遥かな約束  (3)

「鷹山、日本へ帰れよ。きっと、妹が待ってる」
「待ってなんかいるもんか。第一、僕の存在すら知らないんだから――」
 鷹山が、思わず口を滑らしたような、悔やんだような顔をした。
「行ったって、胡散臭い目で見られるのがオチだよ。あの男が、僕の悪口をあの子にいろいろ吹き込んでるに違いないんだ」
「鷹山――」
 なんと言ってよいのか、分からなかった。
 僕の存在すら、知らない。
 あの男が、僕の悪口を。
「あの男がいる限り、僕が入る隙はどこにもない」
 鷹山の言うあの男とは、おそらく兄弟子のことなのだろう。
 分からない。
 どうして鷹山が、『芹沢』という名前じゃないのか。
 きっと、俺には計り知ることのできない複雑な事情が、鷹山にはあるのだろう。
 俺は取り繕うように言った。
「それでも、愛弟子であることには変わりないんだろう?」
 鷹山は愚問だと言いたげに、ツイと顔をそむけた。
「愛されてなんかいないよ。まあ、愛されたくもないけど」
「でも、お前のストラディバリウス」
 そう、ヴァイオリンをやらない俺でもその名を知っているほどの、演奏家なら誰でも憧れる名器である。
 それを譲り受けたということが、何よりの愛の証だろう。
 そんな俺の思惑も、鷹山は軽く鼻であしらった。
「……モノで愛情は量れない。僕はそんなもので騙されない、絶対に」



 鷹山は自室のソファに身を預けたまま、考え事をし始めた。俺のほうに目線を移すことなく、左手指を大きな筒のように丸め、顔の前で傾ける仕草をする。
 コーヒーを淹れろ、という合図だ。
 早朝、鷹山の部屋を訪れたときに淹れたコーヒーは、サーバーに一人分が残されていた。
 しかし、鷹山がこの温めのコーヒーで満足するはずもない。そう、鷹山が好きなのはコーヒーではなくて、コーヒーを淹れるときの香りなのだから。
 きっとコーヒー豆の香りで気分を落ち着けたいのだろう。
 身内の死に直面したのに、その複雑な家庭環境のために途惑う鷹山――。

 俺は黙って鷹山の要望に応えた。
 すぐにキッチンに向かい、手際よく一人分のコーヒーを新しく淹れ直してやる。
 部屋の中は静かだ。
 男二人でいるには勿体無いほどの緩やかな空間である。
 俺はトレイにコーヒーの入ったカップを載せ、居間のソファにマネキンのように座っている部屋の主の前にそれを差し出した。
 目が虚ろだ。大きな瞳は半開き状態で、なおいっそう、睫毛の長さを際立たせている。
 男のくせに、無駄に色っぽい。
 鷹山はトレイの上からカップを取り上げると、ぼうっとしたまま俺に語りかけてきた。
「真琴さんは初恋の人に似てるんだ、何となくだけど」
「初恋?」
 これほど鷹山に似合わない言葉もないな、と俺は思った。
 いくら乱れた恋愛生活を送っていても、鷹山にだって初恋と呼ぶべきものが存在するのだろうと、俺は妙に感心してしまう。
 聞きもしないのに、鷹山は自分のことを饒舌に語りだした。
「僕が高一のとき付き合ってた、ちゃんとした彼女ってやつかな。ひとつ上の先輩でさ、夏休み直前に、まあ、なんかそういう関係になっちゃって。その夏はピアノとヴァイオリンと、その合間に彼女と時間を惜しんで愛し合ってた。寝てるヒマなんかなかったよ」
 およそ初恋とは遠いエピソードのような気がしてならない。
 俺はトレイを片付けるついでに、キッチンの隅に置かれているスツールを引っ張ってきて、ソファに座る鷹山とテーブルを挟んで向かい合うようにして、それに腰掛けた。
 そしてそのまま、黙って鷹山の話に耳を傾ける。
「その彼女と真琴さんにさ、してる最中におんなじことを言われたよ。――ひょっとして、誰かと重ね合わせてるの? って。一応礼儀として、一緒にいる間は一途に尽くしているはずなんだけど」
「…………ああ、そう」
 もう、いちいち突っ込むのも面倒くさくなってしまった。
 俺の深いため息も、鷹山の耳には届いていないらしい。
「母親なんだよね、たぶん」
「……は、母親?」
 俺は、思わず声を裏返らせてしまった。
「うん。確かに似てるんだ二人とも。打たれ強いところなんか、特に」
 鷹山はさらりと付け加えた。
 カタチだけでも愛した女性に、自分の母親を重ね合わせるなんて――俺には理解しがたい感覚だ。
 しかし。
 鷹山は幼い頃に母を亡くしているのだ。やはりそれは、仕方のないことなのかな、とも思った。
 さっき見かけた羽賀真琴という女性は、年上ではあったが、母親というほどの年齢ではなかった。鷹山の言う『母親』とはおそらく、自分自身を無条件で受け入れてくれる大きな存在、という位置付けなのだろう。それなら、鷹山が彼女を気に入った理由も、何となくだが解る。
 鷹山は俺の淹れたコーヒーのカップに口をつけると、ゆっくりと口の中へ液体を流し込んだ。そして満足そうにため息をつくと、テーブルの上に再びカップを戻す。
 幾分落ち着いたようだ。
 俺は鷹山に訊ねた。
「どんな人だったの? 鷹山のお母さんって」
「んー、記憶がかなり美化されてるからな。しょっちゅう怒られてた、僕」
「へぇ、意外だな。聞き分けのいいお坊ちゃんだとばかり思ってた」
「死んだ母親によく言われてた――楽人はお兄ちゃんなんだから、華音を一人ぼっちにしちゃダメよ、って」
「カノン?」
「そう。可愛い名前だろ」
 鷹山は照れたように笑った。
 その表情があまりにも優しさに満ちあふれていて、俺は逆に返答に困ってしまう。
 こんな鷹山を見るのは初めてだった。
 たったこれだけのことで、鷹山の『妹』に対する想いの深さが伝わり、なぜか俺の心までも震わせる。
 半ば呆気にとられながら鷹山の顔を見つめていると、みるみるうちにその天使のような表情が曇りだした。
 鷹山は寂しげにため息をつき、呟くように言う。
「でも今の僕には、その名を口にする資格もない」

 ――カノンを、一人ぼっちにしちゃダメよ?

「僕は、お母さんとの大切な約束を、破ったんだ。もう、十五年前のことなのに――忘れることができない。いまだに罪悪感に苛まされる」
「鷹山……」

 ――いい? 楽人はお兄ちゃんなんだから。

「怖いんだ。現実を見せつけられるのが。だから――日本には、帰りたくない」
 鷹山は栗色の髪を激しくかきむしり、何度も強く首を横に振る。
 もうこの世にはいない母親との『約束』に、鷹山はずっと縛られ続けているのだ。
 何とか気の利いた言葉でもかけてやりたいが、この繊細な男相手に、俺のような平凡な人間の言うことなど、果たしてどのくらい足しになるものだろうか?
「別にいいんじゃないか? 兄貴じゃなくたって」
「…………は? 薬師寺君……君、なに言ってるんだよ?」
 鷹山の大きな目が、驚いたように瞬いた。かすかに眉間にしわを寄せ、理解不能を顕わにしている。
 俺はひるみながらも、思っていることをそのままぶつけた。
「建前なんか、どうだっていいだろ? 約束は破ってないんだよ。鷹山はそのことを忘れてなかったんだから。今こそ、お母さんとの約束を守ればいい」
「守るって、どうやって――」
 まるで小さな子供だ。
 今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で、俺にすがりつくように尋ねる。
「妹が大丈夫なのを自分の目で見届けて、それからまたウィーンへ戻ってくればいいんじゃない?」
「大丈夫じゃ、なかったら?」
 鷹山は目を伏せるようにして、淡々と答えた。
「そのときは、側にいてやればいいじゃないか。たとえ兄貴じゃなくても、できることはあるだろ? カノンちゃんをさ、鷹山が――支えてやればいい」
「僕が? 何で僕がそんな……いまさら、僕に何ができるって言うんだ――いまさら」
 そのまま、鷹山は言葉を失った。

 そう、いまさらなのかもしれない。
 俺には到底、答えなど見出せるはずがないのだ。



 それからしばらく、鷹山と顔を合わせることはなかった。
 ヴァイオリンと声楽とじゃ一緒に仕事をすることも多くはなかったし、アパートの隣人とはいっても、一週間顔を合わせないことも別に珍しくなかった。

 数日経ったある日。
 レッスンを終えていつものようにアパートへ戻ると、俺の部屋の郵便受けに、メモの走り書きのような鷹山の手紙が入っていた。

【薬師寺君へ。しばらく日本へ行ってくる。留守を頼む。鍵はいつものところ】

 ご丁寧にも、鷹山が書いたらしい『植木鉢にチューリップの花』の落書きが添えてある。
 音楽の神には愛されても、美術の神には見向きもされていないらしい。絵心など、まるで感じられない。
 一生懸命絵を描いている鷹山の姿を想像し、俺は思わず噴き出した

 そのさらに二日後――。
 鷹山が予定していた演奏会の代役に、あの日見た美女の名を、俺は見つけた。
 二人がどういう関係なのか、俺にはまだ分からない。しかしこの代役は、決して偶然のなせる業ではないということは解る。

 しかし、なんと言ったらいいか――本当に、素直じゃない男だ。

 今ごろ日本は、夜も更けゆく時間である。
 鷹山はいまごろどうしているのだろう。
 師であり実の祖父でもある人の葬式に、ちゃんと参列したのだろうか。
 そして、妹と初めて言葉を――交わせたのだろうか。
 母親との遥か遠い約束を胸に旅立った、いつ帰るとも分からぬ隣人を待ちながら、俺はいろいろなことを考えた。


(了)