Do you understand?
優作の言う『別荘』とは、丸太を活かした木目が美しいログハウス風の建物だった。
煙突もついている。
中に入ると、すぐ正面に大きな暖炉が見えた。さすがに真夏なので薪は燃えていない。
リビングの壁に沿うように階段があり、そのまま二階の廊下へと続いている。二階といってもロフトのようなつくりで、一階からは二階の廊下と各部屋の扉が、下から確認できるようになっている。
一般的な住宅とは違い、かなり開放感あふれる造りだ。
梨緒子は無意味に息を潜めながら、辺りを見回し気配をうかがった。
どうやら一階には秀平はいないようだ。
すると、梨緒子の予想を裏付けるかのように、優作が二階に向かって叫んだ。
「秀平、ただいま。ちょっと下りてきて」
――やだ、どうしよう。気まずすぎる……。
いまの梨緒子と秀平は、微妙な関係にある。
もう口をきかないと、そうはっきりと言われてしまっている。
二階の一番奥の扉が開き、中から秀平が出てきた。
廊下の手すりから身を乗り出すようにして、階下の梨緒子たちを見下ろす。
一呼吸置く間もなく、その整った顔が能面のように固まった。
「兄貴、俺……」
「言ってただろ? 俺の友達とその妹だって。嘘はついていないよ」
「江波薫っていうの。梨緒子のキョウダイって言ったほうが早いかな。まあ、よろしく」
いつものことながら、薫はどちらとも取れる曖昧な言い方をした。
しかし、いちいち説明をするような雰囲気ではないので、梨緒子はそのまま流してしまった。
「ちょっと秀平、挨拶くらいしたらどう」
「初めまして」
薫にだけ会釈をすると、そのまま手すりから離れきびすを返し、部屋の中へと消えていく。
「あはは、優ちゃんの弟って、ホント分かりやすいヤツだね」
「照れ隠しだよ。梨緒子ちゃんのこと意識しまくってる」
「ち、違うの……秀平くん、私とは今後一切口きかないって、言ってたから。たぶんそれで、その……」
「なんで? 梨緒子、なんか弟くんに嫌われるようなこと、したわけ?」
兄の言葉が梨緒子の胸に突き刺さった。
嫌われるようなこと。
したかもしれない。
してないかもしれない。
俺には関係ない。もう口をきかない。
一生懸命、記憶の糸をたぐり寄せる。
早朝の図書館で、秀平に言われた言葉の数々がよみがえる。
【俺は俺のことで精一杯で、江波の夢までは背負えない】
【なんか俺、江波に狂わされっぱなしだ】
【俺、これ以上煩わしいいざこざに関わるのは、勘弁】
【好きだよ】
【俺、江波のこと――好き】
夕食の準備は優作と薫がすることになった。食材はあらかた買い込んであったようだ。
梨緒子は薫と一緒に使う予定の二階の部屋に入り、荷物を隅に置くと、そのまま備え付けのベッドに転がった。
秀平は約束どおり、口を聞こうとしない。
ふと、梨緒子は思いついた。
――そうだ。いま。メール、してみようかな。
慌ててベッドから飛び起き、カバンから携帯を取り出した。
秀平のアドレスは、すでにちゃんと登録してある。
しばらく考え込み、やがて文字を打つ手が止まった。
彼に送る初めてのメールがこれでは、とても悲しすぎる。
それに、こんなにすぐ側にいるのに、返事も来なかったら――。
壁一枚を隔てた隣の部屋にいる彼に、わざわざメールを送るなんて、鬱陶しがられるだけかもしれない。
それを考えると途端に怖気づき、梨緒子は手にしていた携帯をベッドの上に放り投げた。
――別に話すことなんて、ないし。
梨緒子はどっと疲れを覚えた。
優作と秀平が一緒にいるところに居合わせるのは、これが初めてだということに、梨緒子はふと気がついた。
居心地がよくないのは、そのためなのかもしれない。
優作と一緒にいるときの自分と、秀平の前にいるときの自分はまったく違っているため、どちらに合わせても不自然さを招いてしまうのである。
明日、薫と優作とで札幌観光して、それを乗り越えれば、あさってには家に帰れる――梨緒子は早く時間が過ぎ去ることだけを、切に願った。
夕食予定の時刻となり、梨緒子は部屋を出て階下へと向かった。
リビングルームの卓上には、色とりどりのイタリアンサラダと、シーフードカレーが、すでに人数分並べられている。
優作と薫の渾身の料理だ。見た目もさることながら香りもいい。男の料理とは思えない出来映えである。
「優作先生って、お料理も出来るんだ! すごく美味しそう! 薫ちゃんだけじゃ絶対こうはいかないもん」
「まあ、うちと梨緒子が作ってたら、こうはいかなかったことは確かだね」
「ええ? 薫ちゃんと一緒にしないでよ」
梨緒子が拗ねたように頬を膨らませると、優作は楽しそうな笑顔を見せた。
「僕たちの両親は共働きで、遅くなることもしょっちゅうだから、料理を作るのは必要に迫られていつの間にかできるようになったって感じなんだよ」
「へえ。じゃあ、弟くんも料理とかできるんだ?」
「必要最低限はね。でも、基本的には僕の作ったものを食べてるから、積極的にやらないけど」
それを聞いて、梨緒子は突然永瀬家の中に入り込んでしまったような、そんな錯覚に陥った。
秀平はいつもこうやって兄の作ったものを食べている――それよりなにより、彼が料理をする姿というのが、まるで想像がつかない。
ただ、料理は出来るけど積極的にはやらない、というのは、いかにも彼らしい話である。
「さあ、薫さんと梨緒子ちゃんは先に席へどうぞ。――秀平、ご飯だよ」
優作は二階に向かって声をかけた。
梨緒子の身に再び緊張が走る。
秀平は静かに姿を現すと、空いている席をじっと眺め、やがて梨緒子と向かい合うようにして座った。
和気藹々と会話を楽しむ優作と薫とは反対に、秀平は黙ったまま食事をし、一切会話に参加してこない。
梨緒子は何気ないふうを装って、視線を彷徨わせながら、ときおり彼の様子をうかがった。
秀平は、向かいに据わる梨緒子に当然、目もくれようとしない。
こんなにも間近で食事をする彼を、梨緒子は初めて見た。
もう――緊張で食事がのどを通らなくなってしまった。
夕食を終えたあと、兄貴二人のご厚意で、後片付けを免除された。
受験生待遇である。
秀平は早々に自分の部屋に引っ込んだ。寸暇を惜しんで勉強に励んでいるらしい。学校での彼となんら変わりはない。
一方の梨緒子は、勉強道具をまったく持ってこなかったため、することがない。
そのことを素直に告げると、優作は懐っこい笑顔で言った。
「じゃあ梨緒子ちゃん、お風呂先にどうぞ」
すすめられるがままに、梨緒子は先にお風呂に入ることにした。
梨緒子がお風呂から上がると、部屋には薫の姿がなかった。
部屋の隅に目をやると、薫の旅行カバンが開いており、中から着替えを取り出したような形跡がある。梨緒子と入れ違いでお風呂に入るつもりなのだろう。きっとキッチンで優作と時間をつぶし、梨緒子がお風呂から上がるのを待っていたに違いない。
しばらくの間、梨緒子は部屋の中で荷物を整理したり、明日着る予定の服を出したり、のんびりと過ごしていた。
隣にいる秀平の勉強の邪魔をしてはいけない。物音をたてないよう、細心の注意を払う。
それにしても、静かだ。
そろそろ髪を乾かしたい。しかし、秀平にうるさがられたらどうしよう――梨緒子はしばし考えた末、一階の洗面所まで下りて、そこでドライヤーを使うことにした。
カバンを探る。しかし。
「あれ……ドライヤー、どこにやったろ?」
犯人に心当たりがあった。
美しいストレートの長髪を持つ、キレイな兄貴の仕業である。
梨緒子は濡れたままの髪を振り乱して階段を下り、さっきまで自分が入っていたお風呂の脱衣所へと向かった。
電気が点いており、中には人の気配がする。
「ねえ薫ちゃん、私のドライヤー勝手に持っていったでしょ?」
脱衣所のドアを勢いよく開け、勇んで中に入っていくと。
梨緒子は、洗面台の前にいたパジャマ姿の長身の男と、派手にぶつかった。
突然の出来事に、思わず両目をつぶってしまう。
恐る恐る目を開け、正面に見えたもの。
見慣れぬパジャマの柄の襟元――。
この身長差。白地に赤と青のストライプの、トリコロール・カラー。
――薫ちゃんじゃ、ない!?
ふと見上げると、そこには。
濡れたままの前髪の間から、秀平の驚いたような両目が梨緒子の顔をとらえている。
瞬時に顔色が変わったのを、梨緒子は自分自身で感じた。
血がのぼり、熱い。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
梨緒子の悲鳴を聞きつけ、優作が様子を見にやって来た。
説明しようにも、梨緒子の口は上手く動かない。
「なにやってるの、秀平?」
「……歯磨き、だけど」
秀平は歯ブラシをくわえながら、淡々と説明をした。
優作はさらに弟に問う。
「梨緒子ちゃん、固まってるよ?」
「ごめんなさい! 私が薫ちゃんと間違えただけだから!」
梨緒子は必死に弁明し、恥ずかしさのあまり、慌てて永瀬兄弟の元から逃げるようにして走り去った。
元凶の人物はキッチンにいた。お風呂に入るための一式をテーブルの上に載せたままだ。
「はい、ドライヤー」
ドライヤーを探している声が聞こえていたらしい。薫は説明もなしに、梨緒子にドライヤーを差し出す。
この際、こんなものどうだっていい――梨緒子は取り乱しながら、声をひそめて兄に詰め寄った。
「どうして! どうして! どうして薫ちゃん、さっさとお風呂に入ってくれないの!?」
「どうしてって。優ちゃんと明日のこといろいろと話してたから。弟くんが先に入りたそうだったから、順番譲っただけ」
薫は不敵な笑みを浮かべ、冷やかすように付け加えた。
「別に、裸見たわけじゃないんでしょ?」
梨緒子は卒倒しかけた。
もしそれが本当に起こっていたときのことを思わず想像してしまい、それをかき消そうと半狂乱になった。
「当たり前でしょ! 薫ちゃんのバカーっ!」
――眠れない。
この壁の向こうに、秀平が眠っている。
ぶつかったときの肌の弾力を思い出し、梨緒子の心臓は再び跳ね上がる。高鳴る心臓をなんとか押さえようと、布団の中で再び深呼吸した。
―― 一見華奢にも見えるのに、男の子っぽい身体してた。
感触が肌に残っている。
制服越しとはまるで違う。いや、制服越しでもこれほどまでにないくらいに緊張するはずだが、お互いパジャマ姿だとその感触は生々しい。
――あれは薫ちゃん、あれは薫ちゃん、あれは……。
なんとか暗示をかけて思い込もうとする。しかし、なかなか上手くいかない。
類に抱き締められたときでさえ、これほどまでに緊張しなかった。決して、比べることではないのだが。
ご飯を食べたり。
歯を磨いたり。
お風呂に入って髪が濡れていたり。
パジャマを着ていたり。
たったそれだけのことなのに。
学校では絶対に見ることがない秀平の姿を、梨緒子は必要以上に意識してしまう。
ただ、そこには。
秀平に憧れているたくさんの女子生徒よりも、確実に近いところにいるという優越感――も、心のどこかにはあるのかもしれない。
結局、梨緒子は一睡もできないまま、朝を迎えてしまった。
完全に寝不足だ。
今日は、今回の旅行のメインイベントが待っている。
自分の目で「志望校を確かめる」ということである。
下ではすでに朝御飯の用意ができていた。
しかし、その量が半端ではない。よくよく見ると、そのおかずの半分は使い捨ての容器に詰めてあった。
梨緒子は、意気揚揚とおにぎりを握っている優作に尋ねた。
「……お弁当? 札幌なら、食べるところ一杯あるでしょ?」
「うん、梨緒子ちゃんたちはそれでいいよ。これは、僕たちの分」
「え? 僕たちって……」
意味不明だ。
「僕と薫さんは別行動ね。ツーリングに出かけてくるから。まあ、夕方までには帰るよ」
「え? ゆ、優作先生、それってどういうこと?」
確かに二人は昨日、バイク好きで意気投合していた。バイクを借りられる当てがあれば、『ツーリング』に出かけるというのも別に不自然なことではない。
しかし。
自分と一緒に出かけるものだと、梨緒子はすっかり信じきっていたのである。
「二人で出かけておいで。Do you understand?」
僕たち、ツーリング。
よって、消去法によって残された二人。
――秀平くんと、二人で? 嘘でしょ……。
煙突もついている。
中に入ると、すぐ正面に大きな暖炉が見えた。さすがに真夏なので薪は燃えていない。
リビングの壁に沿うように階段があり、そのまま二階の廊下へと続いている。二階といってもロフトのようなつくりで、一階からは二階の廊下と各部屋の扉が、下から確認できるようになっている。
一般的な住宅とは違い、かなり開放感あふれる造りだ。
梨緒子は無意味に息を潜めながら、辺りを見回し気配をうかがった。
どうやら一階には秀平はいないようだ。
すると、梨緒子の予想を裏付けるかのように、優作が二階に向かって叫んだ。
「秀平、ただいま。ちょっと下りてきて」
――やだ、どうしよう。気まずすぎる……。
いまの梨緒子と秀平は、微妙な関係にある。
もう口をきかないと、そうはっきりと言われてしまっている。
二階の一番奥の扉が開き、中から秀平が出てきた。
廊下の手すりから身を乗り出すようにして、階下の梨緒子たちを見下ろす。
一呼吸置く間もなく、その整った顔が能面のように固まった。
「兄貴、俺……」
「言ってただろ? 俺の友達とその妹だって。嘘はついていないよ」
「江波薫っていうの。梨緒子のキョウダイって言ったほうが早いかな。まあ、よろしく」
いつものことながら、薫はどちらとも取れる曖昧な言い方をした。
しかし、いちいち説明をするような雰囲気ではないので、梨緒子はそのまま流してしまった。
「ちょっと秀平、挨拶くらいしたらどう」
「初めまして」
薫にだけ会釈をすると、そのまま手すりから離れきびすを返し、部屋の中へと消えていく。
「あはは、優ちゃんの弟って、ホント分かりやすいヤツだね」
「照れ隠しだよ。梨緒子ちゃんのこと意識しまくってる」
「ち、違うの……秀平くん、私とは今後一切口きかないって、言ってたから。たぶんそれで、その……」
「なんで? 梨緒子、なんか弟くんに嫌われるようなこと、したわけ?」
兄の言葉が梨緒子の胸に突き刺さった。
嫌われるようなこと。
したかもしれない。
してないかもしれない。
俺には関係ない。もう口をきかない。
一生懸命、記憶の糸をたぐり寄せる。
早朝の図書館で、秀平に言われた言葉の数々がよみがえる。
【俺は俺のことで精一杯で、江波の夢までは背負えない】
【なんか俺、江波に狂わされっぱなしだ】
【俺、これ以上煩わしいいざこざに関わるのは、勘弁】
【好きだよ】
【俺、江波のこと――好き】
夕食の準備は優作と薫がすることになった。食材はあらかた買い込んであったようだ。
梨緒子は薫と一緒に使う予定の二階の部屋に入り、荷物を隅に置くと、そのまま備え付けのベッドに転がった。
秀平は約束どおり、口を聞こうとしない。
ふと、梨緒子は思いついた。
――そうだ。いま。メール、してみようかな。
慌ててベッドから飛び起き、カバンから携帯を取り出した。
秀平のアドレスは、すでにちゃんと登録してある。
しばらく考え込み、やがて文字を打つ手が止まった。
彼に送る初めてのメールがこれでは、とても悲しすぎる。
それに、こんなにすぐ側にいるのに、返事も来なかったら――。
壁一枚を隔てた隣の部屋にいる彼に、わざわざメールを送るなんて、鬱陶しがられるだけかもしれない。
それを考えると途端に怖気づき、梨緒子は手にしていた携帯をベッドの上に放り投げた。
――別に話すことなんて、ないし。
梨緒子はどっと疲れを覚えた。
優作と秀平が一緒にいるところに居合わせるのは、これが初めてだということに、梨緒子はふと気がついた。
居心地がよくないのは、そのためなのかもしれない。
優作と一緒にいるときの自分と、秀平の前にいるときの自分はまったく違っているため、どちらに合わせても不自然さを招いてしまうのである。
明日、薫と優作とで札幌観光して、それを乗り越えれば、あさってには家に帰れる――梨緒子は早く時間が過ぎ去ることだけを、切に願った。
夕食予定の時刻となり、梨緒子は部屋を出て階下へと向かった。
リビングルームの卓上には、色とりどりのイタリアンサラダと、シーフードカレーが、すでに人数分並べられている。
優作と薫の渾身の料理だ。見た目もさることながら香りもいい。男の料理とは思えない出来映えである。
「優作先生って、お料理も出来るんだ! すごく美味しそう! 薫ちゃんだけじゃ絶対こうはいかないもん」
「まあ、うちと梨緒子が作ってたら、こうはいかなかったことは確かだね」
「ええ? 薫ちゃんと一緒にしないでよ」
梨緒子が拗ねたように頬を膨らませると、優作は楽しそうな笑顔を見せた。
「僕たちの両親は共働きで、遅くなることもしょっちゅうだから、料理を作るのは必要に迫られていつの間にかできるようになったって感じなんだよ」
「へえ。じゃあ、弟くんも料理とかできるんだ?」
「必要最低限はね。でも、基本的には僕の作ったものを食べてるから、積極的にやらないけど」
それを聞いて、梨緒子は突然永瀬家の中に入り込んでしまったような、そんな錯覚に陥った。
秀平はいつもこうやって兄の作ったものを食べている――それよりなにより、彼が料理をする姿というのが、まるで想像がつかない。
ただ、料理は出来るけど積極的にはやらない、というのは、いかにも彼らしい話である。
「さあ、薫さんと梨緒子ちゃんは先に席へどうぞ。――秀平、ご飯だよ」
優作は二階に向かって声をかけた。
梨緒子の身に再び緊張が走る。
秀平は静かに姿を現すと、空いている席をじっと眺め、やがて梨緒子と向かい合うようにして座った。
和気藹々と会話を楽しむ優作と薫とは反対に、秀平は黙ったまま食事をし、一切会話に参加してこない。
梨緒子は何気ないふうを装って、視線を彷徨わせながら、ときおり彼の様子をうかがった。
秀平は、向かいに据わる梨緒子に当然、目もくれようとしない。
こんなにも間近で食事をする彼を、梨緒子は初めて見た。
もう――緊張で食事がのどを通らなくなってしまった。
夕食を終えたあと、兄貴二人のご厚意で、後片付けを免除された。
受験生待遇である。
秀平は早々に自分の部屋に引っ込んだ。寸暇を惜しんで勉強に励んでいるらしい。学校での彼となんら変わりはない。
一方の梨緒子は、勉強道具をまったく持ってこなかったため、することがない。
そのことを素直に告げると、優作は懐っこい笑顔で言った。
「じゃあ梨緒子ちゃん、お風呂先にどうぞ」
すすめられるがままに、梨緒子は先にお風呂に入ることにした。
梨緒子がお風呂から上がると、部屋には薫の姿がなかった。
部屋の隅に目をやると、薫の旅行カバンが開いており、中から着替えを取り出したような形跡がある。梨緒子と入れ違いでお風呂に入るつもりなのだろう。きっとキッチンで優作と時間をつぶし、梨緒子がお風呂から上がるのを待っていたに違いない。
しばらくの間、梨緒子は部屋の中で荷物を整理したり、明日着る予定の服を出したり、のんびりと過ごしていた。
隣にいる秀平の勉強の邪魔をしてはいけない。物音をたてないよう、細心の注意を払う。
それにしても、静かだ。
そろそろ髪を乾かしたい。しかし、秀平にうるさがられたらどうしよう――梨緒子はしばし考えた末、一階の洗面所まで下りて、そこでドライヤーを使うことにした。
カバンを探る。しかし。
「あれ……ドライヤー、どこにやったろ?」
犯人に心当たりがあった。
美しいストレートの長髪を持つ、キレイな兄貴の仕業である。
梨緒子は濡れたままの髪を振り乱して階段を下り、さっきまで自分が入っていたお風呂の脱衣所へと向かった。
電気が点いており、中には人の気配がする。
「ねえ薫ちゃん、私のドライヤー勝手に持っていったでしょ?」
脱衣所のドアを勢いよく開け、勇んで中に入っていくと。
梨緒子は、洗面台の前にいたパジャマ姿の長身の男と、派手にぶつかった。
突然の出来事に、思わず両目をつぶってしまう。
恐る恐る目を開け、正面に見えたもの。
見慣れぬパジャマの柄の襟元――。
この身長差。白地に赤と青のストライプの、トリコロール・カラー。
――薫ちゃんじゃ、ない!?
ふと見上げると、そこには。
濡れたままの前髪の間から、秀平の驚いたような両目が梨緒子の顔をとらえている。
瞬時に顔色が変わったのを、梨緒子は自分自身で感じた。
血がのぼり、熱い。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
梨緒子の悲鳴を聞きつけ、優作が様子を見にやって来た。
説明しようにも、梨緒子の口は上手く動かない。
「なにやってるの、秀平?」
「……歯磨き、だけど」
秀平は歯ブラシをくわえながら、淡々と説明をした。
優作はさらに弟に問う。
「梨緒子ちゃん、固まってるよ?」
「ごめんなさい! 私が薫ちゃんと間違えただけだから!」
梨緒子は必死に弁明し、恥ずかしさのあまり、慌てて永瀬兄弟の元から逃げるようにして走り去った。
元凶の人物はキッチンにいた。お風呂に入るための一式をテーブルの上に載せたままだ。
「はい、ドライヤー」
ドライヤーを探している声が聞こえていたらしい。薫は説明もなしに、梨緒子にドライヤーを差し出す。
この際、こんなものどうだっていい――梨緒子は取り乱しながら、声をひそめて兄に詰め寄った。
「どうして! どうして! どうして薫ちゃん、さっさとお風呂に入ってくれないの!?」
「どうしてって。優ちゃんと明日のこといろいろと話してたから。弟くんが先に入りたそうだったから、順番譲っただけ」
薫は不敵な笑みを浮かべ、冷やかすように付け加えた。
「別に、裸見たわけじゃないんでしょ?」
梨緒子は卒倒しかけた。
もしそれが本当に起こっていたときのことを思わず想像してしまい、それをかき消そうと半狂乱になった。
「当たり前でしょ! 薫ちゃんのバカーっ!」
――眠れない。
この壁の向こうに、秀平が眠っている。
ぶつかったときの肌の弾力を思い出し、梨緒子の心臓は再び跳ね上がる。高鳴る心臓をなんとか押さえようと、布団の中で再び深呼吸した。
―― 一見華奢にも見えるのに、男の子っぽい身体してた。
感触が肌に残っている。
制服越しとはまるで違う。いや、制服越しでもこれほどまでにないくらいに緊張するはずだが、お互いパジャマ姿だとその感触は生々しい。
――あれは薫ちゃん、あれは薫ちゃん、あれは……。
なんとか暗示をかけて思い込もうとする。しかし、なかなか上手くいかない。
類に抱き締められたときでさえ、これほどまでに緊張しなかった。決して、比べることではないのだが。
ご飯を食べたり。
歯を磨いたり。
お風呂に入って髪が濡れていたり。
パジャマを着ていたり。
たったそれだけのことなのに。
学校では絶対に見ることがない秀平の姿を、梨緒子は必要以上に意識してしまう。
ただ、そこには。
秀平に憧れているたくさんの女子生徒よりも、確実に近いところにいるという優越感――も、心のどこかにはあるのかもしれない。
結局、梨緒子は一睡もできないまま、朝を迎えてしまった。
完全に寝不足だ。
今日は、今回の旅行のメインイベントが待っている。
自分の目で「志望校を確かめる」ということである。
下ではすでに朝御飯の用意ができていた。
しかし、その量が半端ではない。よくよく見ると、そのおかずの半分は使い捨ての容器に詰めてあった。
梨緒子は、意気揚揚とおにぎりを握っている優作に尋ねた。
「……お弁当? 札幌なら、食べるところ一杯あるでしょ?」
「うん、梨緒子ちゃんたちはそれでいいよ。これは、僕たちの分」
「え? 僕たちって……」
意味不明だ。
「僕と薫さんは別行動ね。ツーリングに出かけてくるから。まあ、夕方までには帰るよ」
「え? ゆ、優作先生、それってどういうこと?」
確かに二人は昨日、バイク好きで意気投合していた。バイクを借りられる当てがあれば、『ツーリング』に出かけるというのも別に不自然なことではない。
しかし。
自分と一緒に出かけるものだと、梨緒子はすっかり信じきっていたのである。
「二人で出かけておいで。Do you understand?」
僕たち、ツーリング。
よって、消去法によって残された二人。
――秀平くんと、二人で? 嘘でしょ……。