために演奏する、それでいいんだよ」
 なんか、どうでもよくなった。
 もう限界だ。
「……俺、ちょっと…………トイレ」
 みんなの制止を振り切って、俺はそのまま猛ダッシュ。

 コンクールの俺の出番には、間に合わなかった。



 学内コンクールの第一位は、大方の予想通り、稲葉が手にした。

 俺は結局コンクールで演奏できなかった。
 必修単位だったため、その時点で俺の留年は決定した。
 仁美ちゃんは俺のせいではないと言ってくれたが、あの時稲葉と一緒に酒を飲んだのは、俺自身の責任だ。
 それから俺は、ほとんど大学に行かなくなった。ピアノを弾くこともやめてしまった。誰のせいでもない。
 本当に、どうでもよくなってしまった。それが理由だ。



 仁美ちゃんは定期的に、俺の様子を見にアパートまで訪ねてきた。そのたびに、聞いてもいないのに稲葉の話を俺にしてきた。俺にとっては稲葉はホントどうでもよかったが、ただひとつ。
 稲葉が突然、ショパンコンクールへの出場を辞退したというのだ。これにはさすがに驚いてしまった。しかし今度はドイツベルリンの音楽院へ入るために、猛特訓の日々を送っているらしい。
 久我山は三年になってすぐ、大学を休学して、ヨーロッパ各地を修業するといって、ヴァイオリンひとつ抱え、旅立ったそうだ。自由気ままだ。
 仁美ちゃんは教員目指して、勉強を始めたという。

 俺には、何もなかった。



 いつの間にか俺は眠ってしまったようだ。
 昔の夢を見ていた。再び戻ることは出来ない、過去の夢。
 インターホンの音で、俺は目が覚めた。時計は午後四時過ぎをさしている。仁美ちゃんにしては早すぎる。
 俺はそっとドアを開けた。
 ドアの外に立っていたのは、やはり仁美ちゃんではなかった。スーツにトレンチコートという出で立ちの男。
「まだここに住んでいたんだね、よかった」
「引っ越すのも面倒だからな。それよりお前、いつのまに帰ってきたんだよ?」
「一時的な帰国だよ。これからすぐに発つ予定さ。だからこれ……」
 男はトレンチコートの内ポケットから封筒を取り出した。
「久我山君の葬儀に預かっていってくれないか? 僕は出席できそうにないから」
 久我山の葬儀。
 信じられない。
 飛行機が堕ちただなんて。
 どんな思いだったのだろう。
「時間があるなら、上がっていかないか? もう少ししたら、仁美ちゃんも寄るって言ってたし……」
「そう、赤川さんが……」
 意外そうな顔をした。そして、やっぱり上がるのは止しておくよ、と言った。
「久我山君は、君のピアノを『好きだ』と言っていたよね」
 男はうっすらと笑った。
「僕も嫌いじゃないよ、高野君のピアノ」
 あくまで『好き』と言わないところがこいつらしい。いや、『嫌いじゃない』なんていう台詞も、普段の奴にとってはありえない。
「なんだよ、気味悪いな」
「最後ぐらい、言わせてくれてもいいだろう」
「最後って……?」
「僕さ、もう日本には戻らないつもりだから」
 本気でドイツに永住するということなのか。今朝仁美ちゃんに言ってた冗談が、どうやら本当になったらしい。
「だったら尚更、仁美ちゃんに……」
「いいんだ。本当にいいんだ……ここに僕が来たことは内緒にしておいてくれないか」
 俺は黙ってうなずいた。これで最後、だ。

 久我山も稲葉も、俺から遠く離れたところへ行ってしまった。



 結局、仁美ちゃんが来たのは、六時過ぎてからだった。
「意外と、大丈夫そうね」
 仁美ちゃんがため息をついた。安心したような表情になる。
 予期せず突然、稲葉が目の前に現れて、久我山のことで落ち込むどころではなかったのだ。
 でもそれは、彼女には内緒だ。
「あのさ、仁美ちゃん」
 俺は、あらん限りの勇気をふり絞って言った。
「これから大学まで、ついてきてくれないか」
「大学? いいけど……?」
 仁美ちゃんは腑に落ちない顔をしている。
 そりゃそうだろう。俺だって、最近ほとんど寄りついていない。
「なんだか無性に、弾きたくなったんだよ」
 俺がそう言うと。
 仁美ちゃんは突然、涙をこぼし始めた。
 俺は、こんなにも彼女を苦しめていたのだ。
 この三年間、俺や稲葉の前で明るく振舞いつづけた彼女が、初めて見せた涙だった。


(了)