可愛くないね

『江波さえよければ。――待ってる』

 講習を終え学校から帰宅すると、梨緒子は着替えず制服のままで、自分の机に向かった。
 そして、秀平のくれたメールアドレスが書かれた紙を慎重にカバンの底から取り出して、それをしばらく眺め続けていた。

 ――待ってる……か。

 いったい、何を。
 付き合ってるわけでもない。
 これから付き合うことになるかもしれない可能性は、限りなくゼロに近いというのに。

 どうして秀平はあの時、あんなことを言ったのだろう。
 一緒の大学を目指すのは困る、とハッキリそう言っていたはずなのに。

『俺、江波のこと――好き』

 今朝の図書館でのやり取りを思い出し、梨緒子は恥ずかしさのあまり、一人赤くなった。

 好きだけど、付き合いたいと思うほどではない。そういうことなのかもしれない――梨緒子は自分の心を静めようと、大きく深呼吸を繰り返す。
 だから、彼氏になったばかりの安藤類少年とちゃんと仲良くやってほしいと言うのだろうし、もう直接口をきかないなどと、頑なな態度を崩そうとしないのだろう。

 ――どうしよう……メール。

 憂鬱だった。先程からため息ばかりだ。
 秀平の綴った文字は整っていて、見やすくキレイだ。何をやらせてもソツがない。
 梨緒子は紙を見つめながら、もう一度大きくため息をついた。

 ――うー、悩む……。

 別になにも、彼にメールを送るかどうかを迷っているわけではない。
 初めて彼に送るメッセージは、どんなものが相応しいか。梨緒子はずっとそればかりを考えているのだ。
 秀平と秘密裏にメールをやり取りしようとすることは、類に対する裏切り行為であることも、頭の片隅では理解していた。
 しかし。
 いまさら類との付き合いを白紙に戻したところで、美月との関係が元に戻るとは考えにくい。それに、好きだと言ってくれた秀平には、梨緒子と付き合う気はないのだ。

 類との関係を続けるしか、いまの梨緒子に道はないのである。


 その日の夕方――。
 いつものように、家庭教師との個人授業である。
 数学の課題を淡々とこなしつつ、和気藹々と雑談で盛り上がり、あっという間に時間が過ぎていく。
 授業を終えたところで、梨緒子はようやく優作に切り出した。
「優作先生。私ね、北大受けるの止める」
 梨緒子の部屋の中にあるセンターテーブルを挟むようにして、胡坐をかいて座っていた優作の顔が、呆気にとられたように固まった。
 しばしの間、沈黙が二人を包む。
「受けるの止めるって? ……何でまた急に」
 梨緒子は、家庭教師のその尋常ではない驚き方に、逆に驚かされていた。
 どうして自分が北大を志望しているのか、この男は知っているはずなのに――何で、とわざわざ聞き返されるとは思っていなかった。
 これまでの一連の流れからすれば、充分予想がつくことだと思われるのだが、優作には意外だったらしい。
 まいったように頭をかきむしり、タレ目を何度も瞬かせている。
 梨緒子は優作の様子をうかがいながら、説明を始めた。
「家庭教師はいままでどおりお願いするから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。それに、急にって言うけど……この間、優作先生に話したでしょ?」
「秀平のこと? あいつの言うことなんか、気にしなくていいんだよ。梨緒子ちゃんの将来のことなんだから」
 やはり。
 自分の弟と、梨緒子との間に起こった出来事がいまの発言の原因であるということを、優作はきちんと理解している。
 だったら話は早い。
「もともとね、秀平くんみたく北大に憧れがあったわけじゃないし。いくらなんでも、いまの私の成績じゃ到底、入れっこないし」
 もともとの志望動機が『秀平が目指しているから』だったのである。秀平と同じであれば、別に北大じゃなくてもよかったのだ。
「まだ半年あるよ? ……まあ、梨緒子ちゃんが決めたんならその気持ちを尊重したいけどね。北大を止めてどこにしたいの?」
「どこって…………北大以外の、どこか」
 優作は唸った。しきりにあごの無精ひげを撫でながら、首を傾げている。
「僕さ、何だか秀平の気持ちが分かった気がするんだよね。兄弟だからっていうひいき目は抜きにしても」
「関係ないの、ホント。もう、秀平くんのことはいいの」
 気持ちと裏腹な言葉が、梨緒子の口をついて出てくる。
 関係ないどころか、いまだ梨緒子の心は秀平を想う気持ちで占められている。
 だからこそこうやって、秀平の言うとおり――。
 そんな梨緒子の心中を察してか、優作はいつもよりも落ち着いた声で、はっきりと言い切った。
「秀平に、同じ大学を目指すのは困る、なんて言われたから? そんな理由で北大以外にするっていうならね、なんにも変わってないんじゃない?」
 言葉が、出てこなかった。
 絶句するというのはこういうことを言うんだろう――梨緒子の真っ白な頭の中でもそれだけは理解した。

 ――なんにも、変わってない? どうして、そんな。

「そういうことじゃないと思うよ、秀平の言いたかったことは。まあ、あいつは昔っから、自分の思っていることを素直に伝えることがヘタクソだから。結局のところ、秀平がすべて悪いんだけどね」
 分からない。
 そういうことじゃない、なんて。
 確かにこの耳で聞いたのだ、同じ大学を目指されるのは困る――と。
 混乱する梨緒子に、優作はなだめるように言った。
「梨緒子ちゃんが本当にやりたいことがあるなら、北大を目指したっていいんだよ?」
 ない、そんなもの。
 いや、『あった』というべきだろう。しかし、それは勉強ではない。
 同じ大学のキャンパスで、永瀬秀平と同じ講義を受けたり、一人暮らしなら親のことを気にせずに夜も出歩いたり、あわよくばお互いの部屋を誰の目も憚らず行き来したりできたら――そんなちょっと背伸びをした自由な恋愛を夢見ていた。
 すべては梨緒子の勝手な妄想にすぎないのだが。
「大学を選ぶ理由を『秀平の存在』に委ねないようにね。もちろん選ぶのを止める理由も――」
 梨緒子の考えが間違っている――この家庭教師は遠回しにそう、告げているのだ。

 秀平が目指しているから、自分も目指す。
 秀平が困るというから、目指すのを止める。

 もし永瀬秀平がいなかったとしたら、自分はどうしていただろう。
 そんな自問に、答えはまるで出てこない。
「大丈夫だよ、梨緒子ちゃん。僕が側についてるんだからね。夏休み中かけてゆっくりとね、やってみたいことを一緒に探していこう。将来へ繋がる可能性はね、無限大なんだよ」
 そう。いつだってこの家庭教師は自分の味方なのだ。
 現役大学生の優作が、梨緒子の目にはとても頼もしく映った。


 梨緒子の部屋のドアを誰かがノックした。返事をする前にノブが回り、遠慮もなく入り込んでくる。
 『キレイな姉』のような、梨緒子の兄・薫だ。
 背中の中ほどまで伸ばした、まったくくせのない完璧なストレートヘアは、誰も薫を男性だと信じさせない。
 普通に短髪にしていれば、ただの『女顔の男』なのだが、服飾デザイナーを目指す薫は、自分で試作した女性向けの服を着て出歩くクセがあった。
 一般的に言うところの女装癖、である。
「あ、ごめん。まだお勉強中だった?」
「いや、いま終わったところだよ。薫さん、今日は随分早いんだね」
「これからまたデザインの書き直し。優ちゃんはまた大学戻るの?」
「そうだね。レポートもたまってるし、図書館に少しこもろうかなあって」
 梨緒子は思わず自分の耳を疑った。兄の口から発せられたのは、随分と親しげな呼称だ。
 永瀬優作だから、優ちゃん。おかしくはない。
 しかし。
「ゆ、優ちゃんて……二人、いつの間にそんな仲良しなの?」
「薫さんとはただの友達だよ、そんなに心配されるような仲じゃないから。他の分野の人と話すのは勉強になるし、楽しいからね」
 確かに、優作と薫はともに梨緒子の3つ上。歳が同じだからきっと話も合うのだろう。
「ひょっとして、私の知らないところで結構二人で会ったりしてるの?」
「お互いの学校見学したり、そんな程度だよ。ねえ、優ちゃん?」
 そんな程度とは言うが、充分親しい域に入るだろう。
 ふと。梨緒子は首をひねった。
 もやもやしていた符合が、ピタリと一致したのだ。
「この間、優作先生の友達が言ってた『ウワサの彼女』って、まさか薫ちゃん!?」
 二人がお互いの学校を見学しあっているのなら、その姿を目撃した周囲の人間には、確実に男女カップルに見えていたに違いない。
「いやいやいやいや。草津と白浜が勝手に騒いでるだけだよ。薫さんは僕にはもったいないから」
 激しく首を横に振って否定する優作に、梨緒子はどこかホッとしていた。
 勉強を見てもらっているときに、雑談に花を咲かせることはよくあったが、そこに女性関係の話が出てきたことは一度もなかった。
 だから、優作の友人たちが梨緒子のことをウワサの彼女かと勘繰ってきたときに、とても意外な印象を受けたのである。
 いや、別に彼女がいてもおかしくはないのだが――。
「薫さんキレイだから、みんな勝手に騒いじゃって。友達だって言ったら、薫さんに彼氏とかいるのかって、よく聞かれるんだよ」
「あー、じゃあさ、彼氏『とか』はいないって、そう言っといて」
 薫の言う『とか』には、彼女という単語も含まれているのだろう。どっちとも取れる微妙な言い回しだ。
 混乱させることを知っていてあえて楽しんでいるようにしか、梨緒子には思えなかった。
 優作は荷物をまとめると、照れたように笑い、江波兄妹に手を振りながら、梨緒子の部屋を出てそのまま階下へと降りていった。


 階段を下まで降りきる足音を確認して、梨緒子はすぐさまキレイな兄貴に食いついた。
「ちょっと薫ちゃん! 自分が男だってこと、優作先生に明かしてないの?」
「明かすも何も、別に聞かれてないし」
 薫は不敵で素適な笑顔をみせた。これは、絶対に楽しんでいる。
 梨緒子は軽くめまいを覚えた。
 いまはただ、優作が薫に夢中にならないことを祈るばかりである。
「それよりさ、下に彼氏くんが来てるよ」
 薫が妹の部屋まで来た本当の用事は、それを伝えるためだったらしい。
 夏休みとはいえ、受験生の身分ではそうそう遊んではいられないはずなのだが――そんな道理は、類少年には通らないようだ。
「え? 何だろ、別に約束なんかしてないのに……ちょっと待って! な、な、何で薫ちゃん、彼氏できたこと知ってるの?」
「類くんがさ、さっき自分でそう言ってたから。友達から彼氏に格上げしましたヨロシク、って」
 梨緒子は驚きのあまり、限界まで両目を見開いた。
 類はこれまでも、仲のいい同級生として家族に知られていたのである。彼氏になったことをわざわざ告げる必要もないだろうに――梨緒子は深々とため息をついた。
「うっわ、何その反応。付き合い始めの初々しい彼女がこれじゃまったく、可愛くないねー」
 キレイなお兄さんに投げかけられた、そのひと言で。
 梨緒子は、類に内緒で秀平と秘密のやり取りをしようとしていることを、いきなり躊躇し始めた。