孤高の旋律 (1)
初めて彼のピアノを聴いた時のことは、今でもはっきりと覚えている。
日も射し込まない薄暗い部屋で、閉じられたままの楽譜の表紙を眺めながらどんな難しいパッセージも涼しい顔をして鍵盤の上に指を走らせるさまは、彼がどんなに素晴らしい一流のピアニストであるかを簡単に悟らせた。
まだ学生かと思うほどに風貌は少年のようだったが、実際は日本で音大をストレートで卒業し、更なる研鑚を積むためにここベルリンの音楽院へやってきたというのだから――充分大人の男性といえる年齢だった。
私の父は一代で財を成したいわゆる資産家で、音楽に造詣が深かったこともあり、若手音楽家育成のための資金援助というものを行っていた。
その日本から来たピアニスト、稲葉努が父の支援を受けてベルリンで修業することは、とりたてて珍しいことではなかった。今までも同じようにして何人かの音楽家の卵たちの援助をしていたわけだが――彼は確実に私の心を掴む『何か』を持ち合わせていたのだった。
週に二度、彼は私の家族と一緒に夕食を摂り、そのあとリビングに置かれた父ご自慢のベヒシュタインで数曲を弾く――いつしかそれが我が家の習慣となっていた。
「今日は何を弾いてくれるんだね? 稲葉君」
父がそう問いかけると、彼は躊躇することなく、幅広いレパートリーの中からすばやく選曲してみせる。
その自信に満ちた彼の表情を遠くから見つめているのが、私にとってこの上ない至福のひとときだった。
繊細で、それでいて迷いのない澄んだ眼差し。
「そうですね……今日は月が綺麗ですので、ドビュッシーの「月の光」とベートーベンの「月光」など、いかがですか?」
そう彼は説明して、かなたに見えるドイツの深い森と昇ったばかりの満月を仰ぎ、もちろんミスタッチもなければテンポの狂いすらなく、音楽の女神に愛された調べを披露してみせるのだった。
彼と知り合ってから、どのくらい経った頃だろう。恐らく、そろそろ半年を迎えようとする辺りだったのではないかと思う。
既に彼はすっかり家族の一員のようになっていた。この頃には私もすっかり打ち解け、食事を共にするときには学校での些細な出来事を彼に話したり、向こうもまた日本とベルリンとの文化の違いを楽しげに語ってくれたりもした。
そのように徐々に心を通わせていく一方で、私は彼が弾くピアノに対して違和感を覚え始めていた。
決して、その音楽の波長が合わないということではない。
一流の腕前を持つピアニスト。
しかし。
彼が弾いてみせる曲の中には、いつまで経ってもあの有名なフレデリック・ショパンのものが一つもなかったのだ。
もちろん初めのうちは気付かなかった。ありとあらゆるジャンルのピアノ曲を弾きこなす彼はおのずとレパートリーも膨大に広く――たとえショパンが選曲されなくてもそれは偶然のことだと、気にも留めていなかった。
ある日、いつものように彼を交えての夕食会を終えたあと、私の父がソファに身を預けながら、ピアノの演奏の準備をしていた彼に尋ねた。
「稲葉君、君はショパンコンクールに挑戦しないのかね?」
ショパンコンクールといえばあまりに有名な、ピアニストにとっては憧れてやまない最高権威である。
「ええ――目指していた時期もありましたが、もう過去のことですので」
彼は淡々とピアノのセッティングをしながら、そっけなく答えた。
「過去って……君の年ならまだチャレンジは充分可能なはずだろう?」
彼がとりあえずショパンコンクールを目指していたことがある、というのを聞いて、私はどこかホッとしていた。やはりこれだけの実力の持ち主は、ショパンコンクールに関するエピソードが合って然りであろう。
そしてまた、父の言うことにも私は同意見だった。
年齢的に諦める――ということは、決してありえない気がした。
私達父娘が揃って腑に落ちない表情になったのを見て、彼はあわてて付け加えるように言った。
「ああ、説明の仕方が悪かったですね。僕よりもショパンを上手く弾く人間を、知っているので……たとえコンクールで優勝しても、僕があいつに勝つことはできないのです」
「ほう。無敵の稲葉君にも、そんな手ごわいライバルがいるのかね?」
初めて聞く、彼の過去が何だか垣間見える話だった。
――僕よりもショパンを上手く弾く、あいつ。
「手ごわくはないですけどね。日本で調律師の見習いしながら、幸せそうに暮らしてますよ」
彼はそう言って椅子に腰掛けると、鍵盤に指を掛け、何の説明もなしに弾き始めた。
流れるような旋律の波間に、私はいつまでも漂い続けた。
曲はフランツ・リストの ―La lugubre gondola― 悲しみのゴンドラ、だった。
「ツトムにね、お手紙が届いてたよ」
私は父がいつも使っている部屋の隅に置かれたキャビネットのところまで歩いていった。
そして、その上に置かれている文書箱から一通のエアメールを、そっと取り出した。
まるで特別な任務を拝命したかのごとく私はそれを両手で持ち、一曲弾き終えた彼の元へと近づいた。
彼は訳が解らず驚いたようだった。しかし、そのあとすぐに合点のいった表情になる。
「僕に? ああ、僕今の住所、誰にも知らせてなかったもんな。だからこちらへ届いたんですね。申し訳ありません」
彼は私にではなく父の方を振り返り、申し訳なさそうに礼儀正しくお辞儀をした。
「いや、構わないよ。稲葉君は私たちのファミリー同然だからね。君のアパートでは留守がちだろうし、ここを連絡先に使ってくれていいから。手紙を預かることくらいわけのないことだよ」
そんなやり取りを聞きながら――。
私の関心は、いまだ自分の手の中にある彼宛に送られてきた手紙、にあった。
正確に言うと、手紙の差出人のところに書かれた、繊細で達筆な署名に釘付け――。
日本からわざわざ彼に手紙を送ってくる、『女』。
私は我慢できずに彼に尋ねた。
「ねえ、ヒトミって……誰?」
「こら絵里香! はしたない。いちいち詮索するんじゃない」
「だって!」
根掘り葉掘り訊くのは非礼な行動だということに気付いていたが、その頃の私は礼節をわきまえることのできない子供だったのだろう。
どうしても気になる、彼の『過去』の人間関係。
そういう人がいたって、全然不思議じゃない。私が彼のことを全然知らない、というだけのことだ。
そう、全然知らない。
彼がここベルリンへ留学してくる前、日本でどんな暮らしを送っていたのか。
音大を卒業したということは知っている。ピアノ科を首席で卒業したことも、父親が有名なトランペット奏者で、母親はニューヨークを拠点に活躍しているソプラノ歌手であることも知っている。
でも。
「大学時代の友人ですよ」
彼は私のぶしつけな質問にも嫌な顔一つせず、笑いながら答えた。
「……ホントに友達?」
「止さないか、絵里香!」
父の語調が強くなる。私はその声に驚き振り返ると、出過ぎた行動を諌めるような厳しい顔がそこにはあった。
そこへ、すうっと彼の声が――。
「いいんですよ、真鶴さん。絵里香ちゃんは勘がいいね。そうだなあ……僕が憧れていた女性、ってところかな」
やっぱり、そうか。
私は訊いてしまったことを既に後悔し始めていた。
手の中にあるエアメールを引き裂いてしまいたいほどの激しい嫉妬心が、私の心を支配しようとしていた。
電話も電子メールも発達したこのご時勢に、わざわざこうやって手書きの文章を送ってくるなんて。
大学時代の友人? そんな話――。
「うそ……そのヒトミって人、ツトムの彼女なの!?」
「違うよ。僕が憧れているだけさ」
「……わざわざこうやって手紙なんか送ってくるのに?」
「電話では済まされないこと、なんでしょうね。きっと」
そう言って、彼は私の手から『ヒトミ』の手紙をそっと取った。
そして照れたように笑うと、ダンケ、とドイツ語で私に感謝の意を述べた。
彼はいつも持ち歩いている革製の楽譜ケースから一冊の薄い楽譜を取り出すと、そこに『ヒトミ』からの手紙を挟み込んだ。
何度も何度も練習し弾き込まれたような、そんな質感の表紙に、私は彼の音楽に対する真摯な姿勢を感じ、改めて尊敬の念を抱いた。
ふと。
私は、あるものを見てしまった。
驚きのあまり、声も出なかった。
楽譜の表紙には確かに―Frederic Chopin―と印刷してあるではないか。
ショパンの楽曲を頑なに弾こうとしない彼が、楽譜だけは常に持ち歩いていて、そして。
そこにわざわざ『ヒトミ』の手紙を挟む、そこに何の理由もないなんて、到底信じられるはずがない。
「その曲、聴きたい。――ねえ、絵里香のお願い。弾いてよ、ツトム」
彼は明らかに困惑の表情を浮かべた。どんな曲をリクエストしても快く引き受けてくれる彼が、初めて見せた『拒否』のしるしだった。
もちろん言葉で拒んだわけではない。
彼の心の奥の踏み込んではいけない領域を、今まさに踏みつけようとしているのを、彼の表情から私は察したのだ。
「どうしてショパンを弾いてくれないの?」
ここにはツトムのライバルなんていないのに――。
「絵里香ちゃんも、この曲が好きなの?」
彼は私のような小娘を上手くあしらうように、首を傾げながら笑顔で訊いてくる。
弾いてくれる気など、さらさらないのだ。
そう。
絵里香ちゃん――『も』。
もう何が何だか、訳が解らなくなっていた。
『ヒトミ』だ。『ヒトミ』なんだ。
このショパンはきっと、彼がヒトミのためだけに弾く曲――。
「好きじゃない。知らないそんな曲。弾いてくれないならもういい、頼まない」
私は彼から思い切り顔をそむけそのまま背を向けると、呆れ顔の父親と私の心を揺さぶる鈍感なピアニストを残し、早足でサロンを出た。
きっと今頃二人は顔を見合わせて、私のことをわがままな子供の行動だと嗤っているんだろう。
自室に戻る途中の廊下の真ん中で、私は歩けなくなり立ち止まった。
心の底から震えが来て、とっさに両手で顔を覆ったが、あふれる涙はもはや止めることができなかった。
こんなことで、と笑われるかもしれない。
でも私の中では、それほど彼の存在が大きくなってしまっていたのだ。
今頃になって気付くなんて。
私のためには――彼が決して弾くことのないショパンに、そして彼が憧れているという『ヒトミ』に、激しい嫉妬を覚えた。
日も射し込まない薄暗い部屋で、閉じられたままの楽譜の表紙を眺めながらどんな難しいパッセージも涼しい顔をして鍵盤の上に指を走らせるさまは、彼がどんなに素晴らしい一流のピアニストであるかを簡単に悟らせた。
まだ学生かと思うほどに風貌は少年のようだったが、実際は日本で音大をストレートで卒業し、更なる研鑚を積むためにここベルリンの音楽院へやってきたというのだから――充分大人の男性といえる年齢だった。
私の父は一代で財を成したいわゆる資産家で、音楽に造詣が深かったこともあり、若手音楽家育成のための資金援助というものを行っていた。
その日本から来たピアニスト、稲葉努が父の支援を受けてベルリンで修業することは、とりたてて珍しいことではなかった。今までも同じようにして何人かの音楽家の卵たちの援助をしていたわけだが――彼は確実に私の心を掴む『何か』を持ち合わせていたのだった。
週に二度、彼は私の家族と一緒に夕食を摂り、そのあとリビングに置かれた父ご自慢のベヒシュタインで数曲を弾く――いつしかそれが我が家の習慣となっていた。
「今日は何を弾いてくれるんだね? 稲葉君」
父がそう問いかけると、彼は躊躇することなく、幅広いレパートリーの中からすばやく選曲してみせる。
その自信に満ちた彼の表情を遠くから見つめているのが、私にとってこの上ない至福のひとときだった。
繊細で、それでいて迷いのない澄んだ眼差し。
「そうですね……今日は月が綺麗ですので、ドビュッシーの「月の光」とベートーベンの「月光」など、いかがですか?」
そう彼は説明して、かなたに見えるドイツの深い森と昇ったばかりの満月を仰ぎ、もちろんミスタッチもなければテンポの狂いすらなく、音楽の女神に愛された調べを披露してみせるのだった。
彼と知り合ってから、どのくらい経った頃だろう。恐らく、そろそろ半年を迎えようとする辺りだったのではないかと思う。
既に彼はすっかり家族の一員のようになっていた。この頃には私もすっかり打ち解け、食事を共にするときには学校での些細な出来事を彼に話したり、向こうもまた日本とベルリンとの文化の違いを楽しげに語ってくれたりもした。
そのように徐々に心を通わせていく一方で、私は彼が弾くピアノに対して違和感を覚え始めていた。
決して、その音楽の波長が合わないということではない。
一流の腕前を持つピアニスト。
しかし。
彼が弾いてみせる曲の中には、いつまで経ってもあの有名なフレデリック・ショパンのものが一つもなかったのだ。
もちろん初めのうちは気付かなかった。ありとあらゆるジャンルのピアノ曲を弾きこなす彼はおのずとレパートリーも膨大に広く――たとえショパンが選曲されなくてもそれは偶然のことだと、気にも留めていなかった。
ある日、いつものように彼を交えての夕食会を終えたあと、私の父がソファに身を預けながら、ピアノの演奏の準備をしていた彼に尋ねた。
「稲葉君、君はショパンコンクールに挑戦しないのかね?」
ショパンコンクールといえばあまりに有名な、ピアニストにとっては憧れてやまない最高権威である。
「ええ――目指していた時期もありましたが、もう過去のことですので」
彼は淡々とピアノのセッティングをしながら、そっけなく答えた。
「過去って……君の年ならまだチャレンジは充分可能なはずだろう?」
彼がとりあえずショパンコンクールを目指していたことがある、というのを聞いて、私はどこかホッとしていた。やはりこれだけの実力の持ち主は、ショパンコンクールに関するエピソードが合って然りであろう。
そしてまた、父の言うことにも私は同意見だった。
年齢的に諦める――ということは、決してありえない気がした。
私達父娘が揃って腑に落ちない表情になったのを見て、彼はあわてて付け加えるように言った。
「ああ、説明の仕方が悪かったですね。僕よりもショパンを上手く弾く人間を、知っているので……たとえコンクールで優勝しても、僕があいつに勝つことはできないのです」
「ほう。無敵の稲葉君にも、そんな手ごわいライバルがいるのかね?」
初めて聞く、彼の過去が何だか垣間見える話だった。
――僕よりもショパンを上手く弾く、あいつ。
「手ごわくはないですけどね。日本で調律師の見習いしながら、幸せそうに暮らしてますよ」
彼はそう言って椅子に腰掛けると、鍵盤に指を掛け、何の説明もなしに弾き始めた。
流れるような旋律の波間に、私はいつまでも漂い続けた。
曲はフランツ・リストの ―La lugubre gondola― 悲しみのゴンドラ、だった。
「ツトムにね、お手紙が届いてたよ」
私は父がいつも使っている部屋の隅に置かれたキャビネットのところまで歩いていった。
そして、その上に置かれている文書箱から一通のエアメールを、そっと取り出した。
まるで特別な任務を拝命したかのごとく私はそれを両手で持ち、一曲弾き終えた彼の元へと近づいた。
彼は訳が解らず驚いたようだった。しかし、そのあとすぐに合点のいった表情になる。
「僕に? ああ、僕今の住所、誰にも知らせてなかったもんな。だからこちらへ届いたんですね。申し訳ありません」
彼は私にではなく父の方を振り返り、申し訳なさそうに礼儀正しくお辞儀をした。
「いや、構わないよ。稲葉君は私たちのファミリー同然だからね。君のアパートでは留守がちだろうし、ここを連絡先に使ってくれていいから。手紙を預かることくらいわけのないことだよ」
そんなやり取りを聞きながら――。
私の関心は、いまだ自分の手の中にある彼宛に送られてきた手紙、にあった。
正確に言うと、手紙の差出人のところに書かれた、繊細で達筆な署名に釘付け――。
日本からわざわざ彼に手紙を送ってくる、『女』。
私は我慢できずに彼に尋ねた。
「ねえ、ヒトミって……誰?」
「こら絵里香! はしたない。いちいち詮索するんじゃない」
「だって!」
根掘り葉掘り訊くのは非礼な行動だということに気付いていたが、その頃の私は礼節をわきまえることのできない子供だったのだろう。
どうしても気になる、彼の『過去』の人間関係。
そういう人がいたって、全然不思議じゃない。私が彼のことを全然知らない、というだけのことだ。
そう、全然知らない。
彼がここベルリンへ留学してくる前、日本でどんな暮らしを送っていたのか。
音大を卒業したということは知っている。ピアノ科を首席で卒業したことも、父親が有名なトランペット奏者で、母親はニューヨークを拠点に活躍しているソプラノ歌手であることも知っている。
でも。
「大学時代の友人ですよ」
彼は私のぶしつけな質問にも嫌な顔一つせず、笑いながら答えた。
「……ホントに友達?」
「止さないか、絵里香!」
父の語調が強くなる。私はその声に驚き振り返ると、出過ぎた行動を諌めるような厳しい顔がそこにはあった。
そこへ、すうっと彼の声が――。
「いいんですよ、真鶴さん。絵里香ちゃんは勘がいいね。そうだなあ……僕が憧れていた女性、ってところかな」
やっぱり、そうか。
私は訊いてしまったことを既に後悔し始めていた。
手の中にあるエアメールを引き裂いてしまいたいほどの激しい嫉妬心が、私の心を支配しようとしていた。
電話も電子メールも発達したこのご時勢に、わざわざこうやって手書きの文章を送ってくるなんて。
大学時代の友人? そんな話――。
「うそ……そのヒトミって人、ツトムの彼女なの!?」
「違うよ。僕が憧れているだけさ」
「……わざわざこうやって手紙なんか送ってくるのに?」
「電話では済まされないこと、なんでしょうね。きっと」
そう言って、彼は私の手から『ヒトミ』の手紙をそっと取った。
そして照れたように笑うと、ダンケ、とドイツ語で私に感謝の意を述べた。
彼はいつも持ち歩いている革製の楽譜ケースから一冊の薄い楽譜を取り出すと、そこに『ヒトミ』からの手紙を挟み込んだ。
何度も何度も練習し弾き込まれたような、そんな質感の表紙に、私は彼の音楽に対する真摯な姿勢を感じ、改めて尊敬の念を抱いた。
ふと。
私は、あるものを見てしまった。
驚きのあまり、声も出なかった。
楽譜の表紙には確かに―Frederic Chopin―と印刷してあるではないか。
ショパンの楽曲を頑なに弾こうとしない彼が、楽譜だけは常に持ち歩いていて、そして。
そこにわざわざ『ヒトミ』の手紙を挟む、そこに何の理由もないなんて、到底信じられるはずがない。
「その曲、聴きたい。――ねえ、絵里香のお願い。弾いてよ、ツトム」
彼は明らかに困惑の表情を浮かべた。どんな曲をリクエストしても快く引き受けてくれる彼が、初めて見せた『拒否』のしるしだった。
もちろん言葉で拒んだわけではない。
彼の心の奥の踏み込んではいけない領域を、今まさに踏みつけようとしているのを、彼の表情から私は察したのだ。
「どうしてショパンを弾いてくれないの?」
ここにはツトムのライバルなんていないのに――。
「絵里香ちゃんも、この曲が好きなの?」
彼は私のような小娘を上手くあしらうように、首を傾げながら笑顔で訊いてくる。
弾いてくれる気など、さらさらないのだ。
そう。
絵里香ちゃん――『も』。
もう何が何だか、訳が解らなくなっていた。
『ヒトミ』だ。『ヒトミ』なんだ。
このショパンはきっと、彼がヒトミのためだけに弾く曲――。
「好きじゃない。知らないそんな曲。弾いてくれないならもういい、頼まない」
私は彼から思い切り顔をそむけそのまま背を向けると、呆れ顔の父親と私の心を揺さぶる鈍感なピアニストを残し、早足でサロンを出た。
きっと今頃二人は顔を見合わせて、私のことをわがままな子供の行動だと嗤っているんだろう。
自室に戻る途中の廊下の真ん中で、私は歩けなくなり立ち止まった。
心の底から震えが来て、とっさに両手で顔を覆ったが、あふれる涙はもはや止めることができなかった。
こんなことで、と笑われるかもしれない。
でも私の中では、それほど彼の存在が大きくなってしまっていたのだ。
今頃になって気付くなんて。
私のためには――彼が決して弾くことのないショパンに、そして彼が憧れているという『ヒトミ』に、激しい嫉妬を覚えた。