聞いてる?

 今日は土曜日。夏期講習も中休みである。
「たまには真面目に、勉強でもするか」
 梨緒子は彼氏の類少年に誘われるがまま、勉強道具をカバンに詰めこんで、太陽の下へと繰り出した。

 暑くなりそうな一日だ。
 梨緒子はノースリーブのシャツにシンプルなデニム地のミニスカート、素足にサンダル履きというラフな姿だ。
 一方の類も、真青のTシャツに白のハーフパンツという軽装だ。
 二人が目指すのは市立図書館である。理由は単純、冷房完備でとても快適なのだ。
 夏休み中は混み合うため、開館時間の午前九時に合わせ、二人は早めに家を出ようと約束していたのだった。

 図書館へと抜ける川沿いの道を、二人並んでゆっくりと歩く。まだ照り付けるほどの日差しではない。
 温んだ風に吹かれながら、梨緒子は傍らの少年に話しかけた。
「ルイくんは受けるところ、もう決めた?」
「とりあえず、国立の教育学部かなー。理学部でも教員免許は取れるみたいだから、あとは倍率次第で適当に」
 適当に志望先を選べるほど、類は全般的に成績が良かった。理系クラスに属するだけあって、数学と化学と生物は常に上位をキープしている。
「リオは? 医療系の学校に興味あるとか、前は言ってたよな」
「何となくだけどね」
 梨緒子が北大を目指すなどと無謀なことを言い出す前は、漠然と医療系の道へ進もうと考えていた。
「すぐそばにあるじゃん。リオの家庭教師が行ってる大学って、医学部の他に看護系の短大もくっついてただろ?」
 何気なさを装ったような類の喋り方に、梨緒子は若干の違和感を覚えた。

 ――リオの家庭教師、か。

 いままでは、『永瀬の兄貴』だったはずなのに。
 類があえて名前を出そうとしないのは、とても不自然な気がした。
「できれば近い学校には行きたくない……せっかくだから一人暮らししてみたいし」
「そう? うちの姉貴はさ、一人暮らしは何でも自分でやんなくちゃいけないから面倒だって、よく言ってたぜ? 楽しいのは半年くらいなもんだろ。自宅から通うほうが絶対楽だって!」
 類には歳の離れた姉がいる。もうすでに大学を卒業して、地元の企業に就職し、現在は類と同じ屋根の下に住んでいる。
 類は姉と恋人同士のように仲がいい――以前、美月がそんなことを言っていたのを梨緒子は思い出した。
 女子相手にフレンドリーに振る舞えるのも、きっと姉相手で女の扱いになれているためなのだろう。
 それにしても、姉が言うことを自分に押し付けられても、梨緒子は困ってしまう。
 つまり、類が言いたいことはたった一つ。
「俺、遠距離レンアイなんて絶対、絶対、絶対ヤだから」
 類は同じ言葉を三度、繰り返した。

 ――エンキョリ、レンアイ?

 遠距離恋愛。
 自分の身にそんな言葉が必要になる日が来るなんて、梨緒子は思いもしなかった。
 正直なところ、遠距離になってまで類と上手くやっていける自信はゼロに等しい。
 梨緒子は呟くように言った。
「たとえ近くにいたとしても、どっちかが浪人したら……遠距離よりも悲惨かもよ?」
「え……マジで言ってんの、それ」
 類は大袈裟に驚いている。楽天的な気性の類には『どちらかが浪人』なんて、頭の片隅にもなかったらしい。
「楽しそうに大学生活満喫してるルイくんのこと陰から見て、もの凄く自分が惨めな気分になると思うもん」
「いまから浪人することなんか考えるなよ。とりあえず、一緒に地元に残れたら――お互いの状況がどうであれ、気持ちは絶対に変わらないって」
 はたしてその類の言葉が正しいのかどうか、いまの梨緒子にはまったく分からない。


 つかず離れずの距離を保ったまま、二人はゆっくりと歩を進める。
 付き合い始めてまだ二週間足らず。まだまだ友達の延長上だ。
 普段学校では、誰彼構わずにスキンシップまがいの行動をする類が、付き合い始めた途端それがピタリと収まった。
 彼女になった梨緒子に対しても、ふざけてむやみに触ったりすることがなくなったのだから、不思議なものである。
 しばらくそのまま歩きながら、やがて梨緒子は思い切って、ずっと気になっていたことを類に尋ねた。
「美月ちゃん……最近どうしてる?」
「相変わらずだよ。意外に根に持つタイプだよな、あいつも」
 状況はまったく回復の兆しをみせていないらしい。
 それだけ、類に対する美月の気持ちが真剣だったということである。
「ねえ、ルイくん。聞いてもいい?」
「ん? どうした?」
「美月ちゃんのこと、どう思ってるの?」
 ひどく無粋な物言いだと、梨緒子は自分自身で感じた。しかしどうにも聞かずにはいられなかった。
「どうって……あいつはただの幼馴染だよ」
「それだけ?」
「リオ、ひょっとしてヤキモチか?」
 そう言われて初めて気づかされる。
 これは確実に、嫉妬という感情などではない。
「茶化さないでよ。……だって、いくら幼馴染でも女の子なんだよ? 好きだって言われてなんとも思わないの?」
 相手を想う気持ちが伝わらないもどかしさは、誰よりもこの自分が知っている――。
「それってさ、いまここで、付き合ってる彼女の前で、わざわざ口にしなけりゃならないことか?」
 おそらく答えは、『ノー』だ。
 いつになく強い口調の類に、梨緒子はわずかにひるんだ。
「ゴメンなさい……」
 梨緒子は自分の失言を悔いた。
 しかし、相手は知らない誰かではなく、梨緒子の大切な親友なのである。
「でもね、そんなふうに言ったら、美月ちゃんがあまりにも可哀想……」
 類は困ったようなため息をひとつついた。
「ひょっとしてリオ、自分のこと美月のヤツに重ねてないか? 女の子に告白されて、男はなんとも思わないのか――って」
 梨緒子は思わず傍らの少年のほうを振り向き、顔を見上げた。
 目と目が合う。心を見透かされているようで、梨緒子はどうも落ち着かない。
 いつになく真剣な眼差しの類を見て、梨緒子は身構えた。

 そこにいるのは、一人の『男』だ。
 自分自身が付き合うと決めた『彼氏』なのである。

 付き合うということは、いつまでも友達の延長上ではいられないのだということが、梨緒子の心に重くのしかかっていた。
 受け入れるにはまだまだ時間が必要だ。
 ついこの間まで、違う男のことだけを一途に想い続けていたのだから。
 もちろん、類もそのことを承知しているはずだった。だからこうやって、毎日少しずつ一緒に過ごす時間を作ってくれているのだ――梨緒子のために。
「世の中にはさ、そう思わないヤツもいるんじゃね?」
 それが誰のことであるかは、言わずもがな。
 梨緒子が憧れていた『彼』は、梨緒子の気持ちをなんとも思っていないと、そう類は思い込んでいる。
 なんとも思っていないどころか、『彼』は梨緒子に――。

【安藤とちゃんと仲良くやって。俺にとばっちりが来ないように】

 そう。
 梨緒子は『彼』のために、いま、こうしているのだ。
 これが、いまの梨緒子にできる精一杯なのである。

 梨緒子は上手くはぐらかすように言った。
「あ、そう…………で、ルイくんはどうなの?」
「俺はどこぞの冷血人間とは違うよ。一緒にすんなー」
「だったら、ちょっとは美月ちゃんに心が動いたってこと?」
 類の顔に、動揺の色がわずかに浮かんだ。

 ――そう、やっぱり何も思わないわけがない。

 その類の態度が、逆に梨緒子の心を落ち着かせた。
 美月のことにあえて触れないのは、きっと類少年なりの優しさなのだろう。
 しかし。
 いつかきっと、気づく日が来る――そんな予感が梨緒子の脳裏をかすめた。
「やっぱり、そうなんだ?」
 梨緒子が冷やかすように言うと、類はいきなり歩調を速め、とぼけたように大きな声を上げた。
「あー、なんか俺、カキ氷食いてーなー。やっぱ勉強は後回し後回し」
「ちょっと、人の話聞いてる?」
 梨緒子は前を行くルイの背中のシャツに触れ、歩くの速いよ――と、わずかに拗ねてみせた。