欲しいなぁ。

 空港の建物の外へ出ると、そこには抜けるような青空が果てしなく広がっていた。
 青。青。どこまでも青――。
 飛行機の中では、箱庭のような地上を眺めるのに夢中になっていた。
 透明な空がどんなに心洗われるものだったとは。
 梨緒子はここまで来て、初めてそれを認識できた。


 梨緒子の前を、二人の男が歩いている。
 いや、周囲の目からはおそらく若いカップルに見えているに違いない。差し詰め、『美女と野獣』といったところだろうか。
 優作は、野獣というほどむさ苦しくもないのだが――薫と並ぶとその表現がしっくり来るから、なんとも不思議なものである。

 だだっ広い駐車場には、さまざまな車が所狭しと停まっていた。
 優作はここまで車で迎えに来たらしい。短パンのポケットからキーを取り出してみせる。
 薫はさらりと言った。
「二人でホテル泊まったんじゃ高いから、優ちゃんの親戚のうちに厄介になる約束したの」
 初耳だった。
 旅行に出かけること自体、今朝聞いたばかりなのだが――。
 それにしても。
 次から次へとやってくるその目まぐるしい展開に、梨緒子はもはやついていくことができなかった。
 もう、流れに身を任せるしかない。

 車に乗り込み、目的地へ向けてスムーズに発進した。
 ハンドルを捌きながら、優作は軽く説明をした。
「さすがに梨緒子ちゃん一人だと、ご両親もいい顔なさらないと思ったから、薫さんに無理言ってついてきてもらったんだよ」
「そうだったんだー。びっくりしちゃった」
 薫との二人旅にはわずかに不安もあった。
 しかし、優作が合流したことで、梨緒子はようやく安堵することができた。
「僕のイトコがね、美瑛町にいるんだよ。札幌より北のほうにあるのどかな街なんだけどね。ああ、親戚のうちって言っても、親戚のやってる貸し別荘のひとつを借りてるから、気をつかわないで自由に過ごせるよ。四人くらいわけなくね」

 ――四人?

「あとの一人って、誰?」
 なんだかとても、胸騒ぎがする。
 梨緒子は運転席でハンドルを握っている優作の横顔を、じっと見つめた。
 すると優作の口から、胸騒ぎの予感どおりの言葉が、さらりと紡がれた。
「僕は昨日、秀平と一緒に北海道へ来たんだよ」

 シュウヘイと、イッショに。

 ―――― 一緒、に?

 梨緒子の頭の中は真っ白になった。
 完全、パニックである。
 突然降りかかった状況についていけず、瞬きを繰り返すのが精一杯だ。
 優作は、さらに付け加えるように言う。
「別荘で一人、留守番してるよ」
「うそ――」
「ごめんね、別に騙すつもりじゃなかったんだけど」
「そんな、ヤダよ先生! 本当にもういいんだって! 優作先生も薫ちゃんも、私がルイくんと付き合ってること、知ってるでしょ?」
 梨緒子のその勢いに、優作は途惑いの表情を見せた。きちんと向き合って説明をしたくても、車の走行中ではなかなか上手くいかないようだ。
 そんな優作を援護するかのように、後部座席に座る薫が、鋭く梨緒子に言い放った。
「別に男を乗り換えろなんて言ってないよ? 真剣に自分の将来を考えろって、そう言ってるだけで。それとも何? さっそく梨緒子は気持ちが揺らいでるわけ? ああ……わが妹ながら魔性の女だなー」
「乗り換えとかそんな、ありえないから! 絶対にない!」
 薫は梨緒子の言葉を信じていないのか、軽くあしらうように笑っている。
「まあでも……秀平がいるって知ったら、梨緒子ちゃん、彼氏くんに反対されるかなー、なんてね」
 当たり前だ。当たり前すぎる。
「ヒドい……」
「うん」
「ヒドいよ、先生」
「うん」
 わざと、なのだ。確実に。
 騙すつもりじゃなかった――なんて、そんなはずはない。
 これは、優作の画策に他ならない。
 すべてを知っている優作だからこその、『策』なのである。
「もう忘れたいの。だからルイくんも私のためにいろいろと気をつかってくれてる。なのに、どうしてこんなこと……」
「忘れるためにも、きちんと話をしてお互いスッキリさせたほうがいい」
 梨緒子はすべてをかき消すように、激しく首を横に振った。
「これ以上、最低な人間になりたくない」

 いろいろなことが頭の中を巡っている。
 親友の美月のこと。
 彼氏の類少年のこと。

 そして、類や秀平を慕う下級生たちのこと。

【最低。勘違い女。身の程知らず。男をもてあそんでる】

 そう。その通りなのだ。
 返す言葉もない。
 フラフラ心が揺れているから、親友からだけでなく、見知らぬ人間からも心無い言葉を投げかけられる。

 ――もう、そんなのイヤ。

 優作が、落ち着いた声で梨緒子に告げた。
「実はまだ、秀平に梨緒子ちゃんが来ること、話してないんだよね」
 瞬間。
 梨緒子は心臓が引き絞られるような思いがした。

 どうしよう。
 どんな顔で秀平に向き合えばいいのだろう。
 いったい、どうやって――。

 優作は緩やかにハンドルを動かしながら、いつものように穏やかな口調で、助手席で固まっている梨緒子に語りかける。
「これはね、梨緒子ちゃんのためだけじゃなく、秀平のためでもあるんだよ」
「秀平くんのため?」
「どうにもならなくなってるあいつを見るのはね、痛々しくて」

 ――痛々しい? 誰が?

 言っている意味が、分からない。
 梨緒子はすかさず聞き返す。
「秀平くんはいつだって冷静で、淡々と勉強してるよ? いつもとなんにも変わらないもん」
「先生や同級生の目をごまかせたって、僕には分かるよ。だって、あいつが生まれたときからずっとずっと、一緒にいるんだから」
「さっすが優ちゃん。いい兄貴だねー。うちらは即負け、だ」
 後部座席から、薫の茶々が入った。当事者ではない分、のん気なものである。

 車はやがて、都会の街並みの中へと進んでいく。
 どうやら札幌の中を通って行くらしい。
 梨緒子はドアの窓に張り付き、珍しい街の景色を眺めていた。

 ――こんな街に、北大があるんだ。

 なんにも、知らない。
 ついこの間まで、実際に目指していた大学のことだというのに、自分がまるで関心を持っていなかったことに、改めて気づかされてしまう。
 大きな交差点で、車は赤信号で停止した。大勢の人が横断歩道を行き交っている。
 出張のサラリーマンや旅行客もいるだろうが、そのほとんどは札幌で暮らす市民なのだろう。
 学生風の若者も多い。
 ひょっとしたら、北大の学生かもしれない――梨緒子はそう思った。
「前にも言ったけどね、あいつは本当に自分の気持ちを表現するのが下手くそなんだよ。それに……僕はね、梨緒子ちゃんの気持ちはちゃんと分かってる」
 運転席の優作が、助手席の梨緒子のほうへ顔を向けた。
 その気配に、梨緒子も優作のほうへ顔を向けると――そこには、梨緒子を誰よりも理解している、頼れる家庭教師の優しい両の瞳があった。
「優作先生……」
「それと、素直になれない馬鹿な弟の気持ちもね。別に僕は、お膳立てしようって思っているわけじゃないよ。障害となるものを取り除いてね、お互い素直になって、自分の気持ちを確かめて欲しいんだ」
 ここへ来てようやく。本当にこの人が――。
 この人が秀平の実の兄なんだと、梨緒子はようやく感じることができた。
「秀平が『一緒の大学を目指すのは困る』と言った、その言葉の本当の意味を」

 ――本当の、意味?

 後部座席の薫が、しびれを切らしたらしい。
 邪魔をするように二人の会話に割り込んでくる。
「辛気くさい話はそこまで。どうせここまで来たら、逃げるわけにもいかないんだから」
 見た目は女でも、中身は必要以上に男らしい。くせのない長い髪をなびかせ、アルト声で容赦なく切り込んでくる。
「言っておくけどさ、今回の旅の目的はあくまで北大を下見することなんだから。優ちゃんも一緒にいるんだし、そんなギャアギャアわめくなよ」
 梨緒子は助手席から後部座席のほうを振り返り、美貌を振りまくキレイな兄貴を睨みつけた。
「そんな、他人事だと思って……だって、秀平くんは私が来ること知らないんでしょ? 絶対絶対、嫌がるに決まってるし!」
「だって、他人事だもん。ああ、それにしてもいい天気ー――オープンカーだったら良かったのに。ねえ、優ちゃん?」
 その手の話題は、とうに飽きてしまったらしい。梨緒子の話は、テキトウに聞き流されてしまう。
 そして薫は窓の外を眺めると、運転席の優作の後頭部に向かって話しかけた。
 優作も前方から目を離すことなく、淡々と相槌を打つ。
「夏の北海道だったら、僕ならやっぱりバイクかなあ」
「へえ、優ちゃんもバイク好きなんだ。だったら今度、一緒にツーリング行こうか?」
「え? 薫さん、バイク乗るんだ? 意外だなあ」
「まだまだ初心者だけどさ。走るのは大好きだよ」
 二人は共通の趣味を見つけて、意気投合したらしい。いつにない盛り上がりをみせている。
 楽しそうだ、恨めしいほどに。
 梨緒子は助手席でじっと身を硬くしていた。もはやどうしていいのか、まったく見当がつかない。
「今度、仲間と南のほうにツーリング行こうと思ってるんだよ。薫さんにもぜひ、一緒に行って欲しいなぁ」
「あー、いいねえ。楽しそう」
 自分の兄貴と、『彼』の兄貴は、のん気にもバイク談義に花を咲かせている。
 恋に悩める乙女の心中など、露知らず――。