exhibition  (後)

「絶対に嫌だ」
 鷹山は躊躇することなく、言い切った。

 芹沢邸の二階の書斎にて。
 ここは先代の音楽監督だった華音の祖父が、生前使用していた部屋だ。現在は鷹山の仕事部屋となっている。
 英国式庭園の臨むことのできる、欧風の窓。
 壁一面にはマホガニー材の大きな書棚。そこには楽譜がぎっしりと収められている。
 若き音楽監督は書棚に向かい楽譜を漁っている。アシスタントの少女とコンサートマスターの青年に背を向けたまま、振り返る素振りも見せない。
「万が一つにも例外はないんですか?」
「あの男のために何かをしてやる義理なんかないね」
 昨日、リハーサル前の控室で団員たちに頼まれたことを、お昼近くになってようやく切り出したのだが、その答えは予想通りだった。
「楽団員の要望でも……ですか?」
 鷹山がようやくそこで振り返った。睫毛の長い大きな二重まぶたをゆっくりと瞬かせながら、その綺麗な顔に不釣合いな毒を矢継ぎ早に繰り出してくる。
「いったい誰だよ、そんなしょうもないこと言ってるヤツは。人格疑うよまったく!」
 どうしてこの人はこういうものの言い方しかできないのだろうか――華音はいつものことながらどっと疲れを覚えていた。
 二重人格で天邪鬼。感情の起伏が激しく、ときに繊細で気難しい。その取り扱いには、恐ろしく体力が必要だ。
 華音はささやかな抵抗を試みる。
「……人格疑われるのはむしろ、鷹山さんのほうでしょ」
 当然、火に油を注ぐ結果となる。むしろ、注がれるのを待っていたかのようだ。鷹山の勢いはさらに増す。
「言うことに事欠いて、この僕に説教しようってのか? フフン、いいだろう。受けてたとうじゃないか」
 誰を相手にしたって、この男が負けるわけがない。鷹山自身それを充分承知しているはずだった。
 しかし、そんな傍から見れば不毛な言い争いも、鷹山なりのコミュニケーションなのだ。
 鷹山という男は、相手が言い返してくれば来るほど、興味が湧いて構いたくなる性質らしい。実際、鷹山にくってかかる勇気のある人間など、皆無なのだが。
 もちろんこのアシスタントの少女を除いて、である。
「まあまあ、鷹山さんも華音さんも落ち着いてくださいよ」
 どんな時でもこのコンサートマスターは理知的で冷静だ。お人よしで世話好きな性格のため、仲裁するのはお手の物だ。
「美濃部君、君は僕が一番嫌いなこと、知ってるはずだよね?」
「さあ……一番かどうかは分かりませんけど?」
 分かっていながらあえてとぼけた振りをする。無理を承知で計画を進めようとしているのだ。このくらいのタヌキっぷりは必要悪だ、と美濃部は自分を納得させたようだ。
 しかしそんな小手先の悪あがきが、真正悪魔な鷹山に太刀打ちできるはずもない。
「スポンサーが音楽にあれこれ口出しして、楽団を私物化することだ! 二度と忘れないように毎日寝る前に百回暗唱しろ! どうしてあの男のために演奏なんかしなけりゃならないんだよ。冗談も休み休み言え」
 確かに鷹山はこのことを常日頃から口にしている。オーナーの赤城を敬遠している理由は一つではないが、やはりこの鷹山のポリシーによるところが大きい。
 無謀な発言に困り顔の美濃部を横目で見つつ、華音は白々しく呟いた。
「冗談。…………冗談。…………冗談…………っと」
「本っ当、くだらないよ、君!」
 目が合う。そして、飛び散る火花。
 鷹山は自分を怒らせようとちょっかいを出してくる少女に、完全にペースを乱されている。
 ここは先手必勝。攻められる前に攻めなければ――。
「いいじゃない別に。鷹山さんが嫌なのは、楽団を私物化されることなんでしょ? 赤城さんがリクエストするのがダメでも、今回のは違うもん」
「そんな、観客一人の演奏会なんて採算が取れるか!」
 続いてチャンスとばかりに、美濃部が援護射撃をする。
「楽団員たちは、無償でいいって言ってますよ?」
「美濃部君、君までそんな夢見る乙女みたいなこと言ってどうするんだよ! まったく馬鹿げている」
 火に飛びいる夏の虫のごとく、次から次へと放たれる説得要素を、鷹山は片っ端から切り捨てていく。
 鷹山はお得意の袈裟懸け&百人切りで、まったく付け入る隙を与えない。
「そんな、お金の問題じゃないでしょ? たったひとりでも、誰かのためを思って演奏する音楽は何物にも代えがたい、それが芹響の理念じゃないの?」
「理念? 君がそんな言葉使うなんて驚いたよ。ちゃんと意味分かって言ってんのか?」
「お客さんがたった一人でも、いいじゃない。みんなオーナーのために演奏したいって思ってる。それを鷹山さんのワガママ一つで、その思いを切り捨ててもいいの?」
 鷹山の眉がわずかに上がった。西洋人形のような綺麗な顔が強ばり、こめかみを引きつらせている。
「……ワガママだって?」
「そうよ! ただの音楽監督のワガママじゃないの!」
 その一言は、鷹山にははなはだ不本意だったらしい。
「僕は常識的なことを言ってるだけだ。その言葉、そっくりそのまま君たちに返すよ」
「何よ、エゴイスト! エセインテリ! エロオヤジ! んもう、エのつくものばっかり!」
 華音の投げかけた言葉の数々に、鷹山が柄にもなく唖然とした表情を見せた。どうやら二の句が継げなくなったようだ。

 饒舌で名を馳せる音楽監督が、珍しく絶句した――。


 目の前で繰り広げられる鷹山と華音のやりとりに、コンサートマスターの美濃部は堪えきれず、口を押さえ声を洩らさないように忍び笑いをしている。
 鷹山はわざとらしい咳払いを一つしてみせ、努めて冷静を装いデスクまで移動すると、革張りのチェアにふんぞり返るようにして座った。
 音楽監督、精一杯の虚勢である。
「君さ、エロオヤジは余計だろ…………そもそも、あの男が本当に聴きたい曲が何なのか、分かってないんだろう?」
 鷹山の問いに、華音は黙ったまま。
 代わりに美濃部が説明をする。
「そうなんですよ。でも、本人に聞くのはちょっと……ねえ。あからさまに聞いちゃったら、サプライズになりませんから。高野先生に何としてでも思い出してもらうしかないんですよね」
「思い出すって……和久さんと何か関係があるのか?」
 ようやくまともに人の話を聞く気になったらしい。
 華音は気を取り直し、美濃部から聞いた情報を一つ一つ、傍らの本人に確認するようにしながら、鷹山に伝える。
「高校のときに、高野先生がピアノで弾いてたんだって」
「和久さんは音楽科でピアノ専攻なんだぞ? そんな曲、それこそくさるだけある」
 鷹山の答えに、そうですよね、と美濃部は調子よく頷いてみせる。
「それでね、クラシック音楽オンチの赤城さんが当時、唯一記憶に残ってたほどの有名な曲なんだって」
「超メジャーなピアノ曲ということか? だったらわざわざ楽団を使う必要はないだろう。素直に和久さんに頼んだらいいじゃないか」
 鷹山が至極もっともらしいことを、事も無げに言う。
 華音はさらに続けた。
「でも、赤城さんが実際に聴いたのは、オーケストラだって言ってるんだけど」

 間が空いた。珍しく、すぐに答えが返らない。
 腕を組み、数秒考え――。
「ふーん……協奏曲ってこと?」
 初めて鷹山から『反論』ではなく『問い』が返ってきた。
 楽団員たち同様、少なからず興味を惹かれているようだ。
 ピアノとオーケストラと言えば、真っ先に思いつくのはピアノ協奏曲である。もちろん例外もたくさんあるが、やはり。
「高野先生もそう思って、有名なのをいくつか試しに弾いて聴かせたけど、結局分からずじまいだったんだって」


 そしてとうとう、音楽監督から驚愕の一言を引き出した。
「来週の水曜日、だったな? 19時開演だ。それ以上は絶対に譲らないからな?」


「うそ――鷹山さん、分かったの?」
「僕を誰だと思ってるんだ? その曲なら、芹響のレパートリーに入っているはずだから、数回通せば何とかなる」
 鷹山は立ち上がり、再び書棚へ向かった。
 そして、手早く一冊のスコアを取り出し表紙を確認すると、立ち尽くすコンサートマスターの青年にそれを見えるようにかざしてみせた。
「ああ、美濃部君。念のために和久さんのところへ行って、この曲をピアノで弾いたことがあるか確認してきてくれないか? まあ、当たってると思うけどね」
 美濃部は、表紙に記載された楽曲のタイトルと鷹山の顔を、交互に見つめた。
 それはもちろん、美濃部も良く知っている曲だ。
 美濃部は、感服の眼差しを鷹山に向けた。
「分かりました! 鷹山さん、本当に……ありがとうございます! 団員のみんなもきっと、喜びますよ!」
 そう言って若きコンサートマスターは深々とお辞儀をし、鷹山の居室をあとにした。

 高野と赤城の若き日のセピア色の思い出が今、若き音楽監督の手によって、色鮮やかに浮かび上がる。



 美濃部が去ってしまったあと、芹沢邸二階の書斎には鷹山と華音二人だけとなった。
 鷹山は楽譜をデスクの上に投げ出すようにして置いた。そして、身を投げ出すように脱力して、椅子に座り直す。
 静かだ。
 先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか――目を瞑りゆっくりと呼吸を繰り返している。
「――この曲なの?」
 華音は楽譜を手にとり、気紛れに中身を確かめるようにめくった。
 使い込まれたような重厚な質感。古びた紙の匂いがする。きっと華音の祖父が使用していたものなのだろう。
「当たってたらさ、もちろん僕にご褒美くれるよな?」
 目を閉じたまま、鷹山が言った。まるで子供のおねだりのようだ。これではどちらが年上だか分からない。
「それは……ちゃんと演奏会、やってくれたら」
「ふーんそうか、しっかり覚えておくよ。あとで忘れたなんて、言わせないからな……」
 外れていることなど、まったく考えていないようだ、この自信家の音楽監督は――。


  *   *   *   *


 一台の車が、すっかり日の暮れた街を走っていた。
 赤城は秘書の運転する車の助手席で、いくつもの企画書に目を通していた。大企業のトップとなった今でも、赤城は普段の移動を自分の運転で済ませている。酒席の時でも、秘書に自分の車を運転させて、後部座席ではなくこうやって助手席に乗るのが常だった。
 ふと。
 いつのまにか予定のルートを外れていることに赤城は気付く。
「どうした、今日は会食の予定が入っていただろう?」
「ええ、二十時からです」
「二十時? 私は十九時の約束をしていたはずだ。変更のことは聞いていないぞ」
「申し訳ございません」
 秘書は淡々としている。
 赤城はその態度に違和感を覚えたが、運転に集中しているためだろう、と判断した。
「まあいい。最近時間に追われっぱなしだからな。どこかカフェに入ってコーヒーでも飲んでいくか? メールのチェックもしておきたいしな」
「では、すぐに」
 車は市街を抜け、緑あふれる閑静な住宅街へと差しかかる。やがて、大きな公園と隣接するようにして、真新しいモダンな建造物が姿を現した。
 巨大なコンサートホールである。赤城の持ち物の一つだ。
 なぜここに連れて来られたかという事よりもまず、赤城が気付いたのは――暗闇に煌々と映えるロビーのシャンデリア。
「なぜ明かりがついている? 今日は週末のリハか?」
 今夜はイベントも入っていなかったはずだと赤城は記憶していた。その証拠に、客用の駐車場に赤城の乗った車の他は、がらりと空いている。
 楽器搬入口側の関係者用駐車場には、いくらか車の姿があった。となれば、楽団の人間が中にいるということになる。
 訝しげな表情を見せている赤城に、秘書は無表情のまま。慣れた手つきでハンドルをさばき、車を正面玄関に横付けした。
「社長、どうぞ。さあ、中のほうへ参りましょう」


 豪奢な絨毯が敷き詰められたロビーの大階段を、赤城と秘書は上がっていく。
 すると、赤城の目の前に、よく見知った二人が現れた。どうやら赤城がくるのを待ち受けていたらしい。
「お疲れ様です、赤城オーナー」
「どうしたんだ芹沢君。それに、和久まで」
 無邪気に手を振って合図する華音は制服姿だ。平日の夜は高校から直接出向いて、楽団の仕事をこなしているためである。
 一方の高野もジーンズにシャツと、いつもと変わらずラフな服装だ。
「最近赤城さんが練習見にいらっしゃらないので、たまにはどうかと思いまして」
「俺に様子を聞くより、麗児君が直接見るほうが手っ取り早いでしょ?」
 赤城は背後の秘書を振り返った。
「そういうことか。なんかお前の態度がおかしいと思ったんだ」
 今の仕事の状況であれば、楽団の視察をスケジュールに組み込むことはしなかったはずだ。楽団への出資はあくまで趣味の一環という位置付けで、運営の主導権は音楽監督に一任しているのだから。
「ご自分の事を顧みる余裕もないほど、最近の社長はお忙しいですから。少し気分転換でも、と思いまして。では、私は駐車場でお待ちしております」
 そう言って秘書は、華音と高野に目配せをした。
 半ば騙すような形で強引に進めたのは、長い付き合いである秘書の優しさからくるものであろうと、赤城は勝手に理解していた。


 ホール客席は独特の空気に満ちている。
 観客のいない巨大な空間は、絨毯の上の足音さえも聞こえるほどだ。
 ステージは緞帳が下りている。歌劇を上演するために使用されるもので、通常は上がりっぱなしのはずだった。紺地に金糸の、美しい鳳凰の刺繍が鮮やかだ。
「練習なんかしていないじゃないか?」
「いいから座ってよ、麗児君」
 赤城を真ん中にして三人が着席すると、演奏開始を案内するトランペット・ヴォランタリーがどこか遠くから鳴り響いてきた。
「……いったい、何が始まるんだ?」
 正式な演奏会となんら変わりのない演出だ。その旋律が途切れるのと同時に、タイミングよく照明が落とされた。
 緞帳がすばやく上昇した。
 ステージ上は既に照明が点灯し、そこにはフル・オーケストラが待機していた。
 団員たちはみな礼装で、既に楽器を構えている。
 そして、もちろんあの音楽監督も、指揮棒を持った右手を上げた状態で――。
「あれ、楽ちゃんもちゃんと着替えてる」
 高野の言うとおり、鷹山はシルバーグレーのモーニングを着用している。彼が指揮者をするときの衣装はグレードが三つある。今夜はハイグレードな正装だ。
「妙なところで完璧主義だから、鷹山さんは」

 鷹山が手を振り下ろした。
 トランペット首席が、最も有名な旋律をソロで吹き始め、続くようにして金管楽器が重なり、やがて一糸乱れぬ弦楽器パートが調和のとれたハーモニーを形成していく。
「これだ、これ。和久、何という曲だ?」
 演奏中にもかかわらず、赤城が隣に座る高野に大声で尋ねた。
 幸い、今夜は他に迷惑になるような観客はいない。
 高野はクラシック音楽に疎い同級生に、簡潔な説明を試みた。
Pictures at an Exhibition――原曲はムソルグスキーのピアノ曲なんだよ。ラヴェル編曲のオーケストラ版のほうが圧倒的に有名だけどね」
「ああ、これがあの『展覧会の絵』か。名前は知ってる」

 鷹山の指揮はシンプルで若さあふれる大胆な解釈だ。機敏な動きにすべての奏者が付き従う。
 丁寧に旋律が紡がれていく。
 音が重なりゆく。ステージのはるか上で和音が響き、やがてホール一杯に膨張していく。

 演奏が終わると同時に、照明が点った。


 赤城は微動だにせず、半ば放心状態で座席に収まったままだ。
「麗児君、どうしたの?」
 右隣にいた高野に問いかけられ、ようやく赤城は我に返った。しかし、予想していなかったことの連続で、どうやら上手い言葉を見つけられないようだ。
「何と言ったらいいか……しかし、よく分かったな」
 高野は苦笑いをした。
 二十年経っても思い出せなかったのだ。赤城が驚き感動するのも当然のことだ。
 それをいとも簡単に――。
 赤城の左隣に座っていた華音は、嬉しそうに言った。
「うちの音楽監督はちょっと気難しいですけど、とっても優秀ですから」
「それは、よく知っているさ」
 赤城はようやく立ち上がった。照れくさそうにしながら、上等な三つ揃えのスーツを軽く整える。
 すると。
「ハッピーバースデー! 赤城オーナー!」
 舞台上からコンサートマスターが叫んだ。
 その美濃部のコールを合図に、楽団員はいっせいにステージの床を踏み鳴らす。
 祝福の意思表示だ。
「……ああ、そうか。今日は――――忘れていた」
 鷹山が譜面台を軽く叩く仕草を見せ、団員たちの動きを制した。
 ホールは一転して静寂に包まれる。

 指揮台の上の音楽監督が、ゆっくりと客席を振り返った。
 怜悧な表情のまま、たったひとこと――。
「今夜は特別ですよ」

 遥か遠く下にいる楽団メンバーに、オーナー赤城は二階席から右手を軽く挙げ、少年のような笑顔で応えてみせた。


(了)