遥かな約束  (1)

 柔らかな日の光に包まれ、俺はごわついたシーツの中で微睡んでいた。
 目眩がする。いや、既に横たわっているのに――自分でもその感覚はおかしいと思う。
 しかし確かめたくても、まぶたが重くてぴくりともしない。たとえ開いたところであまりのまぶしさに数秒と保てないだろうが。
 目眩……いや、地震か?
 自分の意志ではなく、外的要因で揺らされているのだということに、俺はようやく気付いた。
「薬師寺君、君の部屋は隣」
 誰かが僕の名を呼ぶ。聞き覚えのある声だ。
 テノールとバリトンの間くらいの、やたらと艶のある声質。
「薬師寺君。起きて、薬師寺君…………襲うぞ? マドカちゃん」
 俺の下の名をふざけて呼ぶのは、ここウィーンでは一人しかいない。
 それにしても。こんな声で囁かれたら、相手が女ならきっと落ちる。
「その名前で呼ばないでくれ……って、おい! 襲うって、そっち?」
 完全に、目が醒めた。
 人形のように綺麗な顔した男が、ガラスでできた花瓶を俺の頭上に掲げている。
「当たり前だろ。僕はあいにく男色趣味じゃないんでね。もう一度言うけど、君の部屋は隣。家、間違えてる」
 俺が完全に起きたのを確認すると、この部屋の主はため息をつきながら手にしていた凶器をサイドテーブルの上に置いた。

 俺とこの鷹山楽人という男は、同じアパートに住むただの「お隣さん」という関係である。
 いや、「ただの」とひとことで済ませられるような、うわべだけの人間関係ではない――はず。
 音楽の都・ウィーンで、修業をする若者は多い。俺も鷹山もそんな一人だ。
 その中でも、彼とは共通点が多かった。
 偶然同じアパートに暮らしていることのほかにも、同じ日本国籍を持つこと、歳が近いということ、ヴァイオリンと声楽とお互い専攻の分野が違うことも、親しく付き合える要因となっている。
 必要以上にライバル視することもないから、気楽なのだ。
「いや、間違えたんじゃなくてさ、部屋の鍵、落としちゃって。深夜じゃ管理人さんも迷惑だろうし、朝まで緊急避難、させてもらおうと思って。あ、鷹山んちのスペアキーはまた鉢植えの中に埋めといたから」
「僕の迷惑はちっとも考えてくれていないようだけど?」
「ついでだから、朝飯食わして。鷹山のも作ってやるから」
「じゃあコーヒー、濃いめで」
 一人暮らしのくせに、鷹山の部屋の冷蔵庫にはいつも、いろいろな食材が詰まっていた。
 自炊もそれなりにやるようだが、決して得意ではないらしい。
 この部屋に訪ねてくる人間が、買い込んでいるのだ。
 俺が見たところ、それは鷹山の彼女ではない。母親のような歳のオーストリア人女性だ。どこで知り合ったのかは分からないが、週に一度決まったようにやってきて、一緒に夕食をとっている。
 俺が知る限り、鷹山の部屋に入った女性は彼女だけである。
 付き合う女性は数多あれど、自分の私生活に踏み込ませない性質らしい。
 俺は男だし、まあ……無理矢理勝手に入り込んでるわけなのだが。

「こんな時間まで、どこに行ってたの?」
「束縛する女性のような詰問は止めてくれ」
 鷹山は、二人掛けの小さなダイニングテーブルの椅子にだらりと腰掛け、ヒマそうに俺の作業を眺めている。
「単なる好奇心だよ。あのルイスとかいうお姫様みたいなフルート吹き?」
 俺は卵をフライパンに落としながら、振り返らぬまま冷やかすように言った。
 しかし、いつまで経っても返事が返ってこない。
「当たり?」
「いや……彼女とは先月別れた。昨日は日本人」
 どこに反応してよいのやら。またか――という感じではあるのだが。
 俺は特に驚くこともなく、質問を続けた。
「日本人? それって、鷹山の新しい彼女なのか?」
「違うよ、会ったのは昨日が初めてだよ。僕のこと知ってたみたいで、向こうから声掛けてきたんだ。僕も彼女の顔と名前は知ってたんだけどね、ヴァイオリン界では有名人だから」
「なんて名前? 教えてくれよ」
「羽賀真琴。知ってる?」
 俺は首を横に振った。聞いたことがあるような気もするが、ハッキリしない。
 俺のようにオペラ歌手を志す声楽家は、ピアニストとは交流があっても、ヴァイオリニストにはさほど詳しくないのが普通だ。
「さばさばしていて男っぽいけどね、とても美しい人だ。隅々までね」
 鷹山の声の調子が、わずかに上がった。
 ひょっとして。
「……寝たのか?」
「朝帰りする他の理由が、どこにある?」
 即答されて、逆に反応に困った。
 昨日初めて会ったと言っていたはずなのに――俺には到底、真似できない。女性から誘われるという経験なんてないし、仮にそうなったとしても、それが美人だったりしたら確実に気後れし、萎えてしまいそうだ。
「恋人にするつもりなのか?」
「んー、まあ、ねえ」
 鷹山にしては珍しく歯切れの悪い喋り方をする。
 まんざらでもないようなのだが、何か引っかかることがあるらしい。
「相性は結構いいけど、その人、僕の兄弟子の後輩でさ。大学時代に相当熱を上げてたようだし。……あんな堅物のどこがいいんだか、理解に苦しむんだけど」
「なんだか、ドロドロしてるな、オイ」
「だから、あまり深入りしたくないんだよね。真琴さんとは」
 肩をすくめてさらりと言ってのける鷹山を見て、俺は頭を抱えずにはいられなかった。
 この男は、言うこととやることの間に矛盾がありすぎるのだ。
「じゃあ、何で寝たんだよ」
「そりゃあ、美人に抱き付かれて押し倒されたら、そうするしかないだろ。年上の女性は決まって積極的だ。まあ、楽でいいけどね」
 頭痛がしてきた。
 俺が純情すぎるんじゃないかという錯覚すら覚えてしまうが、そんなことはないはずだ。
 鷹山のほうがオカシイのだ。人を愛するという感情が物凄く希薄なのかもしれない。

 卵が焼けるまでの間に、俺はスライスしたライ麦パンをトースターに入れ、鷹山のリクエスト通り、濃い目のコーヒーを淹れることにした。
 鷹山は、テーブルに肘をついて両目を瞑っている。
 コーヒーを淹れて欲しいと頼まれると、鷹山のこの無防備な眠り顔がもれなくついてくる。
 色白で、睫毛が長い。男の俺から見ても、綺麗な顔だと思う。
 俺の妹が読んでいた少女漫画によく出てくるやたらとキラキラした男、鷹山はまさにそれなのだ。
 男くささとは無縁だが、かといってひ弱なわけでもない。女の扱いが上手く、ちらりと見せる芸術肌。
 これじゃ女にもてるのも当然だ。

 そのとき、緩やかな朝のひとときを打ち破るようにして、部屋の電話のコール音が鳴り響いた。
 鷹山の両目がゆっくりと開き、くっきりとした二重が現れた。眉間には不機嫌の証がはっきりと刻まれている。
「こんな朝っぱらから電話かけてくるヤツ、いったい誰だよ……」
 鷹山はだるそうに椅子から立ち上がり、無言のまま受話器を取った。
 相手の出方を見極めているのか、しばらく黙ったままだ。
 その、数秒後のことだった。突然、鷹山が不機嫌そうな声でまくしたてた。
「いま何時だと思ってるんです? こんな朝早くに迷惑です。用があるならあとで掛け直してください」
 相手はいったい誰だろうか。日本語で受け答えしているところをみると、おそらく日本からの国際電話だろう。
 随分とトゲのある言い方だ。しかし、語尾は丁寧である。
 現在午前七時。時差が八時間あるから、昼下がりの向こうに比べたら朝早いことは確かだが――非常識なほどの早朝ではない。
「危篤? ……へえ、お気の毒に」
 喜ばしいニュースではないらしい。俺は卵が焦げないように注意を払いながら、電話の内容に聞き耳を立てていた。
「一番弟子のあなたが看取れば、それでいいんじゃないですか」
 鷹山は顔をしかめ、受話器を耳から離した。
 電話の向こうの人物が怒鳴っているような音が漏れて、俺の耳にもはっきり聞こえてくる。
 一番弟子のあなたが――。
 そのひとことで、俺はいろいろなことを漠然と察した。
 相手は、鷹山と同じ師を持つ誰かで、一番弟子というからには師事する中で一番上の人物であるにちがいない。
 そして、危篤になったというのは、おそらく……。
「葬式の日程が決まったら、教えてください。帰国はそれから考えますよ」
 心配ではない、これは嫌味だ――鷹山の嘲笑うような表情を見て、俺は背筋が凍りつくような思いがした。



「ああ、朝から気分悪い。怒りっぽいんだ、あの人」
「……誰?」
 一番弟子のあなた、という鷹山が電話で話す内容で何となく想像はついていたが、一応鷹山に尋ねてみた。
「ついさっきまで僕の腕の中にいた女の、憧れの君――だろうな。ハッ、我ながらくだらない例えだ」
 そういえばさっき聞いたような気がする。
 鷹山が昨夜一晩を共にした年上の美女が、まだ学生だった頃、堅物の兄弟子に熱を上げてたとかなんとか……。
 怒りっぽいなどと言うが、鷹山の電話の受け答えもひどかった。綺麗な顔に似ず、言うことはいつだって辛辣で横柄なのだが、兄弟子相手には顕著だ。
「鷹山ってさ、その兄弟子とは上手くいってないのか?」
「向こうが勝手に突っ掛かって来るんだよ。僕が先生の楽器を譲り受けてウィーンで修業してるのが、悔しいんだろ。傲慢なんだよ。当たり前のように先生の家に居候して、家族同然に可愛がられて、それに――」
 俺は興奮して喋りまくる鷹山を遮るようにして言った。
「葬式の日程ってさ、つまり訃報なんだろう? 鷹山の兄弟子が報せてきたってことは、それって鷹山が師事していた先生なんじゃないのか?」
「いや、まだ死んでないみたいだよ。危篤だとは言ってたけどね。もう七十過ぎのジイサンだ、寿命だろ」
 鷹山ははき捨てるように言う。
 別にショックを受けて悲しんで見せろとは言わないが――本当に恩師なのだろうかと、我が目我が耳を疑ってしまうような態度だ。
「でもさ、鷹山。とりあえず帰る方向でスケジュール調整しろよ」
「そんな、演奏会放ってまで? ありえないね。どうせ今すぐ発ったって、着いた頃には死んでるよ」
「真琴さんとやらに代役、頼めないの? 同じヴァイオリニストなんだろう?」
「気が進まないね。不必要な借りを作って、やりたくないときまでやらされる羽目になるのは嫌だから。僕は快感を与える機械じゃない」
 俺は面食らった。鷹山相手にはもう何度も何度も面食らっているのだが。
「なんて言い草だ……貸し借りって、その……別にそれだけじゃないだろ?」
「男と女の間にはそれしかないんだよ。愛なんか無い。あるのは快楽だけだ」
 またこれだ。おかしい。鷹山は壊れている。
 そんなんだから――出逢ったその日に関係を結んで、相手がのめりこんで深入りしそうになると、急に手のひらを返したように冷たくなるのだ。
 鷹山の中に愛というものは決して存在しないらしい、困ったことに。
 恋愛感情だけではなく、家族愛も、師弟愛すらもない。
「いや、最期を看取らなくたって、ほら……万が一そういうことになったら、手伝いしなくちゃいけないだろ? ご家族は精神的に参ってそれどころじゃなくなると思うし」
 鷹山はふと、何かに気付いたような顔をした。大きな瞳を落ち着きなく瞬かせている。
「どうしたんだよ、鷹山?」
「――いや、先生は孫と二人暮しなんだよ。お抱えの執事とか家政婦さんとかもいるし、僕の兄弟子も入り浸ってるから、まあ、アレなんだけど」
 鷹山は珍しく歯切れの悪い喋り方をした。
「何がアレなの?」
「だからさ、あの子が一人になってしまうのかな――って」
 俺は鷹山の小さな変化を見逃さなかった。何だろう、ハッキリとは表現できないのだが。
「ふーん……孫ってまだ小さいのか?」
「今年高校生になった。先週誕生日だったから、いま十六歳」
「ああ。微妙だねえ。一人で生きていくには不安だし、かといって、今からどこか親戚に引き取られるのも苦痛だろうし」
「あの子の側には、兄弟子がついてるから――高校卒業までは何とかするだろ」
 鷹山の説明に、俺はふとした疑問を抱いた。
「ひょっとしてその二人、デキてるの? その先生が、自分の孫娘と兄弟子を結婚させようとしてたりとか?」
「さあね。随分と仲がいいのは確かだけど」
 鷹山は興味がなさそうに振る舞っているが、俺の目にはどことなく滑稽に映った。
 試しに聞いてみた。
「その子、可愛い?」
「どうだろうね。僕が最後に会った時は、まだ赤ちゃんだったからな。可愛くなってるといいけど」
 少なからず鷹山は、その孫娘のことをかなり気にかけているようだ。
 そうでなければ――赤ちゃんのときに会ったきりだと言っているのに、誕生日までちゃんと覚えているというのは、どうも腑に落ちないからだ。
「でも兄弟子とその子は他人なんだろう? 面倒みる義理だってないんだろうし」
「そんな……これまで家族同然に過ごしてきて、先生が死んだらハイそれまでなんて、勝手すぎるだろ!」
 何なんだ、いったい。
 そこまで息巻く理由が、俺には全く分からなかった。
 そして突然俺に背を向けて、鷹山は部屋を出て行く。
「おい、どうしたんだよ鷹山?」
 俺は鷹山の背に声を掛けた。
「出掛けてくる」
 鷹山は朝帰りをしたときのままの格好で、着替えもせずに再び玄関へと向かう。
「朝飯は?」
「いらない。君はここで食べてていいよ。どうせ大家は九時過ぎじゃないとつかまらないだろうし――その間はここで留守番してるといい」
 相変わらずやることが気紛れだ。
 部屋の主を見送ると、俺は一人キッチンへと戻ってくる。そして、鷹山のために淹れたばかりのコーヒーと、到底食べきれない二人分のベーコンエッグとライ麦パンを目の前に、小さなため息をついた。