遥かな約束  (2)

 再び電話が鳴った。急に出かけたので留守録をセットしていないようだ。
 俺はどうしようか迷ったが、一応本人に留守番を頼まれている。
 先程の電話の内容のこともあるし、ひょっとしたら火急の用件かもしれない。
 俺は受話器を取った。すぐに男の声がする。
『楽人坊ちゃま?』
 ――ぼ、坊ちゃま?
 俺は受話器を耳に押し当てたまま、絶句した。
『お久しぶりでございます。私のことなど覚えておいでではないでしょうが……芹沢英輔様の下でご奉公させていただいております、イヌイでございます』
「あ、あの……」
『すっかり大人のお声になられましたね。坊ちゃまのご活躍は旦那様からいつも伺っておりました』
「すみません、俺は鷹山楽人の友人です。留守番を頼まれていたもので……」
『こ、これはとんだ失礼を。どうぞお許しください。なにぶん、十五年ぶりでしたので、坊ちゃまのお声が分からず……』
 イヌイという男はひたすら恐縮しているようだ。電話の向こうで頭を下げている姿が容易に想像できる。
『先程、楽人坊ちゃまの兄弟子に当たられる富士川様よりそちらへお電話がいったと思うのですが、……ひょっとしてそちらもあなた様がお出になられたので?』
「いいえ。そのときは本人が直接話をしていましたよ」
 幾分ほっとしたようなイヌイさんのため息が聞こえた。
『旦那様が――おじい様がご逝去されましたので、どうぞ一度日本へお戻りいただくよう、お伝えしていただきたいのです』

 なんと。危篤が逝去に変わった。
 いいや、そんなことよりも、だ。
 知ってはいけないことを、いろいろと聞いてしまった気がしてならない。

 鷹山が師事している芹沢という音楽家の名前は、俺でも知っている。
 日本では有名な指揮者だ。
 鷹山が芹沢氏に師事をしているという話を初めて聞いたとき、俺はひっくり返らんばかりに驚いた。そして、彼が大切にしている愛器・ストラディバリウスも芹沢氏から譲り受けたということに再び驚いたものだった。
 先程のイヌイという落ち着いた声の男は、芹沢氏に仕えていると言っていた。

【旦那様が――おじい様がご逝去されましたので……】

 坊ちゃま?
 おじい様?
 つまり、なんだ。アレか?
 鷹山は、芹沢氏の嫁いだ娘の子供ってやつなのか? だから苗字が違うのだろう――。
 俺はそういう結論に至り、勝手に納得した。
 鷹山は才能溢れる若者だと評価していたが、到底俺の手の届かない音楽界のサラブレットだったからなのか、と訳の分からぬ虚しさを覚えた。


 インターホンが家主不在の部屋に鳴り響く。
 俺がドアを開けると、驚きの表情でたたずむ若い女性の姿があった。
 ショートヘアが良く似合う背の高い女性だ。すらりと伸びた手足、無駄が一切ないスレンダーな身体、どこかファッション雑誌のモデルといっても通用しそうだ。
 彼女は唐突に俺を指差して言った。
「君さ、ルームメイト?」
 そうか、この人は鷹山を訪ねてきたのだ――そんな当たり前のことに、俺はようやく気づいた。
 突然現れた美しい日本人女性に、なぜか必要以上にどぎまぎしてしまう。
「い、いや。俺は隣人です。たまたま留守番させられていただけで」
「たまたま? そうなの? 何か、朝御飯も作ってあげてるみたいだし」
 その女性は、玄関から覗くと見えるところにあるテーブルの上の料理に目配せをする。
 あれこれ探るようにして室内を見回す彼女に、俺は尋ねた。
「あの、失礼ですけど……どちら様で?」
「名のるほどの者じゃないの。昨夜の忘れ物を届けに」
 昨夜? と、いうことはこの人――。
 俺はさっき鷹山の口から聞いたばかりの昨夜の逢瀬のことを、しっかりと思い出した。
「ああ、ひょっとして、鷹山の兄弟子の後輩のかた……ですか?」
「楽人君があなたにそう言ったの?」
 一瞬彼女が途惑うような表情を見せたので、俺は焦った。
 余計なことを言って彼女を怒らせてしまっては、あとで鷹山に何を言われるか分からない。ただではすまないことは確かである。
「ええ……まあ。で、でもそれだけですよ? 詳しいことは何も」
「ふーん、やっぱり気にしてたんだー」
 彼女が気にかけていたのは、俺の考えていたものとは違っていたらしい。

 するとタイミングのいいことに、そこへ鷹山が帰ってきた。気紛れに近くを散歩していただけのようだ。
「真琴さん? どうしてここへ」
 訝しげな表情をしている鷹山に、逢瀬の彼女は飴色のパスケースを鷹山の胸に突きつけた。
「昨夜の忘れ物よ、はい。気がついたらもう、姿がみえなかったから」
 鷹山は自分のパスケースを無造作に受け取った。おそらく彼女は中に入っていた身分証明書の住所を見て、ここまで訪ねて来たのだろう。
 鷹山は感謝の意も述べず、大きな目を瞬かせるばかり。
 そして、口から出る言葉は相変わらず――。
「いつまでも余韻に浸るタイプじゃないんだ僕は。添い寝して欲しかったなら、はっきりそう言えば良かったんだよ」
 鷹山はわざわざアパートまで訪ねてきた真琴さんへのあてつけなのか、包み隠さず言い放った。
 俺は三度絶句した。
 そう、俺は部外者。昨夜この二人に何があったかを、知らないことになっている――というのに。
 しかし、真琴さんも負けてはいない。無邪気な笑顔を見せながら、鷹山の嫌味も逆手にとってたたみ掛ける。
「へえ、頼んだらしてくれるんだ? じゃあ今度は頼んでみようかなー」
 女性特有のウェット感がまるでない。気持ちがいいほどサッパリしている。
 過去形で通す鷹山に対し、真琴さんはすべて現在形だ。
 鷹山にはその明るい反応が意外だったらしい。真琴さんの言葉に、拗ねたように口をへの字に曲げてみせた。
「ちょっと冗談だって。楽人君、可愛すぎー。私にその可愛さ、ちょっと分けてほしいよ」
 年上の女性に可愛いと言われて、鷹山はますます心中穏やかではないようだ。確実に火がついている。
 鷹山はどうやら、自分を怒らせようとちょっかいをかけてくるようなタイプの人間にとても弱いらしい。
「昨夜の真琴さんは充分可愛かったよ。お願いするときの顔なんか、特にね」
「お願いなんかしてた? よく覚えてないなー」
「してたよ。まるで気難しい指揮者と一緒だ。そうじゃない、もっと。そう、もっと――ってね。欲求が尽きないところなんか、ホントそっくりだ」
「あはは、そんなのお互い様だって。やっぱり、音楽家の悲しい性質よねー」
 俺の心臓は勝手に鼓動を早めていく。想像がどんどん膨らんでいきやがて脳みそが沸騰寸前にまで追い込まれてしまう。
 鷹山から話を聞くだけなら別にいい。しかし、相手の女性も目の前にいる状態で、つい先ほどまで行われていた行為をあっけらかんと語られてしまっては――もう、ダメだ俺。
 すでに限界だ、情けないことに。
「なんか俺……お邪魔みたいなんで隣に戻ります」
「あ、いいのいいの。私が帰るから。二人でこれから朝御飯でしょ?」
「いいや、俺が出て行きますよ! そうだ、せっかくだから朝御飯食べていってください!」
 俺は半ば逃げるようにしながら、慌てて鷹山の部屋をあとにした。
 閉めようとしたドアの隙間から、抱擁を交わす二人の姿が見えた。
 結局、口ではあれだけ言っていても、鷹山だって満更じゃないんだろう。本当に素直じゃない男だ。

 しまった。
 そもそもどうして俺が鷹山の部屋にいたのかという理由を、すっかり忘れていた。
 しかし、時すでに遅し。
 俺は鍵をなくした自室のドアの前に座り込み、爽やかな朝のそよ風に吹かれながら、興奮した頭を冷やした。
 朝食を食いそびれた俺の胃が、哀しげに鳴き声を上げる。
 ふと、そのとき。
 先ほどのイヌイさんの伝言をするのを忘れてしまったことに、間抜けな俺はようやく気づいた。



 俺は大家をつかまえて、なんとか合鍵を手に入れると、アパートまで戻ってきた。
 鷹山の彼女はまだ帰っていないようだった。隣の部屋に、人の気配を感じる。
 二人は今、何をしているのだろうか。
 それにしても――鷹山が自分の部屋に女性を招き入れ、そのまま親密なひとときを過ごすなど、俺の記憶するところでは一度もない。
 俺は、鷹山に伝言を伝えなくてはいけないという使命感から、彼女が鷹山の部屋を去るのを、ひたすら聞き耳を立てながら待っていた。
 そんな自分がなんと情けないことか……。

 二時間後。
 ようやく隣の部屋のドアが開く音がした。
 ヒールの音が遠ざかるのを待ってから、俺は辺りを窺うようにして部屋を出ると、隣の部屋のドアをノックした。

 部屋の主はすぐに出てきた。
 思っていたほど、着衣に乱れはない。若干不機嫌そうな表情で、俺の顔をしげしげと見つめてくる。
 鷹山が口を開くより先に、なぜか言い訳がましく俺は先手をきった。
「いや、あのさ。実は、鷹山に伝言があって――」
「ふーん。薬師寺君、レッスンは? 行かなくていいの?」
「今日は午後からオーディションがあるから、予定入れてなかったんだ」
 こんな時間まで俺が部屋にいたことを、どうやら鷹山は不思議に思ったらしい。
「どうしたの? つっ立ってないで、入れば?」
 そう言われたものの、情事が行われた直後の部屋に、とても足を踏み入れる勇気はない。
「そんな、彼女がいなくなったばかりの部屋に入るのは、ちょっと気が引けるというかなんというか……」
「してないよ。するわけがないだろ」
 鷹山は蔑むような眼差しを俺に向け、きっぱりと言い切った。
 恐ろしく勘のいい男だ。俺の考えが簡単に読めてしまったらしい。
「今朝の今朝まで一緒だったんだからさ。想像力が逞しいのは結構だけど。二人で仲良く朝御飯食べろと言ったのは円香ちゃんだろ?」
 機嫌を損ねてしまった。確実に。
 その証拠に、俺が一番嫌がっていることを、この男はあえて口にする。
「下の名前で呼ぶなって言ってるだろ……」
 息子に『マドカ』なんて、女みたいな名前をつけた自分の両親を、このときはやたらと恨めしく思った。
 俺は再び鷹山の部屋へ上がり、キッチンへ目をやった。鷹山の言うとおり、ダイニングテーブルの上には食事をしたあとの食器がそのまま残されていた。
 片付ける気はないらしい。鷹山は居間に設えたソファに座り、大きく伸びをしてみせている。
 俺はテーブルの上の食器を重ね、とりあえず流しへ移動させることにした。散らかったままになっているのは、どうも落ち着かないのだ。
「あんなほっそい身体してよく食べるんだ、真琴さん。そうそう、薬師寺君の料理の腕前、褒めてたよ」
「腕前褒められるようなシロモノか? トースターとフライパンで焼いただけだ」
「充分だよ、僕よりは絶対に上手いから。――ところで、伝言って何?」
 そうだった。いつまで経っても、本題に辿り着けないでいる。
 俺はシンクに水を張って食器を浸けておこうと、蛇口のレバーを引き上げた。
 勢いよく水が出る。
「鷹山が出かけてたとき、電話があったんだよ。『おじいさん』がご逝去されたから、日本へ戻って来いって――」
「誰だよ!? そんなこと言ったの!!」
 ほとばしる水の音すらかき消すほどの大声で、鷹山は怒鳴った。
 鷹山の剣幕に、俺は驚きおののいた。急いで水を止め、居間のソファに座る鷹山を振り返ると――。
 鷹山が俺を手招いている。凄んだ表情を崩さずに、俺を見ている。怖い。
 濡れた手をタオルで拭き、様子を窺いながら鷹山に近づいた。
「……だ、誰って。イヌイとかいうおじさんで、秘書とか使用人とか、そんな感じの人だと思うけど」
「英輔先生は僕のおじいさんだって、そう言ったの?」
 俺は説明に困り、先ほど受けた電話の内容を必死に思い出した。
「鷹山のこと、『坊ちゃま』って言ってたし、『おじい様がお亡くなりになられた』って……ごめん、なんかマズかったんなら、あの、聞かなかったことにするし」
「――――いや。君は言いふらしたりする人じゃないのは分かってる。ハッ、あんな人、血を分けた祖父なもんか」
 やはり、事実のようだ。言葉では否定しているが、認めたも同然だろう。
 謎が謎を呼ぶ。俺は気になって仕方がなくなり、鷹山に質問をしてみた。
「そういえば、鷹山はお父さんと二人暮しだったとか、言ってなかったっけ? お母さんは離婚? それとも……」
「死んだよ。十五年前に」
 と、いうことは――俺はイヌイさんからの電話を受けたときに考えていた結論を、鷹山にぶつけてみた。
「あのさ、鷹山のお母さんって、芹沢先生の娘なのか?」
「違うよ、英輔先生には息子が一人だけだ。けど――どうして、君はそんなことを聞く?」
 俺の予想は外れてしまった。だったら、どうしてなのだろう。
 ますます、疑問が膨らんでいく。
「えーと、鷹山のお父さんはもちろん、『鷹山』なんだよな?」
「なんだよさっきから。普通分かるだろ、養父なんだよ。英輔先生の息子も十五年前に死んでるんだから。あとは? 僕の何が知りたい? 誕生日? スリーサイズ? いままでに付き合った女の数?」

 知らなかった。鷹山にそんな過去があったなんて。
 十五年前に、両親が揃って亡くなっていたなんて――。

 ふと。
 俺は今更ながらに気付いてしまった。
 英輔先生には息子が一人だけ――ということは。

 そうか。そうなんだ。
 それなら、鷹山が誕生日を知っているほどに彼女のことを気にかけている理由も分かる。
 高校に上がったばかりという芹沢氏の孫娘は、きっと――。