トウモロコシ畑 (後)
三年後。
早いもので、楽人と暮らし始めてから丸三年という月日が経とうとしていた。
出会った頃、俺の胸の下あたりまでしかなかった背丈も、今では俺の鼻先まで届くようになっていた。あと半年もすれば中学に上がる。
泣きじゃくっていた幼い少年の面影はほとんどない。華奢な身体つきではあったが、スポーツもそこそこできるらしい。
親代わりの俺が言うのもなんだが、文武両道に秀でていて、口ばかり達者なところを抜かせば、あとは文句なしの自慢の息子だった。
しかし、俺には別な心配があった。
楽人は、俺の記憶にある小学六年生の少年のあるべき姿とは、大きく差があった。
ひょっとしたらそれは、時代の流れ的なものかもしれないし、いちいち気にすることでもないのかもしれないが、それを判断するだけの知識は俺にはなかった。
その心配とは、楽人の友人関係についてだった。
こんな田舎じゃピアノを達者に弾ける男の子なんて皆無だったから、楽人は既に学校中で有名だったらしい。
授業が終わってから、音楽の先生のご厚意で音楽室のピアノを弾かせてもらっていたのだが、窓にはたくさんの観客が張りついているというのを、父母面談のときに担任から聞かされた。
女の子からはとてもよくモテるようで、しょっちゅう家に電話が掛かってきた。
その中の女の子たちを、家にも遊びに連れてきた。二人のときもあれば三人のときもあった。男の子もいたが、圧倒的に女の子を連れ込むことが多かった。いつも楽しそうな声が部屋から聞こえてきていた。
都会っ子のような喋り方と、ときおり見せる芸術肌。もちろん、俺に似ても似つかぬ楽人の綺麗な容貌が、女の子たちの心を掴んで放さないらしい。
楽人は女の子の扱いがとても上手かった。
まったく苦にならないらしい。
元々通っていたピアノ教室に同年代の女の子がたくさんいたから慣れている、というのも一因だろう。
一番の要因は――父子家庭の反動、なのかもしれないが。
いまはまだ、無邪気に戯れる程度で済んでいるが、このまま何か真剣に打ち込むものが無いと、女性関係で間違いを起こしかねない、なんて下世話な心配までしてしまう。
中学校でもピアノを弾かせてもらえるとは限らないので、家にちゃんとしたピアノを買って、楽人に預けよう――と俺は考え始めた。
実は楽人に隠していたことがある。
芹沢英輔氏が毎月養育費と称して、幾らかの金額を送金してきていた。
俺はそのお金に手をつけることはなかったが、返すこともしていなかった。つき返すのも大人げないと、何となく思いとどまっていたに過ぎないのだが。
そして、一年に一度、姉たちの命日に直接家まで訪ねてきていたことも、俺は黙っていた。
芹沢氏はいつも、楽人が学校へ行っている間を見計らうようにして、俺を訪ねて来た。
これまでは楽人のことを考えて、近況のみを知らせて帰ってもらっていた。
芹沢氏もそれ以上詮索してくることはなく、離れ離れとなった兄妹を一緒にさせてやろうということもなかった。
丸三年が経った今回の芹沢氏の訪問で、俺はつい口を滑らせてしまった。
今まで貰っていた養育費には一切手をつけていないこと。それをまず説明した後で、俺は言った。
「あのお金で、ピアノを買ってやってもいいですか?」
芹沢氏は難しい顔のままだった。
「もちろん何に使ってもらっても構わないが……今から習い事をさせたところで、上達はしないと思うがね」
俺はその言葉に驚いた。
そして、それと同時に、不謹慎にも『勝った』と思った。
この人は何も知らないのだ。
俺は得意になって、祖父である芹沢氏に語って聞かせた。
「楽人は大人が弾くような曲を、弾いて聴かせてくれますよ。小学校の音楽の先生が言うんだから、間違いはないと思います」
「……あの子が、か?」
半信半疑らしい。しかし、確実に態度が変わった。
俺の眼をじっと見つめ、そらそうとはしない。
「本当は、あなたのお金に手をつけるまいと思っていたのですが、ようやくピアノが買えそうな金額がたまったので……それでも、楽人がピアノを弾くことを知って、もう二年も待たせてしまっているんですけど」
「では、今は習い事をさせていないと?」
「ええ。最もこんな田舎では、ピアノを教えてくれるところもないですし。音楽の先生が気を利かせて、放課後に音楽室のピアノを貸してくれているので、独学で練習はしているようですけど」
俺の説明を聞いて、芹沢氏は悔いるような表情を見せた。
「なぜもっと早く知らせてくれなかったのだ。ピアノくらい、いいのを与えたものを……」
ピアノくらい――くらい、だなんて随分と軽く言ってのける。
まあ、この芹沢氏は音楽界の重鎮なのだから、どこからか使用していないピアノを探してくるくらい、わけのないことなのだろうが。
「今週末、もう一度こちらにお邪魔させていただいてもよろしいかな?」
「え? また、ですか?」
芹沢氏は奇妙なことを言い出した。
「今度はぜひ、あの子と直接話がしたい」
「そ、それは困ります」
「祖父としてではなく、一人の音楽家として――それでもいかんかね?」
俺は拒むことができなかった。
芹沢氏の音楽に対するこだわりが、素人の俺にも見てとれたからである。
予告どおり、週末に再び芹沢氏は現れた。
秋の夕暮れは日が落ちるのが早い。辺りが薄暗くなった頃、芹沢氏は人目を偲ぶようにして訪ねてきた。
俺は、自分の部屋で宿題をしている楽人を、居間へと呼んだ。
もちろん、何も知らされていなかった楽人は、芹沢氏の姿をとらえると、その表情を豹変させた。
「帰れよ、今すぐに」
「楽人!」
俺が一喝すると、楽人は俺の胸倉を掴み、激しく突っかかってきた。
その尋常ではない怒りに、俺はただ身を任せていた。
「あんたも父親代わりなら、僕にこんなやつを会わせるなよ」
「妹のこと、忘れたわけじゃないんだろ」
その一言で、楽人は抵抗するのを止めた。いま芹沢氏に反抗的な態度をとるのは利口ではない、そういう俺の気持ちを、楽人は察したらしかった。
「……もう、僕のことなんか覚えてないよ」
楽人の言うとおりなのだ。現実は、きっと。
芹沢氏はテーブルの上に革のケースを置いた。何かの楽器らしいことは、素人の俺にも判った。
いったい何が始まるのだろう――俺は楽人の側に身を寄せて、固唾を飲んで見守っていた。
芹沢氏はそのケースに手を掛け慎重に開くと、中から小さな飴色の弦楽器を取り出した。
「ヴァイオリンをやってみないかね?」
「何であんたにそんなことさせられなくちゃならないんだ」
芹沢氏は弓を持ち、顎の下にヴァイオリンを挟み、構えた。
「こうやって、弾くんだよ。見ていなさい」
ものすごい迫力だった。
俺はただ圧倒されていた。ヴァイオリンを間近で見るのも初めてなら、演奏を目の前で聞くのも初めてだった。
楽人は身じろぎもせず、黙って芹沢氏のヴァイオリンを聴いていた。
やがて滑らかな旋律を弾き終えると、俺の隣で楽人が呟くように言った。
「アヴェ・マリアだ。……グノーの、アヴェ・マリア」
俺にはよく解らなかったが、いま聴いた曲のことを言っているのだろうと思い、何となく楽人に聞き返した。
「へえ、そういう名前の曲なのか? どこで覚えたの、そんなの」
「お父さんが、毎晩いろいろなCDを聴かせてくれたから」
そう言ってすぐに楽人は、自分の失言を悔いるような顔をした。
それが逆に、なんだかとても――切なかった。
楽人が『お父さん』という言葉を口にしたのを、俺は引き取ってから初めて聞いた気がした。そしてそれと同時に、俺の前で本当の父親の話を避けていたのは、俺のためだったのだ、と気付かされた。
しかし。絶対、敵うわけがない。
本当の絆が、たったひとことで見えたのだ。
俺とのような見せかけの絆ではない、到底及ぶところではない領域――。
芹沢氏には、楽人の反応が何か心を打つものであったらしい。楽人の持つ音楽の才能と知識の中に、自分の音楽を見いだしたようだった。
芹沢卓人という一人の男を通して――。
「卓人は、君にとっていい父親だったのかな?」
「……僕の父さんは、この人だけだ」
俺の顔の真ん中を指差して、なんとも失敬な扱いだったが――俺は泣きそうになっていた。
そう、俺は楽人の父親だ。楽人のためになることなら、何でもしてやらなくてはいけないのだ。
「お前も早く、先生のように上手くなるといいな」
「何でだよ。僕、やらない。勝手に決めるなよ」
迷っている。俺にはそれが分かる。
たった三年だが、俺たちは親子として暮らしてきたのだ。表情声色一つで、天邪鬼である楽人の気持ちなど簡単に分かる。
俺はすばやく楽人に耳打ちした。
「お母さんと約束したんだろう?」
楽人の大きな目が、さらに大きく見開かれた。
姉がここに生きている。
「……でも」
「あの子がいつか一人になったときに、お前が側にいてやれるように。たとえ、どんな形であっても」
楽人の透き通ったガラス玉のような大きな瞳が、ゆっくりと瞬いた。
俺の言葉に迷いを見せ、不安げな顔でじっと見つめてくる。
――たとえ、どんなカタチであっても。
芹沢氏は再びヴァイオリンを丁寧にケースの中へしまった。そして、それを楽人の前へと差し出した。
「これは、私がヴァイオリン奏者として活動していたときに使用していたものだよ。ストラディバリウスと言ってね、とても稀少な名器だ。私にとって命よりも大切なものなんだ。本当なら、私の息子が持っているはずだったのだが――君が使いなさい」
楽人は躊躇していたが、やがてゆっくりと手を伸ばし、ヴァイオリンケースを受け取った。
やはり、自分の本当の父親が持っているはずだった、という言葉が、何かを後押ししたようだ。
「私のことを祖父だと思ってくれる必要はない。ただし。私の弟子として扱う以上、「あんた」ではなく「先生」と呼びなさい。いいね? 私の知人が札幌にいるから、ヴァイオリンの基礎はその人から学ぶといい。君の『お父さん』に毎週通わせるように話しておくから」
楽人は黙ったままだ。ヴァイオリンケースを抱えたまま、じっと実の祖父を睨みすえている。
「返事をしなさい、――鷹山楽人君」
怖じることなく、芹沢氏は実の孫と向き合っている。
「僕、あなたの名前を呼ぶの、嫌です。昔の自分の名前と同じだから」
「では下の名を呼べばいい。名前で音楽をするわけではないからね。私の名前は英輔だ」
芹沢氏の言葉に、楽人は身を強ばらせたまま。
「鷹山楽人君?」
再三の問い掛けに、楽人はようやく重い口を開いた。
「……解りました。エイスケ、先生」
無慈悲ともいえるやりとりに、俺は心を痛めていた。
「あのときのことは、すまなかったと思っている。私の妻は卓人が家を飛び出してからというもの、情緒不安定な状態が続いていてね。あの事故の後はそれが悪化したようだ。しかし、それは君のせいではない――今はまだ孫として認めてやれなくても、いつか妻も解ってくれる日が来ると、私は信じている」
俺は何も言えなかった。言えずにじっと、芹沢氏と楽人を見ていた。
「卓人が私の音楽を拒んで、それを捨てて家を出てしまったことをずっと悲しんでいた。このヴァイオリンすら、置き去りにしてしまって。しかし」
ここは俺の場所ではない。
俺は決して入り込めない、二人の聖域なのだ。
「君が卓人から受け継いでいるその音楽の知識と才能を、これほどまでに嬉しいと思ったことはなかった」
遠く、離れていく。
俺の手の届かない、遥か遠くへ離れていってしまう。
「芹沢の血の、なせる業だ。その名は違えど――」
楽人は観念したように、大きな瞳をゆっくりと伏せた。
「あの子は……僕の妹はどうしてますか?」
「君が心配しなくても大丈夫だ。ちゃんと優秀な教育係も側につけている。分かっているとは思うが、あの子に君の事を知らせていないし、これからも兄弟がいることを知らせるつもりはない。私が生きているうちは――分かってくれ、それがあの子のためなんだ」
それはきっと違う、と俺は傍目に思った。あの子のためではなく、芹沢氏の保身のためだと。
楽人があの家に引き取られなかった理由を、俺は知っている。
この子があまりにも俺の姉に似ているから――実の祖母である芹沢夫人に忌み嫌われたのだ。それはこの芹沢氏も承知しているはずだ。
一人息子を溺愛するあまり、辿ってしまった悲しい運命。
「大切にされてるなら、それでもう充分です。僕はただのトウモロコシ農家の子供だから――」
芹沢氏を見送った後――。
俺はなんとなく悔しくなって、後ろから楽人の頭を拳で殴りつけた。
「何するんだよ!」
「ただのトウモロコシ農家で悪かったな。ちっとは誇りに思えよ、バカ息子が」
あえて俺は楽人を『息子』と呼んだ。照れくさくて思わずバカという余計なものをつけてしまったが。
「そんなんだから、女にもてないんだよ。もうすぐ三十路のくせに」
楽人は生意気にも俺の顔を指差してくる。早熟なお前に言われたくはない。
ふと。
先ほども同じようにして指を差されたことを思い出した。
『……僕の父さんは、この人だけだ』
祖父に対する、精一杯の虚勢であるにしても。
「さっきのことだけど。俺に気を使うことなんかないんだよ? お前のお父さんは俺なんかよりもずっと――」
「何で僕があんたに気を使わなくちゃダメなんだよ。それにさっきのは嘘じゃないから。…………もう寝る」
楽人はくるりと背中を向けた。
「晩飯は?」
「いらない――おやすみ、『父さん』」
厳しくも優しい祖父の贈り物を大切に胸に抱え、楽人は居間を出て自室へと向かった。
涙を見せたくないのだ、きっと。やはり年頃の男の子だ。
震える声で、初めて『父さん』と呼んでくれた最愛の息子の背中を、俺はただ見送っていた。
早いもので、楽人と暮らし始めてから丸三年という月日が経とうとしていた。
出会った頃、俺の胸の下あたりまでしかなかった背丈も、今では俺の鼻先まで届くようになっていた。あと半年もすれば中学に上がる。
泣きじゃくっていた幼い少年の面影はほとんどない。華奢な身体つきではあったが、スポーツもそこそこできるらしい。
親代わりの俺が言うのもなんだが、文武両道に秀でていて、口ばかり達者なところを抜かせば、あとは文句なしの自慢の息子だった。
しかし、俺には別な心配があった。
楽人は、俺の記憶にある小学六年生の少年のあるべき姿とは、大きく差があった。
ひょっとしたらそれは、時代の流れ的なものかもしれないし、いちいち気にすることでもないのかもしれないが、それを判断するだけの知識は俺にはなかった。
その心配とは、楽人の友人関係についてだった。
こんな田舎じゃピアノを達者に弾ける男の子なんて皆無だったから、楽人は既に学校中で有名だったらしい。
授業が終わってから、音楽の先生のご厚意で音楽室のピアノを弾かせてもらっていたのだが、窓にはたくさんの観客が張りついているというのを、父母面談のときに担任から聞かされた。
女の子からはとてもよくモテるようで、しょっちゅう家に電話が掛かってきた。
その中の女の子たちを、家にも遊びに連れてきた。二人のときもあれば三人のときもあった。男の子もいたが、圧倒的に女の子を連れ込むことが多かった。いつも楽しそうな声が部屋から聞こえてきていた。
都会っ子のような喋り方と、ときおり見せる芸術肌。もちろん、俺に似ても似つかぬ楽人の綺麗な容貌が、女の子たちの心を掴んで放さないらしい。
楽人は女の子の扱いがとても上手かった。
まったく苦にならないらしい。
元々通っていたピアノ教室に同年代の女の子がたくさんいたから慣れている、というのも一因だろう。
一番の要因は――父子家庭の反動、なのかもしれないが。
いまはまだ、無邪気に戯れる程度で済んでいるが、このまま何か真剣に打ち込むものが無いと、女性関係で間違いを起こしかねない、なんて下世話な心配までしてしまう。
中学校でもピアノを弾かせてもらえるとは限らないので、家にちゃんとしたピアノを買って、楽人に預けよう――と俺は考え始めた。
実は楽人に隠していたことがある。
芹沢英輔氏が毎月養育費と称して、幾らかの金額を送金してきていた。
俺はそのお金に手をつけることはなかったが、返すこともしていなかった。つき返すのも大人げないと、何となく思いとどまっていたに過ぎないのだが。
そして、一年に一度、姉たちの命日に直接家まで訪ねてきていたことも、俺は黙っていた。
芹沢氏はいつも、楽人が学校へ行っている間を見計らうようにして、俺を訪ねて来た。
これまでは楽人のことを考えて、近況のみを知らせて帰ってもらっていた。
芹沢氏もそれ以上詮索してくることはなく、離れ離れとなった兄妹を一緒にさせてやろうということもなかった。
丸三年が経った今回の芹沢氏の訪問で、俺はつい口を滑らせてしまった。
今まで貰っていた養育費には一切手をつけていないこと。それをまず説明した後で、俺は言った。
「あのお金で、ピアノを買ってやってもいいですか?」
芹沢氏は難しい顔のままだった。
「もちろん何に使ってもらっても構わないが……今から習い事をさせたところで、上達はしないと思うがね」
俺はその言葉に驚いた。
そして、それと同時に、不謹慎にも『勝った』と思った。
この人は何も知らないのだ。
俺は得意になって、祖父である芹沢氏に語って聞かせた。
「楽人は大人が弾くような曲を、弾いて聴かせてくれますよ。小学校の音楽の先生が言うんだから、間違いはないと思います」
「……あの子が、か?」
半信半疑らしい。しかし、確実に態度が変わった。
俺の眼をじっと見つめ、そらそうとはしない。
「本当は、あなたのお金に手をつけるまいと思っていたのですが、ようやくピアノが買えそうな金額がたまったので……それでも、楽人がピアノを弾くことを知って、もう二年も待たせてしまっているんですけど」
「では、今は習い事をさせていないと?」
「ええ。最もこんな田舎では、ピアノを教えてくれるところもないですし。音楽の先生が気を利かせて、放課後に音楽室のピアノを貸してくれているので、独学で練習はしているようですけど」
俺の説明を聞いて、芹沢氏は悔いるような表情を見せた。
「なぜもっと早く知らせてくれなかったのだ。ピアノくらい、いいのを与えたものを……」
ピアノくらい――くらい、だなんて随分と軽く言ってのける。
まあ、この芹沢氏は音楽界の重鎮なのだから、どこからか使用していないピアノを探してくるくらい、わけのないことなのだろうが。
「今週末、もう一度こちらにお邪魔させていただいてもよろしいかな?」
「え? また、ですか?」
芹沢氏は奇妙なことを言い出した。
「今度はぜひ、あの子と直接話がしたい」
「そ、それは困ります」
「祖父としてではなく、一人の音楽家として――それでもいかんかね?」
俺は拒むことができなかった。
芹沢氏の音楽に対するこだわりが、素人の俺にも見てとれたからである。
予告どおり、週末に再び芹沢氏は現れた。
秋の夕暮れは日が落ちるのが早い。辺りが薄暗くなった頃、芹沢氏は人目を偲ぶようにして訪ねてきた。
俺は、自分の部屋で宿題をしている楽人を、居間へと呼んだ。
もちろん、何も知らされていなかった楽人は、芹沢氏の姿をとらえると、その表情を豹変させた。
「帰れよ、今すぐに」
「楽人!」
俺が一喝すると、楽人は俺の胸倉を掴み、激しく突っかかってきた。
その尋常ではない怒りに、俺はただ身を任せていた。
「あんたも父親代わりなら、僕にこんなやつを会わせるなよ」
「妹のこと、忘れたわけじゃないんだろ」
その一言で、楽人は抵抗するのを止めた。いま芹沢氏に反抗的な態度をとるのは利口ではない、そういう俺の気持ちを、楽人は察したらしかった。
「……もう、僕のことなんか覚えてないよ」
楽人の言うとおりなのだ。現実は、きっと。
芹沢氏はテーブルの上に革のケースを置いた。何かの楽器らしいことは、素人の俺にも判った。
いったい何が始まるのだろう――俺は楽人の側に身を寄せて、固唾を飲んで見守っていた。
芹沢氏はそのケースに手を掛け慎重に開くと、中から小さな飴色の弦楽器を取り出した。
「ヴァイオリンをやってみないかね?」
「何であんたにそんなことさせられなくちゃならないんだ」
芹沢氏は弓を持ち、顎の下にヴァイオリンを挟み、構えた。
「こうやって、弾くんだよ。見ていなさい」
ものすごい迫力だった。
俺はただ圧倒されていた。ヴァイオリンを間近で見るのも初めてなら、演奏を目の前で聞くのも初めてだった。
楽人は身じろぎもせず、黙って芹沢氏のヴァイオリンを聴いていた。
やがて滑らかな旋律を弾き終えると、俺の隣で楽人が呟くように言った。
「アヴェ・マリアだ。……グノーの、アヴェ・マリア」
俺にはよく解らなかったが、いま聴いた曲のことを言っているのだろうと思い、何となく楽人に聞き返した。
「へえ、そういう名前の曲なのか? どこで覚えたの、そんなの」
「お父さんが、毎晩いろいろなCDを聴かせてくれたから」
そう言ってすぐに楽人は、自分の失言を悔いるような顔をした。
それが逆に、なんだかとても――切なかった。
楽人が『お父さん』という言葉を口にしたのを、俺は引き取ってから初めて聞いた気がした。そしてそれと同時に、俺の前で本当の父親の話を避けていたのは、俺のためだったのだ、と気付かされた。
しかし。絶対、敵うわけがない。
本当の絆が、たったひとことで見えたのだ。
俺とのような見せかけの絆ではない、到底及ぶところではない領域――。
芹沢氏には、楽人の反応が何か心を打つものであったらしい。楽人の持つ音楽の才能と知識の中に、自分の音楽を見いだしたようだった。
芹沢卓人という一人の男を通して――。
「卓人は、君にとっていい父親だったのかな?」
「……僕の父さんは、この人だけだ」
俺の顔の真ん中を指差して、なんとも失敬な扱いだったが――俺は泣きそうになっていた。
そう、俺は楽人の父親だ。楽人のためになることなら、何でもしてやらなくてはいけないのだ。
「お前も早く、先生のように上手くなるといいな」
「何でだよ。僕、やらない。勝手に決めるなよ」
迷っている。俺にはそれが分かる。
たった三年だが、俺たちは親子として暮らしてきたのだ。表情声色一つで、天邪鬼である楽人の気持ちなど簡単に分かる。
俺はすばやく楽人に耳打ちした。
「お母さんと約束したんだろう?」
楽人の大きな目が、さらに大きく見開かれた。
姉がここに生きている。
「……でも」
「あの子がいつか一人になったときに、お前が側にいてやれるように。たとえ、どんな形であっても」
楽人の透き通ったガラス玉のような大きな瞳が、ゆっくりと瞬いた。
俺の言葉に迷いを見せ、不安げな顔でじっと見つめてくる。
――たとえ、どんなカタチであっても。
芹沢氏は再びヴァイオリンを丁寧にケースの中へしまった。そして、それを楽人の前へと差し出した。
「これは、私がヴァイオリン奏者として活動していたときに使用していたものだよ。ストラディバリウスと言ってね、とても稀少な名器だ。私にとって命よりも大切なものなんだ。本当なら、私の息子が持っているはずだったのだが――君が使いなさい」
楽人は躊躇していたが、やがてゆっくりと手を伸ばし、ヴァイオリンケースを受け取った。
やはり、自分の本当の父親が持っているはずだった、という言葉が、何かを後押ししたようだ。
「私のことを祖父だと思ってくれる必要はない。ただし。私の弟子として扱う以上、「あんた」ではなく「先生」と呼びなさい。いいね? 私の知人が札幌にいるから、ヴァイオリンの基礎はその人から学ぶといい。君の『お父さん』に毎週通わせるように話しておくから」
楽人は黙ったままだ。ヴァイオリンケースを抱えたまま、じっと実の祖父を睨みすえている。
「返事をしなさい、――鷹山楽人君」
怖じることなく、芹沢氏は実の孫と向き合っている。
「僕、あなたの名前を呼ぶの、嫌です。昔の自分の名前と同じだから」
「では下の名を呼べばいい。名前で音楽をするわけではないからね。私の名前は英輔だ」
芹沢氏の言葉に、楽人は身を強ばらせたまま。
「鷹山楽人君?」
再三の問い掛けに、楽人はようやく重い口を開いた。
「……解りました。エイスケ、先生」
無慈悲ともいえるやりとりに、俺は心を痛めていた。
「あのときのことは、すまなかったと思っている。私の妻は卓人が家を飛び出してからというもの、情緒不安定な状態が続いていてね。あの事故の後はそれが悪化したようだ。しかし、それは君のせいではない――今はまだ孫として認めてやれなくても、いつか妻も解ってくれる日が来ると、私は信じている」
俺は何も言えなかった。言えずにじっと、芹沢氏と楽人を見ていた。
「卓人が私の音楽を拒んで、それを捨てて家を出てしまったことをずっと悲しんでいた。このヴァイオリンすら、置き去りにしてしまって。しかし」
ここは俺の場所ではない。
俺は決して入り込めない、二人の聖域なのだ。
「君が卓人から受け継いでいるその音楽の知識と才能を、これほどまでに嬉しいと思ったことはなかった」
遠く、離れていく。
俺の手の届かない、遥か遠くへ離れていってしまう。
「芹沢の血の、なせる業だ。その名は違えど――」
楽人は観念したように、大きな瞳をゆっくりと伏せた。
「あの子は……僕の妹はどうしてますか?」
「君が心配しなくても大丈夫だ。ちゃんと優秀な教育係も側につけている。分かっているとは思うが、あの子に君の事を知らせていないし、これからも兄弟がいることを知らせるつもりはない。私が生きているうちは――分かってくれ、それがあの子のためなんだ」
それはきっと違う、と俺は傍目に思った。あの子のためではなく、芹沢氏の保身のためだと。
楽人があの家に引き取られなかった理由を、俺は知っている。
この子があまりにも俺の姉に似ているから――実の祖母である芹沢夫人に忌み嫌われたのだ。それはこの芹沢氏も承知しているはずだ。
一人息子を溺愛するあまり、辿ってしまった悲しい運命。
「大切にされてるなら、それでもう充分です。僕はただのトウモロコシ農家の子供だから――」
芹沢氏を見送った後――。
俺はなんとなく悔しくなって、後ろから楽人の頭を拳で殴りつけた。
「何するんだよ!」
「ただのトウモロコシ農家で悪かったな。ちっとは誇りに思えよ、バカ息子が」
あえて俺は楽人を『息子』と呼んだ。照れくさくて思わずバカという余計なものをつけてしまったが。
「そんなんだから、女にもてないんだよ。もうすぐ三十路のくせに」
楽人は生意気にも俺の顔を指差してくる。早熟なお前に言われたくはない。
ふと。
先ほども同じようにして指を差されたことを思い出した。
『……僕の父さんは、この人だけだ』
祖父に対する、精一杯の虚勢であるにしても。
「さっきのことだけど。俺に気を使うことなんかないんだよ? お前のお父さんは俺なんかよりもずっと――」
「何で僕があんたに気を使わなくちゃダメなんだよ。それにさっきのは嘘じゃないから。…………もう寝る」
楽人はくるりと背中を向けた。
「晩飯は?」
「いらない――おやすみ、『父さん』」
厳しくも優しい祖父の贈り物を大切に胸に抱え、楽人は居間を出て自室へと向かった。
涙を見せたくないのだ、きっと。やはり年頃の男の子だ。
震える声で、初めて『父さん』と呼んでくれた最愛の息子の背中を、俺はただ見送っていた。
(了)