トウモロコシ畑 (前)
俺は途方に暮れていた。
子供の相手なんて、まるで慣れていないのだ。
駅ビルの中のファーストフード店で、二人がけの狭い席に向かい合うようにして座る、まだ十歳にも満たない小学校低学年の幼い少年――。
俺はまだ大学を卒業して三年だ。この少年の父親にはきっと見えないだろう。平日の昼下がりには、なんとも不釣合いな組み合わせだ。
「名前、なんて言うの?」
「…………」
少年はさっきからずっと下を向いたままだ。一言も喋ろうとはしない。
この状況じゃ、仕方がないけれど――俺は同情と憐憫の気持ちで、思わずため息をつかずにはいられなかった。
両親を事故で亡くしたばかりで、しかも見知らぬ大人にこれから、どこか遠くへ連れて行かれようとしているのだから。
名前を聞かれて素直に答える元気など、とても出てこないはずだ。
「俺は、鷹山信明。今は北海道の富良野っていうところに住んでる。知ってる?」
少年は首を横に振った。
「俺な、お前のお母さんの、弟なんだ。ずっと離れて暮らしてたけどさ」
遠い遠い昔の話なのだが――。
幼い頃に、俺の両親は離婚した。
あまりにも小さかったから、本当の母親の顔も向こうに引き取られた姉の顔も、もはや思い出すことはできなかった。
行き来が全くなかったわけではない。
小学校の低学年までは俺が母と姉の住むアパートへ遊びに行っていたこともあった。しかし、俺を引き取った父親に再婚相手ができると、次第に足が遠のいてしまった。
俺の新しい母親となった人は、よくあるような意地悪な継母ということはなかった。むしろ、本当の母親以上に俺を愛してくれようと努力をしていた、と思う。
しかし、歳の離れた腹違いの弟が生まれると、俺はいつも孤独で一杯だった。
やはり心のどこかで、新しい母親に対して遠慮があったのだと思う。
父親と新しい母親と、弟と。
そんな三人家族の家に、俺が居候でもしているかのような――そんな気さえしていた。
俺は大学入学を機に、家を出た。
両親の負担にならないよう、生活費もすべてアルバイトでまかなった。長期の休みには大きな農場に住み込んで農作業の手伝いをした。
とにかく、家には帰りたくなかった。居場所がなかったのだ。
もちろん帰れば自分の部屋も残されたままだったし、父親も継母も腹違いの弟も、笑顔で俺を迎え入れてくれる。
それでも、俺は帰らなかった。
農場主には後継者がいなかったため、俺は大学を卒業して、そのまま農場の作業運営を任された。
農場の近くに、平屋だが一軒家を借りて、毎日軽トラックで通い、朝から晩まで作業に精を出す。ときおり組合の寄り合いに顔を出しては、ベテランにあれこれと面倒を見てもらったり、酒を酌み交わしたり。
とにかく農場での生活は、気ままだった。とても充実していて、楽しかった。
ただ、いつも俺は独りだった。
一週間ほど前の、夜遅くのことだ。
数年ぶりに父親から電話があった。珍しいことだった。
姉が、交通事故で亡くなったという報せだった。
不思議と悲しいという気持ちはなかった。ただ訳もなく、孤独感に苛まされた。
そしてその時、僕の本当の母親も既に、三年前に他界していたことを知らされた。
無理もない。もう十年以上も音信不通だったのだから。
父親が連絡先を教えてくれた。自分は仕事で忙しいから、代わりに行ってきてくれ、とのことだった。
仮にも自分の本当の娘だろう? ――そう喉まで出かかった。しかし、今の新しい家族のことを考えるとそうもいかないのだろう。だからこうやって、わざわざ俺のところへ電話をかけてきたのだ。
そういった類の事情は、解らなくもないことだった。もう俺は、子供ではないのだから。
俺は素直に父親の頼みを聞き入れると、旅行カバンに着替えを詰め込んで、連絡先を書き記したメモを握り締め、夜行列車に飛び乗った。
姉の結婚した相手の家というのは、相当な資産家らしかった。
しかし、いろいろと事情があったようで、姉夫婦とはほぼ断絶状態にあったようだった。
俺はその資産家の大きな邸宅で初めて、姉の子供たちに会った。要するに、俺にとって「甥」と「姪」だ。
甥はかなり大きい。小学校に上がっているだろう。
驚いたのはその容貌だった。俺が忘れていた幼い頃の記憶が、一瞬にしてよみがえった。
姉だ。姉の幼い頃にそっくりなのだ。
確かにこの甥っ子は、姉の子供だと確信できた。
姪っ子は姉とは似ていなかったが、整った顔立ちをしている。父親に似たのだろう。
俺は姉のお悔やみに行ったのだが、そこで予想外のいざこざに巻き込まれてしまうこととなる。
よくある話、なのかもしれない。
しかし、現実に自分の身に降りかかってくるなんて、まったく思いもよらないことだった。
それは、残された子供たちの行く先について、である。
「下の子はうちで引き取りましょう。ただ、上の子は……妻が頑なに反対しておりまして」
そう話している初老の男は、姉の結婚相手の父親だ。つまり、残された子供たちから見ての祖父、ということになる。
先程から厳しい表情で、紫煙を燻らせている。相当な愛煙家のようだ。卓上の煙草入れから取り出し火をつけた煙草は、既に何本目か分からないほどだ。
心中穏やかではないのだろう。
しかし、その言葉はあまりにも理不尽すぎる。
「そんな、こんな裕福な暮らししてて、実の孫を一人だけ引き取る? そんなの……あんまりじゃないですか」
思わず本音を洩らしてしまった。
初対面の人に対してかなり失礼だと思ったが、言わずにおれなかったのだ。
俺の言わんとすることは芹沢氏にはすぐに理解できたようだった。
「養育費のことでしたら、まったく問題はないのです。ただ、今の状態では同居は無理です。赤ちゃんならともかく、このくらい大きくなりますと我々に懐かないでしょうし……」
部屋の隅に置かれた古びたゆりかごに、赤ちゃんが眠っている。そのすぐ側で、懐かないだろうと言われた男の子は、じっと床を見つめ、ひたすら何かに耐えるようにして黙って立っていた。
俺は愕然となった。
こんな幼い子供がいる前で、何という事を言うのだろうか。
それも、自分の本当の孫に向かって、放っていい言葉ではない。
「私たちも途惑っていることをご理解いただきたい。この子の父親はこの家を勘当されて出ていったきり、うちとは全く関係のない暮らしを八年以上送ってきたのです。うちばかりではなく、母方の親戚を当たってほしいというのが、私どもの本音なのです」
困ったことになってしまった。
母方の親戚ということは、姉の身内ということなのだが――。
「うちもいろいろと複雑な事情がありまして、俺も姉とは十年以上音信不通だったんです。結婚してたことも、こんなに大きな子供がいたことも、事故の報せとともに、初めて知ったくらいなんです」
そう説明すると、向こうは簡単に引き下がった。おそらく姉の境遇は調査済みだったのだろう。
「では仕方がないですな。なるべく設備の良い施設を当たってみることにしましょう」
「僕、いやだ」
少年は、古びたゆりかごの側に張りついたまま――。
眠る妹の側で、駄々をこねるようにして、大人たちに訴えかける。
「華音と一緒じゃなくちゃ、いやだ。……だって……だって、約束したんだもん」
「約束?」
俺は思わず気になって聞き返した。しかし少年は興奮するばかりで、問いかけも耳に入らないようだ。
「一緒じゃなくちゃ、いーやーだー」
姉が泣いている。
姉もこうやって、俺と離れたくないと泣いていたことがあった。
「聞き分けのない子供だな。どうやら母親に甘やかされて育ったな。ちゃんとしつけをしなおしてもらえるような施設を、うちの秘書に探させよう」
両親を亡くしたばかりの子供に、なぜこの祖父は。
姉夫婦がこの家と音信不通で断絶状態にあった理由が、何となく解った気がした。
もう、駄目だ。
この家は何かおかしい。
ああ、このままでは。
思わず俺は、口走ってしまった。
泣きじゃくる少年の小さな肩をしっかりと掴み、俺は芹沢氏の厳しい顔をじっと見据えた。
「この子は俺が――引き取ります」
それからの対応は驚くほど早かった。
この少年の祖父に当たる「芹沢英輔」という人は、かなり社会的地位のある人らしく、お抱えの弁護士や有能な秘書や執事などがいて、その人たちがあっという間に厄介事を片付けようと、あれやこれやと動いていた。
姉はどんな人生を送ってきたのだろう。二十七歳という短い生涯をあっという間に駆け抜けてしまった。
この芹沢という家の対応を見る限りでは、きっとさまざまな苦労を強いられてきたんだろうと予想がつく。
それでも幸せだったと思いたい。可愛い子供二人に恵まれて――。
「俺な、お前のお母さんの、弟なんだ。ずっと離れて暮らしてたけどさ」
どうして俺が、この少年を引き取る決心をしたのか。
それは、いつか実の妹と会いたいと願ったときに、あの芹沢という厄介そうな家との橋渡しを、自分がしてやりたいと思ったからだ。
いや、してやらなくてはならないのだ。
何といっても、俺はこの子の叔父だ。赤の他人どころか、今となっては、この少年の一番近しい存在なのだ。
姉の結婚相手は一人息子ということだったから、俺はこの少年にとって、唯一の叔父となる。
目の前の少年を――姉の子供を守ってやれるのは、この世で自分だけだという使命感すら湧いてくる。
「でも、姉弟仲良しだったんだぞ。離れていても」
嘘ではない。長いこと音信不通であったことは確かだが、それでも俺の姉を慕う気持ちに変わりはなかったし、母も姉も、俺のことを変わらずに愛していてくれていた、はず。
だから。
大好きだった姉のためにも。この子を一人にしておけない――。
「それが兄弟姉妹ってやつだ。ほら、しっかりしろ、ええと……お前」
「……がくと。芹沢、楽人」
少年がようやく声を出したので、俺は安堵した。消え入りそうな声だったが、はっきりと自分の名を口にした。
「ガクト? どういう漢字?」
「音楽の『楽』に、『人』で、楽人」
「へえ、洒落た名前だな。妹のあの子は? カノン?」
楽人が突然顔を上げた。そして、俺の顔をじっと見つめてくる。
大きな瞳だ。綺麗な二重のまぶた、そして長い睫毛。
色白でひ弱そうな――まるで西洋人形の女の子だ。
「……どうしよう、僕……華音のこと一人ぼっちに……しちゃった。お母さんにまた、怒られる。華音のこと一人にしちゃダメ、って」
こんなにもまだ、小さな子供なのに。
突然、大粒の涙をこぼし始めた楽人を、俺はなだめるようにして頭をぐるぐる撫ぜてやる。
――怒ってくれる母親は、もうこの世にはいないのだから。
「大丈夫だよ。妹にはさ、おじいさんとおばあさんがついててくれるから」
しかしこれからどうやって。
簡単に子供を引き取るとは言ってはみたものの、俺の両親に頼るわけにもいかない。
学校にだって通わせなければならないし。
何といっても、俺はまだ二十五だ。小学三年の男の子の親代わりなんて、はたしてできるのだろうか――前途多難だ。
目の前の泣き止まぬ少年を眺めながら、俺はハンバーガーにかじりついた。腹が減っていては何もできない。食えば不思議と元気が出るものだ。
「ほら、楽人も食べろ。ポテトは冷めたら食えたもんじゃないから、早く食え」
カバンの中には既に、二人分の列車の切符が入っている。
行き先は北海道、富良野。俺の現在の住まいである。
出発まであとわずか。
俺と楽人の、新しい生活の始まりである。
* * * * * *
一年後。
俺が楽人と一緒に暮らし始めて感じたことは、この子には辺りの子供にはない育ちの良さというものが備わっている、ということだった。
勉強もまあまあできる。
そして口が達者でいろいろな知識を皆に教え、舌を巻かせた。
ただ、感情の起伏が激しいのが問題だった。
おそらく昔からそうだったというわけではないはずだ。いろいろ紆余曲折を経て、無理に明るく振る舞ったり、その反動からか、夜になると泣き叫んだりする。 初めのうちは何度も何度も、俺に飛び掛ってきたりもした。
情緒不安定になった子供は、やはり母性で癒してあげるべきだと思っても、俺には恋人がいなかった。
それに、もともと俺も孤独な人間だったから、結局楽人と一緒になって、俺が栽培しているだだっ広いトウモロコシ畑の真ん中で、二人して走り回ったり叫んだりした。
そうしているうちに、楽人も落ち着きを見せはじめ、いつしか歳の離れた兄弟のような、中途半端な関係に収まりつつあった。
しばらくして、俺はあることに気が付いた。
トウモロコシ畑の真ん中で、時折口ずさむ楽人の歌声――美しいボーイソプラノだ。
音程が正確なのもさることながら、難しそうな外国語の歌詞を正確に発音し、まるでどこか外国の少年合唱団のような澄んだ発声。
とても懐かしいような――そう。
きっと、郷愁というものなのだろう。
遠い昔に聞いた姉の歌声に、とてもよく似ているのだ。
この楽人を引き取ってから、俺はあの芹沢英輔という人物について調べてみた。
すると、芹沢氏というのは、自分がこれまでまったく知らなかったことが恥ずかしいほど、著名な人物であることが分かった。
指揮者。ヴァイオリニスト。
俺はクラシック音楽にはてんで疎かったので、そんな凄い人だったとはまるで気づかなかったのだ。
そして姉の旦那となった人は、その芹沢英輔の一人息子で、彼もまた音楽を志し、音大へ進学。そして俺の姉とは、その音大で知り合ったということだった。
あの姉が音大へ――。
凄いな、と思った。もちろん姉の努力のこともだし、母の金銭的な苦労のことでもあった。
クラシック音楽。俺には全くの未知の世界だ。
母は音楽が好きだったから、それで姉にいろいろと習わせたのだろう。音楽にまるで関心を示さない父に引き取られた俺は、何の素養もないつまらぬ大人になってしまった。
楽人の歌が上手なのは、両親からの授かりものなのだろう、と俺は一人納得していた。
ある秋の日のことである。
楽人の帰りが極端に遅くなり始めた。
まだ小学四年生だったし、このあたりの田舎じゃ寄り道できるような店もない。下校途中の仲のよい友達をつかまえて尋ねてみても、教室で別れたあとの行く先は分からないとのことだった。
その日は特に遅かった。五時過ぎには帰宅して自室で宿題をしているはずが、六時半を過ぎても帰ってこない。
日が落ちるのが、どんどん早くなる季節だ。あたりは既に真っ暗だった。
いくら男の子とはいえ、街灯も少ないこのあたりの道では、事故や事件に巻き込まれやしないかと、俺は心配で心配でたまらなかった。
ふと冷静になって見ると、そんな自分が滑稽に思えてくる。
そうか。親ってこういう気持ちなんだな。
トウモロコシ畑の中の長い道を、学校に向かって軽トラックを走らせた。
学校近くまで進んだところでようやく、車のヘッドライトが、ランドセルを背負った楽人の姿をとらえた。
俺は急いで車を止め、窓を開けた。
「何やってるんだ、こんな遅くまで。心配するだろ!」
楽人は俺の顔を見て怯えたような表情をした。声を荒げたことはこれが初めてだったからだろう。
楽人が黙ったまま道端に立ち尽くしているので、俺は運転席から降り、急いで駆け寄った。
そしてふと、楽人が小脇に抱えている見慣れぬバインダーのようなものが目に付いた。
「それは?」
指差しながら聞くと、楽人はとっさにそれを華奢な身体の後ろに隠すようにした。しかし、隠しきれていない。
自分は本当の親ではないんだから、全てを理解してやるなんてことは不可能かもしれない。しかし、楽人が自分を親だと認めていないから、全てを打ち明けられないのだと思うと、やり場のない怒りがこみ上げてくる。
俺は冷静を装って、楽人に尋ねた。
「……こんな遅くまで、毎日どこにいたの」
「学校にいた」
「どうして? 友達はみんな帰ってるのに、お前一人で遊んでたっていうのか? なあ、そんな嘘つかないで本当のこと言ってくれ。隠してるもの、ちゃんと見せなさい」
「嘘じゃない。そんなに僕が信じられないなら、学校に行って先生に聞いてくればいいじゃないか。……最初から僕のことなんて信じていないくせに」
別に、父親面をしたいだなんて思っていたわけではないが、はっきりと楽人から拒絶されたようで、俺は無性に腹が立った。
「信じる信じないは別だ。人様に迷惑を掛けることさえしなけりゃ、俺は何も言わない。そうだよ、俺はお前の親を名のる資格なんて本当はないんだから、勉強しないでテストの成績が悪かったって……怒るもんか」
俺はいままでのやり取りで、楽人の隠しているものが何であるかを予想していた。
話が本当なら、楽人は毎日学校で遅くまで先生と一緒にいる――となれば、理由は一つしか思いつかない。
俺は素早く、楽人の隠していたバインダーをすりとった。
「やめろよ! なにするんだよ!」
バインダーを取り返そうと手を伸ばしてくる楽人を、俺は上手くかわす。
中身は苦手な漢字のテストか? ――そう予想していざバインダーを開くと、そこには。
俺は声が出なかった。
まさに、唖然としてしまった。
「――だって、うちにピアノなんか、ないし」
一生懸命、言い訳を始める楽人。
何なんだ、これは。
「簡単に買ってもらえるほど、安くないし」
子供のくせに、ひどく生意気なことを。
高いか安いかは、大人の俺が決めることだろう?
「別に僕、悪いことしてないもん。嘘もついてないもん」
そうか。
そうだったのか。
紙の上で、小さなおたまじゃくしが複雑に絡み合う。
いくら俺が素人とはいえ、この楽譜が普通の小学生が弾けるようなレベルのものではないことくらい、簡単に見当がついた。
「お前……………………ピアノ、弾けるんだ」
一年も一緒に暮らしていて、俺は楽人のことを全く理解していなかった。
やはり、親を名のる資格はなさそうだ。
子供の相手なんて、まるで慣れていないのだ。
駅ビルの中のファーストフード店で、二人がけの狭い席に向かい合うようにして座る、まだ十歳にも満たない小学校低学年の幼い少年――。
俺はまだ大学を卒業して三年だ。この少年の父親にはきっと見えないだろう。平日の昼下がりには、なんとも不釣合いな組み合わせだ。
「名前、なんて言うの?」
「…………」
少年はさっきからずっと下を向いたままだ。一言も喋ろうとはしない。
この状況じゃ、仕方がないけれど――俺は同情と憐憫の気持ちで、思わずため息をつかずにはいられなかった。
両親を事故で亡くしたばかりで、しかも見知らぬ大人にこれから、どこか遠くへ連れて行かれようとしているのだから。
名前を聞かれて素直に答える元気など、とても出てこないはずだ。
「俺は、鷹山信明。今は北海道の富良野っていうところに住んでる。知ってる?」
少年は首を横に振った。
「俺な、お前のお母さんの、弟なんだ。ずっと離れて暮らしてたけどさ」
遠い遠い昔の話なのだが――。
幼い頃に、俺の両親は離婚した。
あまりにも小さかったから、本当の母親の顔も向こうに引き取られた姉の顔も、もはや思い出すことはできなかった。
行き来が全くなかったわけではない。
小学校の低学年までは俺が母と姉の住むアパートへ遊びに行っていたこともあった。しかし、俺を引き取った父親に再婚相手ができると、次第に足が遠のいてしまった。
俺の新しい母親となった人は、よくあるような意地悪な継母ということはなかった。むしろ、本当の母親以上に俺を愛してくれようと努力をしていた、と思う。
しかし、歳の離れた腹違いの弟が生まれると、俺はいつも孤独で一杯だった。
やはり心のどこかで、新しい母親に対して遠慮があったのだと思う。
父親と新しい母親と、弟と。
そんな三人家族の家に、俺が居候でもしているかのような――そんな気さえしていた。
俺は大学入学を機に、家を出た。
両親の負担にならないよう、生活費もすべてアルバイトでまかなった。長期の休みには大きな農場に住み込んで農作業の手伝いをした。
とにかく、家には帰りたくなかった。居場所がなかったのだ。
もちろん帰れば自分の部屋も残されたままだったし、父親も継母も腹違いの弟も、笑顔で俺を迎え入れてくれる。
それでも、俺は帰らなかった。
農場主には後継者がいなかったため、俺は大学を卒業して、そのまま農場の作業運営を任された。
農場の近くに、平屋だが一軒家を借りて、毎日軽トラックで通い、朝から晩まで作業に精を出す。ときおり組合の寄り合いに顔を出しては、ベテランにあれこれと面倒を見てもらったり、酒を酌み交わしたり。
とにかく農場での生活は、気ままだった。とても充実していて、楽しかった。
ただ、いつも俺は独りだった。
一週間ほど前の、夜遅くのことだ。
数年ぶりに父親から電話があった。珍しいことだった。
姉が、交通事故で亡くなったという報せだった。
不思議と悲しいという気持ちはなかった。ただ訳もなく、孤独感に苛まされた。
そしてその時、僕の本当の母親も既に、三年前に他界していたことを知らされた。
無理もない。もう十年以上も音信不通だったのだから。
父親が連絡先を教えてくれた。自分は仕事で忙しいから、代わりに行ってきてくれ、とのことだった。
仮にも自分の本当の娘だろう? ――そう喉まで出かかった。しかし、今の新しい家族のことを考えるとそうもいかないのだろう。だからこうやって、わざわざ俺のところへ電話をかけてきたのだ。
そういった類の事情は、解らなくもないことだった。もう俺は、子供ではないのだから。
俺は素直に父親の頼みを聞き入れると、旅行カバンに着替えを詰め込んで、連絡先を書き記したメモを握り締め、夜行列車に飛び乗った。
姉の結婚した相手の家というのは、相当な資産家らしかった。
しかし、いろいろと事情があったようで、姉夫婦とはほぼ断絶状態にあったようだった。
俺はその資産家の大きな邸宅で初めて、姉の子供たちに会った。要するに、俺にとって「甥」と「姪」だ。
甥はかなり大きい。小学校に上がっているだろう。
驚いたのはその容貌だった。俺が忘れていた幼い頃の記憶が、一瞬にしてよみがえった。
姉だ。姉の幼い頃にそっくりなのだ。
確かにこの甥っ子は、姉の子供だと確信できた。
姪っ子は姉とは似ていなかったが、整った顔立ちをしている。父親に似たのだろう。
俺は姉のお悔やみに行ったのだが、そこで予想外のいざこざに巻き込まれてしまうこととなる。
よくある話、なのかもしれない。
しかし、現実に自分の身に降りかかってくるなんて、まったく思いもよらないことだった。
それは、残された子供たちの行く先について、である。
「下の子はうちで引き取りましょう。ただ、上の子は……妻が頑なに反対しておりまして」
そう話している初老の男は、姉の結婚相手の父親だ。つまり、残された子供たちから見ての祖父、ということになる。
先程から厳しい表情で、紫煙を燻らせている。相当な愛煙家のようだ。卓上の煙草入れから取り出し火をつけた煙草は、既に何本目か分からないほどだ。
心中穏やかではないのだろう。
しかし、その言葉はあまりにも理不尽すぎる。
「そんな、こんな裕福な暮らししてて、実の孫を一人だけ引き取る? そんなの……あんまりじゃないですか」
思わず本音を洩らしてしまった。
初対面の人に対してかなり失礼だと思ったが、言わずにおれなかったのだ。
俺の言わんとすることは芹沢氏にはすぐに理解できたようだった。
「養育費のことでしたら、まったく問題はないのです。ただ、今の状態では同居は無理です。赤ちゃんならともかく、このくらい大きくなりますと我々に懐かないでしょうし……」
部屋の隅に置かれた古びたゆりかごに、赤ちゃんが眠っている。そのすぐ側で、懐かないだろうと言われた男の子は、じっと床を見つめ、ひたすら何かに耐えるようにして黙って立っていた。
俺は愕然となった。
こんな幼い子供がいる前で、何という事を言うのだろうか。
それも、自分の本当の孫に向かって、放っていい言葉ではない。
「私たちも途惑っていることをご理解いただきたい。この子の父親はこの家を勘当されて出ていったきり、うちとは全く関係のない暮らしを八年以上送ってきたのです。うちばかりではなく、母方の親戚を当たってほしいというのが、私どもの本音なのです」
困ったことになってしまった。
母方の親戚ということは、姉の身内ということなのだが――。
「うちもいろいろと複雑な事情がありまして、俺も姉とは十年以上音信不通だったんです。結婚してたことも、こんなに大きな子供がいたことも、事故の報せとともに、初めて知ったくらいなんです」
そう説明すると、向こうは簡単に引き下がった。おそらく姉の境遇は調査済みだったのだろう。
「では仕方がないですな。なるべく設備の良い施設を当たってみることにしましょう」
「僕、いやだ」
少年は、古びたゆりかごの側に張りついたまま――。
眠る妹の側で、駄々をこねるようにして、大人たちに訴えかける。
「華音と一緒じゃなくちゃ、いやだ。……だって……だって、約束したんだもん」
「約束?」
俺は思わず気になって聞き返した。しかし少年は興奮するばかりで、問いかけも耳に入らないようだ。
「一緒じゃなくちゃ、いーやーだー」
姉が泣いている。
姉もこうやって、俺と離れたくないと泣いていたことがあった。
「聞き分けのない子供だな。どうやら母親に甘やかされて育ったな。ちゃんとしつけをしなおしてもらえるような施設を、うちの秘書に探させよう」
両親を亡くしたばかりの子供に、なぜこの祖父は。
姉夫婦がこの家と音信不通で断絶状態にあった理由が、何となく解った気がした。
もう、駄目だ。
この家は何かおかしい。
ああ、このままでは。
思わず俺は、口走ってしまった。
泣きじゃくる少年の小さな肩をしっかりと掴み、俺は芹沢氏の厳しい顔をじっと見据えた。
「この子は俺が――引き取ります」
それからの対応は驚くほど早かった。
この少年の祖父に当たる「芹沢英輔」という人は、かなり社会的地位のある人らしく、お抱えの弁護士や有能な秘書や執事などがいて、その人たちがあっという間に厄介事を片付けようと、あれやこれやと動いていた。
姉はどんな人生を送ってきたのだろう。二十七歳という短い生涯をあっという間に駆け抜けてしまった。
この芹沢という家の対応を見る限りでは、きっとさまざまな苦労を強いられてきたんだろうと予想がつく。
それでも幸せだったと思いたい。可愛い子供二人に恵まれて――。
「俺な、お前のお母さんの、弟なんだ。ずっと離れて暮らしてたけどさ」
どうして俺が、この少年を引き取る決心をしたのか。
それは、いつか実の妹と会いたいと願ったときに、あの芹沢という厄介そうな家との橋渡しを、自分がしてやりたいと思ったからだ。
いや、してやらなくてはならないのだ。
何といっても、俺はこの子の叔父だ。赤の他人どころか、今となっては、この少年の一番近しい存在なのだ。
姉の結婚相手は一人息子ということだったから、俺はこの少年にとって、唯一の叔父となる。
目の前の少年を――姉の子供を守ってやれるのは、この世で自分だけだという使命感すら湧いてくる。
「でも、姉弟仲良しだったんだぞ。離れていても」
嘘ではない。長いこと音信不通であったことは確かだが、それでも俺の姉を慕う気持ちに変わりはなかったし、母も姉も、俺のことを変わらずに愛していてくれていた、はず。
だから。
大好きだった姉のためにも。この子を一人にしておけない――。
「それが兄弟姉妹ってやつだ。ほら、しっかりしろ、ええと……お前」
「……がくと。芹沢、楽人」
少年がようやく声を出したので、俺は安堵した。消え入りそうな声だったが、はっきりと自分の名を口にした。
「ガクト? どういう漢字?」
「音楽の『楽』に、『人』で、楽人」
「へえ、洒落た名前だな。妹のあの子は? カノン?」
楽人が突然顔を上げた。そして、俺の顔をじっと見つめてくる。
大きな瞳だ。綺麗な二重のまぶた、そして長い睫毛。
色白でひ弱そうな――まるで西洋人形の女の子だ。
「……どうしよう、僕……華音のこと一人ぼっちに……しちゃった。お母さんにまた、怒られる。華音のこと一人にしちゃダメ、って」
こんなにもまだ、小さな子供なのに。
突然、大粒の涙をこぼし始めた楽人を、俺はなだめるようにして頭をぐるぐる撫ぜてやる。
――怒ってくれる母親は、もうこの世にはいないのだから。
「大丈夫だよ。妹にはさ、おじいさんとおばあさんがついててくれるから」
しかしこれからどうやって。
簡単に子供を引き取るとは言ってはみたものの、俺の両親に頼るわけにもいかない。
学校にだって通わせなければならないし。
何といっても、俺はまだ二十五だ。小学三年の男の子の親代わりなんて、はたしてできるのだろうか――前途多難だ。
目の前の泣き止まぬ少年を眺めながら、俺はハンバーガーにかじりついた。腹が減っていては何もできない。食えば不思議と元気が出るものだ。
「ほら、楽人も食べろ。ポテトは冷めたら食えたもんじゃないから、早く食え」
カバンの中には既に、二人分の列車の切符が入っている。
行き先は北海道、富良野。俺の現在の住まいである。
出発まであとわずか。
俺と楽人の、新しい生活の始まりである。
* * * * * *
一年後。
俺が楽人と一緒に暮らし始めて感じたことは、この子には辺りの子供にはない育ちの良さというものが備わっている、ということだった。
勉強もまあまあできる。
そして口が達者でいろいろな知識を皆に教え、舌を巻かせた。
ただ、感情の起伏が激しいのが問題だった。
おそらく昔からそうだったというわけではないはずだ。いろいろ紆余曲折を経て、無理に明るく振る舞ったり、その反動からか、夜になると泣き叫んだりする。 初めのうちは何度も何度も、俺に飛び掛ってきたりもした。
情緒不安定になった子供は、やはり母性で癒してあげるべきだと思っても、俺には恋人がいなかった。
それに、もともと俺も孤独な人間だったから、結局楽人と一緒になって、俺が栽培しているだだっ広いトウモロコシ畑の真ん中で、二人して走り回ったり叫んだりした。
そうしているうちに、楽人も落ち着きを見せはじめ、いつしか歳の離れた兄弟のような、中途半端な関係に収まりつつあった。
しばらくして、俺はあることに気が付いた。
トウモロコシ畑の真ん中で、時折口ずさむ楽人の歌声――美しいボーイソプラノだ。
音程が正確なのもさることながら、難しそうな外国語の歌詞を正確に発音し、まるでどこか外国の少年合唱団のような澄んだ発声。
とても懐かしいような――そう。
きっと、郷愁というものなのだろう。
遠い昔に聞いた姉の歌声に、とてもよく似ているのだ。
この楽人を引き取ってから、俺はあの芹沢英輔という人物について調べてみた。
すると、芹沢氏というのは、自分がこれまでまったく知らなかったことが恥ずかしいほど、著名な人物であることが分かった。
指揮者。ヴァイオリニスト。
俺はクラシック音楽にはてんで疎かったので、そんな凄い人だったとはまるで気づかなかったのだ。
そして姉の旦那となった人は、その芹沢英輔の一人息子で、彼もまた音楽を志し、音大へ進学。そして俺の姉とは、その音大で知り合ったということだった。
あの姉が音大へ――。
凄いな、と思った。もちろん姉の努力のこともだし、母の金銭的な苦労のことでもあった。
クラシック音楽。俺には全くの未知の世界だ。
母は音楽が好きだったから、それで姉にいろいろと習わせたのだろう。音楽にまるで関心を示さない父に引き取られた俺は、何の素養もないつまらぬ大人になってしまった。
楽人の歌が上手なのは、両親からの授かりものなのだろう、と俺は一人納得していた。
ある秋の日のことである。
楽人の帰りが極端に遅くなり始めた。
まだ小学四年生だったし、このあたりの田舎じゃ寄り道できるような店もない。下校途中の仲のよい友達をつかまえて尋ねてみても、教室で別れたあとの行く先は分からないとのことだった。
その日は特に遅かった。五時過ぎには帰宅して自室で宿題をしているはずが、六時半を過ぎても帰ってこない。
日が落ちるのが、どんどん早くなる季節だ。あたりは既に真っ暗だった。
いくら男の子とはいえ、街灯も少ないこのあたりの道では、事故や事件に巻き込まれやしないかと、俺は心配で心配でたまらなかった。
ふと冷静になって見ると、そんな自分が滑稽に思えてくる。
そうか。親ってこういう気持ちなんだな。
トウモロコシ畑の中の長い道を、学校に向かって軽トラックを走らせた。
学校近くまで進んだところでようやく、車のヘッドライトが、ランドセルを背負った楽人の姿をとらえた。
俺は急いで車を止め、窓を開けた。
「何やってるんだ、こんな遅くまで。心配するだろ!」
楽人は俺の顔を見て怯えたような表情をした。声を荒げたことはこれが初めてだったからだろう。
楽人が黙ったまま道端に立ち尽くしているので、俺は運転席から降り、急いで駆け寄った。
そしてふと、楽人が小脇に抱えている見慣れぬバインダーのようなものが目に付いた。
「それは?」
指差しながら聞くと、楽人はとっさにそれを華奢な身体の後ろに隠すようにした。しかし、隠しきれていない。
自分は本当の親ではないんだから、全てを理解してやるなんてことは不可能かもしれない。しかし、楽人が自分を親だと認めていないから、全てを打ち明けられないのだと思うと、やり場のない怒りがこみ上げてくる。
俺は冷静を装って、楽人に尋ねた。
「……こんな遅くまで、毎日どこにいたの」
「学校にいた」
「どうして? 友達はみんな帰ってるのに、お前一人で遊んでたっていうのか? なあ、そんな嘘つかないで本当のこと言ってくれ。隠してるもの、ちゃんと見せなさい」
「嘘じゃない。そんなに僕が信じられないなら、学校に行って先生に聞いてくればいいじゃないか。……最初から僕のことなんて信じていないくせに」
別に、父親面をしたいだなんて思っていたわけではないが、はっきりと楽人から拒絶されたようで、俺は無性に腹が立った。
「信じる信じないは別だ。人様に迷惑を掛けることさえしなけりゃ、俺は何も言わない。そうだよ、俺はお前の親を名のる資格なんて本当はないんだから、勉強しないでテストの成績が悪かったって……怒るもんか」
俺はいままでのやり取りで、楽人の隠しているものが何であるかを予想していた。
話が本当なら、楽人は毎日学校で遅くまで先生と一緒にいる――となれば、理由は一つしか思いつかない。
俺は素早く、楽人の隠していたバインダーをすりとった。
「やめろよ! なにするんだよ!」
バインダーを取り返そうと手を伸ばしてくる楽人を、俺は上手くかわす。
中身は苦手な漢字のテストか? ――そう予想していざバインダーを開くと、そこには。
俺は声が出なかった。
まさに、唖然としてしまった。
「――だって、うちにピアノなんか、ないし」
一生懸命、言い訳を始める楽人。
何なんだ、これは。
「簡単に買ってもらえるほど、安くないし」
子供のくせに、ひどく生意気なことを。
高いか安いかは、大人の俺が決めることだろう?
「別に僕、悪いことしてないもん。嘘もついてないもん」
そうか。
そうだったのか。
紙の上で、小さなおたまじゃくしが複雑に絡み合う。
いくら俺が素人とはいえ、この楽譜が普通の小学生が弾けるようなレベルのものではないことくらい、簡単に見当がついた。
「お前……………………ピアノ、弾けるんだ」
一年も一緒に暮らしていて、俺は楽人のことを全く理解していなかった。
やはり、親を名のる資格はなさそうだ。