孤高の旋律 (2)
週末には決まって私の家を訪れる彼が、なぜか今週は姿をみせなかった。
デュッセルドルフの演奏会に招かれピアノを弾くことになっていることを、私は父から聞いた。
コンチェルト――協奏曲だという。
ラフマニノフの第2番。私も大好きな曲だ。
彼の弾くラフマニノフはどんなに情熱的だろう。私は頭の中にその主旋律を思い描いた。
彼に会えないのは多少残念な気もしたが、心のどこかではホッとしていた。
現実を直視するのがとても怖かった。
彼の過去。もしくは現在も――。
彼は『ヒトミ』のことを、憧れていただけだと言っていた。
もしかしたらそれは本当なのかもしれない。
でも、わざわざ手紙を送ってくるということは、遠くから見守っているだけの「憧れ」ではないはずだ。
『彼』と『ヒトミ』は繋がっている。
心と心が、奥底で繋がり合っている、きっとそう、そうに違いない――。
もう――おかしくなりそうだった。いや、もう既におかしくなっていたのかもしれない。
週末ののどかな昼下がりのことだった。
朝早く出かけていたはずの父が、いつのまに帰ってきたのか――私の部屋へやってきた。
「絵里香、父さんの言うことを聞いてくれないか?」
「どうしたの?」
そう言って、父は私に鍵を一つ手渡した。
何の変哲もないプラスチックのタグがついた、いかにもスペアキーらしき代物だ。
「スポンサー契約の確約書の写しがどうしても今日中に必要になってね。稲葉君のアパートまで取りに行ってきてくれないか」
「ツトムのウチに!?」
「寝室の机の上においてあるというから、それをそのまま借りてくればいい」
彼は私の家から徒歩数分のところに住んでいた。
そのアパートは父の所有する数多の賃貸物件の一つで、当然のことながらスペアキーの管理も父がしていた。
今までは向こうからこちらへ訪れるだけで、彼の住んでいる所へはまだ行ったことがなかった。
沈んでいた気持ちがわずかに晴れた。
大好きな彼の部屋に、堂々と入れる機会はそうそうない。
私は二つ返事で了承し、父からの頼みという大義名分を背負って、意気揚々と彼のアパートへ向かった。
しかし。
それが悪夢の始まりだった。
目的の書類はすぐに見つけることが出来た。父の言うとおり、それはテーブルの上に置かれていた。
ふと目を留めると――。
いつか見たことのあるショパンの楽譜が、テーブルの端のほうに、無造作に置かれているのに気がついた。
私の心の中の悪魔が、押さえられずに――その楽譜の表紙にゆっくりと、震える右手を伸ばした。
そこにはあの時彼が挟み込んだ、『ヒトミ』からの手紙があった。封は既に開いている。
勝手に他人の手紙を読むということが、悪いことであると判っていた。
しかし、ちょっとくらいなら。
黙っていれば、きっと分からない。
私はさらにその、開封された手紙に手を伸ばし――一旦躊躇して引っ込めた。
誰かに見られているような気がして、あたりを数度見渡す。後ろめたい心の現われだ。
当たり前だが、室内に人の気配はまるでなかった。
すばやく封筒の中を覗き込み、中身を取り出した。二枚に渡るヒトミの手紙がていねいに三つ折されている。
恐る恐る開くと、突如視界に飛び込んできた、一文。
きっとそれは手紙の二枚目の、冒頭だったのだろう。ありきたりな挨拶や社交辞令ではない、ストレートな言葉だった。
『久しぶりに稲葉君のショパンが聴きたいです。』
私は続く文章を読むことなく、すぐさま手紙を折り直した。とても続きを読むような心境ではなかった。
人の手紙を読むなんて罰当たりなマネをした、そう、これはまさに天罰だ。元通り封筒にしまおうとするが、手が震え、なかなか上手くいかなかった。
集中できない。思考がぐるぐる巡っている。
どんな顔をして、彼がこの手紙を読んでいたことだろう。
ショパンを絶対に弾かない彼が、ショパンを久しぶりに聴きたいと言う彼女の手紙を、ショパンの楽譜の間に挟みこむ――なんて。
やはり、そうか。
なんとなく分かっていた。しかし、それを認めたくなかったのだ。
久しぶりに。そう。
『ヒトミ』は確実に、彼のショパンを聴いたことがあるのだ。
私の中の何かが、――壊れた。
なんてことをしてしまったのだろう。
気がついたときには、ピアニストにとって最も大切な――繰り返し弾き込まれた質感のそのショパンの楽譜を、真ん中から引き裂いていた。
どこにそんな力があったのだろうと、自分でも驚くぐらいの凄まじいものだった。
動悸が抑えられず、必死に呼吸を繰り返す。
私は破った楽譜を床に投げ出し、その場にへたり込んだ。
最低だ。
人間として最低で、そして最悪だ――。
私は彼に嫌われて当然のことをしてしまった。でも、いまさら嫌われたって、ちっとも痛くなんかない。
彼の心は『ヒトミ』にあるのだから。
私のことだけを見てくれる日が来るなんて、永遠にありえない。
たとえ嫌われても、彼の関心が私の方へ向くのなら、それはそれで構わない――とさえ思えてしまう。
そのショパンの幻想曲を、私のためだけに弾いてくれることなど、ありえない。
最低最悪の人間には、慈悲の音楽を求める権利すら与えられないのだ。
私は少し落ち着くと、自分のしたことをまるで他人事のように見つめた。真っ二つに裂かれたショパンの楽譜を拾い上げ、破れ目をそっと指でなぞった。
私が書類を取ってくるのを、家で父が待っている――。
カバンに書類と破れた楽譜の残骸とヒトミの手紙を押し込むようにして入れ、私はいったん戻ることにした。
彼がベルリンへ戻ってくるのは明日だ。
こんなにも時間の流れに対して恐怖を覚えたことは、いまだかつてなかった。
私が家に戻ると、父は書類をいまや遅しと待っていた。素直に書類と彼の部屋の鍵を渡すと、父は私に驚きの事実を口にした。
なぜ今、スポンサー契約の確約書などが必要なのか――その理由はまさに青天の霹靂、思いもよらないものだった。
「急なことだけどね、稲葉君は今度ニューヨークの楽団とのプロジェクトに参加することになって、こちらの音楽院は半年ほど休学することにしたそうだ」
「……ニューヨーク? うそ――ツトム、ここからいなくなっちゃうの!?」
私は思わず自分の耳を疑った。
目の前が真っ暗になり、私は失意のどん底に叩きつけられたのだった。
デュッセルドルフの演奏会に招かれピアノを弾くことになっていることを、私は父から聞いた。
コンチェルト――協奏曲だという。
ラフマニノフの第2番。私も大好きな曲だ。
彼の弾くラフマニノフはどんなに情熱的だろう。私は頭の中にその主旋律を思い描いた。
彼に会えないのは多少残念な気もしたが、心のどこかではホッとしていた。
現実を直視するのがとても怖かった。
彼の過去。もしくは現在も――。
彼は『ヒトミ』のことを、憧れていただけだと言っていた。
もしかしたらそれは本当なのかもしれない。
でも、わざわざ手紙を送ってくるということは、遠くから見守っているだけの「憧れ」ではないはずだ。
『彼』と『ヒトミ』は繋がっている。
心と心が、奥底で繋がり合っている、きっとそう、そうに違いない――。
もう――おかしくなりそうだった。いや、もう既におかしくなっていたのかもしれない。
週末ののどかな昼下がりのことだった。
朝早く出かけていたはずの父が、いつのまに帰ってきたのか――私の部屋へやってきた。
「絵里香、父さんの言うことを聞いてくれないか?」
「どうしたの?」
そう言って、父は私に鍵を一つ手渡した。
何の変哲もないプラスチックのタグがついた、いかにもスペアキーらしき代物だ。
「スポンサー契約の確約書の写しがどうしても今日中に必要になってね。稲葉君のアパートまで取りに行ってきてくれないか」
「ツトムのウチに!?」
「寝室の机の上においてあるというから、それをそのまま借りてくればいい」
彼は私の家から徒歩数分のところに住んでいた。
そのアパートは父の所有する数多の賃貸物件の一つで、当然のことながらスペアキーの管理も父がしていた。
今までは向こうからこちらへ訪れるだけで、彼の住んでいる所へはまだ行ったことがなかった。
沈んでいた気持ちがわずかに晴れた。
大好きな彼の部屋に、堂々と入れる機会はそうそうない。
私は二つ返事で了承し、父からの頼みという大義名分を背負って、意気揚々と彼のアパートへ向かった。
しかし。
それが悪夢の始まりだった。
目的の書類はすぐに見つけることが出来た。父の言うとおり、それはテーブルの上に置かれていた。
ふと目を留めると――。
いつか見たことのあるショパンの楽譜が、テーブルの端のほうに、無造作に置かれているのに気がついた。
私の心の中の悪魔が、押さえられずに――その楽譜の表紙にゆっくりと、震える右手を伸ばした。
そこにはあの時彼が挟み込んだ、『ヒトミ』からの手紙があった。封は既に開いている。
勝手に他人の手紙を読むということが、悪いことであると判っていた。
しかし、ちょっとくらいなら。
黙っていれば、きっと分からない。
私はさらにその、開封された手紙に手を伸ばし――一旦躊躇して引っ込めた。
誰かに見られているような気がして、あたりを数度見渡す。後ろめたい心の現われだ。
当たり前だが、室内に人の気配はまるでなかった。
すばやく封筒の中を覗き込み、中身を取り出した。二枚に渡るヒトミの手紙がていねいに三つ折されている。
恐る恐る開くと、突如視界に飛び込んできた、一文。
きっとそれは手紙の二枚目の、冒頭だったのだろう。ありきたりな挨拶や社交辞令ではない、ストレートな言葉だった。
『久しぶりに稲葉君のショパンが聴きたいです。』
私は続く文章を読むことなく、すぐさま手紙を折り直した。とても続きを読むような心境ではなかった。
人の手紙を読むなんて罰当たりなマネをした、そう、これはまさに天罰だ。元通り封筒にしまおうとするが、手が震え、なかなか上手くいかなかった。
集中できない。思考がぐるぐる巡っている。
どんな顔をして、彼がこの手紙を読んでいたことだろう。
ショパンを絶対に弾かない彼が、ショパンを久しぶりに聴きたいと言う彼女の手紙を、ショパンの楽譜の間に挟みこむ――なんて。
やはり、そうか。
なんとなく分かっていた。しかし、それを認めたくなかったのだ。
久しぶりに。そう。
『ヒトミ』は確実に、彼のショパンを聴いたことがあるのだ。
私の中の何かが、――壊れた。
なんてことをしてしまったのだろう。
気がついたときには、ピアニストにとって最も大切な――繰り返し弾き込まれた質感のそのショパンの楽譜を、真ん中から引き裂いていた。
どこにそんな力があったのだろうと、自分でも驚くぐらいの凄まじいものだった。
動悸が抑えられず、必死に呼吸を繰り返す。
私は破った楽譜を床に投げ出し、その場にへたり込んだ。
最低だ。
人間として最低で、そして最悪だ――。
私は彼に嫌われて当然のことをしてしまった。でも、いまさら嫌われたって、ちっとも痛くなんかない。
彼の心は『ヒトミ』にあるのだから。
私のことだけを見てくれる日が来るなんて、永遠にありえない。
たとえ嫌われても、彼の関心が私の方へ向くのなら、それはそれで構わない――とさえ思えてしまう。
そのショパンの幻想曲を、私のためだけに弾いてくれることなど、ありえない。
最低最悪の人間には、慈悲の音楽を求める権利すら与えられないのだ。
私は少し落ち着くと、自分のしたことをまるで他人事のように見つめた。真っ二つに裂かれたショパンの楽譜を拾い上げ、破れ目をそっと指でなぞった。
私が書類を取ってくるのを、家で父が待っている――。
カバンに書類と破れた楽譜の残骸とヒトミの手紙を押し込むようにして入れ、私はいったん戻ることにした。
彼がベルリンへ戻ってくるのは明日だ。
こんなにも時間の流れに対して恐怖を覚えたことは、いまだかつてなかった。
私が家に戻ると、父は書類をいまや遅しと待っていた。素直に書類と彼の部屋の鍵を渡すと、父は私に驚きの事実を口にした。
なぜ今、スポンサー契約の確約書などが必要なのか――その理由はまさに青天の霹靂、思いもよらないものだった。
「急なことだけどね、稲葉君は今度ニューヨークの楽団とのプロジェクトに参加することになって、こちらの音楽院は半年ほど休学することにしたそうだ」
「……ニューヨーク? うそ――ツトム、ここからいなくなっちゃうの!?」
私は思わず自分の耳を疑った。
目の前が真っ暗になり、私は失意のどん底に叩きつけられたのだった。