お疲れさま。

 夏の日の朝――。

 見知らぬ誰かが、自分の部屋のドアを開けて中へ入ってくるような気配を、梨緒子は微睡みの中で感じとった。
 ベッドの上に何かが投げつけられる音、そして感触。
 まだ覚めきらぬ目をこすりながら、梨緒子は布団の中からゆっくりと身を起こした。

 よくよく見ると、そのベッドの上の物体は、階段下の物置へしまっておいた旅行カバンだった。修学旅行で使ったタグがついたままになっている。
 確かに、自分のものに間違いはない。

 梨緒子はようやく、それを投げつけた人物に視線をやった。
 朝っぱらから、乙女の眠る部屋に入り込み、遠慮もなくつっ立っているのは、兄の薫だ。クセのない長髪をかき上げ、惜しげもなく美貌をふりまいている。
「梨緒子、いますぐ荷物まとめて。取りあえず――三日分」
「……荷物? なんなの薫ちゃん?」
 そんな、いますぐなどと言われても、状況がさっぱり飲み込めない。これではまるで夜逃げである。
 梨緒子はボーっとしたまま、兄の顔を見つめた。
「二人旅に出かけるから」
 その補足説明が、ますます梨緒子を混乱させることとなる。
 何をどう間違えたら、兄と二人で旅行なんかに行かなければならないのだろうか。
「意味分かんない。そんなこと突然言われても……」
「彼氏くんと約束でもしてた?」
 梨緒子は首を横に振った。
 類は三日ほど、家族旅行に出かけると言っていた。久々に一人っきり、予定はまったく入っていない。
「じゃあ早くして。母さんにはもう話してあるから」
「旅って、どこへ行くの?」
「内緒」
 薫の物言いが解せないながらも、梨緒子はようやくベッドから這い出して、言われるがままに旅行カバンに荷物を詰め始めた。



 兄の運転する車の助手席に、梨緒子は乗った。
 どこを目指しているのか、はっきりと分からない。
 赤信号に引っかかったところで、薫は車のダッシュボードから、厚みのある封筒らしきものを取り出した。
「はい、これチケット。失くさないようにしっかり持ってて」
 手渡された封筒には、航空会社のロゴが印刷されてあった。中身を確かめるべく封筒を開けると、なんとそこには往復二人分の飛行機のチケットが入っていた。
 梨緒子は思わず目を瞠った。
 つまり、いま乗っているこの車の行き先は、必然的に空港ということになり――。
 車で行ける場所ではないところに、自分が連れて行かれようとしているのだと、梨緒子はようやく悟った。
「飛行機に乗るの? ねえ、いったい何なの薫ちゃん?」
 梨緒子はこれまで一度も飛行機に乗ったことがなかった。
 しかしこんなにも突然、何の前触れもなくその機会がやってくるとは、夢にも思わなかった。
 青信号に変わり、車は再び動き出す。
 運転しながら、薫は説明をした。
「百聞は一見にしかず――ね。優ちゃんといろいろ話をしてたんだ、梨緒子のこと」
 出てきたのは、意外な人物の話だった。
 薫の言う『優ちゃん』とは、梨緒子の家庭教師をしている永瀬優作のことである。
 兄貴と二人旅というシチュエイションに、優作がどう関係してくるのか――梨緒子は首をひねらずにはいられなかった。
「私のこと? 何で優作先生が出てくるの?」
「優ちゃんはホントいい家庭教師だよ。ここまで考えてくれる人なんてそうそういないよ? 今回の旅はね、優ちゃんの提案なんだよ。自分の目で、自分の志望校を確かめてこいって」
 梨緒子が手渡された航空券をもう一度確かめると、そこにはハッキリと、行き先・新千歳空港と記載されていた。
「一人で行くんじゃ大変だろうから。優しい兄貴がね、妹に付いていくことにした」

 憧れの彼が目指していた大学を、この目で――。

 梨緒子は深い深いため息をついた。
「そんな……だったら前もって言ってくれればよかったのに」
「前もって言ったら、きっと行かないって言うと思ったんじゃない? 優ちゃんがさ、梨緒子には直前まで黙ってて欲しいって、そう言うから」
 確かに。
 秀平のことはもう関係がない、北大を目指すのは止める――と、あれだけ言っておいて、いまさら。
 そう。いまさらなのである。
 優作はそれを誰よりもよく知っているはずなのに、なぜ。
 助手席で、航空券をじっと食い入るように見つめながら、梨緒子は悶々と考え込んでしまう。
 一方のキレイな兄貴は、ハンドルを捌きながらさらりと言った。
「別に気負わなくてもいいんじゃない? 札幌観光のつもりでさ、受験勉強のちょっとした息抜きにもなるし」
 観光――その薫の言葉に、梨緒子は途端に気分が軽くなった。
 北海道なんて、高校生の身分では、そうそう滅多なことで行ける場所ではない。
 しかも札幌は、都会的なイメージもある。観光にだって困らないはずだ。
「だったら、貯めてたお年玉持って来たのに……とってもフトコロ寂しいんだけど」
 薫はシャツの胸ポケットから、羽子板の絵が描かれた季節外れのお年玉袋を取り出し、それを助手席の梨緒子へ放った。
「はい、母さんからの餞別。お土産代だって」
「うそ? やったー!」
 すでに当初の目的は、はるか彼方――。


 空港へ着いてからというもの、梨緒子は勝手がまるで分からず、ひたすら薫の後ろにくっついて歩いていた。
「ボーっとしてないでちゃんと覚えてよ。今度は一人でもちゃんと行けるように」
 搭乗手続きをするために、専用の機械へ向かう。薫は手馴れたように操作し、やがて座席の番号が書かれた状態で、チケットが吐き出されてきた。
「今度って……そうそうないと思うけど?」
「試験受けに来るかもしれないし、住むことになったら何度も往復することになるだろうし、そうじゃなくても誰か友達へ会いに行くことになるかもしれないし」
 姿形は薫であるが、喋っている言葉は本人のそれではない。
 どう考えても、梨緒子以外の誰かからいろいろと話を聞いているのだ。
 もちろんそれは――。
「薫ちゃん、優作先生とホントに仲いいんだ」
「まあね」
 当たりだ。
 しかし、なんだかスッキリとしない。
 身内にだからとはいえ、自分のいないところであれやこれやと話されると、どうにも困ってしまう。
 とくに、秀平がらみの一件は、家族は誰も知らなかったのだ。
 薫に知られたとなると、母親の耳に入るのは時間の問題である。


 二人はチケットをそれぞれ携えて、手荷物検査のゲートへ向かった。
 ここを越えると、ようやく搭乗待合室へと入ることができる。
 荷物の検査は滞りなく進んでいく。
 薫のチケットを確認した係員が、記載された性別と実際の容貌に違和感を感じたのか、口頭でいくつかやり取りがあった。薫はいつものことと割り切って、わざと男言葉を使い、淡々と受け答えをしている。

 夏休み中ということもあり、搭乗待合室にはビジネスマンと同じくらい、家族連れの姿も多く見られた。
 搭乗待合室のベンチに並ぶようにして、梨緒子と薫は腰かけた。
 せわしない場内アナウンス。滑走路の離着陸のエンジン音。
 空港は喧騒に包まれている。

 隣に座る兄の顔をうかがうようにして、梨緒子は深々とため息をついた。
「どこまで知ってるの? 優作先生、薫ちゃんにどこまで話した?」
「なんかね、変な感じするんだ。まるで優ちゃんのほうが梨緒子の兄貴なんじゃないかって、最近よく思わされる」

 ――優作先生が、お兄ちゃん?

 梨緒子にはよく分からなかった。
 それを、実際の兄に言われると、尚のこと。
「優ちゃんが梨緒子のことをいろいろ知ってて、それで一生懸命いろいろなことを考えていてさ。正直驚いたよね、ホントの兄貴は自分なのに」
 結局、薫と優作がどんな話をしていたのかは、上手くはぐらかされてしまった。



 飛行機はあっという間に北の大地へと着陸した。
 期待と不安で、梨緒子の胸はかすかに震えていた。

 この空気を吸い、この場所を歩き、この音を聞き――。
 近い将来の彼が確実に体験するであろう感覚を、いま梨緒子がこの身に受けているのだ。

 ――秀平くんの憧れなんだ、ここが。

 梨緒子は空港ロビー内をぐるりと見回した。
 そして、ふと目に飛び込んできたものを思わず二度見をし、目を凝らした。
 似ている。似すぎている。
「うそ? 薫ちゃん、ちょっとアレ見て!」
「あ、ちゃんと迎えに来てくれてたね」
 ごった返している到着口のゲートの端のほうに、ひっそりとたたずんでいたのは、人懐っこい笑顔の青年だった。
 短パンにTシャツにサンダルという、いつもながらの軽装である。
 薫は、青年に向かって無邪気に手を振った。
「どういうこと? 二人旅って言ってたのに……」
「いいじゃん、別に三人でも。見知らぬ他人じゃあるまいし、彼氏くんも怒らないでしょ?」
 そう兄に言われて、梨緒子は初めて気づく。類のことなど、すっかり忘れ去っていたことを――。
 結局のところ、旅行に出ることになったことも、まだ打ち明けていない状態だ。ただ、説明しようにも、梨緒子自身が状況の変化についていけていないのである。


 ゲートから出るなり、梨緒子はTシャツ青年に飛びつくようにして、声をかけた。
「優作先生! ビックリしたー」
「お疲れさま。さあ、車に乗って」
 どうして優作が新千歳空港に――しかし梨緒子はこのとき、この先訪れるであろう状況に、まだ気づいていなかった。