孤高の旋律  (3)

 次の日の夕方、彼はいつものように私の家へやってきた。
 ピアノの置かれているサロンのソファで、まるで自分の家のようにくつろいでいた。
 父はまだ帰っていなかった。母は夕食の支度に忙しいらしく、彼は一人で暇そうにその辺りにある雑誌を手に取りパラパラとめくっていた。

 今しかない。

 私は音を発てないようにして、ゆっくりと彼に近づいた。
 そして、無残に破られたショパンの楽譜を、黙ったまま彼の目の前に差し出した。
「……ごめんなさい。あの、本当に……ごめんなさい」
「僕がこの前、ショパンを弾かないって言ったこと、絵里香ちゃんの機嫌を損ねちゃったのかな。――ちゃんと言わなかった僕も悪い」
 彼は私の差し出した楽譜を受け取り、読んでいた雑誌と一緒にして、目の前のセンターテーブルの上へ置いた。
 私は一気に安堵した。彼が烈火のごとく怒り、私を軽蔑するのではないか――そんな妄想はとりあえず杞憂に終わったようだ。
 そんな私の心を読み透かしたように、彼は私を手招いて、ソファの隣に腰掛けるようすすめてくる。
 私はそれに素直に従った。
 しかし、視線を合わせるのが気恥ずかしく、彼の膝の上で組まれた長くて美しい形の指をじっと見つめ、彼の言葉を待った。
「彼女ね、今度結婚するんだよ」
「……結婚? 誰と?」
「僕の――親友とね。まあ、ライバルとも言うかな? その楽譜の中にはさんでた手紙はね、結婚式の招待状なんだよね」

 意外な事実だった。

 ――ヒトミが、彼の『親友』と結婚をする?

「この僕に、余興でピアノを弾けと言っている。それも弾きたくもないショパンをね」
 彼はおどけたように説明してみせる。肩をすくめてため息混じりに言うさまは、どこかしら自虐的な感じを受けた。
「……どうして、ショパンを弾きたくないの? というか、どうしてショパンなの?」
 私が彼に、どうしても聞きたかったこと。
 そう、それはまさに、私が最も知りたい彼の秘密――。

 彼はテーブルの上の破られた楽譜にチラリと目をやった。
「彼女の言うショパンはね、そこにある『幻想曲』のことなんだよ。彼女の一番好きな曲でね。彼女もピアニストだから、自分で弾けるはずなんだけどね、この曲に限ってはやっぱり誰かに弾いてもらって聴いているのが、どうやらお気に入りのご様子で」
 やっぱりそう。
 私の予想は間違ってはいなかった。

 ヒトミがショパンの『幻想曲』が好きで、自分の結婚式に弾いてくれ――だなんて。
 彼の親友とヒトミが結婚する。その二人の目の前で。

 ヒトミへの嫉妬。
 彼の報われない想い。

 もう、私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。

「ツトムは弾くの? 彼女たちのために――その曲を弾いてあげるの?」
「いいや」
 彼は迷いも見せず、首を横に振った。
「凄いショパン弾きなんだよ、彼女の婚約者って男がね」
 以前話してくれたことがあった。
 なぜ、ショパンコンクールを目指さないのか。
 それは、自分よりもショパンを上手く弾くあいつの存在が――。
 私にはまるで想像できなかった。
 彼よりも凄いピアニストなんて、果たしてこの世に存在するのだろうか。
 彼が負けを認めざるをえない――だなんて。
「僕はこの曲を弾く機会は一生与えられないだろうな。そんな、披露宴の余興で招待客の前で聴かせたくなんかないしね。彼女のためだけに弾くなら別だけど――」
 彼の未練とも取れる発言が、私の心を締め付ける。
 こんなにも、切ない。
 報われない想いは、私も彼も同じだ。
 だから、切なくて切なくてたまらないのだ、きっと。
「いや、彼女のためには弾けないんだ。第一、彼女は僕のピアノが好きじゃない。『稲葉君はテクニックは最高かもしれないけど、あなたの音楽には心が感じられない』なんて彼女に言われてね。ははは、彼女の言うことは非常に的を得ている。僕の音楽はいつだって自己満足で独り善がりで…………孤高だ」

 ――――そんな。

 気がつくと私は彼に抱きついていた。
「私じゃ……ダメ?」
 彼は驚きのあまり一瞬身を引く仕草を見せたが、私は構わず彼をしっかりと抱きしめた。
 彼のシャツに顔をうずめながら、喉の奥からやっとの思いで声を絞り出し、彼に告げた。

「私に聴かせてよ、ツトムのショパンを。――せめて、最後に一度でも」
 彼はじっとしていた。
 抱きしめる私の腕に、彼の呼吸の動きだけが微かに伝わってくる。
「誰かのことを思って弾くピアノ音楽は、決して孤高の旋律なんかじゃない――そのヒトミって人、ツトムのこと、何にも分かっていない」
 長い沈黙があった。
 このまま時間が止まってしまうのではないかと思うほど――いや、いっそ止まってくれたならどんなに幸せなことか。
「いつになるか判らないけれど」
 彼は言った。
「彼女のために弾ける日が来ればいいと思ってるよ。それまではどんなことがあっても弾かない、と僕が勝手に決めているんだ」
 彼は最後まで私の背中に手を回すことはしなかった。
 軽く頭に手を載せ、ひと言。
「ごめんね」

 彼の弾くショパンの『幻想曲』を、私が聴ける日は永遠にやってこない。



 それから一週間後。
 彼はベルリンを後にし、ニューヨークへ向けて出発した。
 私は見送りをしようと、空港まで列車で向かうという彼を捜し、広い駅構内をひたすら歩き回っていた。

 ――いた。

 冷たい風をしのぐようにトレンチコートの襟を立て、プラットホームのベンチに腰掛けている。
 荷物は小さなトランクのようなものが一つだけ。大きな荷物はすでにアメリカへ送ってしまったのだろう。身軽さはその辺のビジネスマンとなんら変わりがない。

「……楽譜を、大切な楽譜を破っちゃって、……ごめんなさい」
 私の声に気付いて、彼は顔を上げ、振り返った。
 少しだけ驚いたようだったが、すぐに優しい笑顔を見せた。
「もう気にしないで、絵里香ちゃん」
 何となく気まずい空気が流れる。
 彼と顔を合わせるのは一週間ぶり、彼に抱きつき想いを告げ、しかし叶わなかった――あの夜以来だった。
「だって、だってね……私、ツトムのことが」
 彼は黙って、私の言葉にじっと耳を傾けていた。
「ツトムのピアノが、大好きだったの」
 やっとの思いでそう言うと――。
 彼は硬い表情を崩さぬまま、ゆっくりと頷いた。

 彼がいなくなってしまう。
 大好きな彼が、私の元から離れてしまう。
 もうこれで終わり。もうこれで……。

「ああ、そうだ――」
 彼は脇に置いていたトランクから、楽譜のピースを取り出した。
 そしてそれを私のほうへと差し出して――。
「僕から、これを絵里香ちゃんに」
 私は差し出された楽譜と彼の顔を交互に見つめ、どうしてよいのか分からず、ただ途惑っていた。
「この曲はね、僕がショパンの中で一番好きな曲なんだよ」

 ――僕の、一番好きなショパンの曲。

「君に、『この曲を僕に弾かせる権利』をあげるよ」
 屈託なく笑いながらそう言う彼の顔を、私はただ呆然と見つめた。
 権利? 権利って……?
「僕が、君のためだけに弾く曲 この先、たとえスポンサーがこの曲を弾けと言っても、弾かない。一生ものの権利だよ」
「えっ? あ、でもそれだとツトムが困るんじゃないの……?」
「困る? どうしても弾かなくちゃならないときには、絵里香ちゃんの許可をね、ちゃんととりにくるから大丈夫だよ。僕のピアノが好きだって言ってくれた、ささやかなお礼さ」
 言葉にならない想いで、私の心は溢れていた。
 彼が一番好きなショパンの曲を、これから先は私の許可を得てから弾く、と。
 私は楽譜の表紙に視線を落とした。

 【Grande Valse Brillante
  ワルツ第1番変ホ長調『華麗なる大円舞曲』

 ショパンの数あるピアノ曲の中でも、誰もが一度は聴いたことのあるほどの有名曲だ。
 おそらくこの先、幾度となく演奏する機会があるに違いない。
 その度に彼は、私のところに許可をとりにくるつもりなのだろうか?
 本当かどうか分からないが――しかし。

 彼はベンチから立ち上がりトランクを携えると、私に言った。
「『誰かのことを思って弾くピアノ音楽は、決して孤高の旋律なんかじゃない――』だよね? いい言葉だ、忘れないよ」
 彼は私に背を向け、軽く手を振りながら歩き出すと、そのまま列車の中へと消えていく。

 私は孤高のピアニストの背中を見送りながら、気が付くと楽譜をしわが付くほどに抱きしめて、その上にいくつもいくつも大きな滴を落としていた。


(了)