受け止めるから。

 暑くなりそうな夏の日の朝――。
 まだ生徒の姿がほとんど見当たらない早い時間に、梨緒子は校内に足を踏み入れた。
 講習が始まるまで、まだ一時間以上ある。
 これほどまでにない緊張感を携えて、梨緒子が向かった先は、図書館だった。
 書架と書架の合間を抜けた奥の閲覧スペースの端に、目的の人物はいるはずだ。
 永瀬秀平の指定席である。

 梨緒子の気配に気づき、秀平は顔を上げ、こちらを振り向いた。
 声が出ない。言葉が見つからないのだ。
 秀平に用事があったはずなのに、いざ本人を目の前にすると、頭の中が真っ白になってしまう。
 彼はじっと、こちらを見ている。
 梨緒子もじっと、彼の顔を見る。
 無言のまま、しばらく二人は見つめ合っていた。

 先に沈黙を破ったのは、秀平だった。
「今日は……雨、降ってないけど」
 梨緒子がこんな早い時間に姿を現したことを、彼は不思議に思ったらしい。
 その反応があまりに普通で、何だか調子を狂わされてしまう。
 梨緒子はためらいながらも、勇気を振り絞って秀平に話しかけた。
「あのね、どうしても秀平くんに話したいことがあって。帰りだとちょっと……」
「彼氏が放してくれないんだろ?」
 誰かに頭を思い切り殴られたような衝撃に、梨緒子は襲われた。
 秀平の口から『彼氏』という言葉が出てくるとは――。
 『安藤』という固有名詞ではなく、梨緒子の『彼氏』というその言い方が、とても無慈悲に思えた。
「隣、座れば?」
 問題集を解く手を止め、秀平は自分の座る隣の椅子を軽く引いた。
 梨緒子はどうしてよいか分からずに、すぐ近くで立ち尽くしたまま、じっと秀平を眺めていた。
「このままじゃ、話しにくいから――側に来て」
 鼓動がどんどん早まっていく。
 彼と普通に話ができるだけで、梨緒子の胸は一杯になった。


 言われたとおり、梨緒子は秀平の隣の席にゆっくりと腰を下ろした。
 こんなに近くにいても、何故か心は遠く感じてしまう。
「……口もきいてもらえないかと思った」
「どうして?」
 秀平はわずかに首を傾げ、きれいな二重の瞳をゆっくりと瞬かせた。
「前から江波には言ってただろう? 安藤は江波のことが本当に好きなんだって。だから別に驚くことでもなかったし」
「でも、私は――」
 夏休み直前の球技大会で、秀平に自分の気持ちを打ち明けたばかりだというのに。
 いい加減な女だと、思われているに違いない。
 何事もなかったかのように淡々としている秀平が、梨緒子は怖くて怖くてたまらなかった。

 突然、秀平は身体をずらすようにして、椅子ごと梨緒子のほうに向き直った。
 すらりとした秀平の脚が、梨緒子のスカートの裾に触れる。
 秀平が自ら何かを話そうと意思表示を見せるのを、梨緒子は初めて見た気がした。
 そして、それが自分に向けられているということが、梨緒子の緊張をいっそう高めた。
「昨日帰りに――波多野がさ、俺を待ち伏せしてた」
 秀平の言う『波多野』が、美月のことだと理解するまでに、わずかに時間を要した。
「俺のせいだって。俺が悪いんだって、掴みかかってこられた」
「うそ、美月ちゃんが?」
 驚愕の事実だ。
 美月が秀平を待ち伏せしたことも、相手に掴みかかっていくことも、梨緒子にはまったく想像がつかないことだった。
 秀平は淡々と説明を続ける。
「俺のせいで、好きな人も、親友もなくしてしまった、って」

 ――美月ちゃんが、秀平くんにそんなことを……。

 厳密に言えば、秀平に責任はないのだ。
 美月の場合、やり場のない怒りをぶつけただけの、単なる逆恨みでしかない。
「何なんだよみんな。いったいどうしたいの。目先のことばかり考えて、俺たち、半年もすれば大学受験なんだよ? 俺は、本当に北大に行きたいんだよ。やりたいことがある。だから、こうやって勉強だってしてる」
 真っ直ぐだ。こんな時に不謹慎だが、秀平のことを改めてカッコいいと思ってしまう。容姿端麗もさることながら、とにかく純粋でひたむきだ。
「江波は俺が目指してるから同じ大学目指してるって、この前安藤が言ってたよな。じゃあ俺が京大目指すって言ったら、江波の志望校が変わるのか? どう考えてもおかしいだろ、それ」
 おかしい。
 おかしい。
 そんなこと、分かってる。
 自分の進路を、他人に委ねるなんて――おかしい。
「俺は俺のことで精一杯で、江波の夢までは背負えない」
 もう分かったから。
 充分、思い知らされたから。
 でも、それでも。
 これまでずっと彼を神格化していて、自分のありのままの感情をぶつけることなど、決してありえなかった。
 しかし。もう、限界だ。
 梨緒子は泣きそうになるのを必死でこらえ、秀平に訴えかけた。
「好きだから一緒にいたいっていうのじゃ、ダメなの? そんなに迷惑? そんなに私のこと――」
「好きだよ」
 思わず呼吸が止まった。
「俺、江波のこと――好き」
 淡々と紡がれる秀平の言葉に、梨緒子は目を瞠った。

 膝と膝とが触れ合う至近距離で。
 何の飾りもない、短いひと言が、梨緒子の胸の真ん中を突き抜けていく。

 類に気持ちを告げられたときよりも、確実に梨緒子の心は震えていた。
 しかし、それは嬉しいという感情ではなく、現状を考えるともはや途惑いでしかない。
「意味分かんないよ……いまさらそんな、気をつかって取り繕われたって、傷つくだけだから。冗談止めて」
「傷つく? どうして江波が傷つくのさ。しかも冗談だって? それは俺が江波に言いたいよ」
 怖い。何だかとても、怖い。
 本気なのだ、と梨緒子は悟った。
「……私の気持ちは、冗談なんかじゃないよ」
「じゃあ、どうして安藤と付き合うことにしたの?」
「それは……だって」
 秀平の責めるような問いに、梨緒子はたじろいだ。
 なんと言っていいのか、分からない。
「俺が、困るって言ったから? だから安藤と……」
 秀平は天井を仰ぎながら、物憂げなため息を洩らした。
「なんか俺、江波に狂わされっぱなしだ」
 すべてが信じられなかった。
 目に見える秀平の表情も、耳に聞こえる秀平の声も。
 確かなのは、秀平の心がこんなにもそばにある、ということだ。
 しかし、現実はあまりに無慈悲で残酷だ。
「こんなこと言っても、江波を困らせるだけだな。それに俺、これ以上煩わしいいざこざに関わるのは、勘弁。今日で、江波と話すのも止めることにするから。安藤にいちいち絡まれるんじゃ、かなわないから……江波の携帯に、まだ俺の番号入ってる?」
「入ってるけど?」
「メモリ、消去して」
「……どうして?」
「どうしてって、彼氏ができたんなら、当然だろ?」
 秀平の言っていることが、梨緒子にはまったく理解できなかった。
「別に同級生なんだから……そこまでしなくたって」
「そんな理由、安藤には通用しないよ。早く消して、いまここで」
 なぜ、そこまで。
 完璧主義で、物事をキッチリさせるのが秀平のいいところでもあるのだが――。
 梨緒子は激しく首を横に振った。
「イヤ……」
「江波」
「消したくない」
 完璧主義なんて聞こえはいいが、これでは融通の利かないただの頑固者だ。
 手のひらを返すように完全に関わり合いを断たないと気がすまない、という秀平の発想が、『孤高』と呼ばれる大きな要因となっている気がしてならない。
 梨緒子はたまらず、秀平に反論した。
「話をしないって言うけど、秀平くんに用事があるときは、どうすればいいの? お手紙書いてポストに入れればいい? それとも優作先生にいちいち伝言すればいいの? こんなに近くにいるときでも?」
 梨緒子の勢いに圧倒されたのか、秀平は黙った。
 しばらくそのまま考え込み、何かを思いついたように呟いた。
「手紙……それだったら、直接話さずにすむか」
 秀平は新しいルーズリーフを一枚取り出すと、それを半分に折り、中ほどに英数字を書きつらねた。そして、その書き終えた紙を、梨緒子のほうへと差し出してくる。
「なんか適当に名前付けて、新しくグループ作って隔離させておいて。俺のせいで、江波が安藤に責められることになるのは、避けたいから」
「これって、ひょっとして……秀平くんの?」
 そこに書かれていたのは、メールアドレスらしき英数字の羅列だった。
 予想外の展開だ。
 梨緒子は紙を眺めながら、怖々とアドレスの主に尋ねた。
「メール……してもいいの?」
「江波さえよければ。――待ってる」
 わずかに、繋がった。

 待ってる、のひと言だけで。
 こんなにも、こんなにも。

 ――やっぱり、全然違う。秀平くんは、特別。

「安藤とちゃんと仲良くやって。俺にとばっちりが来ないように」
「……分かった。でもね秀平くん、私の気持ちは変わってないから」
 好きだけど、付き合えない。
 付き合えないけど――。
「…………何だか矛盾だらけだ、俺」
 思いつめたようなため息をつく秀平を残し、梨緒子は席を立った。
 誰かに見られて、よからぬウワサを立てられても困る。
 梨緒子は、秀平からもらったアドレスが書かれた紙を、カバンの奥底にしっかりとしまいこみ、精一杯の笑顔を造った。
「大学のことは、優作先生に相談してもう一度考え直すことにする。現実はちゃんと、受け止めるから」
 それに対して、秀平からは何も答えが返ってこなかった。