exhibition  (前)

 赤城エンタープライズ本社ビル。

 その最上階の社長室に、一人の男が通されていた。
 社長のデスクに着席している男と同じかそれよりも幾分若く見える。その理由は男の服装にあった。
 ビンテージのジーンズに、シンプルなデザインのシャツを重ね着している。学生とほとんど変わりがない。三つ揃えの上質なスーツを身に着けたこの部屋の主と違い、ビジネスの匂いはまったくしない。
「どうしたのさ、わざわざ俺を呼び出すなんて?」
 備え付けの応接ソファに軽装の男・高野和久は座っていた。
 本業はピアニスト、副業はピアノの調律メインの小さな楽器店の経営。ただ、どちらがメインかサブか、ハッキリしていないのが実情だ。
 一方、社長の赤城麗児は、自分のデスクに座ったままだった。素晴らしく眺めのよい窓を背にして、いくつかの未決裁の書類に目を通しながら、高野の相手をしている。
 客、という扱いではない。二人は二十年あまりの旧知の仲である。いまさらかしこまった応対をしなければならない間柄でもなかった。
「楽団の近況と動向を教えてもらおうと思ってね。最近はなかなか時間が取れなくて、顔も出せないからな」
 赤城の言う『楽団』とは、彼がスポンサーとして全面的に出資している『芹沢交響楽団』のことである。
 紆余曲折あって、ようやく軌道に乗り始めたところだ。しかし、まだまだ予断は許さない。
 才能はあるが経験の浅い音楽監督や、右も左もわからぬ運営スタッフなど、危なっかしい要素だらけなのだから。
 そしてオーナーとなった赤城自身も、まるでクラシック音楽の素養がないとくれば、まさに命綱も無しに崖をよじ登っているようなものである。
「楽ちゃんに聞いたほうが早いんじゃないの? 俺、部外者だしさあ」
「音楽監督様は金蔓にいちいち口を挟まれるのがお気に召さないようでね」
 赤城は自虐的な嫌味を口にした。
 音楽監督である青年・鷹山楽人は饒舌で毒舌で、オーナーである赤城を平気で金蔓呼ばわりしそうなのだが――高野は実際に聞いたことはない。しかし、赤城の言葉は現実的な説得力を帯びていた。
 確かに。
 鷹山が言うことも理解できなくはなかった。
 何となく気まぐれに、前々から気になっていた疑問を、高野はぶつけてみた。
「麗児君はどうして、交響楽団を買収しようと思ったの?」
 高野の知っている赤城麗児という男は、まったく芸術を解さない人間だったはず。いくら多角企業経営者とはいえ、大きな儲けが出るわけでもない交響楽団の運営に乗り出すなど、ありえないことだった。

 素晴らしい眺望の社長室に、三十代半ばを過ぎた男が二人。
 時の流れを感じる。高校時代に同級生だった二人も、卒業を機にお互い別の道を歩み始めた。
 現在は、何とも数奇な再会を経て、とある交響楽団のオーナーと客演ピアニストという関係に収まっている。
「もう一度、あの曲が聴きたかった」
「……あの曲って?」
「昔お前が弾いてた曲だよ。結局分からずじまいだったがな。交響楽団を買収したほうが、手当たり次第に探すよりずっと早いと思ったからだ」
「ええ!? そ、そ、そんな理由なの?」
 高野はその買収劇に至った理由を初めて知り、驚愕の色を隠せずにいた。
 ありえない。
「クラシック音楽入門みたいなCDだって、売ってるんだしさあ……探すだけならオケ丸ごと買うよりずっとずーっと、比較の対象にならないくらい安くつくと思うんだけど?」
 そう言われた赤城は、口の端を上げてニヒルな笑みを浮かべてみせた。
 旧知の仲である高野の、その大袈裟な反応は想定内だったらしい。赤城は冷静な態度を崩そうとはせず、諭すように言う。
「和久、私はクラシック音楽にまったく興味がないんだ。いや、言い方が悪いな。その曲以外は何を聞いても同じにしか聴こえない。したがって、そんなCDは最後まで一度も聴けた試しがない」
「そんな……」
 高野は、もう続く言葉が出なかった。こんな男が交響楽団のオーナーとは、聞いて呆れるばかりだ。
「だから。お前が弾いていたんだ、高校のとき。アレをこの耳で聴くまではどんなことがあっても命を落とせない、とさえ思う」
「昔俺が弾いてたって、言われてもなあ……今、三十七だから、高校卒業してからもう十九年も経ってるんだよ?」
「もうすぐ三十八になる。丸々、二十年だ」
 二人が高校を卒業した年に誕生した子供は、今年成人式を迎える。そう考えると、決して短くはない歳月だ。
 高野は必死に記憶をたぐり寄せ、セピア色にくすんだ遠い昔を思い出そうとしていた。


  *   *   *   *


「おい、和久!」
 背後から誰かに自分の名前を呼ばれたような気がして、高野少年は鍵盤から指を離した。
 振り返るとそこには。
 剣道着に竹刀を背負った大きな男子生徒が、ピアノ練習個室の窓に張り付くようにして、中を覗き込んでいた。
「この間のアレ、弾け」
 高野少年はどうしてよいのか分からずに、ただ茫然と相手の顔を眺めていた。
 名前だけなら高野も知っている。同じクラスの赤城麗児という男子生徒だ。
 この学校は普通科の他に、高野少年のいる音楽科とスポーツ特進科というのがあり、この二つの特別学科は人数の関係上、同じクラスとなっていた。国語や英語などの基礎科目のみ、同じ授業を受けるカリキュラムとなっている。
 この剣道着をつけたやたらとハクのある大きな少年・赤城は、そのスポーツ特進科の生徒だ。そのため、高野はこの赤城少年とほとんど話をしたことがなかった。まかり間違っても、「和久」などと気安く下の名を呼び捨てされるような間柄ではない。
 高野のような音楽科の男子とはまるで正反対の、野生的で精悍で硬派で、いまどきの若者にしては珍しく、まるで侍のような立ち振る舞いだ。
「……アレってなんだい? 赤城君」
 この間のアレと言われても、高野と赤城麗児の間には共有する音楽の時間などない。
 そもそも、高野は人前でピアノを弾いたりしなかった。授業中の実技で、音楽科の仲間たちの前で弾いて聴かせるのがせいぜいである。
 この間の、というからには以前にも自分のピアノ演奏を聴いたことがあるということになり……。
「麗児でいい。俺はピアノとかヴァイオリンとか、そんなクラシック音楽なんかちっとも分からん。けどな、この間お前が弾いていた曲だけは知ってた。昔一度だけオーケストラのコンサートに連れて行かれたことがあったんだが、そのとき聴いた曲と同じだった。何ていう曲だ?」
 オーケストラのコンサートで聴いた、とは。ますますもって分からない。
 適当にあしらおうにも、この男は強引に話を進めてくる。どうしたらいいものか、高野はその対応に困惑するばかり。
 高野は気がすすまないながらも、赤城麗児のために数々の知識と記憶を総動員させる。
「赤城君……それってピアノ協奏曲、なのかな?」
「麗児でいいと言っただろうが。なんだ、その協奏曲ってのは」
 高野少年は思わず頭を抱えた。
 さすがはスポーツ特進科、芸術に対する知識が極めて希薄である。
 きっと脳ミソも筋肉で出来ているに違いない、と高野少年は深々とため息をついてみせた。
「……オーケストラと別の楽器とで演奏するタイプの楽曲だよ。ピアノだったらチャイコフスキーとかグリーグとかラフマニノフの2番とか、有名だけど。麗児……君、聴いてみるかい?」
 高野は一番有名だと思われる旋律を次々に、剣道着姿のコワモテの少年に弾いて聴かせる。
 この男子生徒に音楽を理解できるとは、高野はほとんど期待していなかったが――。

 チャイコフスキーは第一楽章の出だし部分を。

 グリーグは鮮烈な印象の冒頭の旋律を。

 ラフマニノフは第一楽章中ほどの、映画でも使われた有名な旋律を。

 しかし、というかやはり、この同級生はなかなか首を縦に振らない。
「だからさ、この間お前が弾いてたんだよ。こんな曲じゃない。また来るから思い出しておけ。いいな」
 そう言って赤城麗児は窓辺を離れると、胴着の乱れを軽く直し、竹刀を振り回しながら第三体育館のほうへと消えていく。
 強引だ。
 何をどうしたいのか、何を弾かせたいのか、高野少年にはさっぱり分からなかった。


  *   *   *   *


「――と、いうわけなんですけど」
 練習前の控え室で、数名の楽団員が集まり雑談に花を咲かせていた。
 その中心は情報通のコンサートマスター・美濃部達朗だ。周りを取り囲むのは、各セクションの首席奏者たちである。
「美濃部さん、それ誰から聞いたんですか?」
「高野先生からですよ。面白い話だと思いませんか?」
 面白いくらいに食いつきがいい。買収の経緯もさることながら、その曲がいまだ判明していないというところも、興味深く感じるようだ。
 美濃部は首席たちの顔を一人一人見渡しながら、話を続けた。
「それでですね、高野先生と喋ってたんですよ。オーナーの願いを叶えることができたら楽しいだろうね、って」
 あくまで希望的観測の域を出ない、机上の空論だ。
 しかし。
 自分たちには音楽を生み出す能力があるのだ。
 ただ一つの曲にこだわり、交響楽団のオーナーにまでなった人間の、「その曲が聴きたい」という願いを叶えられるかもしれないのは他の誰でもない、自分たちであるということは、ここにいる皆が理解しているはずだった。
「いいじゃん、それ。突然呼び出していきなり演奏してやるの。きっと驚くよ? あの澄ました顔が崩れるのを見てみたい」
「究極のサプライズですよ。どうです? この計画」
「あ、面白そう! その計画乗った!」
「いったい何の曲だと思う? 時間もあまりないしさ、やったことのない大曲とかだと辛いよな」
「クラシック音楽にうとい人間でも知ってたっていうんだから、超メジャーなはずだよ」
 次々に出てくる首席たちの明るい言葉に、美濃部は勇気付けられる。

 ――不可能が、可能に。非現実が、現実に。

 わき立つ室内で、誰かがポツリと呟いた。
「というか、その前に、……誰が頼むんだ? あの音楽監督に」
 そのひとことで一気に現実に引き戻された。
 最難関が、いまだ攻略の糸口すら見えていないということを――。

 ちょうどそのとき、控え室に一人の少女が姿を現した。
 芹沢華音である。この芹沢交響楽団の創立者の孫娘で、現在芹沢姓を名乗る唯一の人間だ。
 気難しい音楽監督の側で、専属マネージャーとして雑用などのアシスタント業務をこなしている。
 しかし、華音はまだ現役高校生であり、楽団関係者の最年少なのだ。音楽監督には言いにくいことでも、彼女になら、という気安さからか、いつの間にか橋渡し役のようなこともさせられている。
「美濃部さん、今ですね、鷹山さんのところにお客様がいらっしゃってるので、リハ十五分押しでお願いします」
「あ、いいところに! 華音さん」
 美濃部は強引に華音を呼び寄せると、事の次第を理路整然と分かりやすく説明をした。
「……で、来週の水曜日なんですけどね。鷹山さんに相談してみて欲しいんですけど、どうです?」
 美濃部を始めとする首席たちの視線がみな、華音の顔に注がれている。
 なんと期待に満ちあふれていることか――。
 華音はその勢いに押され、わずかにたじろいでいる。
「うーん……曲名を割り出すことができたとしても、そのあとは……無理じゃない?」
 そんな分かりきった答えを待っているわけではないのだ。
 無理な願いだというのは、鷹山という音楽監督の気性をよく知っている楽団員なら、誰でも知っている。
 それでも――ということなのだ。
 美濃部は尚も、たたみみかけるようにして言う。
「何とかその日だけでも! って感じで食い下がれないですか?」
「鷹山さんには…………黙ってやればいいんじゃない?」
 華音は気が進まないらしい。鷹山を説得できる自信がないためであろう。
「ばれたときが怖いですよ。やっぱりここは華音さん! お願いします!!」
「やっぱり華音ちゃんだよねえ?」
「そうそう、カノンさんは優秀な鷹匠だもんな」
「あ、それいい! 鷹山さんだけに、ってか?」
 楽団員たちの身勝手な言い分に納得がいかず、華音は思わず両手をテーブルの上に叩き付けた。
 自分が年下だという意識も、どこかへ吹っ飛んだようだ。
「ちょっと待ってくださいよ! 鷹山さんに赤城さんって、犬に猿、水に油、うなぎにスイカだってこと、皆さん忘れてません!?」
 一瞬水を打ったように静まり返ったが、すぐに勢いを取り戻す。むしろ逆に、心を掴んでしまったようだ。
「そう、それだよそれ! その勢いなら大丈夫!」
「頼もしいなあ、カノンさーん」
「よろしく頼んだよ?」
 華音は複雑な表情だったがやがて根負けし、あの音楽監督にどう説明したらいいか、一人悩むこととなる――。